Teatro D’Ira Vol. I / Maneskin 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Teatro D’Ira Vol. I』(2021)Maneskin
 
 
音楽ライターの沢田太陽さんが、2020年は映画『パラサイト』やBTSの活躍で韓国の年となったが、2021年は一躍スターダムにのし上がったマネスキンの登場やサッカーのユーロ2021での優勝もあり、イタリアの年になるかもと言っていた。と思ったら、先の東京オリンピックにおいて花形の100m走でまさかのイタリア選手が金メダル。僕も2021年はイタリアの年かもしれないと思い始めている。
 
思い始めているというか、イタリアの年になって欲しい、というかマネスキンの年になってほしい。やっぱBTSはポップ・グループだし、僕としてはバリバリのロック・バンドが頂点に立つのを見てみたい。
 
多くの人が腰を抜かしたという2021年ユーロビジョン・ソング・コンテストにおけるマネスキンのパフォーマンスは、これが二十歳そこそこの若者とは思えないほどの堂々たるもの。2000年代の衝撃デビューと言えばアークティック・モンキーズだが、今は貫禄たっぷりのアレックス・ターナーだって、デビュー当時は田舎の高校生丸出しだったから、マネスキンの、というかフロントマンのダミアーノのショーマンぶりはどう見ても破格。もう天下を獲ったかのような心意気は、ちっぽけなライブ・ハウスであろうが「俺はロックンロールスター」と大声で叫んでいた駆け出しのギャラガー兄弟みたいなもんかもしれない。
 
僕はマネスキンのようなハード・ロックをあんまり聞いたことないけど、そんな僕でも持っていかれるのだから、彼らはやっぱ特別なのだろう。ハード・ロックと言ってもそれは最新形で、こんな巻き舌でよく続くなぁと思わせる高速イタリア語ラップが彼らの曲の多くを占めていて、それが新鮮で面白くってシンプルにかっこいい。
 
しかもシャウトしまくる、今どき(笑)。ユーロビジョンでやった#1『ZITTI E BUONI』とか英語詞の#4『I WANNA BE YOUR SLAVE』とかサビの最後でシャウトするんですけど、こういうベタなシャウトって久しぶりに聞きました。彼らにはこういうちょっと笑うような過剰さ、あのきらびやかな衣装もそうだし、そういう面白さがあるんですけど、それが不思議とちっとも笑えないというか、むしろ滅茶苦茶かっこいいんですね。かっこよくて美しくて呆気に取られる。こういうのって今まではダサかっこいいっていう括りに入れられてしまっていたと思うんですけど、彼らはそこを余裕でぶち抜けた感じはありますね。本気でかっこいい。ここはデカいと思います。
 
でも昔はこういうアーティストが沢山いたんですね。デヴィッド・ボウイもそうだしプリンスもそうだし、彼らが引き合いに出されるクイーンだってそうですよね。でマネスキンの場合はそうした古き良きロック・スターへの回顧じゃなくて新しい部分、そこはやっぱり更新されていて、例えば大坂なおみが全米オープンでしたマスクのような新しい世代のこれまでとは全く違う感覚、価値観。
 
それをインディー・ロックでありがちな優し気にチル・アウトして表現するというのではなく、バリバリにハード・ロッキンして派手派手の衣装着て大股ひろげてシャウトするっていう新しさ。そこにさっき言った高速ラップだったりサウンド的なアップデート感、中学時代に組んだメンバー全員が奇跡の美男美女というなんじゃそれ感も含め、よくよく聴いているとこれ滅茶苦茶新しいじゃん、全く別ステージじゃん、ていうところへ持っていってしまえる規模のデカさがマネスキンにはあるような気がします。
 
ロックと言ってもいろいろあるから、こういう言い方すると語弊があるかもしれないけど、基本的にロック音楽は過剰さと性急さだと僕は思っている。その過剰さと性急さをこれでもかと体現するマネスキン。世のロック・ファンが色めき立つのも当然だ。

鳴り続けん

ポエトリー:

「鳴り続けん」

自戒や
自壊を含め
通りすぎたこと
ほぼ慰め

目障りな
あの人の面影
かつて流した
雨の日の体温

どこをどう打って
いたのやら
今や手のひらに
帰りぬと

その日と
その人の
粘り気は
雨の日の湿度

間近に迫った
夏の日のお囃子
いくどもいくども
時計は回りぬ

形は崩れつ
はらわたで
鳴り続けん
はばたいて
鳴り続けん

 

2021年7月

流れり

ポエトリー:

「流れり」

 

薄いピンクの君の頬を柔くかき混ぜてみた
浅い眠りについた朝ならほら
まだそこにあるさ

まごついた手
でシーツを鷲掴みす
みたいに形なす花弁は
次第に痩せ細り
指先に流れり

太陽からの眺めもまた
まごついたまま
己が手でひと掴みする隙間などなく
時はよしなに流れり

listening…
淀みなく
listening…
時間が来たよ

薄いピンクの君の頬を
コップ一杯の水に汲んで
静かな朝の
時計は流れり

 

2021年6月

日曜美術館『ホリ・ヒロシ 人形風姿火伝』感想

TV Program:
 
Eテレ 日曜美術館『ホリ・ヒロシ 人形風姿火伝』感想
 
 
録画したままになっていたんですけど、昨日ようやく観まして。日美は時々、一人の作家の創作ドキュメンタリー的なこともやっているんですが、こういうのはやっぱり興味深いですよね。
 
作家が何をきっかけにしてどういう経緯でものを作っていくのかというのは、極端な言い方をすれば、芸術家は誰かに頼まれてものを作ってるわけでもないわけですから、何が彼彼女らにそうさせるのか、そこは恐らく最も大事な部分、本質かもしれないわけですし、僕のような凡人は単純にそこに興味があります。
 
失礼ながら、個人的にはあまり興味のあるテーマではなかったんですけど、見ているうちにどんどんと引き込まれていきました。人形師であり舞踊家でもあるホリ・ヒロシさん。20才以上年の離れた共作者でもある妻の堀舞位子さんの存在が非常に大きかったそうで、その彼女に先立たれたことで道に迷うというか、創作に気持ちが向かわない時期があったようです。
 
番組はホリさんが再び創作へ向かう様を映じるのですが、いなくなっても常に舞位子さんの存在がそこにある、彼女なしでは考えられないホリさんというものが浮かび上がります。ですので、ホリさん自身は揺れに揺れているというか、それでも舞位子さんに導かれるようにして創作を進めていく、そんな姿が映し出されています。
 
番組の最後、釈迦の生母である摩耶をモデルにした人形「MAYA」を完成させたホリさんは仲間と共にステージで人形舞を披露します。そしてその後、ホリさんは完成したその人形を、そこには舞位子さんが所有していたストールなんかも衣装として巻かれていたんですけど、事もなげに燃やしてしまう。舞位子さんは死んだら空中に撒いて欲しいという希望があったので、それに沿うような形で燃やしてしまいます。通常であれば、番組はここで終わり。けれど、最後に予想外の展開が待っていました。
 
ホリさんは燃えて煤けた人形の頭部に再び彩色を始めるのです。それも左半分は焦げたまま、右半分にだけ彩色をする。その彩色も一度焦げた上からですし、そこには作家の狂気がある!この人形の凄まじさといったら僕は思わず声を上げておののいてしまいました。
 
それまで舞位子さんに導かれていたホリさんの本質がここで一気にあらわになる。舞位子さんとは別個のホリさん個人としての、芸術家としてのエゴがここで一気に湧出してくる。これはもう狂気ですよね。番組の最後の1~2分のことでしたけど、それまでが全て前フリであったかのような強烈な瞬間がそこにありました。ホリさんの本質がそこに垣間見えたような気がしました。
 

新しい果実 / グレイプバイン 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『新しい果実』(2021)グレイプバイン
 
 
僕がグレイプバインを知ったのは京都は北大路ビブレにあったJEUGIA。ここの試聴器でデビュー間もない彼らのシングル『白日』を聴いたのが最初でした。今もちゃんと覚えています。それぐらい新しいカッコ良さがあったんですね。もう20数年前のことです(笑)。
 
その後、何枚かアルバムを買ったのですが、2001年の『Circulator』を最後に聴かなくなりました。で今回、新しくリリースされた『新しい果実』の評判がすこぶるいい。ということで、20年ぶりに彼らのアルバムを買いました。
 
随分と久しぶりに聴きましたけど、良い意味で変わらないですね。あの独特の声、歌い方、20年分歳を取ってるはずなんですけど、時にシャウトを交えた表現は健在、相変わらず艶っぽくてかっこいいです。例えば#2『目覚ましはいつも鳴りやまない』の「リヴィングジャストイナフフォーザシティ!」とスティービー・ワンダーの曲タイトルを叫ぶところ、例えば#6『阿』で「因果応報~!」と咆哮するところ、最高ですよね。
 
歌う様がカッコいいというのはロック音楽の基本なんですけど、実はそんな人あんまりいない。グレイプバインのボーカル、田中和将さんはそんな数少ないロック・ボーカリストの一人ですね。
 
このアルバムはメインのソングライターであるドラムスの亀井亨さんではなく、田中さんが多くの曲を手掛けているのも特徴だそうです。ま、熱心な彼らのリスナーではない僕からすると違和感はないですけどね。あの独特の歌詞があの声によって独特のリズムで歌われる、そこは変わりないですから。僕なんかは、あぁグレイプバインだなという感じです。
 
ただ久しぶりに聴いて感じたのは随分とゆったりとしているなという点です。初期の頃は言葉数も多かったですし突っかかるような性急さがありましたが、今は非常に差し引かれている。余白にも意味を持たせているという感じはします。特に1曲目の『ねずみ浄土』なんてそれが顕著、完全に引き算のサウンドですね。だからラスト近く、合いの手みたいにギターが鳴るところなんかがすごく効いてくる。まぁこの曲は歌詞も含めかなり革新的ですよね、なかなかエグイと思います。
 
彼らはギター・ロックという範疇に入りますけど、その中でこれが限界なんだということではなく、新しい表現、ベテランの域に達していてもまだこんなもんじゃねぇぞというような熱を感じます。特に#5『ぬばたま』~#6『阿』を聴いた時にはレディオヘッドかと思いました。
 
言葉においても#1『ねずみ浄土』の最後、歌詞は「好き嫌いはよせ」になっているんですけど、「好き嫌いは余生」という風にも聞こえるんです。こうなるとすごく意味が膨らんできますよね。こういう響かせ方、他にもたくさん出てきます。つまり歌詞は活字で見るのと音で聞くのとでは違う、ここのところを意図的に表現しているということですね。
 
冒頭で僕は良い意味で変わらないと言いましたが、言ってみればそれは瑞々しさですよね。ストロング・ポイントはそのままに今も飢餓感を持ち得ている、それが今作でも感じる切っ先の鋭さ、瑞々しさにも繋がるのだと思います。長く彼らの音楽を聴いていませんでしたけど、これを機に他のアルバムも聴いてみたいと思いました。

二十億光年の孤独 / 谷川俊太郎

詩について:
 
 
先日、長男が通う中学校へ行ったのだが、図書室の壁に谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』は貼りだされているのに気付いた。貼りだされてから随分と時間が経過しているような質感であったが、谷川俊太郎の詩はこうやって学校教育に用いられがちだ。平易な言葉使いなので、単純に若い子向きと思われている節がある。
 
ただ、だからといって理解しやすいというわけではない。入口がソフトな分、分かりやすいという印象を与えているのかもしれないが、詩の場合、平易な言葉使い=分かりやすい、という図式は当てはまらない。教師の皆さんにはこのなかなか難しい詩を子供たちへ投げて終わりにしないで欲しい。子供たちが詩から離れてしまわないように想像力をもって楽しませてほしいなと思います。
 
 
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「二十億光年の孤独」 谷川俊太郎
 

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
 
万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
 
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
 
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

 
 
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読んで先ず引っ掛かるのは、火星人のくだりですよね。更に「ネリリ」とか「キルル」と畳みかけられちゃもうお手上げです。多分ここで詩から気持ちは離れてしまうと思います。ただ明確なタイトルがありますから、イメージとしてはかなりはっきりとさせることが出来る。要するに思春期の少年の姿が思い浮かびます。
 
大事なのはここで引っかかってしまい続けないことです。この詩は中盤からより具体的な描写が始まりますから、まずは最後まで読んでしまうこと。詩は分らないところは分らないままにしておけばよい。そのうち分かるかもしれないし、分からないままかもしれない。詩というはそんな長いスパンでのんびりと構えられる代物なんです
 
この詩の面白いところは置き換えて読むことが出来るところです。例えば、「火星人」を「あの人」と置き換えてもいいかもしれない。「火星人」を「地球の裏側の人」にしてもいいし、もっと思い切って動物に置き換えてもいいかもしれない。
 
後半の「宇宙」。ここは「世界」に変えてもいいし「心」にしてもいいし、「恋愛」とか「友情」に変えても面白いかもしれない。どうですか?そうやって自分の身近なものに置き換えて読んでみれば、違った感想をこの詩に持つのではないかなと思います。
 
僕が面白いと思ったのは「宇宙」を「インターネット」に置き換えて読んでみること。そうすると最初の「ネリリ」とか「キルル」がインターネット回線の立ち上がる音、世界を行き交う電波の音にも聞こえてきます。
 
そしてこの詩の一番のポイントは最後の「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」ですよね。くしゃみ?ん?何のことだろう?と思うかもしれません。よく言われるのは、誰かが噂をしているからくしゃみなんだよ、という解釈です。火星人が同じように地球人のことを考えているから、地球人である僕はくしゃみをする。そんな図式です。
 
でも僕はそうは受け取りませんでした。主人公は何故くしゃみをしたか。それは鼻がムズムズしたからなんです。何故鼻がムズムズしたか。ここはやっぱりネガティブな予感ではないですよね。主人公はこの詩で述べられているようなことに対してポジティブな予感を抱いている。それが彼の鼻をムズムズさせる。僕はなんかこっちの方がワクワク感があって好きです。
 
谷川俊太郎さんの詩はこのように自由度が高いです。平易な言葉使い。すなわちそれは言葉の意味を限定していないということ。故に1950年代に書かれた詩であってもインターネットに置き換えて読むことが出来る。本当に凄い詩人だなと思います。

Blue Weekend / Wolf Alice 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Blue Weekend』(2021年)Wolf Alice
(ブルー・ウィークエンド/ウルフ・アリス)
 
 
前作で一気に英国ロックのトップランナーへ駆けあがったウルフ・アリスですけど、その『Visions of a Life』(2017年)がイケイケのアルバムだったのに対し、本作は引きの芸、自信がみなぎっている感じはしますね。
 
確かにキャッチーなシングル向けの曲は前作に譲るけど、アルバム全体の流れとしてはこちらの方が断然たおやか。余裕を感じます。このバンドの特徴として相変わらず縦横無尽にジャンルを行き交いますが、不思議と一つのトーンに収まっていて、ここでまた一歩前へ進んだというか、明らかに成長しているのを感じます。
 
その最たるものがエリー・ロウゼルのボーカルで、本作でも前作同様、時に荒々しく時に物静かに様々な表情を見せるけど、これだけ落差がありながらも聴く方としてはその浮き沈みを全く感じないというか、前作の力んだ感じはなくてごく自然に聴けてしまう。前作までが曲に合わせ意図してボーカルを変えていたのだとしたら、今回はもう意図せずとも曲に応じて自然と声音が変わっていくという、つまり自分から寄せるのではなく、その境目がなくなってきたということですね。
 
そうした印象に一役買っているのがファルセットで、今回はかなり多用されています。ていうか意識して聴くとこんなに多用してたんだって。ま、それぐらい気付かない感じで自然に溶け込んでます。だから全体としては、ああしてやろうとかこうしてやろうとかではなく、曲に向かっていく姿勢の中で自然とこうなっていったというか、そこは前作でやり遂げた成果というものにも繋がるのだろうけど、しゃかりきにならなくても向かうべきところへ集約されていくんだという、作品に対してより研ぎ澄まされていったという感じはしますね。僕が今回は引き芸と感じたのはそこのところかもしれない。
 
それにしてもこの独特の世界観は際立ってますね。演劇的というか、シネマティックというか、でもザ・フーとかクイーンのような大胆な演劇性というのではなくスムーズに漂うような感じで。だから1曲1曲がどうだというよりやはりアルバム全体として一つの作品という感じはあります。で、そのグッと引き締まった感、これはやっぱりバンドの力ですよね。ボーカルばかりに目が留まりがちですけど、バンドの下支え感は半端ないと思います。
 
ま、なんにしてもウルフ・アリスのキャリアにとって、今が初期のピークなんだと思います。それぐらいの絶好調感はあります。個人的には幽玄な#3『Lipstick  On The Glass』から言葉がさく裂する#4『Smile』の流れがたまらんですね。こうなると今のキレキレの状態での彼女たちのライブを見たいものです。

ロック・イン・ジャパン・フェスの中止に思うこと

その他雑感:
 
 
ロック・イン・ジャパン・フェスが中止となった。この夏はオリンピックだけを見ておけということだろうか。
 
開催1か月前に茨木県医師会からフェス主催者へ延期にするなり、開催するにしても更なる防止策を施すよう求めた。主催者側はこの1年、フェスを復活させるべくテストを実施。自治体とも協議を重ねながら、今回のフェスもステージを7つから1つに減らしたり観客数を通常の半分以下に減らすなど、会場への導線も含めて様々な対策を取ってきた。しかし医師会が求めるのは更なる対策。つまり観客の会場外での行動も管理せよ、というものだった。そんなこと出来るはずもない。要するに医師会の見解は「やめろ」ということ。開催1ヵ月前にこんな踏み絵とは。
 
医師会はフェスというものは若者がただ騒ぎたいだけと思っているのではないか。違う。世の中には音楽がないと生きてゆけない人が大勢いるのだ。つらいこと、苦しいこと、年に数えるほどの音楽フェスを心の拠りどころにして頑張って生きている人たちは沢山いるのだ。何故そのことが医者である彼らに分からないのか。
 
僕は昨年末にコロナ禍で開催されたライブに行った。行くことを随分迷ったが、行ってよかったと今は思う。そこでは演者だけでなく観客までもが新しい形のコンサートを作ろうと主体的に行動し前を向いていた。何故か。僕らは音楽を愛しているからだ。こんなつまらないことでライブを失いたくないからだ。
 
三度の飯よりオリンピックが好きという人もいるだろう。でもオリンピックが始まろうが何しようが寄席に行きたい人は寄席へ行くし、美術館へ行きたい人は美術館へ行くし、おれは見るよりやる方が好きなんだとフットサルへ出かける人もいるし、オリンピックなど少し見ずにいつもどおりソロキャンプへ行く人もいる。すべては同じ地平にあるのだ。そしてその選択は絶対に強要されてはならない、制限されてはならない。
 
医療従事者の皆さんには本当に頭が下がる思いだし、感謝の気持ちでいっぱいだけど、それとこれとは別の話。何故この勧告が1ヶ月前になったのか。これがどういう意味を持っているのかを茨城県医師会が理解しているとは思えない。

美しが丘

ポエトリー:

「美しが丘」

 

短い嘘から始まる勇気
間近に迫ったたった今
極端に曲がったガードレール越しに
心臓破りの丘、初めての勇気

思い出してもみよ、これみよがしに
打ち解けた日のお祝い
初日の美しヶ丘
できあがったばかりの首を固定して
春の心地、外へ出かける

十分な潤いに滑りだす
ガシッとコンクリートを掴む足
歩く度、増えるキズに
新品ではなくなることの心地よさ
近くを歩けるだけ歩く
腕を振る角度は固定されていても
その看板に偽りはない

いつからか分からない
毛の生えた程度のドキドキ
心は晴れやかに落書き
そこに飛び出すカラスは西から
雲がよぎり長い影がひとつ傾いて
問題ない、ふたつでひとつ
心の中の相棒に語りかける

四時間ばかり先のこと
口からでまかせのハカリゴト
ことあるごとに口を開き
サブタイトルに心を開き
誤魔化さないでと
虚ろな眩しさたおやかに

ガードレール越しに
心臓破りの丘、初めての勇気
傍には大いなる古時計があって
存分に仰ぎ見る太陽

銀色に光るボディ
視線を投げて光る初日の美しが丘
はじめまして、
私はニンゲンというものですと
丁寧にお辞儀す

 

2021年5月

夜の招待 / 石原吉郎

詩について:

 

「夜の招待」 石原吉郎

 

窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふあんでふち取って――
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子がゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる

 

(『サンチョ・パンサの帰郷』1963年)

 

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石原吉郎さんと言えば、背景が背景なものでつい深刻な顔をしてしまいがちですが、この詩はなんかパッと明るい感じがしました。明るいと言ってもやはり冷めた目線というか、「朝は 約束をしにやってくる」といえどもそこまで信じ切っていないというか。ただ僕の印象としては望みを託している方に気持ちは傾いているのではないかと思っています。基本的には石原さんの希望の詩なんだと思います。ていうか実際に希望の朝を迎えた時の、実体験に基づいた詩なのかもしれません。とまぁ、ここでもシベリアの強制収容所という石原さんの背景を見てしまいますが。

冒頭から‘ぴすとる’が鳴ったり‘かあてん’に火が付いたり戦争を想起させるような描写はあります。ただここで‘ぴすとる’や‘かあてん’と平仮名で表記しているところで印象はやわらぎますよね。ここに何か意味はあるのかなと思っていると、‘まちかまえた時間’、つまり争いごとが終わることが示唆される。平仮名はそういうことかもしれません。

‘にわかに寛大になり もはやだれでもなくなった人と 手をとりあって おうようなおとなの時間を その手のあいだに かこみとる’。この箇所、全部記載してしまいましたが、最高の言い回しですよね。‘もはやだれでもなくなった人’といった表現や‘おうようなおとなのじかん’といった表現、もうそれとしか言いようがないですね(笑)。

とにかく、平和な時間が訪れて、そばには象がいて、ここで言う象とは必ずしも動物の象のことではなく、人々ということかもしれませんが、いずれにしても‘おうよう’とした存在がある。そして‘来るよりほかに仕方のない時間が’やって来ることの見事さに石原さんは感動されているのです。

次の‘切られた食卓の花にも’から先のくだりは自由の象徴です。例えて言うと革命が起きて自由な世界が訪れる、歓喜の輪が広がってゆく、そんなイメージです。遂には手の中にある色とりどりのクレヨンまで溶けてしまう。それまでの考え方や思想までが溶けていくということです。

そして最後に‘朝が 約束をしにやってくる’わけですけど、ここではまだ朝はやって来ていない、まだ歓喜の中、人々が作り出す明かりはあるけれどまだ夜の闇の中にいる。今の段階では約束はまだできていない、そんな状態でこの詩は幕を閉じます。

とはいえ、これらはあくまでも僕の解釈です。それとて時間が経てば変わりゆくもの。僕は石原さんのシベリア体験と結びつけてしまいましたが、ここに戦争の影を見る必要はないし、そうではない読み方はいくらでも出来そうです。単純に夜が朝に変わる様とかね。いずれにしても何かが終わり何かが始まる、そんな気分をもたらす作品かもしれません。

個人的な話でなんですが、僕の祖父は終戦後、シベリアでふた冬を過ごし帰ってきました。祖父は近寄りがたい人だったので、喋った記憶はほとんどないのですが、石原吉郎さんの詩を僕はどこかに祖父を感じながら読んでいるところがあります。ですのでこの「夜の招待」には、あの時解放された人々の風景はこんな風だったのかな、祖父も半信半疑でありながら徐々に望みへと気持ちは傾いていったのかな、まんじりと朝を待ちわびていたのではないかな、そんな風に想像をしてしまいます。

ところでこの「夜の招待」は現代詩文庫の石原吉郎詩集で読んでいる時に、なにか引っ掛かりを覚えたのですが、調べて見るとこの詩は石原さんが初めて雑誌に投稿された時の詩なんだそうです(当時39歳だとか)。つまり石原吉郎のデビュー作です。そのデビュー作にピピンと来たオレもなかなかだなと、自画自賛してこの文章を終わりたいと思います(笑)。