『RBG 最強の85才』(2018年) 感想

フィルム・レビュー:
 
『RBG 最強の85才』(2018年)
 
 
ルース・ベイダー・ギンズバーグさんのことは恥ずかしながら、この映画が公開されるまで知りませんで、最高齢の女性最高裁判事であり、米国の国民的アイコンであるというのを何かの記事で知り、是非見に行きたいなと思っていたのですが、気付いたら公開が終わってました。
 
で去年にそろそろTSUTAYAに出てるかなと覗きに行ったのですが残念ながら置いてなくて。ギンズバーグさんの映画はもう一本、『ビリーブ 未来への大逆転』というのもあるよと、友達に教えてもらったんですけど、これもTSUTAYAに置いてない!あぁ、AmazonプライムとかNetflixとかしな見られへんのかぁ、と思っていたら、なんとEテレの『ドキュランド』でやっとるやないか!始まる10分前に気づいたオレ偉い!ということで流石Eテレ、ええのんやりますなぁ。
 
  女性最高裁判事ということで勝手にヒラリー・クリントンとか小池都知事のようなガラスの天井ぶち破るみたいなイメージを持っていたのですが、いやいや全く正反対でしたね、ギンズバーグさんは。そこがまず新しいというか、新しいなんて言うと怒られるかもしれんが、女性であっても相当の地位に上り詰める人は男同様マッチョな人なんだというイメージを勝手に持ってたんですけど、今の時代そればっかりじゃないんですね。僕が知らないだけで、物静かで大人しい人でもリーダーを務めている人は沢山いるんです。女性であっても男性であっても。
 
だからまぁ特別感というのが薄いんですね、自分とは関係のない秀でた人、遠い存在ではないんです。世の中特別な才能を持った人より、僕もそうですけど自分をなんの取柄もない普通の奴だと思っている人が大半ですから、やっぱりギンズバーグさんの生き方というのはやっぱ励みになる。もちろん簡単にはいかないですよ、ギンズバーグさんの努力はすんごいですから(笑)。でも明らかにこいつ凄いなっていう才能ではなく、ギンズバーグさんの自分がすべきことに全力で取り組む姿勢というのは、僕たち自身の仕事で頑張ったり、夢を叶えたいなっていう道筋を照らしてくれますよね。これはやっぱり大きな勇気に繋がります。彼女が若い子に特に人気があるっていうのは凄く分かります。
 
あと彼女はいつも冷静で声を荒げたりしないですよね。映画でも「赤ちゃんに喋りかけるように話すことは何度でもあった」って話してた(笑)、そういう落ち着いた態度も凄く憧れます。凄みとか圧力とかでじゃなくて論理的に話す。それでも分からない人にはもっと分かりやすく赤ちゃんにも分かるように話す(笑)。そのためにしっかりと勉強をしてこれでもかというぐらい準備をする。結局、近道はないんですね。でもそこを徹底的にやりぬいた。
 
僕なんか誰かを出し抜きたいとか、いい恰好をしたいとか、いい風に思われたいとかいうのがやっぱり抜け切らないんですけど、そういうところじゃなくて為すべきことをするっていう。ホントかっこいい人です。
 
この映画は怠惰な自分を戒めるためにも定期的に見るべし、ですな。もう永久保存版です。

Shiver / Jónsi 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Shiver』(2020年)Jónsi
(シヴァー/ヨンシー)
 
 
シガー・ロスのフロント・マン、ヨンシーさんのソロ第2作。本体のシガー・ロスはほとんど聴いたことがないんですけど、2010年のソロ第1作『GO』は気に入ってよく聴いた覚えがあるので、今回はどんな感じだろうとすごく興味を惹かれました。
 
シガー・ロスのこともヨンシーさんのこともよく存じ上げないので、最近の活動状況を今一つ分かっていませんが、このアルバムを聴くと乗りに乗ってるというより、今現在は過渡期なんじゃないかなと思いました。
 
もちろん、ソングライティングに長けた方なので、曲は悪くないし、何しろあの声を持ってらっしゃいますから、それっぽさはあるんですけど、なんかガシッとしたイメージが固まってこないなというのはあります。あくまで僕の印象ですが。
 
アルバム屈指のポップ・チューンがRobinて方との共作?というのもなんかねぇ。しかもまんまパッション・ピットやん!ていう(笑)。やっぱあの『GO』が大地と鳴動するようなオーガニックなサウンドで独自の世界観を築いていましたから、どうしても比較しちゃうというか。今作はあの景色が動き出すようなサウンドが見いだせないというのはあります。って繰り返しますが、あくまで僕の感想です。
 
てことでサウンドは『GO』とは対照的に機械的です。て書くと誤解されそうですが、メタリックな質感ということですね。この独特なサウンドを手掛けたのはA.G.Cookという方のようです。ヨンシーさんの神秘的な声とメタリックなサウンドの融合というのは一見相反するように見えますが、逆に相性いいです。うん、ナイス・アイデア。
 
ただやっぱりなんかガツンというのがね、じゃあそっからどう飛躍していくんだ、というのが僕の感性では掴みそこねてます(笑)。メタリックな感じなんだけど、賛美歌のような、祈りのようなヨンシーさんの教会音楽ではあると思うんです。だから聴き方をそっちに据えればよいのかもしれませんが、なんか僕の中でどっちかに偏れないという宙ぶらりんな感じが続いちゃってる感があります。
 
ていうか今回Spotifyでしか聴いてないので、あんまり偉そうなこと言えないか(笑)。やっぱリリックをちゃんと読まんとな。

『永遠のソール・ライター』in 美術館「えき」KYOTO 感想

アート・シーン:

『永遠のソール・ライター』in 美術館「えき」KYOTO 感想

 

僕は詩が好きで常に何かを読んでいるものだから、自分の中にも時々言葉が落ちてくる。そうするとやっぱり書きとめたくなる。ただ、そうやって自分の楽しみで書いていたものが、やがてこれは何か意味があるのかなって思わなくもない。例えば他の人の詩には切実な思いがある、書かずにはいられない理由がある、気がする。けれど僕はどうだ。そんな切実な思いないやん。

ソール・ライターの写真展に行ってきた。一言で言うとオシャレな写真です。見てるとあれもこれもと沢山の気付きがあって語りたくなる、喚起力がスゴいんです。で見ながらふと思う。ソール・ライターは何を言いたかったのかなって。

写真を取ることは見つけること。絵を描くことは創造すること。これはソール・ライターの言葉です。ソール・ライターは一瞬の美を切り取っていたんです。世に美しいと言われるもの、ではなく単純なこと、あるいはつまらなく見えるものの中にある美を。

世に美しいと言われるものにしても世間一般が規定したものですよね。だったら、わたしが規定した美、あなたが規定した美でもいい。ソール・ライターは美しい風景を切り取っているだけなんです。これはオレが美しいと思うもの。あなたはどう?って。

ではソール・ライターにとっての美とは何か?それはもう自然美ですよね。意図されたもの、準備されたものではない、偶然がもたらす一瞬の調和、例えば道ゆく人の足が交差する一瞬訪れる完璧な世界。山や木々ではなく彼が暮らす街、ニューヨークの自然美。

ソール・ライターは言います。私の写真によって世界を進歩させることはできないけど、誰かをいい気分にさせることはできるって。ソール・ライターは一瞬訪れる完璧な美を見つけると写真を撮らずにはいられない。ポートレートもたくさんあったんですけど、多分あれはほら、ショーウィンドウに映った自分のシルエットが中の商品や回りの景色と調和してなんかいいなって思うことあるでしょ。あんなノリじゃないかな。

街の自然美、ソール・ライターにとっての偶然訪れた一瞬の均整、彼はそれが目について仕方がなかった。街に生きているとたくさん目につく、いや、もっと見つけたい、そこにシャッターを押したいって。

ソール・ライターに主張したいことはなんですか、何を表現したいのですか、あなたが写真を撮る理由はなんですかって聞くのはなんか違うような気がしてきたな。目につくのはしょうがない、シャッターを押したいのはしょうがない。その瞬間を捉えたいんだもん。多分、他に理由はなくてもいいんです。

ひとりごと

ポエトリー:
 
「ひとりごと」
 
 
男性が歌う女性目線の歌ってありますよね。やしきたかじんとか。例えが古いなオレも(笑)。
 
あれって女性が聴くとどうなんでしょう。はいはい、女にはそうあって欲しいのね、みたいな感じでしょうか。なんか昔の演歌に多そうですけど、最近はどうなんでしょ。検索してみましたが、引っ掛からなかったですね。今はそういうのないのかなぁ。
 
一方、女性が歌う男目線の歌。これはすぐに検索できました。あいみょんの「マリーゴールド」です。今回初めてちゃんと聴いてみたんですけど、そういう歌だったんですね、知りませんでした(笑)。あいみょんさんは見た目もかっこいいし、こういう歌うたうとハマるのかもしれませんね。
 
てことで僕もひとつ書いてみました。ぜ~んぜん分かってないなと言われるかもですが、それも御一興。いろいろ想像して書くのは結構楽しかったです(笑)。
 
 
 
 
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「ひとりごと」
 
 

さびしいな あなたはいつも話が短い
かなしいな あなたはいつも言葉が足りない

わたしの心はいつも ひとりでに話し出す
わたしの心は 隠れることも相成らぬまま 

あなたはどれだけ盗んだのか
戻らないわたしの心の内を
あなたがキライ だーいキライ
悲しみはいつもひとりごと

短ーい夏の 嵐だ落ちたよカミナリ
うるさーい泣くなよ わたしの心はどこを向いて走る

思い出したくない 思い出したくなくもない
わたしの心は ひとつじゃ足りないメモリー不足

あなたはどれだけ盗んだのか
戻らないわたしの心の内を
あなたがキライ だーいキライ
悲しみはいつもひとりごと

わたしはどれだけ盗めたのか
戻らないあなたの心の内を
あなたがいない どーこにもいない
悲しみはいつもひとりごと

 
 
 
2020年2月
 
 
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詩というのは結局自分の内から出てくるものですけど、それをそのまま出しても面白くもなんともない。だから自分ではありながらも自分ではない誰かに見立てて書くんですね。そうすると面白い表現に出くわすことがある。
 
もし詩を書くんだけどどうもうまくいかないという人がいたら、一度自分から離してみるのも方法のひとつではないかなと思います。そうすると思わぬ角度から言葉が出てくる、なんてこともあるかもしれません。

機会

ポエトリー:

「機会」

 

くるひもくるひも
こんどこそこんどこそと
ことわりつづけたおとこ
おまえをむかえてやることはできない
おまえからくるしかないのだ

くるひもくるひも
こんどこそこんどこそと
こだわりつづけたおとこ
おまえにかえるすべはない
あたらしくはじめるしかないのだ

だからって
おそろしいことはいわないでおくれ
だからって
きかいをうしなわないでおくれ
それはおまえをくるしめるからだではないのだから

やがておまえのうちに
わすれられぬものがふる!!
それをまちわびて
わたしはいきている

 

2020年1月

Songs / Adrianne Lenker 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Songs』(2020年)Adrianne Lenker
(ソングス/エイドリアン・レンカー)
 
 
『U.F.O.F.』(2019年)と『Two Hands』(2019年)の2作連続リリースで大成功を収めたビッグ・シーフは、さぁこれからワールド・ツアーだという時期に世界はパンデミックに覆われ(来日予定もあったのに!)、全ての予定はキャンセルされてしまう。この思いもかけぬ空白にエイドリアン・レンカーは、休養を兼ねマサチューセッツの山中にあるワンルーム・キャビンで暮らすことにした。
 
そこで生まれたのが本作『Songs』だ。創作目的ではなかったとはいえ、図らずもそれまでの生活とは一変した環境に身を置くことで新しい音楽が生まれた。根っからの創作者なのだと言わざるを得ない。それはまるで画家が自らの画風を仕切りなおすために住み慣れた場所から遠くへ越してしまうようでもある。
 
タイトルはそっけなく『Songs』。サウンドはレンカーの声と自身のアコースティックギターのみである。にも関わらずこの厚みはなんだ。バンドとしての表現と変わらないじゃないか、と思わせるぐらいの奥行を感じさせてしまう。微細に揺れるレンカーの声はそれだけで深海深く沈思、小鳥のさえずりと共に上昇し、木洩れ日の中、空に輪を描く。
 
そう、このアルバムには小鳥のさえずりや弦がこすれる音もそのまま収録されている。しかしそれは’ただの効果音’ではない。それ自体が意味を成す生き物として捉えられている。レンカーの声、小鳥のさえずり、弦のこすれ、はたまた外の景色、空気、小川、木々。そうしたものが全て同列に扱われ、ひとつの生命として扱われている。自身の声すら自身から切り離し、周りの生命と同じにしてしまうなんて。
 
すなわちそれはレンカーの声は鳥のさえずりであり、木々であり、空気であるということ。それは単なるアンビエント、’環境音’を意味しない。切なる願い、沈思する心、エイドリアン・レンカーという個人の声なのだ。その二律背反する意味性。私たちは全てと同じであり、一方で個であるということ。その普遍をレンカーは歌ってみせた。
 
レンカーは『Songs』とは別に『Instrumentlas』という演奏のみのアルバムも同時にリリースしている。こちらはアコースティックギターによるものとチャイムのような音が印象的な計2曲、40分弱の作品だ。いずれのシンプル極まりないタイトルは独立した’そこにあるもの’、という意味に受け取ったが、それもあながち間違っていないように思う。
 
弾き語りということで、レンカーのソングライティングが際立つ作品でもある。とりわけ美しい#3『anything』と#6『Heavy Focus』が僕は好きだ。エイドリアン・レンカーは僕の中でも特別な存在になりつつある。ちなみにゴーギャンのような色使いのアルバム・ジャケットはレンカーの祖母による水彩画だそうです。

CATCH / Peter Cottontale 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『CATCH』(2020年)Peter Cottontale
(キャッチ/ピーター・コットンテイル)
 
 
久しぶりにピーター・コットンテイルの『Forever Always』が聴きたくなってSpotifyで検索したら、このアルバムが引っ掛かりました。出てたんですねアルバムが。こんなことも分かるんですから大したものですSpotifyは。
 
ピーター・コットンテイル、本名はピーター・ウィルキンスという人です。シカゴを拠点に活動するプロデューサー兼アーティストで、ザ・ソーシャル・エクスペリメントのメンバーです。ザ・ソーシャル・エクスペリメントというのはこれもシカゴを拠点に活躍するチャンス・ザ・ラッパーが中心となったバンドで、チャンスさんの曲を聴いたことある人なら分かると思いますけど、あのポジティブで寛容な空気がこのアルバムにも流れています。
 
このアルバムにはチャンスさんもラップで参加していますが、全体としてはラップだけじゃなくソウル、R&B、ゴスペル、そういったものが混ぜ合わさったアルバムで、特にゴスペル、こっちの要素が強めですね。ゴスペルといえばということで、あのカーク・フランクリンも登場するし、ま、ピースフルでグレイシーなアルバムですね。個人的にはこちらもシカゴ関連のジャミラ・ウッズのボーカルが2曲聴けるのが嬉しいです。
 
チャンスさんをはじめこの手のサウンドには随分聴きなれてきた感があるので、特に目新しいものがあるというわけではないんですけど、曲の良さ、トラックの良さ、幸福なムード、そうしたものはやっぱり何度聴いても心地よいです。もちろんポジティブ一辺倒ではなく、『Don’t Leave』という切ない曲もあるし、なによりこうしたプロジェクトによくあるようにゲストが多彩ですから、アルバム通していろいろな表情を楽しめます。しかしピーターさん、えぇ曲書きますなぁ。
 
残念なのはシカゴ一派特有のフィジカル盤は出さないというやつで、このアルバムもネットを介してしか聴けません。折角いいバンドが心地よいサウンドを鳴らしているのだから、ま、うちのミニコンポも大したことないですけど圧縮されたものよりずっといいし、スピーカーを通したなるべくいいサウンドで聴きたいなと思うんですけど、連中はフィジカル盤出す気にならんもんですかね(笑)。

2020年 洋楽ベストアルバム

洋楽レビュー:

『2020年 洋楽ベストアルバム』

 

コロナ禍に見舞われた2020年はライブにも行けず寂しい思いをしたのだが、こんな状況でも音楽は沢山生まれていて、逆にこの機を利用しこれまでと違った音楽を届けてくれるアーティストもいた。昔と違って、圧倒的な作品というのは生まれにくくはなっているのかもしれないが、その分全体のレベルは高く、つまりデビューアルバムであろうがベテランの作品であろうが横一線で評価されるサブスク時代で、ていうか2020年はBTSはじめ韓国勢が海外のチャートを賑わしたり、音楽においてはますますボーダレス化が進み、日本のアーティストだって普通にチャンスがあるという非常に進歩的に世界になっている。勿論それはmetoo であったりBLM というところで顕著で、アーティストというのは’炭鉱のカナリア’なんて言葉もあるが、まさに文化が僕たちをリードしていくというのを実感する年でもあった。

そんな中コロナ禍というのを逆手にとったテイラー・スウィフトのまさかの2作連続リリースは音楽界にとって非常に心強いものだったろうし、彼女に限らず2020年は女性陣の活躍が大いに目立った。フィオナ・アップル、フィービー・ブリジャーズ、ビッグ・シーフのエイドレアン・レンカー等々、みんな流行り廃りや商業ベースから一歩離れたシンガーソングライターたち。僕は元々ウィルコとかボン・イヴェールとかUSインディ・フォークが好きだっていうのもあるけど、女性においても個人の声が世界の声につながるようなシンガーが好きなんだと改めて実感した。そう見ると、どメジャーからそれをやってのけたテイラー・スウィフトは異端とも言える。

その中でハイムというのはオルタナティブな存在であっても、インディ感はないし、テイラーほどメジャーでもない。どちらにも足を突っ込めそうで突っ込まない独自のスタンスが今回出たアルバムで更に確固たるものになった気はする。自然体(本人たちはそうではないかもしれないが)でここまで意見を申しつつ、一方でポップで一方で辛辣、このアルバムで一気に海外でもあまり例のない女性ロッカーとしてのヘッドライナーになってもおかしくないと思いつつ、そうなるとやはりコンサートが軒並みキャンセルとなったコロナ禍は残念極まりない。ていうか彼女たちはそんなもの求めてないか。

この1年、自粛自粛で出歩かなかったせいか、もうお正月かと1年の速さを実感しつつも、ストロークスの新作が出たのが4月かと思えば、それもえらく遠くに感じる。やはり年は取ったのだ。そして僕たちは目に見えない傷を沢山負った。という自覚がないことを自覚しつつ、今年も音楽に随分とよい気分にさせてもらった。聴きたいけど聴けてない2020年の音楽はまだまだある。嬉しいことです。

 

 極私的2020年ベスト・アルバム 『Women in Music Pt. III 』 Haim

 極私的2020年ベスト・トラック 『人間だった 』 羊文学

マスク越しの恋

その他雑感:
 
「マスク越しの恋」
 
 
先日、帰宅時に会社近くの交差点で信号待ちをしていると、同じ会社の女性が立っていて、何度も喋ったことある人なので声かけようかと思ったのだが、マスクして目しか見えないし、私服の感じもよく知らないし目元だけで判断するのはちょっと自信がないなと、近くまで行って声をかけるのをやめた。なんだオレ、怪しい人じゃないか。
 
会社の人間は毎年そんなに顔ぶれが変わらないからいいとして、学校やなんかだと去年の春は休校だったし、始まってもやれリモートだやれソーシャル・ディスタンスでまともに会話できず、同じ学校でもお互いの顔をよく知らないまま過ごすという状態が続いていそうで、いやいやそんなことないよ、子供たちは結構仲良くやってるよ、という声もあるかもしれないけど、身近な人はそうだろうけどすれ違いざまで顔を覚えるなんてことはあまりないような気はする。
 
ということで若者たちの間で、惚れたはれたの機会が随分と減っているのではないかと、勝手に心配したりしている。十数年後には既婚率が減ってマスク世代なんて言われるかも。
 
ところで、個人的にはマスクをしていると女の人が綺麗に見えるのだが、逆に女の人から見ればどうなのだろうか。もしお互いそうであれば、かえって好きになる機会も増えるかもしれない。逆にはっきりと顔が見えないことで想像力も膨らみ自ずと盛り上がってしまいそうだし、結局なんだかんだ言って見た目重視だから、マスク越しで綺麗に見える、格好よく見えるという方が逆に恋愛促進効果があるのかもしれない
 
しかし、マスク越しに知り合って、マスク越しに話し合って、マスク越しに気が合ってっていう流れの中で、ようやく一緒に食事をする機会を持ち、その時に初めて顔を見合わすなんてのは結構ドキドキする話だ。あれ、なんか想像と違ったなっていうマスク落差もあったりして。そうなると、俺は見た目で判断してるのかと自己嫌悪、思春期であればそれはそれで落ち込みそうだ(笑)。中年の僕はもう関係ないけど、想像すると結構面白い。

アマンダ・ゴーマンさんの詩を聴いて

詩について:
 
「アマンダ・ゴーマンさんの詩を聴いて」
 
 
先日、バイデン新大統領の就任式が行われました。式典にはレディー・ガガさんをはじめ多くのアーティストが花を添えましたが、最も話題となったのは22才の詩人、アマンダ・ゴーマンさんによる自作詩「The Hill We Climb」の朗読でした。なんでも大統領就任式では詩人が招かれ詩を朗読するのが慣例になっているようです。前大統領の時は詩人が招かれることはなかったようですが(笑)。
 
僕も字幕付きの動画を見ましたが(ネットですぐ検索できます)、自作詩「The Hill We Climb」、そして彼女のパフォーマンス、共に素晴らしかったです。何も知らない理想主義だと、グレタさんに対してと同じように揶揄する人もいると思いますが、できない理由を列挙する古い政治家よりも僕は圧倒的に彼女たちを支持します。心を打つとても素晴らしい朗読でした。
 
ところで彼女の詩、ところどころで韻が踏まれていました。僕は英語が得意ではないのですが、それでも意識して聞いていればそれとわかる箇所がいくつもありました。これはもう詩のマナーですね。古くはウィリアム・ブレイク、現代でもボブ・ディランをはじめ多くのアーティストが当然のように韻を踏んでいます。これは詩は読まれるものだという前提があるからなんだと思います。決して紙面上に書かれて終わりということではないのですね(勿論、それだけでも詩は成り立ちます)。
 
韻を踏むことで聴き手への伝播力は高まります。しかしただ韻を踏めばよいというものではない、あくまでも聴き手に伝わりやすくリズム感を添えてということだと思います。僕も詩を書くので分かりますが、つい韻に引っ張られてしまうことがある。しかし大事なのは韻を踏むことではなく、相手に伝えることです。今回、ゴーマンさんはとても上品に韻を踏んでいました。目から鱗でしたね。
 
あと言葉での表現について言うと、 ’Show, don’t Tell’ 「語るのではなく、見せる」というものがあります。「嬉しい」とか「悲しい」と言っても、どう嬉しいのかどう悲しいのかは相手には伝わらない、だから映像化しろというものです。例えば「嬉しい」時。「心が躍りあがるほど嬉しい」と言えばどれぐらい嬉しいのかがより伝わります。例えば「冬の朝」というよりも「太陽がゆっくりと腰を上げる朝」と言った方がイメージが湧くと思います。ゴーマンさんの詩、特に後半部では視覚的な描写を畳みかけてきます。歌で言うところのサビですね、最も強調したいところを映像で見せていく。そしてここでゴーマンさんの口調も激しさを増し早口になる。この効果は大きいと思います。
 
この 「語るのではなく、見せる」という部分、2018年に当時中学3年生だった相良倫子さんが沖縄全戦没者追悼式で朗読した自作詩「平和の詩」は更に強烈に映像を喚起させるものでした。沖縄戦の悲惨さを語るのではなく、映像をフラッシュバック的に次々と投げ込んでいく。この詩の朗読映像も検索すればすぐに見られます。詩のありようがどういうものか、興味がある方は是非。
 
そしてこれが一番大きいと思うのですが、アメリカという国はいろいろ問題を抱えてはいますが、大統領就任式典に詩人が招かれ、自作詩を朗読するという事実が本当に素晴らしいなと思います。詩というのもは生活に根差したものなんですね。そして僕たちの日常になんらかの良きものをもたらしてくれる。そんな風に僕は捉えています。しかし日本においてはどうでしょうか。
 
日本の詩は先人たちが長い年月をかけ素晴らしいものを積み上げてきて、僕たちはその恩恵にあずかっている。それは間違いない事実です。けれど一方で詩が遠くなってしまった、僕たちの日常と関係のないものになってしまった部分も否定できない。このことは新しい時代において僕たちが変えていかないといけないことだと思います。
 
ライミング、映像化する、僕たちの生活と地続きである、という点で考えてもゴーマンさんのそれはスピーチではなく、詩の朗読(ポエトリーリーディング)です。僕も日常に詩を取り戻していきたい、アマンダ・ゴーマンさんの朗読を聴いてそんなことを思いました。