Oochya! / Stereophonics 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Oochya!』(2022年)Stereophonics
(ウーチャ!/ステレオフォニックス)
 
 
プロ野球の世界では3年実績を残して初めてレギュラーと言えるらしいが、3年どころかもう25年も安定した実績を残し続けているバンドがある。ステレオフォニックスである。本作も英国チャート初登場1位だそうで、英国人の信頼たるや相当なものである。
 
これだけ長い間英国チャートの1位になっているのはあとレディオヘッドぐらいなもんだが、あちらがアルバム毎に革新的な作品を発表して、新しいロックの地平を切り開いていくのに対し、ステレオフォニックスは毎度おなじみのサウンド。ストリングスが前面に出たり、地味なサウンドだったり、イケイケだったり、そりゃあアルバムごとに目先は変えてくるけど、基本的にはいつも同じ、変わらない、今までにもあったような曲。なのに全英1位。こりゃマイナーチェンジを繰り返しつつベストセラーが揺るぎないポテトチップスみたいなもんか。
 
あんたそんなにいつも同じだというのなら、別に新しいのを聴かなくても過去作を聴いてりゃいいんじゃないのと言われそうだが、新しいのが届くとついなんだなんだと手を伸ばしてしまう。、ポテチ春の新味みたいに。今回のはイケるやんとか、これはイマイチやなとか言いつつ25年。という営みが英国民の間でも行われてきたということか。
 
今回は元々25周年を記念したベスト・アルバム構想が先にあったそうで、未発表を含めた過去音源を漁っているうちにオリジナル・アルバムに発展していったとのこと。なので、元々あった曲の再録とか最近書いた曲とかがごちゃ混ぜなんだそう。そのせいか皆が期待するステレオフォニックス節満載で、つまり元々みんな好きなんだからそりゃ1位になるだろうという作品である。それにしても曲とバンドの距離感が抜群だな。2013年『Graffiti on the Train』のボートラだった『Seen That Look Before』が再録されているのは謎だが…。
 
全15曲あって1時間強。もうちょっと厳選して短距離みたいにパッと走り抜けた方がスカッとしたアルバムになったんじゃないのとは思うが、元々はベスト・アルバム構想だったんだから仕方がない。ていうかここまで前のめりなのは素直に嬉しい。にしても全15曲、確かに時代を代表する曲ではないかもしれないが、流石フォニックス、いい曲ばっか。てことで今回のはイケるやん、いや、だいぶイケるやんの方です。
 
それにしても25年で12枚のオリジナル・アルバム。今時珍しいこのハイペースぶりはしょっちゅう新味が登場するポテチと同じだが、それだけハイペースにもかかわらずいつまで経っても手を伸ばしてもらえるのは、ちょっとぐらいちごても間違いないやろという信頼感に他ならない。ていうかなんだかんだ言ってみんなこういうしっかりしたロックが聴きたいんやね。
 
昨年来、英国ロックが盛り上がってきているが、ロック音楽がヒップホップに押されっぱなしの時期もずっと安定して良いアルバムを出し続けてきたフォニックス。この信頼感は揺るぎない。

Dragon New Warm Mountain I Believe In You / Big Thief 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Dragon New Warm Mountain I Believe In You』(2022年)Big Thief
(ドラゴン・ニュー・ウォーム・マウンテン・アイ・ビリーブ・イン・ユー/ビッグ・シーフ)
 
 
年に数枚凄いアルバムというのがあって、去年で言うとリトル・シムズとかウルフ・アリス、今年で言うと宇多田ヒカルもそうだった。ただ世間的に凄いアルバムであってもそれが自分自身にどう響いてくるかは別問題。自分にとっても特別な響きを持つアルバムというのは年に1枚どころか滅多にあるものではない。そういう意味でこのビッグ・シーフの新しいアルバムは現在の僕自身の心象におぼろげに被さってきて、単純に凄いアルバムだなと思う一方、自分にとっても特別なものになりつつある。
 
僕がビッグ・シーフを聞き始めたのは2019年に出た『U.F.O.F』と『Two Hands.』から。ただ正直に言えば、2枚とも彼女たちの才気に圧倒されたままで今一つ手が届かないというか、好きだけど好きになり切れないもどかしさがあって、多分それは幾分前衛的な彼女たちの音楽に敷居の高さを感じていたからかもしれず、それはまるで、あぁ凄いけど僕とは違う世界にいる人たちですね、という感慨を僕にもたらしていた。そして今回、コロナの渦中にあってビッグ・シーフは2枚組のアルバムを出すと言う。けれど僕は不思議と少しも身構えなかった。そうか、あの人たちから手紙が来るんだ、そんなリラックスした気持ちだった。
 
予感は当たっていた。遠くに感じていた彼女たちの音楽を身近に感じることが出来る。それでいて彼女たちが僕たちの側に降りてきたということではないというのが分かる。まるで登山道ですれ違ったような感覚。やぁ、こんにちは。そうか、連中も山が好きなんだな、なんだ、僕と同じじゃないかって。遠いところにいる人たちではなかった。2枚もあるアルバムの1曲目、『change』の頭が鳴った瞬間から、何故だか僕はそんな感覚になりました。
 
今回は4つの場所で録音されたようです。そのせいか風通しがいいです。行き止まらなくて、すっと通り抜けていく感じ。サウンドはフォーク・ロックやカントリーからシューゲイズ、ドリーム・ポップまで幅広いんだけど、違和感全然ない、どれもビッグ・シーフですって感じ(笑)。それはやっぱりエイドリアン・レンカーの歌が中心にあるからだろう。
 
彼女のメロディーって起伏に富んでいるわけじゃないけど、優しい。エキセントリックな感じじゃなくて馴染みがいい。肌に沿って進んでいくような感覚ですね。つまり、エイドリアンの書くメロディーにはノスタルジー、懐かしさが含まれているような気がします。でもってあの声ですから。僕は時折トム・ヨークの声をプラスチックで至極人間的な声と形容するんですけど、エイドリアンの声にも同じ印象を持っています。決して力強くはないんだけど、芯に来る強さ。やっぱりいろんなものが同居している声だと思います。
 
そこにさっき言ったような幅広いサウンドが乗っかかる。エイドリアンの歌を生身の手のひらですくうようにバンドの演奏が追随する。けれど決してエイドリアンの歌に寄りかかっているわけじゃない。ビッグ・シーフは基本的にはエイドリアン・レンカーのバンドだと思うんですけど、誰がどうということではなく、耳に飛び込んでくるのはやっぱりバンド。そういう風通しのよさも僕に親密さを感じさせるのだと思います。
 
アルバム・トータルで約80分。1枚40分ぐらいというのもちょうどいい。2枚組というのはどちらかがあまり聴かれなくなるという運命にあるけど(笑)、このアルバムに限ってはそういうことはなさそうです。

流れり

ポエトリー:

「流れり」

 

薄いピンクのあなたの頬にそっと手を当て
浅い眠りについた朝ならほら
まだここにあるさ

まごついた手
でシーツを鷲掴みす
みたいに形なす花弁は
次第に痩せ細り
指先に流れり

太陽からの眺めもまた
まごついたまま
己が手でひと掴みする隙間などなく
時はよしなに流れり

listening…
淀みなく
listening…
時間が来たよ

薄いピンクのあなたの頬を
コップ一杯の水に汲んで
静かな朝の
時計は流れり

 

2021年6月

3月11日の雑感

3月11日の雑感:
 
 
早いもので2022年も2か月が過ぎた。今年の冬は随分と気温が下がり、例年にも増して寒かったなと思いつつ、即座にほとんど雪が降らない大阪に住んでいてこんなこと言ってちゃいけないなと思い直した。
 
寒いからというわけでもないのだろうけど、2月の初めごろに体調を崩した。一応抗原検査は受けたものの、結果は陰性。しかしその後今に至るまでずっと体調が悪い。体がしんどい。頭痛が続く。
 
そのうち治るだろうと思いつつ、こりゃ世に言うコロナの後遺症じゃないかとコロナになったわけでもないのに、いやそれも抗原検査だしよく分からない。そういえば肩痛の強い薬を飲み続けたことも影響しているのかなとも思ったりするものの、原因なんて分からないからまぁ気分が晴れない。てことで2月になってからというものの、何事に対しても意欲が下がり気味だ。
 
体調以外にも調子の悪いことがいろいろ続いている。戦争も起きたし、ホントに気分が優れない。とりあえず、「日本でデモ行進をしてもクソ役にも立たない」と言った人が我々のリーダーじゃなくてホント良かったなと思う。
 
日本は島国だから戦車がゴトゴトやって来ることはないだろうけど、ミサイルやなんやらは空からバンバン降ってくるかもしれない。そうなりゃ銃なんて何の役にも立たないかもしれないけど、妻や子供を守るためには僕も銃を取るのか。まさか。ウクライナの人たちもそんな気持ちがあるのかなぁと想像しつつ、嫌だ嫌だ、想像するだけで怖い。
 
東日本大震災が起きたのは11年前。天災ではある。たくさんの人が亡くなり、たくさんの人が立ち直れぬ悲しみを負った。今は人が意図して人を殺している。
 
 

Laurel Hell / Mitski 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Laurel Hell』(2021年)Mitski
(ローレル・ヘル/ミツキ)
 
 
何かを表現をしようとする時、その方法は大まかに二通りある。一つは自分自身を直接的に表現しようというもの。自己の経験をそのまま明らかにする場合、その主体は一人称、すなわち「私=作者自身」ということになる。またそれとは逆に、何か表現したい対象物があって、それを客観的に描くという方法もある。勿論、自分自身がその対象物になる場合もあるが、そこは距離を取る。この時、そこで描かれる「私」は「私」であって「私」でない。
 
ミツキは明らかに後者だ。歌詞がたとえ一人称であってもそれはミツキのことではない。ミツキには表現をしようとする何かがあって、あの手この手で(曲を作ったり、歌ったり、踊ったり)そこに到達しようとしているだけだ。本人にそのつもりはないのかもしれないけど。つまりミツキの音楽は、カメラの向こうにあるものであり、揺らめく影であり、彼女の写し絵なのだ。しかもそれははっきりとピントが合ったものではない。では彼女はどこを見ようとしているのか。
 
それは揺らぎ。恐らくミツキは目に見えるはっきりとしたものに焦点を当てていない。揺らぎ、ノイズ、または零れ落ちるもの。そのおぼろげな残像に向かって彼女は手を伸ばし、歌い、踊っているように僕には見える。けれどその残像は長く続かない。おそらく『ローレル・ヘル』に納められた曲がいずれも3分前後で終わるのはそのため。聴き手である僕たちはそこに幾分かの不満を言うが、恐らく寸止めされているのはミツキの方だろう。
 
自ら距離を取る。或いは近づこうとしても距離を詰めることが出来ない。自分のことを歌わないのではなく歌えない。その不明瞭さが彼女の音楽の魅力だ。彼女自身はどう思っているのか分からないけれど、その触れられなさは気品がありとても美しい。しかしその営みは彼女自身をひどく消耗させるようだ。ソングライティングとは自身の深みを覗くことであるとは誰が言った言葉だったか。いくら距離を取ろうが無傷ではいられない。芸術作品はそのようにして生み出されていく。

BADモード / 宇多田ヒカル 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『BADモード』(2022年)宇多田ヒカル
 
 
『Fantôme』(2016年)での復帰後の3作目『BADモード』で、宇多田ヒカルは早くも第2期のピークを迎えた。『Fantôme』での明らかにそれまでとは異なるフェーズ、大げさに言うと別人のような新たな佇まいは彼女の音楽の聴き手を更に押し広げている。
 
『BADモード』アルバムでは、何より目を引くフローティング・ポインツやA.G.クックとコラボした強烈なサウンドが強く語られがちだが、ここではやはり言葉に言及していきたい。つまりそれはこの作品には日本のポップ音楽が営々と格闘してきた日本語の音楽化に対する一つの到達点があるから。
 
正直言ってFantôme』までの宇多田ヒカルを僕はよく知らない。けれど、Fantôme』、『初恋』(2018年)と比較しても今作での言葉の切れ味は別格だ。いや、恐らくは前2作を経たからこその覚醒感。少なくともアルバム冒頭の3曲の時点で僕は圧倒されました。
 
言葉の意味性。勿論大切だが、昨今、音楽に限らず何事にも意味性が重要視されているような気がする。しかしこれは音楽。意味性よりも先ずもって音楽として機能しなければならない。そこで大いなる武器となるのが宇多田ヒカル独特の割符だ。例えば#5『TIME』での最初のヴァースをよく聴いて欲しい。ここでの言葉の載せ方を聴いていると、宇多田ヒカルの体内時計は例えば何気ない誰かの日記でさえも歌にしてしまえるのではないかと思ってしまう。また#7『誰にも言えない』でもラップ感はどうだ。よく聴くとこれラップ?でもそうとは思えないほどのメロディーとの馴染みのよさ。つまり彼女はラップだとか歌だとか考えちゃいない。言葉がそうとは気付かれないほどに音楽化されているだけなのだ。
#6『気分じゃないの(Not In The Mood)』はなかなか詩が出てこなかったそうで、街に出てスケッチをしたものをそのまま詩にしたことがLiner voiceで語られている。必要なものがあって必要ではないものが何もない完璧な情景描写で、それだけで参ってしまうが、ここで特筆すべきは言葉とメロディーが逆転している点だ。通常はメロディーという乗り物に言葉が乗るという感覚だと思うが言葉に載ってメロディーやサウンドが歌っているかのような感覚。上下逆さまになる浮遊感。つまりそれだけすべてが一体化しているということ。
 
言わずもがな、このアルバムはそこらじゅうで韻が踏まれている。第1期の彼女は知らないが、少なくとも『Fantôme』以降でさえ、ここまで韻を踏んではいなかったように思う。それなのに何故、『BADモード』アルバムではここまで韻が踏まれているのか。それは彼女の言語感覚がこれまでになく鋭敏になっていたからではないか。
 
つまりクリエイティビティというのは散発的にやって来るものではないということ。ピークは唐突にソングライティング、サウンド、歌唱、ありとあらゆるものが同時進行で訪れる。どこをどう切っても宇多田ヒカルは今、クリエイティビティのピークにある。

食事の準備

ポエトリー:

「食事の準備」

 

彼女の耳たぶは茹でたてのニョッキ
味もそっけもない
彼は塩を一掴み
伝票を見て火加減を見て
この道二十年のベテランシェフの如く
段取りよく事が運んだ暁には
彼女のご機嫌もクリームソースのように滑らか
心を静める緑のバジルを加えて
今宵二人、トマトとチーズのように仲良し
冷めないうちにフライパンはそっちのけ
我が家のメインディッシュは
アクアミネラルと新鮮なラディッシュを添えて
ガーベラの花と灯りはうんと小さく

 

2017年2月

ランチタイム

ポエトリー:

「ランチタイム」

 

ランチタイム
君の右手は栄養源を口元に運ぶ
身から出た錆
つい先日の事を悔いる
脚を組み替える
同僚が話しかける
聞こえないふりはしないけど実はまるで聞いちゃいない
今、心の中で決めた事がある
明日から昼はひとりで過ごす
今夜の夕食は豪華にする
それぐらいの事ではどうにもならないけど
何もしないよりかはマシ
がっかりしたままでは終わらない
私はいい人ではない

 

2017年3月

宇多田ヒカル、『君に夢中』について

その他雑感:
 
 
昨日テレビを見ていたら、宇多田ヒカルの『君に夢中』の歌詞の中の「人生狂わすタイプ」という一節に言及している人がいて、その人はミュージシャンだったんですけど、普通だったら「人生狂わせる」ってなるんだけど「狂わす」となっているところが凄いだなんて、言葉の意味にスポットを当てた話をしていて、いやいやそっちやないやろ、「狂わせる」って歌ってしまうとメロディと言葉が分離してしまうからや~ん。
 
歌の歌詞っていうのはメロディやサウンドがあっての言葉であって言葉だけを切り取って云々かんぬんというのはその前提であれば分かるんですけど、この場合はちょっと違いますよね。言葉をいかにして音楽として機能させていくかってところが腕の見せ所で、宇多田ヒカルはそこが非常に長けてる、そういうことだと思います。
 
つまり「人生狂わすタイプ」。僅か数文字ですけどここ、韻を踏みまくってるんです。細かく見ていくと、「じんせい」で頭とお尻の母音が同じイ音というのが先ずあって、「狂わす」の「わす」と「タイプ」が a と u で掛かってます。でその「タイプ」の真ん中にイ音があってそれも「じんせい」のイ音と韻を踏んで、イ音に戻ってくる。
 
でここのメロディ。僕は音符を読めないですけど、そんな僕でも音程が上下してるの分かります。それと「人生狂わす」のイントネーション、なんでもいいですけど、「おなかがすいた」とか「あたまがかゆい」といった喋り言葉のイントネーションに近いですよね。つまりなんで 「人生狂わすタイプ」 が耳に残るのか。こういう部分全部ひっくるめて言葉とメロディが仲良しの状態でスムーズに機能しているからなんです。単純にこの言葉がエモいから、ではないんですね。あと言わずもがなですけど、ここの前後の歌詞、「夢中」と「deja vu」とも脚韻を踏んでいます。
 
ということでこの曲、そこのところを意識して聴いてもらうとずっと韻を踏みまくってるのが分かるし、アクセントとかイントネーションで言葉とメロディを一体化させているのが分かると思います。勿論、この曲だけではないです。宇多田ヒカルはライミングを多用しています。なんでか?それはポップ・ソングの一つのマナーだからです。ていうかポエトリーのマナーですよね。古くはランボーもそうだしブレイクもそう。ディランだってそうだし、あのビリー・アイリッシュだってそう。ライミングというのは言葉の伝播力を高めるひとつの手法なんです
 
ジャパニーズ・ポップだってかつてはそうだった。佐野元春にしても桑田佳祐にしてもカクカクした日本語をいかにメロディと一体化させるかというところに苦心をしていた。どうやってか。欧米の音楽やポエトリーを参照したんですね。それ以前のフォークとかニューミュージックが重視した歌詞の意味から離れて、言葉をどう音楽化させるかというトライアルの時代があったわけです。
 
その後、バンド・ブームがあって90年代のメガ・セールスの時代があって、今に至るJ-POPという世界にも稀に見る音楽マーケットが出来た。凄い事です。でもよくないことも起きた。つまりこの中で事足りるようになったんですね。音楽をやるきっかけが日本のポップ音楽、ロック音楽となり海外の音楽を聴かなくなったんです。で歌詞について言えば、言葉をどう音楽として機能させていくかということより意味性、何を歌ってるかが重視されるようになった。つまりかつてのフォークやニューミュージックの言葉の捉え方へ戻ってしまったんです。しかも今やより情緒性、エモいが強調されるようになってしまった。
 
これ、家電や携帯電話でよく言われたガラパゴス化と同じですよね。なんかどんどん狭い方向へ向かって行くっていう(笑)。でも音楽の歌詞というのはやっぱりメロディがあって、ミュージシャン固有の声があって、和音があって、サウンドがあって成り立つものだと思うんですね。ディランがノーベル文学賞を獲った時に議論になったのも、ディランの詩は音楽なのか、文学なのかっていう、そこなんです。
 
だからテレビを見ていてですね、日本の最前線にいるミュージシャンが宇多田ヒカルの曲に対して真っ先に切り込むべきそこへの言及がなく、言葉の意味に向かってしまった、要するに内に向かった話をしていくというのはやっぱり聴いていて歯がゆかったなと。宇多田ヒカルは、この曲は違いますが今回のアルバムでは2021年に話題となったフローティング・ポインツと組んでるぐらいの人ですから、もっと大きく捉えてほしかったなと。ちょっと食い足らなかったので、ここで言わせてもらいました(笑)。

Jubilee / Japanese Breakfast 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Jubilee』(2021年)Japanese Breakfast
(ジュビリー/ジャパニーズ・ブレックファスト)
 
 
韓国系アメリカ人であるミシェル・ザウナーのソロ・プロジェクトの3枚目。名前が名前だけに名前は知っていたのだが、曲を聴くのは今回が初めて。ジャパニーズ・ブレックファストという名前はオリエンタルな響きの’ジャパニーズ’といかにもアメリカ的な’ブレックファスト’をかけ合わせたら面白いんじゃないか、っていうことで名付けたそうだ。異なるものをくっ付けることで生まれる化学反応。ある意味アートの一つのマナーかもしれないが、そこを無意識にやってしまえるのは、この人が元々アート的な発想の持ち主だということだろう。なので、ミシェル・ザウナーは別に味噌汁とご飯を思い浮かべたわけではない。
 
今回初めて聴いたのだが、管弦楽器もあってとても派手でゴージャスなサウンド。前述の流れでいけば、歌詞は重たいのだろうとリリックを検索すると確かに明るいものではない。自己に沈思するというかそんな感じ。ま、僕の英語力での解釈だけどね。ポップなメロディもさることながら、サウンドがオシャレそのもの。#4「Slide Tackle」の間奏でサックスが入るとこなんかすごく都会的。80年代にはこんな音楽がいっぱいあったような。うん、多分その辺りは意識しているのだろう。
 
都会的と言えば所謂シティ・ポップの流れもあるようで、ミシェル・ザウナーの声質も同じアジア系だからか線が細く、これ日本人、って言っても分からないだろう。ということでジャパニーズ・ポップが世界に打って出る良いお手本になるかも。この手のオシャレ・サウンドなら日本人も得意でしょと。そこと70年代にシティ・ポップを手掛けた名うてのミュージシャンにバックアップしてもらえれば、、、なんて妄想をしてしまいました。それにしても#4「Slide Tackle」の背後で流れるカッティング・ギターは最高だな。最終曲#10「Posing For Cars」のアウトロのざらついたまま壮大になる感じもよい。