折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています

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折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています

 

折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています。年の終わりに音楽各紙やネットで発表される2018年のベスト・アルバム選に折坂悠太という名前が散見されて、国内の老舗音楽誌、ミュージック・マガジンでは日本のロック部門で彼のアルバム『平成』が1位となっていました。てことで、最近になってようやくYoutubeで観だしたのですが、そしたら驚いたのなんのって。いや、驚いたんじゃなく、冒頭で述べたとおりちょいと感動しています。

僕は洋楽をメインで聴いているけど、別に邦楽を避けている訳じゃない。むしろ普段からなんか日本のいい音楽ないかなぁなんて思っている方だ。やっぱり母国語でしか得られないカタルシスは格別だから。

でも面白い表現、カッコイイ表現に時折出くわすことはあっても、心を揺さぶられるような言葉にはなかなか出会えない。勿論、音楽としてカッコよくなきゃ話になんないし、母国語なるが故、ついハードルが高くなってしまう。洋楽だと歌詞が少々アレでも曲が良けりゃ聴けちゃうからね。

折坂悠太さんの歌唱は独特だ。こぶしの入った節回しで合間にスキャットだのヨーデルだのを放り込んでくる。『逢引』という曲ではポエトリーリーディングもあって、いやこれも独特の口調でリーディングというより講談の口上っぽい。こういう声にならない声を発声する人はなかなかいない。

歌詞の方も独特で、最初は聴きなれない言葉遣いなので分かりにくいかもしれないが、独特の歌唱と相まって言葉がスパークしている。ぶつかり合っている。芸術というものは市井の人々の暮らしの中から湧き上がってくるもので、それはどうしようもなく地面を突き破って表れてくる。その時の地響きがここには記録されているということだと思う。

けれど折坂さんはそれを情感たっぷりに歌い上げるのではない。力を込めて目一杯歌っているけど、突き放している。それこそ講談師や浪曲師のようだ。宇多田ヒカルさんみたいに自分のことをまるで他人事のように歌える人と見たがどうだろう。どっちにしても言葉とメロディが有機的に機能している音楽に出会うことは楽しいことだ。

 

下に貼り付けたのはYoutubeのスタジオライブです。3分57秒後に始まる『逢引』という曲。僕には宇多田さんが登場してきた時のようなインパクトがありました。

Baby Cry For Me/Date Of Birth 感想レビュー

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Baby Cry For Me(1991)Date Of Birth
(ベイビー・クライ・フォー・ミー/デイト・オブ・バース)

 

デイト・オブ・バースをご存じでしょうか?バブル全盛期の1992年、フジテレビのドラマ主題歌というこりゃヒットするに決まってるや~んていう絶好のポール・ポジションに抜擢されながらも、気持ちいいぐらい見事にヒットしなかった、まるでフォーメーション・ラップ中にリタイアしてしまったアラン・プロストのような伝説のバンド。当時、全編英語詞、しかもバブリーさの欠片もない地味な曲を聴いて、折角のチャンスやのになんでやね~んとツッコミを入れた方も大勢いらっしゃるかと思いますが、以前からこのバンドをイチオシしていた私も全くその通り。しかも曲名が「You Are My Secret」っていうホントに秘密にしたいぐらいのオチまで付いて、私も後にも先にもあれぐらいびっくりしたことは御座いません。

てことで実は私、ドラマ主題歌に抜擢される前からこのバンドを知っていまして、きっかけはこちらもかの伝説のテレビ番組「ミュージック・トマト・ジャパン」。関西地方ではサンテレビでやっていて、たまに私も観ていたのですが、そこに颯爽と登場したのがデイト・オブ・バースの「ベイビー・クライ・フォー・ミー」(1991年)という曲なのです。

まぁ騙されたと思って聴いてみてください。この一瞬でロッキン・ボーイズの心を鷲掴みするイントロ。タンッ!タンッ!タンッ!タンッ!っていうドラムがこれから楽しいポップ・チューンが始まるぞっていう予感に溢れて最高でしょ。続いていい具合にリバーブな(←憂いがかったという意味です)ギター・リフ。そして始まるボーカルがいきなり「ビジュアルよりマイ~ン♪」ですよあーた。これがまたノリコさんっていうボーカリストで綺麗なお姉さんで、こんな素敵なお姉さんに「ビジュアルよりマイ~ン♪」(←正確には「ビジュアルよりマインド」)なんて歌われた日にゃ、どこぞの田舎のロッキン・ボーイズはそりゃやられるやろっ!

この曲、前述のドラマ主題歌と同じバンドとは思えないぐらいのご機嫌なポップ・チューンで、とにかくドラムが終始跳ねてるんすよ。当時ポップ・ソングにはホーンが絡んでくるっていうの一つの定型だったんですけど、この曲も途中からラッパ隊が入ってきて、ウキウキ感に拍車をかけるんですね。そうそう、懐かしのスイング・アウト・シスターズの「ブレイク・アウト」なんかを思い出してもらうといいかもです。まさしくあんな感じですね。

今回私も何を思ったか急に思い出して、ネット検索して聴いたんですけど、久しぶりに聴くとやっぱ簡潔で歯切れよくってホントいいんですよね~。シンプルだけど、この人達は音楽的な素養がふんだんにあったんだろうなって。今になってギターがすんげー格好いいフレーズ弾いてるのに気付いたり、それとやっぱりドラムの乾いた感じ。こんな小気味いい音、なかなかお目にかかれませんぜ!

で繰り返すようですけど、非常にシンプル。それでいて伝わるものはいっぱいあって、これこそ正に優れたポップ・ソングの王道。なんてったってサビは「ベイビー・クライ・フォー・ミー♪」のひと言だけなんですから。そうやね、竹を割ったようなスパッとした歌詞も心地いいっス。思わず、あ~この曲がドラマ主題歌になってたらヒットしてたのにな~なんて野暮な事を思ったりもしますが、それはそれ。バブル全盛にあっても全く浮かれなかった大人なバンド、今思えば大したもんです。

ところでこの曲入ったアルバム、昔々どっかの中古店に売っちゃたんだよな~。なんてことしたんだ昔のオレ。皆さんも聴かなくなったからといって、すぐ売らないように(笑)。

※Youtubeにあったので貼り付けていましたが、削除されているようで。
 また見つけたら貼っておきます。

 

天声ジングル/相対性理論 感想レビュー

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『天声ジングル』(2016)相対性理論

 

1曲目、やくしまるのアカペラから入って一気にバンドがなだれ込む感じがいい。余計なギミックは必要ない。これはもうただのバンド。そこにやくしまるの声と絡みつく永井のギターがあれば僕なんかはそれだけでほころんでしまう。

新体制になって2作目。彼らの個性が明確になってきた。やっぱ前作はかつての残り香がそこかしこに漂ってたし、まだまだ手探り状態だったのかも。新しいリズム隊。ガンガン行ってる。これこれ、これくらい思い切りやってくれなきゃ。

ソングライティングはすべてやくしまる。今までは他のメンバーだって曲を書いてたはずなのに、これでいくということはもうそういうこと。明確に方向性がバッチリ出ててスゴクいいんじゃないか。ただまぁやくしまるのソングライティングの不安定なこと。素人みたいなライミングや安易な横文字になんじゃこりゃと思いつつも、時折ソロ・ワークで見せたようなキレキレのソングライティングを見せたりもするもんだから、ワザとなんだかもうなんのこっちゃよく分からないんだけど、ただ今回はこの隙だらけな感じに好感を持ってしまえる妙な説得力があって、なんでそう思えるかっていうとそこはやっぱりバンドとしての音像がくっきり形作られたからだろう。いわゆるロック・バンドにはせーのでドッと出てくる勢いというかゴチャゴチャした感じがあって、細かいことは横に置いとける潔さがある。いつも以上に矢面に立ったギターにドンドカ派手なドラムがあって踊りだすベース・ラインがあって裏方に徹するキーボードがあってっていうはっきりしたバンド・サウンドが未完成なソングライティングだってお構いなしに凌駕してゆける。いや隙だらけだからこそ力を持ちえるのだ。ということでやくしまるさん、やっぱりワザとなんだろか?

ただ新体制云々は別にして、5枚目というそこそこキャリアを積んだ中でこういうしっかりした力強いアルバムを出せたということはとても意味があったんではないかなと。バンドとしての体制がここでもう一回がっちり積み上がって、それはつまりこのバンドとは何かということなんだろうけど、ただ単純にバンドとしてステージに立った様がちゃんと目に浮かぶようになったというのは、やはりここでまた一つ階段を上がったという認識でいいのだと思う。実はもっと過大評価していいのかもしれない。

 

Track List:
1. 天地創造SOS
2. ケルベロス
3. ウルトラソーダ
4. わたしがわたし
5. 13番目の彼女
6. 弁天様はスピリチュア
7. 夏至
8. ベルリン天使
9. とあるAround
10. おやすみ地球
11. FLASHBACK

シンクロニシティーン/相対性理論 感想レビュー

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『シンクロニシティーン』(2010)相対性理論

 

ガチャガチャした初期衝動丸出しの1st、気だるい変化球の2ndを経て、バンド全体のクリエイティビティが一気にスパークした印象を受ける3枚目。オープニングのイントロからして明らかに違う。スタイル云々ではなくもう音からして全然。あ、相対性理論、来たな、って感じ。

特に目を引くのがやくしまるのボーカルで、かつてのぶっきらぼうなものから一転、曲調に合わせて表情を変えており、早速1曲目の『シンデレラ』では3パターンの声音を用いている。独特の声だけに結構なインパクト。この覚醒感はなんだろか。

どちらかと言うと故意的に感情を抑えた人工的なトーンだったのが、ここに来て急に魂が宿ったというか、あぁ、生身の女性なんだなと。要するに自覚的になったということか。前作までのボーカル・スタイルはともすればイロモノ的な危うさを孕んでいたので、このアルバムでのボーカリストとして目覚めは大歓迎。やっぱやくしまるさんは放たれるべし。

ソングライティングの冴えも素晴らしく、語呂合わせだとか押韻に重きを置いたリリックへの取り組み方自体はそんなに変わらないのかもしれないが、そこに意味性が加わってきているのは敢えてなのか偶然の産物なのか。どちらにしても曲を書き続けていればこういう時も訪れる、という時が訪れたかのような神がかったソングライティング。この切れ味はもうこの時だけのものだろう。

バンドの演奏も素晴らしく、前作までは猫を被ってたのかどうかは知らないが、このバンドの売りであるギター・リフも力強く、遠慮がちだったドラムも今回は随分と畳み掛けている。『チャイナアドバイス』や『マイハートハードピンチ』のグルーブ感は白眉。こりゃやっぱバンド全体が覚醒したのか。

独特の世界にとどまりたい意志と外の世界に飛び出したい意志とのせめぎ合いが、ギリギリのバランスで平衡を保ちえた故に生まれたアルバム。この緊張感は意図的に出せるものではない。てことでこの後、やくしまるとギタリスト以外のメンバーがごっそり入れ替わってしまうのだが、それも頷ける完成度。第一期相対性理論の集大成と言える作品だ。

 

1. シンデレラ
2. ミス・パラレルワールド
3. 人工衛星
4. チャイナアドバイス
5. (恋は)百年戦争
6. ペペロンチーノ・キャンディ
7. マイハートハードピンチ
8. 三千万年
9. 気になるあの娘
10.小学館
11.ムーンライト銀河

何度でも/ドリームズ・カム・トゥルー について

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『何度でも』 Dreams Come True について

 

このあいだテレビでドリカムの特番をしていた。家人がファンなので一緒になって観ていた。番組の中で、2011年に福島から生中継された紅白での一コマが流れた。そして生中継終了後の未公開映像が披露された。それが『何度でも』だった。

この歌はリリースされたころから好きだった。主人公は1万回挑戦して、1万回失敗する。諦めない主人公はそれでもなお1万1回目に挑戦する。だが、頑張ったからといって1万1回目はうまくいくとは限らない。確かなことはただ一つ、うまくいくかもしれないということだけだ。これほど絶望的な言葉はあるだろうか。しかしそこに言葉に丁寧に寄り添ったメロディと吉田美和の強い意志を持った声が加わるとどうだろう。希望と絶望がないまぜになって言葉に光が差し込み、希望が幾分か強く光り始める。音楽に限らず、優れたアート表現とはきちんと光と影を描いている。光を当てれば影が出来るのだから当然だ。安易に希望を歌わず、絶望を見据えたこの歌が僕は好きだった。僕はこの曲をそういうふうに捉えていた。

未公開映像の『何度でも』のラストでは、バンドの演奏が一旦静まり、吉田美和の声だけが聴衆に投げつけられる。彼女は会場にいるひとりひとりに向かって叫びだす。「あなたに!」「あなたに!」「あなたに!」と。まるで自分の命をちぎって投げつけるように。鬼のような形相でひとりひとりを確実に指さしてゆく彼女は本気だ。あなたにも、あなたにも、あなたにも、チャレンジする限り1万1回目は訪れるのだと。

この歌は間違いなく希望の歌だ。僕の見方は間違っていたかもしれない。確かにそこには絶望が横たわっている。しかし彼女の圧倒的な意志の力がそれを凌駕する。これほど圧倒的な希望の歌があるだろうか。

ウルフルズの凄いテクニック

その他雑感:

『ウルフルズの凄いテクニック』

 

カーラジオからウルフルズの歌が流れてきた。普通にいい歌だなあなんてと聴いてると、いつものようにサビで大阪弁になった。ちょっと具体的な歌詞は忘れたけど、語尾が「~へん」とか「やねん」みたいな単純なものだったような気がする。大阪弁なんて言っても今や日本中に溶け込んでいるので別にどうってことないんだけど、これが曲に紛れ込むとなると話は別。いつもウルフルズの曲をスーッと流してしまっているけど、ちょっと待って。実はこれって大したことなんじゃないか。

僕が子供の頃の関西弁の歌といえば、やしきたかじんとかボロとか上田正樹とか。もうローカル色まる出し(笑)。しかも大阪の夜の町というか場末の酒場しか思い浮かばねえみたいな。歌ってる方もハナからそっちしか向いてねえみたいな。いい悪いは別にして、聴く方も歌う方も、開かれた歌というよりは閉じた世界、聴き手を選ぶ限定された歌だったように思う。

ところがウルフルズ。彼らの歌は非常にオープンで聴き手を選ばない。僕も詩を書いたりするので時折喋り口調が欲しい時は地言葉を用いる場合があるが、それ以外は何故かいつも標準語で書いている。創作の過程で口に出すときがあっても何故かいつも標準語(←なんか変な人みたいやな(笑))で、イントネーションすら大阪弁にはならないというかなれないというか。そうしちゃうとなんか意図したものと違ってしまって、詩を書く時には感じたこととか浮かんだことをなるべく原形を損なわずに言葉に変換したいのだけど、心に浮かんだこと自体が方言を纏う以前の状態だからなのか、それが表に出てくるときには何故か自分が普段用いている大阪弁として言葉は現れてこない。不思議だけどそれはそういうものなのだ。

要するにぼんやりとした心に浮かんだものを言葉に変換する行為は、普通に喋ることとは全く別物だということなのかもしれないけど、それをするりとやってのけるウルフルズは、というかトータス松本はちょっと他に見当たらない稀有な存在なんじゃないかと。これだけ方言丸出しのウルフルズがMステで普通に座っている事の違和感の無さ。北海道から沖縄まで何の制約も無し普通に親しまれている事実は特筆すべきことではないかと。

詩人が書きたいと思うことを仮にポエジーと呼ぶなら、詩人はそのポエジーを出来るだけそっくりそのまま言葉に変換したいはず。ならば当然普段自分が使っている言葉で表現する方が近いに決まっている。なのにそうとはならない。ならないということは遠いことを意味するのではないのか。いやそれとこれとは全くの別物なのか。

トータスのやってることってあまり語られたことがないようだけど、実は凄いことだと思う。僕はトータスにあって直にこの事を聞いてみたい。彼は恐らく、このことに自覚的だ。

Wonder Future/アジアン・カンフー・ジェネレーション 感想レビュー

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『Wonder Future』 (2015)  Asian Kung-Fu Generation
(ワンダー・フューチャー/アジアン・カンフー・ジェネレーション)

 

元々買う気は無かったんだけど、『復活祭』と『スタンダード』がやたらカッコよかったもんで、久しぶりにアジカンのアルバムを購入した。やっぱデビューして10年以上もたつと手癖というか、その人独特の言い回しが身に付いてしまう。アジカンもどうしても後藤正文節というのがあって、ありがちなメロディ、ありがちな言葉についつい目が行ってしまう。カッコいいなと思いつつ、結局買わずにいたのはそんなところに理由があったりするのだけど、この2曲はそういう部分を越えた先の表現が存在している気がした。

本作は米国、デイブ・クロールのスタジオで録音されている。今の子供たちに8ビートのロックンロールを届けたい。そんな気分になったということで全編に渡って勢いあるサウンド。アジカン史上、最も洋楽に接近したアルバムと言えよう。これまでのアルバム全部聴いたわけじゃないけどね。

で、この意気込みは大成功。取って付けた感は全くない、芯からぶっ放すロックンロールだ。その中でも冒頭に述べた2曲が突出しているのだけど、じゃあ他のはどうかってなるとちょっと物足りない感じがしないでもない。折角だし、もっと無茶苦茶になっててもよかったんじゃないかなと。そこがちょっと残念かな。でもまあこんなのやろうと思ってもなかなか出来るもんじゃないし、これが彼らの底力。キャリアから見てもこれまでの経路からは少し外れた異質なアルバムになっているんじゃないだろうか。

それとやっぱり嬉しいのは、彼らの目線が常に外を向いているということ。単純にサウンドという意味だけじゃなく、ドメスティックな域にとどまらない意識の開かれ方は流石である。

ジャパニーズ・ギターロックは掃いて捨てる程あるけど、言葉への向かい方とか、サウンドの鳴りとか、なんだかんだ言ってもやはりアジカン。こうやって改めて聴くとつくづく思いました。今もすべてにおいてトップランナーであるのは間違いない。これが若い子に届くといいけどなぁ。

 

1. Easter/復活祭
2. Little Lennon/小さなレノン
3. Winner and Loser/勝者と敗者
4. Caterpillar/芋虫
5. Eternal Sunshine/永遠の陽光
6. Planet of the Apes/猿の惑星
7. Standard/スタンダード
8. Wonder Future/ワンダーフューチャー
9. Prisoner in a Frame/額の中の囚人
10. Signal on the Street/街頭のシグナル
11. Opera Glasses/オペラグラス

フェイクワールドワンダーランド/きのこ帝国 感想レビュー

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『フェイクワールドワンダーランド』(2014) きのこ帝国

 

僕が邦楽を聴くときの一番のキーになるのはやはり言葉だ。歌われる内容もそうだけど、それよりなにより言葉とメロディの関係についつい目が行ってしまう。この言葉とメロディの関係というのは、時代を経てどんどん研ぎ澄まされていて、10年前、20年前、もっと前からと比べると、格段によくなっているのはほぼ間違いない。逆に言えば、言葉がオリジナリティを生み出すと言っていいんじゃないだろうか。

このきのこ帝国の2枚目のアルバムも言葉のアルバムだ。確かにキャッチーなメロディではあるんだけど、言葉がメロディを紡いでいるような感覚がある。しかしそこに言葉の音楽化、あるいは日本語とロックの永遠の課題、といったような堅苦しさはない。日本語とメロディが仲良しの状態で出てくるような違和感のなさ。新しい世代にとって、日本語でロックをやるということは、もうそういうことなのかもしれない。勿論、東京を「とーきょー」と言わずに「とうきょー」と唄うソングライターの佐藤はそこのところに自覚的だ。加えて彼女は言葉を的確にフックさせる体内時計を持っている。これはもう天性のもの。

詩の内容の方は割と深刻。そりゃそうだ。10代、20代というのは深刻なものだ。時々若い頃を振り返って、あの頃はよかったなどど言う人がいるが、多分その人はあの頃の事を忘れてしまったのだろう。

アルバム全体で見ると、一番最後に一番ポップなナンバーを持ってくるところが〇。結局、詩が暗いと言われようが根はポジティブ。ロックだもの。そうこなくっちゃ。サウンドもアイデアに満ち溢れているし、日本のロックだって凄い。

#2で350mlの缶ビールを「スリー・ファイブ・オー・エム・エルの缶ビール」と歌ったり、#4の「夜 未来 永い 怖い 夢見る 終わり」で始まるバースの締めが「阿呆くせぇ」だったり、#11の「多分ゲームオーバー」と「捨ててしまおうか」の後韻や、「テレパシー」と「オーバードライブ」を引っ付ける、分かるんだか分からないんだかよく分からないけど、何かすごく分かる言語感覚が抜群だ。一方で#9の「みかんを剥く君の手が黄色い~」というくだりの情景描写も素晴らしい。ついでに#4のギター・フレーズがいちいちシビレル!きのこ帝国、かっこいいぞ!

 

1. 東京
2. クロノスタシス
3. ヴァージン・スーサイド
4. You outside my window
5. Unknown Planet
6. あるゆえ
7. 24
8. フェイクワールドワンダーランド
9. ラストデイ
10. 疾走
11. Telepathy/Overdrive

Night Buzz/高田みち子 感想レビュー

邦楽レビュー:

『Night buzz』(2004) 高田みち子

今ちょうど季節は雨。梅雨の季節である。僕が高田みち子さんを知ったのはかれこれ5年以上も前のこと。ちょうどラジオで梅雨の日特集をやっていたのがきっかけだった。僕は一瞬で虜になった。アルバムを探したけど、あったのは4,000円も5,000円もする中古品。もう新品は何処にも無かったんだな。高いのを買うのは癪だから、時々ネットをチェックをしてたんだけど、ようやくお手軽価格を発見。といっても定価よりは若干高めだった。でも新品がもう無い以上ここを逃す手はないと迷わず購入。その時はもう次の年の梅雨の季節になっていた。

僕がこの時ラジオで聴いたのは『雨は優しく』という曲。静かなバラードだ。サビで「雨、雨、雨、、、」とただ繰り返すだけのこの曲がとにかく素晴らしくて胸にじーんと来た。それこそ雨の情景が浮かんで、僕が浮かんだのは部屋の中から見える雨の景色で、外は暗くて粒が見えるくらいに降っている。こういうのを叙情詩というのかな。恋の終わりの歌だからエモーショナルな歌詞なのに、湿っぽくなくてただ淡々と「雨、雨、雨、、、」。雨のクセに湿っぽくならない、というかなれないという感じがまた切なくて。僕はこの時以来、6月になると毎年聴いている。

情景が浮かぶもう一つの要因はサウンドだ。演奏がホントに素晴らしい。バンドのメンバーはかつて山下達郎や坂本龍一らを輩出したという「What is Hip」なるユニットだそうで、折角だからここで名前を挙げておくと、松木恒秀(guitar)、岡沢章(bass)、野力奏一(piano, organ, keyboards)、渡嘉敷祐一(drums, perc)という面々。高田みち子とは何度か一緒に組んでアルバムを作っているようだ。

とにかくいいバンドで、『雨は優しく』では雨の音など一つも入ってないのにホントに雨が降っているような気がしてくるし、『カナリヤ』ではカナリヤが飛び去っていくのが見える。『僕らの樹』ではちゃんと目の前に大きな樹がそびえ立つんだな。歌に静かに寄り添っていて、ホントに素晴らしい演奏だ。

あとこれは僕の好みだけど声がいい。こういうちょっと低くて鼻にかかった声、ほんと大好きだ。『僕らの樹』で聴こえる伸び上がるパートは至福の瞬間です。あ、僕の好みなどどーでもいいか(笑)。とにかく、明瞭で知的、表現豊かで素晴らしいボーカリストだと思います。

新品は無いけど、ダウンロード版はあるみたいで、しかもハイレゾ版もあるそう。ホントいい時代になったもんだ。

 

1. 51st Street, Lexington Avenue
2. chocolate
3. 雨は優しく
4. カナリア
5. Night buzz
6 Don’t Say A Word
7. 春を待ってる
8. Your God
9. 夕暮れと嘘
10. The Tracks Of My Tears
11. 僕らの樹

Fantôme/宇多田ヒカル 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『Fantôme』 (2016) 宇多田ヒカル
(ファントーム/宇多田ヒカル)
 
 
随分久しぶりのアルバム・リリースだそうだ。ラジオで「道」を聴いていいなって思った。でも宇多田ヒカルとは思わなかった。声とか言葉が僕が知っているそれとはちょっと違ってたから。後日タワレコで聴いてやっぱ思った。こりゃ言葉だなと。なんか惹きつけられるものがあった。
 
この数年、プライベートで非常に大きな出来事があったとのこと。一度目に聴いた時、そのことを色濃く感じた。彼女にとってこのアルバムは避けては通れないもの。セラピーの意味もあったのではないか。そんな風に感じたので、僕の試みとしては、ここ数年彼女に降り注いだ出来事は頭から切り離して聴きたい。そんなところにあった。
 
僕は宇多田ヒカルのアルバムを買ったのは今回が初めてだ。聴いてると「あぁ、やっぱお母さんに声が似ているな」とか、意外と回るコブシにも「こりゃ母譲りの情念だな」とかつい思っちゃう。昔テレビで宇多田さんの声は美空ひばりさんの声とおんなじで人が聴いて心地よい周波数が流れてるってのを観たことがある。テレビのことだからホントかどうかは怪しいもんだけど、僕としてもこの人の声をどう捉えたらいいのか今もって分からない。上手いのか、声がいいのか、味があるのか。一体この人の歌声の一番のチャームポイントは何処にあるんだ?僕にとって宇多田ヒカルは好きとも嫌いとも言えないじれったさと言えるかもしれない。
 
今回聴いて発見したことがある。言葉のフックのさせ方が絶妙だなと。これは間違いなくそう言える。多分、カラオケで宇多田さんと同じように歌える人はいないだろう。歌っても気持ちよくなれないだろう。だってそれってカンでしかないから。宇多田さんにはそういう体内時計が仕込まれてるんだな。彼女の壮大な才能の一つかもしれない。そういう意味じゃミラクルひかるはホントにミラクルだ
 
ところでサウンドについてはどうなんだろう。自身によるプロデュースはいつものことなのかどうかは知らないが、彼女は曲を作ってる段階で既に最終的なサウンドが頭の中で鳴っているのだろうか。これが明確な意図を持って作られたサウンドなのか、探りながら行き着いたサウンドなのか僕にはわからない。いつもの宇多田っぽい音なのか、今回がちょっと違っているのか、それも僕には判断がつかない。つかないけれど、サウンドについては、僕にはまだこれが宇多田ヒカルの決定版というところにまでは至っていないような気がする。声や言葉の圧倒的な質量に対して、何か煮え切らない感じがするのは僕だけだろうか。
 
宇多田ヒカルには素人の僕から見ても、彼女自身が扱えないほどの巨大な才能が埋まっている。昔テレビによく出ていた時の早口で変に明るいキャラも、彼女自身が自分自身を持て余していたからなのかもしれない。ただ彼女が今回ここで選択した言葉の落ち着きを見ていると、どうやらその有り余る才能を時の気分に応じてアウトプットする術を少しずつ獲得しつつあるのではないかというような気もする。しかしそのきっかけとなったのが近しい人との別れだったとすれば、これも過剰に詰め込まれたギフト故の業と言え、しかしそうすると私たちはこの素晴らしい作品を手放しで喜ぶべきかどうか。とはいえ、いくらその業が深いからといっても我々はただのリスナーであるべきだし、商業的であるべき。そんなことはお構いなしに音楽として消費すべきだ。
 
その点、このアルバムの立ち位置は面白い。通常、この手の個人的側面の強い作品は聴いていられない。でもどうだろう。このアルバムはひとつもやな感じがしないのだ。僕はこのアルバムを聴くにあたって、ここ数年彼女に起きた事柄とは切り離して聴こうと心がけていた。ところが何度か聴いていると、その必要が全く無いことに気付いた。だって彼女自身がもう他人事なのだから。そりゃ曲を書いてりゃ意図しようがしまいが個人的な断片はどうしても出てくる。しかし、書いてしまえば、録ってしまえば、手元から離れてしまえば、それはもう済んだこと。当然のことながら彼女は音楽を作っているのだ。個人的な体験でさえ一個の作品として昇華してしまえる。彼女はやはりアーティストなのだ。
 
このアルバムのポイントはここではないか。宇多田ヒカルは個人的な出来事でさえ距離を持って眺められるから、このような作品を世に出すことが出来るのだ。加えて言えば、それは作品そのものに対する作家の自負とも言える。逆にこれまではその距離が遠過ぎたのかもしれない。彼女自身、思うように間合いが測れなかったのだ。遠過ぎたからこそ、僕はじれったさを感じていたのかもしれない。しかし明らかに今回は曲と本人が近い。言葉が近くなった。そこに彼女の必然があったから。しかしそれは曲との馴れ合いの関係を示すものではない。あくまでもこれまでと比べて近くなったというに過ぎず、今も多くのミュージシャンとは比較にならないくらい遠い。テレビで歌う彼女を観た時、僕には彼女が自分ではない誰かの物語として歌っているように見えた。彼女はつまらない大人が期待するように涙を流して歌うことはないだろう。

僕たちも馴れ合っちゃいけない。彼女が本心を晒したなんて露にも思っちゃならない。僕らには到底理解できない回路を経由してこのアルバムは生まれたのだ。それがアーティストというもの。そしてそのアーティストとしての矜持がこの作品だ。僕らの時代には宇多田ヒカルがいる。僕らはもう少し自慢していいのではないか。
 
★1. 道
  2. 俺の彼女
  3. 花束を君に
  4. 二時間だけのバカンス
  5. 人魚
☆6. ともだち
  7. 真夏の通り雨
  8. 荒野の狼
☆9. 忘却
 10. 人生最高の日
 11. 桜流し