Eテレ 司馬遼太郎 雑談 「昭和」への道 感想

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司馬遼太郎 雑談 「昭和」への道

 

今、NHKのEテレで司馬遼太郎生誕100年の特番をしていて、1986年だったかな、『昭和への道』という、まぁあの戦争に向かって日本が狂っていた時代ですね、あれはなんだったのかというところをメインに司馬遼太郎が話をしているという当時の番組の再放送をやっていて、その第6回だったかに戦争期の日本に蔓延していた、特に軍人やメディアで非常に誇大な言語表現がなされていた、かつてない言語量を使ってしかも漢文のような古い言い回しなんかも多用しながら大袈裟な言語表現をしていたわけですけど、それを司馬さんは実態のない言葉と言ってるんですね。中身が空っぽで空虚だと。だって日本はヤバいなんていう本当のことなど言えやしないんだからつい誇大な表現でごまかす、糊塗する。まぁ愚かな時代ですけど、この中身がない、実態がないからつい言語表現は大袈裟になるっていうのは、司馬さんは当時の政治家のスピーチを例にとって、実体がない、言っている本人に実感がないからああいうもったいぶった大層な言い方になると言ってましたけど、本当にそうだなぁと、今も変わらないなぁと、やっぱり大袈裟にいいこと言う人は信用なりませんよね。

ここで話は僕の意見、別の方向へ行きますけど、日本の漫画は世界でも人気で評価も高いわけですけど、日本の漫画、アニメ、特撮なんかもそうですけど、ヒーローものの場合だいたい必殺技がありまして、ライダーキックとかブレストファイヤーとかですね、もう初期の頃からあるわけです。今じゃもうさらに進んで、「全集中、水の呼吸、一の型、なんとかなんとか!」みたいな何個あるねんっていうぐらい決め台詞があってですね、もうそういうのが日本人はいちいち大好きで、僕も「キン肉マン」とか「北斗の拳」とかの世代ですからそういうのに熱狂してたんですけど、まぁあれもですね、技名がとにかく大袈裟でなんのこっちゃ意味の分からないものもいっぱいあるんですけど、なんかそういう誇大表現に納得してしまうというか、「廬山昇龍波!」なんて言われると、わぁスゲーって興奮してしまう。やっぱ日本人は意味はよく分からんけどなんか凄そうな名前だったらそれでよしとしてしまう気質があるんじゃないかと。アベンジャーズにヒーローはいっぱい出てきますけど、それぞれのキャラが必殺技名を連呼しまくるってないですからね。

あともう一個言うと、これはもう前から思っていたことですけど、いわゆるJ-POPですね、これも熱い表現とか大層な言い回しが好きなんですね。君を守るとか君を助けるとか、ま、そんなこと現実的でないですよね、これもやっぱり実体がない。本当に助けるとはどういうことなのか、本当に守るとはどういうことなのか、そこの実体がないから無邪気に大声で歌えるのだと思います。それなりの現実認識、要するに実感があればもう少し違った表現になると思うんですけどね、でも聴いてる方もそれで熱狂してしまう、涙流して感動したりするわけです。僕は海外の音楽も沢山聴きますけど、僕の知っている限り海外にああいうド直球な応援歌ってないんじゃないかな。これも日本独特の文化だと思います。

だからまぁ、日本人というのはこういうポップ・カルチャーの分野においても大袈裟な表現、今で言うエモい物言いについ引っ張られてしまう傾向があるんだなと。なので、司馬さんの番組、あれは昭和のことを言ってますけど、今だって根本は変わっていなくて、中身のない、実感のない言葉に引っ張られがちな国民であるんだということを番組を見ながら、もちろん自分も含めてですけど、改めて思いました。

『100de名著 北条民雄/いのちの初夜』感想

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『100de名著 北条民雄/いのちの初夜』感想
 
 
文学や音楽や絵画といった芸術に何を求めるかは人それぞれにあるのだろうけど、僕自身について言えば、受け手に何かしらのポジティブな作用をもたらすものであればよいなと思っている。
 
ポジティブと言ってもそれは俗に言う’元気をもらう’とか’勇気をもらう’ということではなくて(もちろん時にはそういう場合もあるのだろうが)、むしろ’知る’あるいは’知覚する’ということによる心持ちの豊かさ、視野の広がり、そういった自分自身の感覚領域をおし広げてくれるもの、そういう意味でのポジティブさとして捉えているところがある。
 
よき表現というのは、例えば水俣病問題を扱った『苦海浄土』やゲルハルト・リヒターの絵画がそうであるように、それがたとえシリアスな物語であろうと、辛い現実認識を伴うものであろうと、新しく知ることによる感覚領域をおし広げてくれるポジティブな作用がある。つまりそこには作者のいろいろな逡巡はあるのだろうけど、物事をよりよくしていきたいという動機が根底に流れているような気がする。その願いのようなポジティビティが受け取り手に作用しているのではないか。
 
北条民雄は勿論読み手を感動させようと思って書いたわけではない。また、辛い体験、死のうとさえした状況を全く暗い気持ちのまま書いたわけではない。彼は創作することに望みを託した。そしてそこには古今東西のよき芸術表現と同じように読み手の心に何らかのより良き作用をもたらす何かがあった。川端康成が北条民雄文学の紹介者になったのはそれを発見したからではなかったか。
 
その上で、北条民雄の’書きたい’或いは’生きたい’という強い意志に、彼なりの優しさで応えた川端康成。北条がハンセン病療養所という名の隔離施設で、23才という若さで息を引き取った日の翌日、北条に会いに療養所へ赴いた川端のエピソードはとても感動的だった

『100de名著 アレクシェーヴィチ/戦争は女の顔をしていない』感想

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『100de名著 アレクシェーヴィチ/戦争は女の顔をしていない』感想
 
 
ホントに知らないことばかりで、個人で検索するネットじゃこうはいきませんから、やっぱりテレビというのは必要だなぁとこういうのを見るたびに思います。今回はロシアの作家の作品です。ロシアでは先の大戦で多くの女性が兵士として戦場に赴いたとのこと。その彼女たちへの聞き取りがこの作品です。
 
4回目の放送では全てをここに書きたいぐらい重要な話ばかりでした。アレクシェーヴィチは言います。歴史は歴史家によって語られるが、人文学によって語られてもよいはずだと。歴史家の書く歴史には感情がなおざりにされているのではないかと
 
この言葉、今現在の私たちの暮らしにも当てはまるような気がします。テレビでは連日、医療従事者や経済学者が登場しますが、今となっては文学者や社会学者たちの意見もあってよいような気がします。もっと言うと画家や建築家といった異なるジャンルの人たちがどう考えてるのか、科学的な側面だけでなく、別の側面からの言葉も必要な時期がきているのではないかと思います。
 
アレクシェーヴィチはこの本の中に自身の考えは書いていないそうです。彼女たちの口から語られる言葉に、作者の哲学や思想を加えるべきではないと。そういえば少し前に読んだいとうせいこうさんの『福島モノローグ』も同じスタンスだったかと思います(いとうさんは’あとがき’さえ書くのをためらっていました)。それは作者の相手に対する態度でもありますよね。等しく聞く。それをアレクシェーヴィチは愛を持って聞くと書いています。
 
今回の講師を務められた沼野恭子さんはそうしたアレクシェーヴィチの態度を共感と言っています。上の者が下の者に対する同情ではなく共感であると。共感という言葉、よく耳にしますよね。「私もそう思う」、「その気持ち分かる」など、一般的にはそんなイメージかもしれません。
 
でもこれは僕の想像ですけど、アレクシェーヴィチはインタビューする相手を単に自分ではない相手とは見ていないと思うんですね。一歩違えば私も戦争へ行っていたかもしれない。ちょっとした偶然で彼女たちは戦場へ行き私は行かなかった。つまり彼女たちは私であるという認識。ここでいう共感というのはそうした切実感を伴った共感ではないでしょうか。愛を持って話を聞きに行ったというのはそういうことなのかもしれません。
 
「戦争は女の顔をしていない」。それは戦争は女性の心と体には合っていないということ。つまり戦争は男の顔をしているということです。しかしそれは戦争だけではないような気がします。今の私たちの暮らしは男が、もっと言えば中高年男性が作り上げたものです。でもこれって逆に言えばまだまだ別のやり方があるということでもあると思います。
 
アレクシェーヴィチがこの本を書いた時代は社会主義が崩壊し、資本主義が勝利した時代です。しかし今やその資本主義も行き詰まりを迎えています。更には新型コロナによる社会の変容。また男女差別や人種差別。ジェンダーや障害者、環境問題などなど、課題は山積みです。これはつまり今までどおりの中高年男性だけの視点では限界が来ているということではないでしょうか。
 
女性、若者、障害者、マイノリティー、今まで顧みられることのなかった視点が加われば、目から鱗のように物事は物事はより良い方向へ向かうかもしれない。そう考えるのはいささか楽観的でしょうか。けれど異なる視点がまだまだあるのは確かなことです。
 
この本は戦争について書かれた本です。番組で少し紹介されただけでも女性兵士たちの生な声は凄まじいものです。けれどその内容は現代にも通じる内容が多く含まれているように思います(この辺りを講師の沼野さんは実にうまく説明されていました)。それはつまりこれはただの記録、書物ではなく人文学によるものだからです。そのことを実証するようにアレクシェーヴィチは今現在、祖国ベラルーシの民主活動を行っています。

『SWITCHインタビュー達人たち~みうらじゅん×樋口真嗣』を見て思ったこと

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『SWITCHインタビュー達人たち~みうらじゅん×樋口真嗣』を見て思ったこと
 
 
先日放送の『SWITCHインタビュー達人たち~みうらじゅん×樋口真嗣』を見まして、後半の舞台となった目黒の五百羅漢寺行きてぇ~、でも東京かぁ~などと思いながら、怪獣談義を楽しく聞いていました。みうらさんの過去にNHKで制作にかかわった怪獣ドラマでのエピソード、よかったですね~。髪の毛の長い怪獣に禿があってそこが弱点になるっていうのを断固反対したという話。そりゃそうですよね、長髪だからその怪獣はみうらさんですよ。みうらさんは怪獣になりたかったわけですから、視点が全く違うということですね。今風に言えば怪獣ファーストじゃねぇ、てことでしょうか。
 
樋口監督は現在進行中の映画『シン・ウルトラマン』の監督を務めているそうで、映像も一部流れてましたね。『シン・ゴジラ』の時もそうでしたけど、今回も実際に怪獣が現れたらどうなるんだ、ウルトラマンが現れたらどうなるんだっていう話だと思うんですけど、そこでふと疑問が湧きました。やられちゃった怪獣の亡骸はどうなるんだ?
 
例えばウルトラマンには「八つ裂き光輪」って技がある。それで怪獣を真っ二つにする。でも今までの怪獣だと断面は赤くても血は流れないです。今回も怪獣はそういうもんだとすると、周りが血の海になる心配はまずない。でもあの図体ですから、あんなのがいつもでも転がってちゃ迷惑です。じゃ燃やそうと。でも燃やしていいのか、変な物質が大気に流れるんじゃないか。そこは検証が必要です。でも怪獣それぞれ体質は違いますから、それいちいち調べるの大変ですよね。それにいつまでも置いとけない。だいたい怪獣とウルトラマンが戦うのは山の中ですから、山で燃やすにしても大変だと。ということでここはウルトラマンに再度「八つ裂き光輪」で持ち帰り用のサイズにカットしてもらわないといけない。
 
その上で怪獣専用の焼き場というのを作らないといけないですね。当然、焼ききれるのかという問題もありますから、それなりの高温で処理できる施設でないといけない。で、焼く時には坊さんにも来てもらってお経を読んでもらう、もちろん科学特捜隊のメンバーも来ますね。服装はオレンジの隊服じゃまずいでしょうか。「おい、黒っぽいのないのか」という話になるかもしれないですね。怪獣は悪ではないですから、それぐらいはしかるべきだと恐らくみうらさんも思うはずです。骨壺、お墓、この辺も必要ですね。
 
ただウルトラマンがスペシウム光線で怪獣を爆発させちゃった場合、これ困りますねぇ。こうなるとアラシ隊員あたりが専用の回収器なんか拵えるんでしょうか。なんにしてもバラバラになったのを回収するのは大変です。てことで科学特捜隊からウルトラマンに要望書が提出されるかもしれない。「なるべくスペシウム光線はやめてください」と。

日曜美術館『ホリ・ヒロシ 人形風姿火伝』感想

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Eテレ 日曜美術館『ホリ・ヒロシ 人形風姿火伝』感想
 
 
録画したままになっていたんですけど、昨日ようやく観まして。日美は時々、一人の作家の創作ドキュメンタリー的なこともやっているんですが、こういうのはやっぱり興味深いですよね。
 
作家が何をきっかけにしてどういう経緯でものを作っていくのかというのは、極端な言い方をすれば、芸術家は誰かに頼まれてものを作ってるわけでもないわけですから、何が彼彼女らにそうさせるのか、そこは恐らく最も大事な部分、本質かもしれないわけですし、僕のような凡人は単純にそこに興味があります。
 
失礼ながら、個人的にはあまり興味のあるテーマではなかったんですけど、見ているうちにどんどんと引き込まれていきました。人形師であり舞踊家でもあるホリ・ヒロシさん。20才以上年の離れた共作者でもある妻の堀舞位子さんの存在が非常に大きかったそうで、その彼女に先立たれたことで道に迷うというか、創作に気持ちが向かわない時期があったようです。
 
番組はホリさんが再び創作へ向かう様を映じるのですが、いなくなっても常に舞位子さんの存在がそこにある、彼女なしでは考えられないホリさんというものが浮かび上がります。ですので、ホリさん自身は揺れに揺れているというか、それでも舞位子さんに導かれるようにして創作を進めていく、そんな姿が映し出されています。
 
番組の最後、釈迦の生母である摩耶をモデルにした人形「MAYA」を完成させたホリさんは仲間と共にステージで人形舞を披露します。そしてその後、ホリさんは完成したその人形を、そこには舞位子さんが所有していたストールなんかも衣装として巻かれていたんですけど、事もなげに燃やしてしまう。舞位子さんは死んだら空中に撒いて欲しいという希望があったので、それに沿うような形で燃やしてしまいます。通常であれば、番組はここで終わり。けれど、最後に予想外の展開が待っていました。
 
ホリさんは燃えて煤けた人形の頭部に再び彩色を始めるのです。それも左半分は焦げたまま、右半分にだけ彩色をする。その彩色も一度焦げた上からですし、そこには作家の狂気がある!この人形の凄まじさといったら僕は思わず声を上げておののいてしまいました。
 
それまで舞位子さんに導かれていたホリさんの本質がここで一気にあらわになる。舞位子さんとは別個のホリさん個人としての、芸術家としてのエゴがここで一気に湧出してくる。これはもう狂気ですよね。番組の最後の1~2分のことでしたけど、それまでが全て前フリであったかのような強烈な瞬間がそこにありました。ホリさんの本質がそこに垣間見えたような気がしました。
 

Eテレ『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』を見て

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『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』

 
 
 
現代詩に対して不満がありました。難解すぎるだろと。もっと生活に寄り添うべきだ。そんなんだから誰も見向きもしなくなるんだと。それでも僕は現代詩が好きで、雑誌や詩集を買ったりする。でも大方分からない、ほとんど理解できない。ならなんで買うんだよと言われれば、それでも抗しがたい魅力があるからというしかない。難解で時には読むのも億劫になる、しんどい。でもなんか気になる。僕にとって現代詩とはそういう存在です。
 
僕は言葉を追いかけようとするんですね。当然です。理解するにはそれしかないのだから。なんて書いてあるのだろう、なんて書いてあるのだろうと言葉を追いかける。けどほとんど分からない。で途中で追いかけるのを諦める。番組で佐野さんは吉増さんの詩を分かろうとしないと言っていた。驚いた。佐野さん、そんなこと言うんだって。一言一句は分らないけど、全体としての感覚に委ねる、佐野さんは為すがままに溶け込ませようとしていた。そこで詠まれているイメージに身を任せてしまう。そして感じた事もまた言葉で説明できなくていい。目から鱗でした。
 
現代詩は難解でよく分からないけど、つい手に取ってしまう。僕がさっきそう言ったのはそういうことなんだな。間違いなく頭で理解できていない。けれどそこで発せられる声に恐らく体は感応してるんです。だからなんだろうなんだろうと気になる。言葉にして解いていかなくてもいい、理解したという証を求めなくていい。感応したまま放置すればいい。それでも読み手の中に巡るものはあるのです。
 
詩とはそういうものなんだと。いや、こういうことの繰り返しをまた一歩、進めたような気がします。もちろんちゃんと筋が通って理解できるものもある。それも詩だし、そうじゃないのも詩。頭で分かろうとしなくても体が反応していればそれは詩を読んだことになる。新たな発見です。
 
そこで。佐野元春 and The Cyote Band の『コヨーテ、海へ』。この曲は評価が高いです。佐野さん自信もフェイバリットに挙げてるし、吉増さんも取り上げていた。けど僕には分からなかった。要するに現代詩に近い感じ?何に対して「勝利あるのみ」なの?何に対して「show real」なの?ここでも僕は言葉を追いかけていたんです。でもこの曲全体から感じ入るものはあった。一言で言うと肯定かもしれない。過去、現在、未来の肯定。それらを纏った風景。「宇宙は歪んだ卵」と始まるこの曲を僕は理解しあぐねていた。でも僕の体は感応していた。
 
それにしても吉増剛造さん。現代詩の巨人が佐野元春の曲を熱心なファンのように調べて来ていた。そしてその批評が核心を突いてくる。佐野さんのなんと嬉しそうなこと。一方の佐野さん、吉増さんに対する尊敬の念が溢れていた。僕は長く佐野元春のファンをしているけれど、あのような佐野さんを僕は見たことがない。
 
日本の現代詩はとても素晴らしいです。でもあまりに難解過ぎる。そこに対してのヒントがこの番組にはあったと思います。吉増剛造のあのリーディング。何かを感じ入ったのなら、それは聞き手の体のどこかが感応したということ。それが詩です。国語の教科書のように頭で理解する必要はない。体が反応したのならそれは詩を読んだということです。
 
ただ吉増さん、もうちょっと文字、読みやすくしてくんないかな(笑)

Eテレ『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』感想

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『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』感想

 

科学を信じ過ぎではないかという声がある。勿論、非科学的な思い込みや一方通行があってはならない。けれど科学ではないところから声を持ってきてもよいのではないか。

コロナ禍の中、専門家の言葉が大きくなっている。未曾有な事件に大切なことだ。けれど一方で文学者の声を頼んでもよいのではないか、僕たちは。もう少し。

甘い戯れ言ではない。詩人の声だ。理屈の通った、理解の微振動を越えた言葉の連なり、の向こうにあるもの。吉増さんの仰る「gh」に打たれたい(嗚呼、と詩人風に、ここでも僕は分かった振りをしてはいけない)。

ということに今、随分多くの人たちが気付き始めている。隙間、零れ、句読点の谷、そうしたものが必然的に人々を助くはず。いや、そうしたものを表現する、どうやって?

もっと近くに忍び寄っておくれ。あなたの韻律を頭の回りに。脳みそに、ではなく。神秘的な言葉の「gh」を神秘的とは言わずに、そこにある物体としてそのまま受け取る。僕たちは誰彼構わず、そうしたことが出来るのではないか。という希望を。

詩は言葉ではないものをなんとか言葉で表現しようとすることだと思っていたが、言葉で表現することではなかった。

朝ドラ『エール』は皆の物語!

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朝ドラ『エール』は皆の物語
 
 
 
朝の連続テレビ小説『エール』が終了しました。第1回の放送を観たときは「なんじゃこりゃ」と思いましたが、徐々にハマって最後は夢中になっていました。主人公が男ってのは今までもあったのかちょっと分からないですけど、古山裕一という特異なキャラクターのせいかその辺りの違和感は全くありませんでした。あっぱれ、窪田正孝さん!
 
その裕一さん。純粋で人を疑うことを知らない、世間の常識からすればちょっと変わった人。けれど音楽の才能に溢れ多くの人々を元気づけていきます。そうですね、まさしくタイトルそのままに主人公が周りの人を輝かせていく、そんなドラマでもありました。
 
『エール』を一言で表すと脇役が輝いたドラマとも言えるのではないでしょうか。裕一の家族であったり、音の家族であったり、それ以外にも身近な友人や深い関わり合いのできた人たち。それぞれにスポットが当たる回が何度もあって、しっかりと見せ場を作っていました。あの人もこの人も、と振り返れば印象深い登場人物を沢山思い浮かべることが出来ると思います。
 
裕一はああいうキャラですし、コメディの要素も強いドラマでしたから、もっと印象付けようと思えばいくらでも目立つように演じることはできたと思うんです。でも窪田さんはそうはしなかった。主人公でありながら周りを輝かせることに徹したんだと思います。
 
そして何と言っても裕一の伴侶となる音さん。裕一のそばにいて最も輝いていたのは間違いなく音さんだったのではないでしょうか。
 
音さんはバイタリティーに溢れ、裕一を導いていきます。けれど自身のことに関しては上手くいかないことばかりなんですね若くして将来を嘱望された裕一と違って音は歌手を目指すもののなかなか芽が出ない。ようやく大舞台の主役の座を手に入れたと思ったら、身ごもり舞台を辞退せざるを得なくなる。子供が長じて再び夢に向かい始めるんですけど、ここでもやっぱり壁にぶち当たる。そして、音は大変な努力家ですけど努力家であるがゆえ越えられない壁を知ってしまう。
 
思えば主人公以上に起伏に富んだ役でしたけど、二階堂ふみさんは見事に演じられた。最初はこの人歌上手だなぁくらいだったんですけど、回が進むにつれて二階堂さんの演技に引き込まれていきました。セリフ回しもですね、音さんは語尾をはっきり発音するんです。僕は毎回そこを密かに楽しみにしていました。僕はすっかり音さん語尾発音フェチになりました(笑)。
 
物語の最後の方は表舞台から引っ込みがちだった音さんでしたけどそこからの二階堂ふみさんのコメディエンヌぶりは群を抜いてましたね。てことで11月の放送は音さんの表情や声で終わる回、要するに声オチ、顔オチが沢山ありました(笑)。
 
最終回もとっても素敵でした。病床のベッドからとぼとぼ歩いていつの間にかあのオープニング曲の砂浜へ変わるところ、ロマンチックでしたね。ここでの二人の表情、本当に素敵でした。
 
タイトルバック同様、カラフルで楽しく爽やかな朝ドラでした。流石に戦争中はしんどい場面が続きましたけど、そこ以外は登場人物ひとりひとりがしっかり輝くエールというタイトルに相応しい、誰それが特別どうということではない皆が主役のドラマでした。裕一さん、音さん、皆さん、よい時間を本当にありがとう!!

Eテレ「日曜美術館 蔵出し西洋絵画傑作15選(3)」感想

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Eテレ「日曜美術館 蔵出し西洋絵画傑作15選(3)」2020年7月19日放送回 感想
 
 
Eテレ「日曜美術館」で放送中の西洋絵画15選、3回目も非常に濃い内容でした。有名絵画ばかりなので絵画という点では特に目新しさは無いのですが、このシリーズの目玉は何と言ってもこれまでの放送、あるいはNHKが所蔵するアーカイブの中から登場する作家、あるいは著名人たちの過去映像です。今回もすごい人たちが登場していました。
 
冒頭のマネ「草上の食卓」で登場したイッセー尾形さん。大好きな方なので、ここでテンションが軽く上がったのですが、そのあとはあの池波正太郎!すげぇ、さすがNHKや、と思って見ていたらなんとゴッホ「ひまわり」のところで忌野清志郎だぁ!かっこいい!めちゃくちゃ興奮してしまいました。キヨシロー、ゴッホ好きだったんですね。ゴッホは僕も大好きなのでなんか嬉しかったです。と興奮してしまいましたが、ここのくだりはやはり棟方志功でしょうか。強烈なインパクトでした。
 
この回で僕が一番心に残ったのはピカソ「ゲルニカ」で登場した岡本太郎です。実物大の「ゲルニカ」のレプリカの前で語ります、「きれい」と「美しい」は違うと。「きれい」というのは誰かが作った規範にのっとったもの、あるいは型、時代に合ったもの。一般的に勘違いされているけど「きれい」と「美しい」は全然違うんだと。
 
つまりこういうことじゃないでしょうか。規範から外れていようが何しようが関係ない。作家は真に感じたものを筆やペンを介して表現をする。自分の中に湧き上がる塊、過去にあったどれとも違う新鮮なものを既存の元ある言葉、表現、色使いとは異なる手法で表現をする。そりゃそうです、今までの誰とも同じでない塊なわけですから。で、そこに作家それぞれの固有のアプローチがあり、そこに「美しさ」はある。すなわち司会の小野正嗣さんが流暢なフランス語で仰ったように「醜悪なものにも美は存在する」のです。
 
それにしても、、、ピカソが富士なら岡本さんは何合目あたりですかと問われて、「僕はもう越えちゃてると思うけど」と答えた岡本太郎、かっこええ!

「スカーレット」感想追記、八郎のこと

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「スカーレット」感想追記、八郎のこと

 

「スカーレット」が終了しまして、僕は日中は仕事ですから、夜に録画していたものを観ていたんですけど、それが無くなるというのは一日のリズムでもあったのでちょっとロス感はありますね。

最近ハマったドラマは「スカーレット」と「いだてん」でして、もう「いだてん」は最近でもないのですが、「いだてん」の場合はやっぱりスペシャルな日常というところがあって、それはオリンピック開催というところで大団円を迎えるわけですよね。だから終わったことは寂しかったんですけど、これはもうどう見ても終わりですから、終わりだなと思えるわけです。

ところが「スカーレット」の場合はもちろん主人公に色々なドラマが降りかかるんですけど、ドラマチックなところは敢えてすっ飛ばして、むしろドラマチックな出来事の前後を丁寧に描くというところに注力されていましたから、僕自身の日常にも組み込まれやすいんですね。だから毎日あったものが無くなるというのはやっぱりロス感、ありますね。

で前の記事で長々と感想を書いたのですがちょっと書き足りないなと思う部分がありまして、このドラマは主人公が女性ですから、男性的な目線をちょっと加えようかと。ま、八郎のことですよね。もっと八郎の中はドロトロしてるはずやろ!ということです(笑)。

端的に言えば僕も父親ですから、子供と会えないというのは恐らく、ていうか間違いなく地獄なわけです。しかも八郎は武志がもっとも成長する時期に会えていないわけですから、それはもうのたうち回っていたはずなんですね。しかしそれが劇中にあんまり出てこない。久しぶりの登場した八郎にその影が見えなかった。実にあっさりと爽やかな八さんのままだった。これはそんなわけないやろと(笑)。

ただ八郎のダークサイドが全く描かれていなかったわけではないんですね。中盤ではむしろ描かれていた。それは天賦の才能が覚醒し始める喜美子と自分の才能に限界を感じ始める八郎という構図の中で八郎の複雑な心境というのは徐々に露になってきて、そのピークが喜美子と八郎の亀裂が決定的になる場面で爆発するという。

穴釜を続けるという喜美子に対して八郎は「僕にとって喜美子は女や。陶芸家やない。ずっと男と女やった。これまでも、これからも。危ないことせんといてほしい」と。これは強烈でしたね。

要するに陶芸家として喜美子には敵わないという事実に対してそこで議論するわけじゃなく、男と女という理屈を引っ張り出してきて、挙げ句の果てに「危ないことはせんといてほしい」という優しさにかまけたセリフを吐くわけですから。これはホントやな男ですよ。このセリフでそれまで八さんのファンだった人の多くがガッカリしたんじゃないでしょうか(笑)。

それに対して喜美子はきっぱりと「陶芸家になる」と宣言をする。この時期はモンスター化する喜美子も相まって観ててしんどかったですけど、でもそれはやっぱり八郎の言動も喜美子の言動もリアルだったからですよね。今モンスター化すると言いましたけど、芸術家になるというのはそんな甘いものではなくて、それ相当の覚悟が必要なんだと。今は猫も杓子もアーティストなんて言い方をしますが、そういうメッセージもここにはあったような気はします。

たださっきの八郎のセリフについてや再登場した八郎に影がないなんてのは僕のうがった見方に過ぎず、本当に八郎は圧倒的に優しい人だったということかもしれませんし、そこはこのドラマの説明をしない、言い過ぎないという視点においてそれだけの余白があったということかもしれません。

ということで八郎目線で考えてみても、彼自身も相当劇的な人生であるわけですから、喜美子とは違った生き方というのがあったわけで。久しぶりに登場した八郎が変わらず爽やかなままというのもね、そこのところの穴埋めを想像するのもそれへそれで面白いなぁと思った次第です。

今度また総集編が放送されるみたいですから、その時には今言ったようなところを留めながら観てみたいですね。