苦手なこと

ポエトリー:

『苦手なこと』

 

自信のある人が苦手
態度がデカい人が苦手
陰気くさい人が苦手
固形チーズが苦手
チーズ味はもっと苦手
豆乳が苦手
水泳が苦手
あと鉄棒も
聞いたことに答えない人が苦手
知ったように言う人が苦手
完璧かと聞く人が苦手
男前が苦手
綺麗な人が苦手
夜運転するのが苦手
ていうか運転が苦手
高い買い物が苦手
家にある服を思い浮かべて買うのが苦手
クーラーの風が苦手
冬が苦手
怖い人が苦手
コブクロとかGREENとかが苦手
熱がある時に頑張るのが苦手

苦手な事はいくらでも出てくる
でもちょっと面白い
今度は得意な事を考えてみよう

 

2017年5月

834.194/サカナクション 感想レビュー

邦楽レビュー:

『834.194』(2019)サカナクション

 

個人的には随分と久しぶりのサカナクションです。彼らのアルバムを買うのは2010年の『kikUU-iki』以来。ということで僕は熱心なサカナクションのリスナーではないので、あしからず。

その間、世間的には大ブレイクしたわけだけど、僕としてはなんか物足りないというか、もっとグワッとした塊というかロック的な衝動というか、何じゃこりゃ?というような過剰さが欲しかったというのがあって。勿論好きは好きなんだけど、アルバムを買うまでには至らなかったのは、なんか綺麗に洗練されて小ざっぱりしたバンドだなという印象が拭いきれずにいたからかもしれない。

そこでこの2枚組。CDが売れない、しかもアルバムとしてのコンセプト云々というのが顧みられなくなったこのご時世において2枚組を出すという。これはもう聴かなきゃいけないなと。

本作に伴う山口一郎のインタビューで印象深かったのが、作為性/無作為性という話。「天才というのは尾崎豊やブルーハーツのことで、彼らは本能で書いてそれが認められる。けど僕たちはそれが受け入れられなかった。そこでどうしたら受け入れられるかを考えるようになり、そこで見つけたのがダンスやエレクトロニカを導入した今の形。」というような発言。山口によると、札幌でのアマチュア時代が無作為性で、認められて東京に出てきて今に至るというのが作為性ということになる。

なんかメンドクサイことを言ってやがると思いつつ、けどそれは大いに共感できる話で、つまり音楽家に限らずある程度認知されているアーティストというのはすべからく作為的なところが恐らくある。つまり作家性と商業性で、そこの使い分けは別に悪い事でも何でもなくて当然なのではと、素人だからこそ思ったりもするのだけど、山口一郎の場合は長くやってきたけど未だにそこのところがしっくりと来ない。つまり今回の2枚組はその気持ちのわだかまりが形になって現れたという風にも受け取れるのではないか。

そういう意味では僕がサカナクションに対しなんとなく物足りないと感じていた部分は的外れでもなかったし、当の山口一郎本人がそうだったのだから、そりゃ当然だろうと思うのだけど、その揺らぎというのがこのアルバムにはちゃんと出ていて、そこは本人が意識していたのかどうかは別にして、見事に揺らいでいるなぁ、というのがこのアルバムに対する僕の印象です。

つまり山口本人の言として、Disc1は作為性であると。認められて東京に出てきたスタイルを表し、だからキャッチーだしアッパーな曲もある。一方のDisc2は無作為性、本当はそんなこと言っている時点で作為的なんだけど、兎にも角にもウケるウケないは横に置いて内面に糸を垂れる、ありのままの音楽表現で行くんだというDisc2をセットする。

で実際に聴いていると確かにそんな感じはするし、具体的に言うと家で休みの日なんかにDisc1をかけてたら家族は喜ぶし、いい感じのリビングになるんだけど、Disc2はやっぱりそうじゃねえなって。家族が寝静まった夜に一人イヤホンを差して聴くというのがしっくりくる。

けどこれが聴き続けているとどうも違ってくるというか、だんだんそういう境目が無くなってくる。言う程1枚目は作為的でもないし、言う程2枚目は無作為でもない。当然ながら、時間の経過と共に彼らは成長しているのであって、無作為性なんて言ったって、もうそういうところへは戻れない訳だし、しかし戻りたいとする意識はここにあって、そういう作為性と無作為性が混ざり合う感じ、まだ完全に混ざり合っていない、不確かな感じがこのアルバムの魅力として横たわっているような気はする。

ということで、今この時期に2枚組にする必要はあったのだろうけど、山口一郎はこういうメンドクサイ人だからこそ信用できるのかなと。いずれこういう不器用な事をせずとも、全く自然な作為/無作為の交わったサカナクションというものが立ち現れてくるだろうけど、それは随分と先の話ではなく意外とすぐそこに来ているのかも。

個人的にはソロ活動をジャンジャンやりゃあいいのになぁと思ったりもするけど、それは余計なお世話(笑)。

 

Tracklist:
(Disc 1)
1. 忘れられないの
2. マッチとピーナッツ
3. 陽炎
4. 多分、風。
5. 新宝島
6. モス
7. 「聴きたかったダンスミュージック、リキッドルームに」
8. ユリイカ (Shotaro Aoyama Remix)
9. セプテンバー -東京 version-

(Disc 1)
10. グッドバイ
11. 蓮の花 -single version-
12. ユリイカ
13. ナイロンの糸
14. 茶柱
15. ワンダーランド
16. さよならはエモーション
17. 834.194
18. セプテンバー -札幌 version-

文庫本

ポエトリー:

『文庫本』

 

友達に貰った文庫本
読む読むと言って机の隅
引き出しの奥に仕舞うこともできずに
二階の窓から空見上げれば
月は高く
今はもう会わなくなった友達を思い出し
あいつは俺より利口だったけど
今はどんなふうだろうと
そんなことを思いながら
友達に貰った文庫本
今一度目をやり
心の隙間を空白を
沢山の詩で満たして欲しいと
今宵月に話しかけている

 

2017年2月

Fruits/佐野元春 感想レビュー

 

『Fruits』(1996)佐野元春

 

ハートランド解散後、第一弾のアルバム。一人になった佐野が、国内の気になる音楽家をとっかえひっかえ呼び集め、長いセッションを繰り返した末に出来たのがこの『フルーツ』アルバム。今思えば、ハートランド時代からよく海外へ出かけ、現地のミュージシャンとアルバムを作ってくることが何度かあったので、その国内版みたいなものかもしれない。ただ当時としてはやはりハートランドがいないということはかなりのインパクトで、この先どうなるのかは全く想像がつかなかった。

参加ミュージシャンの多さに伴い、サウンド的にも色々なジャンルが施され雑多な多国籍料理のような佇まい。詩の世界観もあちこち飛び回るのだけど不思議と統一感のあるアルバムで、佐野が「僕の庭で始まり、僕の庭で終わる」と言ったのも納得。佐野の案内のもと、初期の『No Damage』を思わせるテンポの良さで、タイムマシーンのように人生の切り絵をあっちこっちドライブしてゆく。そんな脳内ロード・ムービーのようなアルバム。各曲が意図的に3分程度にまとめられている点も効果的だ。

良くも悪くもザ・ハートランドという制約を取っ払ったことで、佐野の才能がスパークしており、堰を切ったようにアイデアが溢れ出している。自由にソングライティング出来る喜びに満ち溢れているといった感じである。

またアルバム・リリース後にバンドを組むことになる The Hobo King Band のメンツがあらかた揃っているのも特筆すべきで、当然このアルバムを機に佐野のサウンドは大きく舵を切る。このアルバムで言えば佐橋佳幸のギターが大きくフィーチャーされており、これまでのキャリアを見てもこれだけギターが目を引くのは初めてではないか。また、ドカドカした古田たかしのドラムとは異なり、小刻みに弾けるように叩く小田原豊のドラムが新鮮。彼のドラムはこのアルバムのムードによく合ってる。

佐野はこのアルバムを、誕生、成長、結婚、そして生と死といった人生のサウンド・トラックと称している。非常にポップなアルバムで生を色鮮やかに彩る一方、その背後に死を感じさせており、特に大きな震災を経た今となっては余計にその思いを強くする。

そういえばこのアルバムは阪神淡路大震災後にリリースされている。当時はあまりに気に掛けなかったが、そこかしこに死や明日はもう来ないかもしれないといったイメージが見え隠れする。一見、シングル集的側面が強いポップなアルバムではあるが、頭から通して聴くべきアルバムではないだろうか。そういう意味では作家性の強い作品とも言える。

詩は非常にシンプルにまとめられており、視覚的にも平仮名が多くなっている。しかしながら映像を伴ったその喚起力は凄まじく、聴き手の想像力を大いにかき立てる。今思えば、近年ほぼ完成形を見せている平易な言葉での日常的な表現という手法の始まりだったのかもしれない。言葉が強く前面に出ていた前作『ザ・サークル』とはまた別の視点で日本語への接近が図られており、圧巻の♯14『霧の中のダライラマ』を始めとして、今までとは異なる言葉の冴えが随所に見られる。

このころの佐野の表情は柔和なもので、リリース前に行われたツアーでも笑顔が絶えなかった。やはり前作『ザ・サークル』で成し遂げた無垢の円環という気付きは大きなターニング・ポイントだったのだろう。文字通り、新しいシャツを着た佐野の次のタームがここにある。

様々な重荷から解き放たれたことで簡潔になった言葉。ジャンルを問わないサウンド。まさに新しい佐野元春が始まったということを印象付けるように前向きでまっさら、これまでの、またこれ以降の作品と比べても飛び抜けて色鮮やかな作品。『ザ・サークル』からハートランド解散を経て、佐野の新たなステージが始まった。そんな印象を強く受ける、その名のとおり新鮮な果物のようなアルバムだ。

 

 

Tracklist:
1. International Hobo King
2. 恋人達の曳航
3. 僕にできること
4. 天国に続く丘の上
5. 夏のピースハウスにて
6. Yeah!Soul Boy
7. すべてうまくはいかなくても
8. 水上バスに乗って
9. 言葉にならない
10. 十代の潜水生活
11. メリーゴーランド
12. 経験の唄
13. 太陽だけが見えてる
14. 霧の中のダライラマ
15. そこにいてくれてありがとう
16. Fruits

嗚咽

ポエトリー:

『嗚咽』

 

はしゃいだ記憶もとうに
凍土壁を掻い潜り海洋へ溶けだしていった

人から見れば
ずぶ濡れの記憶に何年も片足を浸したまんま
バランスを欠いた状態になっているのだろう

どこへ行っても逆らえないまま
まるで従来の高さには戻れず
結局、頼りない船に乗るしかない

改めてと折り合いをつけ
不自由なままシャツの釦を留める

あのさ、
言葉でないものを言葉で説明出来ないのだよ

日本人らしさとどう向き合ってゆけばよいのか
草ぼうぼうの空き地に根こそぎ沸いた日本人としてどう漕ぎ出せばよいのか

あのさ、
言葉でないものを言葉に出せないのだよ

言葉は嗚咽するしかなかった
君はそれにずっと耐えていたんだね

 

2019年1月

The Balance/Catfish and the Bottlemen 感想レビュー

洋楽レビュー:

『The Balance』(2019)Catfish and the Bottlemen

 

英国出身の4ピースの3枚目。今どき珍しいオーソドックスなギター・バンドです。まぁ言ってもイギリスはロックの国ですから、ラップが何だ、ダンスが何だと言われようがギター・バンドは続々と登場するわけで、ってネット情報ですけど、、、まぁそん中から抜きんでるっていうのは、しかも今時ロックは随分と肩身の狭いご時世ですから、それでもこうやってドカンと出てくるのは相当の力量を持ったバンドではないかなと。

てことで、Catfish and the Bottlemen。3枚目ということですが、特に変わらないです。いつものようにガッと勢いのあるロック・チューンを連発してくれます。相変わらずの安定感ですな。プロデューサーがU2とかThe Killersも手掛けたJacknife Leeということですから、そっち方面のどでかいサウンドを目指したってことでしょうが、実際はいつもとそんな変わりません(笑)。

いや、確かに曲想は広がってますよ。例えば#9「Mission」とか#11「Overlap」は途中で転調しますし、特に#9「Mission」はヒップホップ的なアプローチではないかいなと。でも元々勢い重視のサッと始まりサッと終わるみたいな潔いバンドですから、流石にU2みたいに全世界を歌っちゃいます的な壮大なアプローチにはならないわけです。

でもいーんです、いーんです、そこは曲の力で持っていきますから。何が一番大事なのかは本人たちもよーく分かってるし、だから壮大なスケール感でごまかすっていうことではなくて、良い曲を思い切り腕を振って、ギターロックする。彼らの場合はそれでいいのかもしれません。

デビュー時からいいバンドだったんで、いつか化けるだろう、いつか化けるだろうと思って聴き続けてきたのですが、どうやらその辺はあんまり期待しない方がいいのかなと、この3枚目を聴いて私はそう確信しつつあります(笑)。

曲は抜群にいいし、ボーカルも荒々しいし、バンドも安定してるから、つい期待しちゃう。ライブ映像を観るとめちゃくちゃカッコいいけど、アルバムになると何か物足りない(笑)。まあ、これからも彼らはきっとそういうバンドなのでしょう。とか言いつつ、いつかガツーンと壁を破るんじゃないかと、また買い続けるんだろうな、オレは(笑)

 

Tracklist:
1. Longshot
2. Fluctuate
3. 2all
4. Conversation
5. Sidetrack
6. Encore
7. Basically
8. Intermission
9. Mission
10. Coincide
11. Overlap

メイド・イン・ジャパン

ポエトリー:

『メイド・イン・ジャパン』

 

全国展開する理容室に行くと
入口で番号札を渡され
番号を呼ばれて席に着くと
少々伸びた髪でもバリカンで綺麗に刈られる
新しい客が来る度に
威勢の良いいらっしゃいませが浴びせられ
寝ぼけた客はその都度はっきりと目を覚ます
二十分ほどで作業が終わるので
会計を済まし出口へ向かうと
今度はその背中越しに威勢の良いありがとうございましたが投げつけられ
それはまるでベルトコンベアに並んだ工業製品のようだ

 

2017年4月

High Hopes/Bruce Springsteen 感想レビュー

洋楽レビュー:

『High Hopes』 (2014)  Bruce Springsteen

 

14枚目のオリジナル・アルバム。この時点で65歳くらいだと思うけどこの人はホント多作。90年代は創作自体も少なく名前をあまり聞かなくなっていたが、2002年の『ライジング』以降はほぼ2年おきに新作をリリース。それがまたどれも話題作になっちゃうんだから凄い。

このアルバムはライブの定番曲を改めて録音したものや、ツアーの合間にインスピレーションが湧いて録音したもの、そして過去の未発表曲から成る。以前『トラックス』という膨大な未発表曲集をリリースしたけど、そういうのが今も増え続けているということか。で近年のものを集めたところひとつのオリジナル・アルバムとし成立したというような格好だ。

なかにはカバーがあったりするし、勿論新譜もいくつかある。そこで思うのはこの人はとことん音楽が好きなんだなということ。古い曲でも新しい曲でも、思いついたらEストリート・バンドのみんなを集めて録音したくなっちゃう。勿論シリアスな曲も書くけど、基本は「ロックンロールしたい」ってことなんだろう。表題曲の『ハイ・ホープス』なんてほんとそんな感じがする。

経緯もあってか本作は軽い物からシリアスなものまで多種多様。歌詞を見ると深刻なものもあるが、あまりそうした印象は残らない。このアルバムは大きく取り上げられたトム・モレロのギターが影響しているとのことだが、僕にはそのことよりもメロディの良さに目が行ってしまう。#5『ダウン・イン・ザ・ホール』や#9『ハンター・オブ・インヴィジブル・ゲーム』なんかは歌詞だけをみるとかなりヘビーだが、メロディの力とそれに伴うサウンド・デザインが全てを包み込んでいる。中でも『ハンター・オブ・インヴィジブル・ゲーム』の美しさは白眉だ。

これだけの名声があっても根はローカル・ヒーローのままというか、実際ふらりと地元のライブ・ハウスに現れるみたいだし、どれだけ巨大になろうと本質的には近所のロックンロールおやじに過ぎないということ。僕がスプリングスティーンを好きなのもただそれだけのことだ。

そしてその近所のおやじは近所のうまくいかないひとが放っておけないたちで、だけど強引に何かをするっていう人でもなく意外とシャイだったりするし。だから具体的に何かするわけではないんだけど、目線がどうしてもそっちにいっちゃうんだな。政治的な歌を歌う人という捉えられ方をしがちだが、実際は身の回りの人々から目が離れないというだけ。いくら暑苦しく歌おうが、うさん臭くならず皆に支持され続けているというのはそういうことなんだと思う。本作を代表する#3『アメリカン・スキン(41ショット)』が心を打つのも、国に対する異議申し立てではなく、身近な人たちへの深い眼差しがあるからだ。

未発表曲の中には他界したダニー・フェデリーシやクラレンス・クラモンズの演奏も含まれている。そういう理由でセレクトした訳ではないんだろうけど、ここにスプリングスティーンの思いを感じることも出来る。

このアルバムをひと言で言うと、『ハイ・ホープス』で始まり、『ドリーム・ベイビー・ドリーム』で終わるとということ。このこと自体がこのアルバムを象徴している気がする。

追記:初回限定盤には2013年に行われた『ボーン・イン・ザ・USA』の全曲再現ライブのDVDが特典として付いている。ちゃんと字幕付きなのが嬉しい。やっぱりスプリングスティーンの音楽は歌詞も魅力のひとつだから。中身の方は言わずもがな。もう凄いとしか言いようがない。こんなの見ると他のも欲しくなるよなぁ。

 

Tracklist:
1. High Hopes
2. Harry’s Place
3. American Skin (41 Shots)
4. Just Like Fire Would
5. Down in the Hole
6. Heaven’s Wall
7. Frankie Fell in Love
8. This Is Your Sword
9. Hunter of Invisible Game
10. The Ghost of Tom Joad
11. The Wall
12. Dream Baby Dream

詩の読み方

詩について:

詩の読み方

 

日本の現代詩はよく分からない、読むのが困難というイメージがあります。けれどそれは当たり前。日本語で書かれたものだからつい小説やエッセイのようにすっと入ってくるイメージですが、実際は作者があーでもないこーでもないと、人によっては言葉を削って削って抽象化していく訳ですから、やっぱりそんな簡単に読めるものではないんですね。

だから読む方も何だこれはということで何度も何度も読み返す。そうすることで、この詩はどうやらこういう意味ではないかというのがようやく立ち上がってくるのです。中にはパッとすぐに響いてくる場合もありますが、作者は言葉に無いものを言葉で表そうとしている訳ですから、そうそうすぐにピンと来るものではない。というのが僕の詩への向き合い方です。

なんだメンドクサイなと思われるかもしれませんが、歌だってそうですよね。何度も聴いているうちに、あぁこれはこういうことかって別の側面が立ち上がってくるときがある。詩も音楽も芸術作品であるならば、そうやって時間をかけて楽しむものとして捉えていいんじゃないでしょうか。指でスクロールしてハイ終わり、というものではなく、カバンの中にお気に入りの詩集を入れて、或いはスマホの中にこれは何だろうと思った詩をコピーしておいて、思いついた時にまた見てみる。そういった付き合い方、電車の中でイヤホンを耳に差すようなノリで気軽にパラパラと読むのがいいんだと思います。

あと現代詩が困難というイメージは小学校の国語の授業で付いてしまったという部分もあるような気がします。詩は本来自由に読めばいいんですね。作者の意図はあるにせよ、読み手は自分の解釈で自由に読めばいい、100人いれば100通りの理解があっていいわけです。

ところが学校の授業では、ハイここはどういう意味だと思いますか?とかここで作者はこういう心境を歌っていますね、なんて言われるものだから、生徒たちはちんぷんかんぷん、多分小学校時代の僕も頭の上にも?マークが出ていたんだと思います(笑)。本来答え何かないものに答えを与えようとしたもんだから、詩はなんだかよく分からないもの、というイメージが付いちゃったような気もします。中原中也の「ゆあーん ゆよーん」なんて先生に説明されても何のこっちゃですよね(笑)。「ゆあーん ゆよーん」って変なのって、言葉で遊べばいいんだと思います。

先のブログで身の程知らずにも萩原朔太郎の「鶏」を解説しましたが、あれもあくまでも僕の解釈ですし、それも明日また読み直したら変わってくるかもしれない。詩というものは大雑把でも強引でも何でもいいから、想像力を働かせて自分勝手に面白がればいいんだと思います。

専門家から見たら、なんだその浅い見方はなんて言われようが、結局は個人的な楽しみ、作者と読み手との一対一のコミュニケーションなんですから、自分なりに解釈して勝手に面白がってればいいんだと思います。批評家の評論なんてクソ食らえ!ですね(笑)。あ、評論家の評論も面白いですよ。

話が逸れましたが、そうやって詩を読んでるうちに自分では気付かなかった心の中の何かと合致する、自分にそぐう言葉が見つかる、自分の身の丈に合った詩がすっぽり収まるときがあるんです。それが楽しいっちゃあ楽しいのかもしれませんが、ま、結局は分かりません(笑)。

どっちにしても詩は高尚でも難解なものでもなく、身近なもの、生活に根差したもの、ともう少し自分の側に引き寄せればいいじゃないでしょうか。

分かったと思いきや、やっぱ分からん、そういう息の長い魅力が詩にはあるのだと思います。

鶏/萩原朔太郎

詩について:

鶏/萩原朔太郎

 

萩原朔太郎。北原白秋や室生犀星らとともに日本の近代詩の可動域を広げた大正期の詩人です。大正期の詩人ではあるけれど、非常に身近な詩人といいますか、扱っている題材がほぼ‘憂鬱’ですから(笑)、非常に現代的な詩人ですね。

僕なんかは彼のことを‘憂鬱の詩人’なんて言ったりしていますが、まぁでもそれは愛情を込めてと言いますか、というのも彼の詩は憂鬱でありながらも愛嬌があるんですね。僕がある程度年を重ねているせいもあるとは思いますが、憂鬱と言いながらも憂鬱と遊んでいるような気さえする、そこはかとないユーモアを感じる。つまり憂鬱と付き合うのが上手な詩人、というイメージでしょうか。

イメージと言えば、情景描写に長けた詩人とも言えます。読み手にいつも情景を喚起させる。直接的に憂鬱を語るのではなく、情景を通して憂鬱を語る。そういう手法でしょうか。

 

鶏  萩原朔太郎

しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏(にわとり)です
声をばながくふるはして
さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です
とをてくう とをるもう、とをるもう。

朝のつめたい臥床の中で
私のたましひは羽ばたきする
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舎の自然から呼びあげる鶏(とり)のこゑです
とをてくう とをるもう、とをるもう。

恋びとよ
恋びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ、ほのかなる菊のにほひを
病みたる心霊のにほひのやうに
かすかにくされてゆく白菊のはなのにほいを
恋びとよ
恋ひどよ
しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥

このうすい紅いろの空気にはたへられない
恋びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく遠い地角のはてを吹く大風のひびきを
とをてくう とをるもう、とをるもう。

 

「しののめ」とは東雲と書きます。東の空がわずかに明るくなるころ。ここで読み手は夜明け前のそれも随分と早い頃合いを想像します。

その「しののめきたるまへ」に聞こえてくるのは戸外の鶏の声。「声をばながくふるわして」ですから、あまり良いイメージではないですね。そしてそれは例えれば「母の声」だと。ここでは決して見晴らしのよいものではない、自分を引き留める者、煩わしいもの、ということでしょうか。

ここで謎のオノマトペ(擬声音)。「とをてくう、とをるもう、とをるもう」。ここは声に出して読むとニュアンスが膨らみます。僕の場合は「を」を「wo」と読みます。

「朝のつめたい臥床の中」で、作者の若い精神は羽ばたかんとする。きっと外の世界は輝いていると。けれど「しののめきたるまへ」に臥床に忍び込んでくるのは憂鬱な田舎からの沈んだ声、「とをてくう、とをるもう、とをるもう」だと。

しかし主人公はその憂鬱なるものを憎んではいない。ある意味魅力あるものとして捉えている。そしてそこには死の匂いを感ずると。その素直な気持を「恋びと」に呼び掛けます。ここでの「恋びと」は具体的な姿形を持つものとは限らない。それは主人公の愛すべきイメージ。或いは実在かもしれませんが、そこはさして重要ではない。透明なる母性かもしれません。

証拠に第4連ではその憂鬱を「うすい紅いろ」と例えています。「たえられない」といいながら、魅力ある「うすい紅色」ですから、ここが萩原朔太郎の面白いところですね。

そして「恋びと」、「母上」へ呼びかけます。「早くきてともしびの光を消してよ」と。「ともしび」は要らないと。結局は「私のたましひは羽ばたきする」とか言いながら、布団の中に潜り込んでしまう姿が想像されます。潜り込んで出てこない。臥床の中で「とをてくう、とをるもう、とをるもう」という「大風のひびき」を聞くわけです。

やっぱり苦しんでいるというより、憂鬱と遊んでいるような、いや実際は本当に苦しんでいたかもしれませんが、そういう風に感じられる風通しのよさ、抜けの良さがある詩だと思います。

僕が落ち込んで憂鬱なときに詩を書いたら、こんな風にならない、暗くてすご~くやな感じの詩になると思います(笑)。ま、普通はそうなんでしょうが、そうならないところが萩原朔太郎の魅力ということでしょうか。