Untitled(rise)/Sault 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Untitled(rise)』(2020)Sault
(アンタイトルド(ライズ)/ソー)
 
 
今月からようやく Spotify premium を始めまして、随分迷ったんですけどやっぱこれ、便利です(笑)。気になる曲とかすぐ聴けるし、アルバム単位も10秒ほどでサクッとダウンロードできちゃう。外でもギガ使わずに聴けるんだもんなぁ。今までYoutubeだなんだって面倒くさく視聴してたの、なんだったんだろ(笑)。ということで始めて2週間ほどですけどダウンロードしまくりで聴く方が全然追い付けていないんですけど、一番最初にダウンロードしたアルバムについてそろそろ何か書けそうかなと。それがこの Sault の4枚目のアルバム『Untitled(rise)』です。
 
Saultというのはプロデューサーであるディーン・ジョサイアが中心となったプロジェクトらしいんですけど、あんまり詳しくは明らかにされていないみたい。2019年に立て続けに2枚のアルバムで世に現れて、2020年もこれが2枚目。一気呵成に出てきたチームです。このディーン・ジョサイアって人は Inflo という名前で活躍されているんですけど、どっかで聞いた名前だなぁと思っていたら、The Kooks の4枚目ですね、『Listen』というアルバムをプロデュースしています。
 
この『Listen』アルバムは The Kooks がそれまでのギターロックからファンクなサウンドへ舵を切った意欲作で、世間的にはあんまりだったみたいですけど僕はこれぞクークス!って凄く好きで聴いていました。というのもあって、今年大評判な Sault ってどんなんだと興味を持ったわけですけど、これ、凄くかっこいい。何がいいって、ブラック・ミュージックに疎い僕でもすんなり入っていけて、つまり非常にポップ、大衆向けなんです。
 
恐らくこのSaultってプロジェクトは時代を反映して、要するに不寛容な時代と定義される現在に物申す形で作られたんだと思うんです。この2年でガッツリとしたアルバムを4枚も出したわけですから、ここでやっぱ何か言いたいんだと。で名うてのプロデューサーですから、それこそ凝ったサウンドでマニアックなことを幾らでも出来たと思うんですね。それがうちの子供が聴いても踊りだすようなワクワクするサウンドで構成されている。でワクワクする要素、何かなというとこれはやっぱり随所で鳴らされるアフリカン・ビートです。
 
よくテレビとかでアフリカの演奏家たちの映像があったりすると、股に太鼓を挟んでドコドコ叩くってやつあるじゃないですか、しかも大勢で。ああいう大地と直結したビートというんですかね、せりあがる太鼓のリズムがところどころにあって、でも民族的な、ローカルな響きではなく、現代的なソウルとかクールなファンク・ミュージックとして昇華されている。これはやっぱアジアンな僕でも心地いいですよ。しかもリズムに乗って「go back to Africa~♪」なんてコーラスされた日にゃそりゃテンション上がります。
 
あとリリックが非常に簡潔。洋楽の歌詞って響き優先で文法を気にしない面があるから、なかなか難しいんですけど、このアルバムに関しては学校で習った英語程度で解せるというか、勿論単語レベルでは分からないことあったりするんですけど、それも少なくてスマホですぐ調べられる程度だし、文法的には凄くシンプルなんです。だから簡潔で分かりやすいリリックをポンと置くことでメッセージがより鮮明になるというのはあるんですね、しかもリフレインが多い。だからこれ、一部の音楽好きの人ってことじゃなく全方位に向けられたものなんだと思います。極端な言い方すると音楽によるデモ行進、そんな見方もできるんじゃないでしょうか。
 
ポップなゴスペルもあるし、スポークンワーズもある。ラップじゃなくスポークンワーズっていうのがいいですね。個人的には日本人にはラップよりこっちの方がとっつきやすいと思っていますし。だから黒人音楽バリバリってわけじゃなく、根っこの部分は保持しつつも、ブラック・ミュージックが苦手って人でも非常に楽しめる大衆に向けた音楽、言ってみれば音楽版、『ブラック・パンサー』という感じかもしれません。

Letter To You/Bruce Springsteen 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Letter To You』2020)Bruce Springsteen
(レター・トゥー・ユー/ ブルース・スプリングスティーン)
 
 
ブルース・スプリングスティーンの新作が届いた。昨年の『Western Stars』アルバムから短いインターバルでまた新作が聴けてとても嬉しい。でもEストリート・バンドの全面参加となると2012年のアルバム『Wrecking Ball』以来だから随分と久しぶりだ。
 
ここ数年ブルースの新作はいろいろな形で発表されてきたし、Eストリート・バンドと言ってもずっと昔から聴きなれたサウンドなので、特に感慨はなかったんだけど、実際CDをトレーに置いてEストリート・バンドをバックに歌うブルース・スプリングスティーンを聴くとやはりワクワクする。改めて僕はこのサウンドが好きなんだと実感する。
 
Eストリート・バンドを特徴づけているのはクラレンス・クレモンスのサックス。それにロイ・ビタンのピアノとダニー・フェデリーシのオルガンも大きなポイントだ。残念ながらビッグ・マンとダニーはもういないけど、今のチャーリー・ジョルダーノもいかにもなオルガン・プレイを聴かせてくれている。ロイ・ビタンのピアノとチャーリー・ジョルダーノのオルガンからいつものフレーズが聴こえてくると胸が高鳴る。キーボード2台ではなく、ちゃんとピアノとオルガンというのが嬉しい。
 
本作は昨年の秋にたった5日間でライブ・レコーディングされたらしい。それでこれだけの完成度なんだから流石のキャリアと言うしかない。ただスケジュールの都合でビッグ・マンの甥、ジェイク・クレモンズのサックスが少ないというのが本作で唯一の残念なところ。5曲目の「Last Man Standing」でようやく聴けるジェイクのサックスは「よっ、待ってました!」と思わず言いたくなる。続く#6「The Power of Prayer」でのブロウ・アップも最高。やっぱりEストリート・バンドはこれがないとな。
 
前作の『Western Stars』もそうだったけど、ブルースのソングライティングはこのところシンプルでメロディアスなものになっている。新しいことをしようという力みもなく素直なメロディで、このアルバムもよい曲ばかりだ。うん、ホントどれもいい曲。実はここ数年バンド用の曲が書けなくなったという問題を抱えていたらしいけど、齢71才にして創作はまた新たな山を迎えている。
 
全12曲のうち、3曲が初期に書かれたものだそうだ。その3曲は初期感がありあり。特にリリックはあの頃のエネルギッシュで雑多な感じが出ていて「そうそうこんな感じだった」と思わずニヤけてしまう。#4「Janey Needs a Shooter」なんてまんま1978年の『闇に吠える街』に入ってそうだし、#9「If I Was the Priest」はディラン風ボーカルをめいっぱい楽しんでいるようだ。当時を思い出してかブルースの熱量も幾分か上がっている気がする。3曲ともゆったりとした曲で、Eストリート・バンドぽさ全開だ。
 
ブルースももう71才。ビッグ・マンはいなくなったし、ダニーもそう。最近はデビュー前に地元で組んでいたバンド仲間との別れもあったそうだ。心が引き裂かれただろう。落ち込んだだろう。もしかしたら今もまだそうかもしれない。けどブルースはここでこう歌っている。彼らは心の中にいる、いつもそばにいる、そこに実態はなくても呼べばまたいつものようにセッションできる。そういう心境の中で初期に作った曲を今改めて披露するというのはやはりブルースなりの意味があるのだと思う。
 
その手掛かりになるのはオープニング曲の「One Minute You’re Here」ではないか。「 One minute you’re here / Next minute you’re gone」。自らを育んだ大切な出会い。今ここにいると思ったら、次の瞬間もういない。逆に言えばこの感慨があるからこそ、まだ傍にいると感じられるのかもしれない。自然な態度としてそういう感覚がブルースの元にやってきて、それを自然に受け入れている、そういうことなんだと思う。
 
ルバム屈指のロック・チューン#10「Ghosts」ではこんな風に歌っている。「 I hear the sound of your guitar(あなたのギターが聞こえてくる)」、「It’s your ghost / Moving through the night(それは夜を突き抜けるゴースト)」「I need,need you by my side(あなたが必要、私のそばに)」。そして「I can feel the blood shiver in my bones(骨の中で血が震えるのを感じる)」。そして感動的なのは最後のライン、「I’m alive and I’m comin’ home(私は生きている、そして家に帰る)」。そしてそれは#1「One Minute You’re Here」の「Baby baby baby / I’m coming home」にも繋がっていく。
 
このアルバムはブルースから僕たちへの手紙だ。サヨナラは寂しいことじゃない。大切な人はいつまでも心に生き続ける。サヨナラが来たとしてもまた夢の中で会えばいいのだ。でも今はまだ「 I’m alive 」、これほど心強いことはない。

‘Save it for a Sunny Day’

‘Save it for a Sunny Day’ 
 
 
デビュー40周年の大規模なツアーが出来なくなったが、この夏から、佐野さんは「Save it for a Sunny Day」というテーマを掲げた活動を行っている。グッズ販売や月1回のアーカイブの有料公開を通じた、音楽関係者への支援プロジェクトだ。何しろ40年だからファン垂涎の未公開アーカイブはいくらでもある。これなら製作費もそんな掛からないだろうし、支援という意味では持ってこいかもしれない。
 
12月、その流れを汲んだ小規模なツアーが組まれた。タイトルはそのまま、「Tour 2020 ‘Save it for a Sunny Day’ 」だ。大阪はフェスティバルホール、収容人数を半分にして行われる。観客はマスクをして着座したまま、勿論歓声も無しになるだろう。一体どんなコンサートになるのか。
 
一つ言えることはこれまでのライブのように「さぁ楽しもう」という態度では臨めないということ。加えて佐野元春 and The Coyote Band に何かを与えてもらおうというのとも異なる。こちらも能動的な態度が必要だ。
 
このまま中止にならなければ、第3波の真っただ中のコンサートになる。どんなコンサートになるのか、僕自身の心の動きも合わせて、冷静に注視したい。
 
ところで。12月の有料配信シリーズは佐野元春 and The Coyote Bandのスタジオセッション、新曲制作のドキュメンタリー含む、だそうだ。無観客ライブではなく、スタジオセッションというところが佐野元春らしいと思った。

寅さんはなぜ逃げるのか

その他雑感:
 
「寅さんはなぜ逃げるのか」
 
 
 
大学時代のバイト先に中年の絵描きさんがいて、無口な人で自身の事は余り語りたがらなかったけど、だからこそ絵描きとしての矜持がそこにあったような気がした。僕自身も芸術家になりたかったけどそこまでの覚悟や行動力がなくてっていう当時の心境も相まって、芸術家の態度というのはどうあるべきかっていうのが僕の原風景としてそこにある。
 
現在BSテレ東で毎週土曜日に放送している『男はつらいよ』シリーズを観ていて、なんで寅さんは好きな人と一緒になんないのかなと考えていたら、ふと大学時代に出会った絵描きさんのことを思い出した。その人はいかにも絵描きっぽい雰囲気の渋い人だったから、色っぽい話の一つや二つあったろうにと思うけど、やっぱりその人も寅さん同様独り身だった。
 
多分、これは僕の想像だけど、寅さんもその絵描きさんも芸術家なんだな、ま、寅さんの場合は風来坊だけど。芸術家であったり風来坊であることが何よりも優先される。それは単にあぁオレもうちょっと自由が欲しいなとかじゃなく、もう哲学なんですね、生きる上での根幹っていうか。
 
そういうの、誰だって多少なりともあるとは思いますけど、ただ実際は秤にかけてたとえ縛りがあっても縛られる方、例えば結婚とか(笑)、まあ要するにそっちの欲に流れてしまうわけですけど、中には流されてかない人もいて、それは多分欲の付け所が違うんです。
 
とはいえ寅さんなんて年に2回も恋をして、しかもたまに綺麗な人にしなだれかかられたりするわけですから、それでも堪えちゃう寅さんというのは昭和でありながらも令和のアスリートみたいな自己管理力!あ、そうでない人もいるか(笑)。
 
なんにしろ寅さんにしても絵描きさんにしても確固たる信念を持っていて、ただ信念って言ったって人生の折々でそれを揺るがせる出来事は何度もあっただろうし、それでもそっち側に居続けたというのはやっぱりね。信念って言うと大げさかもしれないですけど、簡単に言えば世帯持つのが怖いというか、それをしちゃうと今までの自分はなんだったのかというのもあるだろうし、やっぱ一番大きいのはそれによって何か失ってしまうんじゃないかっていう恐怖、だからまぁその辺は人並み以上に誠実で、ある意味真面目なんだろうと思います。どっちにしても渡世人だろうと芸術家だろうと気安く名乗れるもんじゃないなと思います。
 
そういえばその絵描きさん、こんなこと言ってました。友達からお前は自由でいいなぁと言われるけど、俺からしたらそっちこそ家族を持ってうらやましいよって。お互い無いものねだりなんだよね、って。
 
 

朝ドラ『エール』は皆の物語!

TV program:
 
朝ドラ『エール』は皆の物語
 
 
 
朝の連続テレビ小説『エール』が終了しました。第1回の放送を観たときは「なんじゃこりゃ」と思いましたが、徐々にハマって最後は夢中になっていました。主人公が男ってのは今までもあったのかちょっと分からないですけど、古山裕一という特異なキャラクターのせいかその辺りの違和感は全くありませんでした。あっぱれ、窪田正孝さん!
 
その裕一さん。純粋で人を疑うことを知らない、世間の常識からすればちょっと変わった人。けれど音楽の才能に溢れ多くの人々を元気づけていきます。そうですね、まさしくタイトルそのままに主人公が周りの人を輝かせていく、そんなドラマでもありました。
 
『エール』を一言で表すと脇役が輝いたドラマとも言えるのではないでしょうか。裕一の家族であったり、音の家族であったり、それ以外にも身近な友人や深い関わり合いのできた人たち。それぞれにスポットが当たる回が何度もあって、しっかりと見せ場を作っていました。あの人もこの人も、と振り返れば印象深い登場人物を沢山思い浮かべることが出来ると思います。
 
裕一はああいうキャラですし、コメディの要素も強いドラマでしたから、もっと印象付けようと思えばいくらでも目立つように演じることはできたと思うんです。でも窪田さんはそうはしなかった。主人公でありながら周りを輝かせることに徹したんだと思います。
 
そして何と言っても裕一の伴侶となる音さん。裕一のそばにいて最も輝いていたのは間違いなく音さんだったのではないでしょうか。
 
音さんはバイタリティーに溢れ、裕一を導いていきます。けれど自身のことに関しては上手くいかないことばかりなんですね若くして将来を嘱望された裕一と違って音は歌手を目指すもののなかなか芽が出ない。ようやく大舞台の主役の座を手に入れたと思ったら、身ごもり舞台を辞退せざるを得なくなる。子供が長じて再び夢に向かい始めるんですけど、ここでもやっぱり壁にぶち当たる。そして、音は大変な努力家ですけど努力家であるがゆえ越えられない壁を知ってしまう。
 
思えば主人公以上に起伏に富んだ役でしたけど、二階堂ふみさんは見事に演じられた。最初はこの人歌上手だなぁくらいだったんですけど、回が進むにつれて二階堂さんの演技に引き込まれていきました。セリフ回しもですね、音さんは語尾をはっきり発音するんです。僕は毎回そこを密かに楽しみにしていました。僕はすっかり音さん語尾発音フェチになりました(笑)。
 
物語の最後の方は表舞台から引っ込みがちだった音さんでしたけどそこからの二階堂ふみさんのコメディエンヌぶりは群を抜いてましたね。てことで11月の放送は音さんの表情や声で終わる回、要するに声オチ、顔オチが沢山ありました(笑)。
 
最終回もとっても素敵でした。病床のベッドからとぼとぼ歩いていつの間にかあのオープニング曲の砂浜へ変わるところ、ロマンチックでしたね。ここでの二人の表情、本当に素敵でした。
 
タイトルバック同様、カラフルで楽しく爽やかな朝ドラでした。流石に戦争中はしんどい場面が続きましたけど、そこ以外は登場人物ひとりひとりがしっかり輝くエールというタイトルに相応しい、誰それが特別どうということではない皆が主役のドラマでした。裕一さん、音さん、皆さん、よい時間を本当にありがとう!!

兄弟/ビートたけし

詩について:
 
「兄弟/ビートたけし」
 
 
詩を書く時はもちろん作者の個人的体験や見たこと聞いたこと、或いは長年培った思考や物事への捉え方がベースになりますが、それはあくまでもトリガーに過ぎず、詩において作者の喜怒哀楽というのは重視されません。むしろ作者自身の喜怒哀楽から離れることでその言葉は詩になりえるものだと思います。
 
例えば宮沢賢治の詩は賢治の個人的な体験や思想から出たものであるけれど、我々が読んでもとても心に響くものです。これは何故か。賢治の詩は個人の喜怒哀楽にとどまってはいないからです。宮沢賢治は自身の詩のことを‘心象スケッチ’と呼びます。この言葉が全てを表していますよね。だから我々はそこに入り込むことが出来るんです。
 
だから詩は日記とは違うんですね。個人的な体験がそのまま綴られた日記、あるいは個人的な感情がそのまま吐き出された日記に他人が入る余地はありません。せいぜい、あぁ、あなたは嬉しかったんだね、あなたは悲しかったんだねというぐらい。その言葉はその人だけのもので、そこから広がってゆくものではないんです。
 
次に取り上げるのはビートたけしさんの「兄弟」という詩です。たけしさんはお笑いだけじゃなく絵も描きますし文章も書きます。映画監督としては外国で大きな賞を取るほどの名監督ですよね。つまりたけしさんも賢治同様、自身の個人的な体験を他人事のように描けるひとなんです。
 
加えてこの「兄弟」という詩は子供時代の話ですから、もう何十年も前のことを思い出して書いている。つまりこの時点で個人的な体験から距離が十分に取れているんですね。簡潔で大切な部分だけが純化されている。流石のたけしさんも昨日今日の体験ならここまで描けなかったろうと思います。
 
 
 
 
「兄弟」 ビートたけし
 
兄ちゃんが、僕を上野に映画を見につれて行ってくれた
初めて見た外国の映画は何か悲しかった
ラーメンを食べ、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ
兄ちゃんが、後から入ってきた、タバコを吸ってる人達に
殴られて、お金をとられた
帰りのバス代が一人分しかなく
兄ちゃんは僕をバスに押し込もうとした
僕はバスから飛び降りた
兄ちゃんと歩いて帰った
先を歩く兄ちゃんの背中がゆれていた
僕も泣きながら歩いた

粗忽ながら

ポエトリー:
 
「粗忽ながら」
 
 
 
音楽の種類にロックとかヒップホップとかブルースとか色々ありますけど、大きな括りで見ればこれら全てはポップ・ソングということになると思います。つまり大衆音楽ですね。これを文学に置き換えてみると、俳句や短歌は詩に含まれると言えるのではないでしょうか。
 
けれど詩は大衆のものか。これにはいささか疑問符が付きます。俳句や短歌が多くの人に愛されているのに対し、詩は何か僕たちの生活とはかけ離れた存在であるように思います。
 
詩というのは例えば、中原中也や山田かまちのような感受性の強い繊細な人が書くもの、というイメージはないでしょうか。また、ポエムという響きには不思議ちゃんが書くものというどこか馬鹿にしたイメージがあるかも。現代詩はどうでしょう。もうイメージも湧かないくらい遠いものですよね。一部のインテリが勝手にやってる感じ(笑)。まぁそれぐらい遠い存在だと思います。
 
でも詩というのは本来自由なものなんです。多くの人が俳句や短歌を気楽に楽しむようにただ風景を歌うもの、好きな人を想って書くもの、ちょっとした妄想や空想、ユーモアであったりシュールな世界だったり、そんな気楽で何気ないものなんです。
 
僕は詩を読むのも詩を書くのも好きですから、詩も俳句や短歌のように出来るだけ多くの人に親しんでもらいたいし、楽しんでもらいたい。詩はもっと日常に即したものなんだよというのが僕の意見です。勿論芸術足りえるようなエネルギーに溢れた詩もありますが、それは俳句や短歌も同じこと。一行や二行でもいい、教科書の隅に書いた落書きだって詩なんです。
 
てことで以下はこないだの日曜、ママチャリに乗ってる時に浮かんだ僕の空想です。ホント我ながらくだらないなぁと思いますが、なんか文章にするとそれっぽくなってませんか。ん?なってない?ま、本人が楽しけりゃいいんです(笑)。
 
 
———————————————-
 
 
「粗忽ながら」
 
 
 

自転車で 荷物を落とした
振り返ると 人が手招く
自転車を止めると わたしは小さな丸になり
自転車の脇を 跳ねていった

毬になったわたしは 道を右に折れ
迷うことなく 皆の憩いの場 公園へ向かう
サッカーに興ずる子どもらが 毬を蹴り返し
誰に蹴り返したのかと 先を見やれば
手招く人がわたしを拾い上げ 小脇に抱えた

あなたはだれですかと尋ねると
わたしはあなたですと答え
毬のわたしは自転車のカゴへ
二人は仲良くお家へ帰った

家へ着くと 毬はおもちゃ箱
わたしは2階へ上がり 家族と夕飯の支度を始めた
誠に粗忽ながら 自転車から落ちたのは一体何だったのか
わたしは もはやなにがなんだか分からなくなっていた

 

2020年11月

引退試合

その他雑感:
 
「引退試合」
 
 
先日、藤川球児投手の引退試合が行われたんですけど、僕はあれがどうも苦手です。藤川投手は’00年代の強いタイガースの象徴でもあり、僕も好きな選手の一人なんですけど、ああやってこれで最後ですよと笑顔で登場して、バッターがわざと空振りをして、意図的なショーを演出するのはどうしても直視できません。
 
先ず僕にはプロ野球選手というのは僕らの手の届かない特別な存在だという認識があります。150km/hの球を投げる。ホームランを打つ。とてつもない身体能力で届きそうもない打球をキャッチする。鍛え抜かれた体と技術を有したプロの選手が真剣に勝負をするからこそ、僕は感動したり興奮したりするんですね。それが予め決められた予定調和であれば興味はない、筋書きのないドラマだからいいんです。
 
藤川投手はまだ150km/h近い球を投げることが出来る。仮にチームが戦力として考えているならば、引退宣言しようがしまいが1軍で投げればいい。僕たち観る側としては戦力としてマウンドに上がった藤川投手を、あぁ、今日で最後かもしれないな、と心に思いながら観る。それが特別な存在であるプロ野球選手に対するリスペクトではないかと思います。もし残念ながら1軍に上がることが叶わなかったら2軍のマウンドに上がった藤川投手を観に行けばいいし、マウントに上がれなかったならばそれもしょうがない、プロの世界はそういうものなのだから。
 
引退するんだからそれでいいじゃないかとか、ファンが喜んでいるからいいじゃないかという意見もあるかもしれません。でもプロ野球選手は僕らの愛玩の道具ではないのです。あくまでも主体はプロの野球選手同士の真剣勝負であるというところを忘れてはいけないと思う。
 
引退試合に出てきた選手に花を持たせようと故意に空振りをする、故意に打ちごろの球を投げるというのは所謂「忖度」と呼ばれるものです。それはここ数年、政治の分野で何度も耳にした、僕たちが忌避していたものではなかったでしょうか。そんな大層なものではないよと言う人がいれば、それこそプロ野球選手へのリスペクトに欠けるのではないかと思います。
 
故意に空振りをするというのはその投手の価値をおとしめるものです。あの分かってても打てないと言われた火の玉ストレートはなんだったのかと。あの藤川球児が手加減される姿など見たくはありません。
 
プロ野球はファンあってのものです。けれど最も大事な部分は保持しなければならないと思います。