映画『ヴィンセントが教えてくれたこと』 感想レビュー

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『ヴィンセントが教えてくれたこと』(2014年 監督:セオドア・メルフィ)感想

 

冒頭にジェフ・トゥイーディーの曲が流れてきたのを聴いて、僕はこの映画とは馬が合うと思った。この映画は他にもいい曲が沢山流れていて、エンドロールでかかるディランの曲なんかは主役のビル・マーレイがアドリブで演じていて、滑稽な佇まいはそれだけで一つの作品になる程の出来栄えだ。

監督のセオドア・メルフィはこれがデビュー作ということなので、きっと映画を作るにあたっては使いたい曲が山ほどあったのだろう。どっちにしてもジェフの曲が2曲も採用されていたので、僕としてはそれだけで何ポイントかは上がる。

先に述べた主役のビル・マーレイは飲んだくれで嫌われもののロクでもない爺さん。家には時折妊婦ながらも商売に懸命な馴染みの‘夜の女’が真昼間からやって来る。そんなある日、隣に親子二人が引っ越してくる。小学生にしては小柄な少年とその母親のシングルマザーだ。メインの登場人物はこの4名で、言ってみれば皆、人生につまずきまくっている連中だ。

話は変わるけど、Eテレでやってた大阪釜ヶ崎の特集「ドヤ街と詩人とおっちゃんたち~釜ヶ崎芸術大学の日々~」の録画をようやく観た。釜ヶ崎大学なる地域に根差した芸術学校を立ち上げた詩人の上田 假奈代(かなよ)とドヤ街のおっちゃんたちのドキュメンタリーだ。

そこでは芸術に関するワークショップが連日行われる。最初は怪訝な顔をしていたおっちゃんたちも自身の作品を持ち寄るようになる。次第に芸術やそこでの文化的交流ががおっちゃんたちの人生に違った側面から光を照らすようになる。勿論いい事ばかりではない。暴力沙汰やややこしい問題は起きる。それでも上田假奈代始め、そこに関わる人たちは釜ヶ崎という場所に根を下ろし続ける。

映画のビル・マーレイ演じるヴィンセントは確かにろくでもない奴だ。けれど、隣に越してきた親子を捨て置かない(最初は金目当てであるけれど)。少年もヴィンセントを捨て置かないし、身重の娼婦も何かとヴィンセントの世話を焼く。一方のヴィンセントだって、少年のことを考えているし、母親のことを考えてるし、娼婦のことも気に掛けている。人生につまずきまくっている4人は誰かを頼らざるを得ない一方で、誰かを捨て置いたりは出来ないのだ。

僕は果たしてどうだろう。この映画は基本コメディだし、最後もいい感じで終わるし、観ている方は、あぁいい話だなぁで終わるかもしれない。けど実際、そんな人たちが目の前に現れたとしたら。僕たちは映画の登場人物のように振る舞えるだろうか。

簡単な事ではないけれど、人生がこの映画のように基本コメディであるならば、手の届く範囲でもう少しやっかいなことになってもいいのかもしれない。それが僕たちの人生にも違った側面から光を照らしてくれるのかもしれないのだから。

「ヴィンセントが教えてくれたこと」とは。いや、ヴィンセントだけじゃなく、彼らが教えてくれたことは、もしかしたら人生を少しだけ楽しく生きる工夫なのかもしれない。

映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その③

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映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その③

 

しつこいようですが『金子文子と朴烈』の話、その③です(笑)。
金子文子については先にも述べたように自伝が出版されていたり(絶版のようなので、図書館で探すつもり。高い中古品はあるようですが)、ネットで検索しても多くの情報を得られるのだが、朴烈についてはあまり検索に引っ掛かってこない。この辺りは朝鮮人と日本人の違いなのだろうか。

映画の中の金子文子もカッコいいんですが、朴烈もめちゃくちゃカッコよくて、じゃあ実際の朴さんはどうだったか。映画は供述記録などを基にほぼそのままのセリフだそうですから実際もあんなふてぶてしい野郎だったんです、やっぱり(笑)。金子文子も朴を「宿無し犬のような暮らしをしているのに、あの人は王者のようにどっしりしている」と称していて、戦後も周りに担がれたみたいですから、やはり泰然としたところがあったのでしょう。結局文子と二人で権力と戦うことになるのですが、当初朴烈は一人で皆の盾になろうとした訳ですからやっぱり英雄的気質があったということでしょうか。

二人は大逆罪ということで一旦は死刑判決を受けるのですが、この大逆罪というのはほぼ政府のでっち上げです。確かに朴烈は爆弾を入手しようとしますが、粗漏な計画の為失敗しますし、皇太子暗殺計画も書生の口角泡を飛ばす程度のもので具体的な計画は無し。それをこれ得たりと政府に利用されるわけです。

しかし朴烈の快進撃はここから始まるわけで、当初は煙に巻いていたものの文子が堂々と話始めたと知るや「あぁそうだ、皇太子暗殺を計画した」とあっさり自供し(というか敢えてその尻馬に乗り)、その激烈な思想や行動計画を頼まれもしないのに滔々と述べるわけです(ちなみに天皇は寄生虫だと述べるくだりは、日本人としても知っておいてよいものの見方だと思います)。そうなりゃ取り調べる側もこりゃ大変だとなって世を揺るがす大事件になるわけですが、これこそ朴のしてやったりで、要するに朴烈は自分で騒ぎをどんどん大きくして、同胞の決起をうながそうとするわけです。

でこれ、似たような話をどっかで聞いたことあるなと思ったら、吉田松陰です。松陰の場合、最初はついでに捕縛されたような感じだったんですけど、お白州の場で自分から時の老中暗殺計画を述べ立てます。松陰は‘狂’という言葉をよく使いますが、要は自分は革命の為の捨て石になろうという訳です。皆、立ち上がれ!と。松陰には帝国主義的な思想がありましたから(当然、あの幕末においてです。後の大正昭和期に松陰がもし生きていたとしたら、同じ思想を持ち続けていたかどうか。)、同じ土俵に上げることに抵抗を覚える方も多いかとは思いますが、姿勢というか心意気は相通ずるものがあるのではないかなと。僕はそんな風に思いました。

戦後、朴烈は釈放され、朝連(在日朝鮮人連盟)に英雄として招かれるが、反共であった朴はそこに参加することを拒否します。その後、仲間と共に今に続く在日本大韓民国民団を立ち上げ、初代団長に指名されますが、程なくその座も追われます。恐らく、生来協調することが出来ないたちだったのか。やはり権力に対する嫌悪感というか、映画で描かれているような孤高の人だったのかもしれません。吉田松陰は‘草莽崛起’という言葉を用いました。在野の民衆の力で事を成し遂げようというものです。松陰風に言えば、朴烈も金子文子も‘草莽崛起の人’だったということでしょうか。

ところでその民団代表当時の1948年に神戸事件が起きます。神戸事件とは、GHQの指令を受けた日本政府が「朝鮮人学校閉鎖令」を発令し、日本全国の朝鮮人学校を閉鎖しようとした事に対して、大阪府と兵庫県で発生した在日韓国・朝鮮人と日本共産党による暴動事件です。

この事件後、朴烈は「神戸事件の教訓(一九四八年六月)― 我等は子弟を如何に教育すべきか ―」と題するレポートを書いています。内容は、暴力によって訴えてはいけないとか、そのことはかえって朝鮮人の印象を悪くするとか、何より朝鮮人の子どもたちにも悪影響だとか、とりわけ教育の問題に政治を絡ませてはいけないと強く述べています。僕も読みましたが、非常にリベラルなんですね。かつて皇太子暗殺を企てた人物と同じ人物とは思えない程、一人落ち着いてリベラルなことを言っている。要するに大局に立って、人がまだ見えていない部分に先んじて気付き得た。そのような人物だったのかもしれません。

話が随分と逸れましたが、映画『金子文子と朴烈』は本当に素晴らしいです。牢屋に入れられ、自由に会えなくなった二人のそれでも私は貴方の全てを理解しているといった表情が何とも言えません。僕は日本人ですから、つい金子文子に目が行ってしまいますが、あの激烈な文子を受け止め得たのは朴であり、文子の導火線に火をつけたのは朴であると。ソウルメイトとという言葉がありますが、二人は確かにそうであったかもしれない。そんな風に思いました。

映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その②

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映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その②

 

この映画、韓国では200万人を超えるヒット作となったそうだけど、韓国でもこの二人については映画が公開されるまで、余り知られていなかったようだ。ちなみに原題は『朴烈』。で日本公開時のタイトルは『金子文子と朴烈』。なんか面白い。

でもインパクトとしては断然、金子文子でしょう。チェ・ヒソ演じる金子文子が強烈です。映画を観た後に知りたいことだらけだったので色々調べてたら、実際の金子文子という人は映画が誇張でも何でもなく本当にドエライ人だということが分かってきました。

映画でも獄中で自伝を書く場面があるのですが、それが実際に出版されて今も残っています。その内容を一部読んでいると凄いのなんのって。強烈に天皇を批判してはいますが、今現在の世で考えれば本当に真っ当な至極当然のことを述べていて、しかもそれが非常に分かりやすく理路整然と述べられている。そして私はこの考えをあなたに押し付けたりはしない。私は私の仕事をするだけだ、みたいなことを言うわけです。こんな自立した女性が大正期の日本にいたとは。しかも義務教育すらまともに受けさせてもらえなかった20才そこそこの女性が書いたっていうんですから驚きです。

映画の中の彼女はキレキレです。尋問で「朴烈に天皇制の矛盾を教えたのは私だ」と啖呵を切るとことか、同居するにあたって文子が朴に提案した誓いがまた、「二人は同志である」とか、「活動の場では金子文子が女性であることを考慮しない」とかもう痛快過ぎます。

日本はとかく男性社会で昨年の#metooだって日本は一人蚊帳の外みたいな感じで、ところが今から100年近くも前の日本にこんな自立した女性がいたってことは本当に驚きで、韓国で200万人以上が観たっていうのもそういう金子文子自身の国籍を越えた魅力があったればこそなのではないでしょうか。

勿論、朴烈も強烈なんですが、その彼を導いているのは金子文子なんじゃないかって思うぐらい、怒られるかもしれないけど、なんかオノ・ヨーコとジョン・レノンみたいな関係に見えてきました。そして金子文子を支持する韓国人がこんなにも多くいることに嬉しい気持ちを持つと共に、これが逆だったら。今、日本は自国を褒めそやすことに熱心だから難しいかもしれない、そんな風にも思ってしまいました。

ちなみにこの映画は冒頭に「実在の人物による実際の話です」みたいな字幕が出てくるけど、本当に本当のことのようです。彼らは尋問を受けていますから、実際の調書も残っているし、裁判の記録もちゃんと残っている。最初の裁判で朴烈が朝鮮の官服を着て登場するのも、金子文子がそれに合わせチマ・チョゴリ姿で入場したことも事実で、彼らの尋問でのやりとりやセリフもほぼそのままだそうです。

ところで。僕たち日本人は韓国を含めアジアの他の国を下に見ている節がある。それは言い過ぎにしても弟ぐらいには思っているんじゃないだろうか。文化にしても科学技術にしても政治にしても日本の方がイケてるんだと。でもそれは間違いなく妄想です。少なくともこの映画は難しい題材をどちらかの国に肩入れすることなく丁寧な取材をして見事に俯瞰で描いている。情緒的ではなく、落ち着いたトーンで作り上げている。それはほぼ全編に渡って韓国人俳優が話す見事な日本語からもよく分かることだ。

日本の報道の自由度は180か国中67位だそうだ。韓国も43位とそれほど高くないが、果たして日本にこれだけの映画が作れるだろうか。少し心配になってきた。

最後に少し説教臭いことを言うと、この映画は100年前の不幸な時代を描いた映画ではなく、今に繋がる話だと思います。現代も富めるものが益々富み、貧しいものが益々貧しくなる。表立って現れてこないがそんな時代でもあると言えるのではないでしょうか。僕の友人に小学校の教師をしている人物がいますが、彼からも非常に厳しい家庭環境にいる子供たちの話を聞く機会があります。そういう普段生活している中では見えない部分に思いを巡らせる、そういう機会を与えてくれる映画でもあるような気がします。

ちなみに僕はシネマート心斎橋で観ました。観に行った回はほぼ満員だったけど年配の方が多くを占めていました。けど若い人にぜひ観てもらいたい映画です。少なくともこの映画は、かつての僕には無かった新しいものの見方をもたらしました。

映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その①

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映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その①

 

僕は下手な詩を書いているが、そのひとつに「アメリカ人のことを知りたければアメリカ人の詩を読めばいい/中国人のことを知りたければ中国人の詩を読めばいい/韓国人のことを知りたければ韓国人の詩を読めばいい」というのがある。幼稚な詩だけど、発想としてはまぁそんな悪くないんじゃないだろうか。そこで。僕はこの映画を知った。だったらば観に行かなければ。そんな風に思った。

あらすじはざっとこんな感じ。舞台は大正期の東京。親に捨てられ悲惨な環境で育った日本人、金子文子はある日、朝鮮人アナキスト朴烈(パクヨル)の書いた詩「犬コロ」に衝撃を受け、彼に会いに行く。文子は朴烈と会ったその日に一方的に同居すると宣言。二人は仲間と共に「不逞社」を結成し、アナキストとしての活動を始める。しかし程なく関東大震災が発生。混乱に乗じて朝鮮人や社会主義者への虐殺が始まる中、二人も検挙され、言われの無い大逆罪の罪に問われていく。

映画の感想は、、、正直言って疲れた。先ず長い。それからオーバーアクション。ちょっと作り過ぎ(笑)。こういうのもアリなのかもしれないけど、慣れてないもので…。でも映画を観て疲れた本当の理由は他にちゃんとある。脳みそが整理が出来ずに混乱していたからだ。

先ず、朴烈は何をしたかったのか。金子文子は何をしたかったのか。当然映画を観ただけでは明確に分からない。関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは知っていたけど、日本政府が加担していたっていうのも本当なのか?そんなこと初めて聞いた。映画はある意味青春映画であり、強烈な愛の物語であり、当然社会的なメッセージもふんだんに盛り込まれている。だがクドクドと説明しない。特急列車のように物語は過ぎていく。物凄いスピードでエネルギーを放射していく。僕はこの映画に圧倒されていたんだと思う。ちょっと体力不足でした。

そこで映画を観た後の数日間、僕は暇を見て色々と調べ始める。3.1運動とは何か?アナキストとは?関東大震災時の朝鮮人虐殺について。朴烈とは?金子文子とは?そうすると彼らの思想が少しづつ見えてくる。彼らは天皇制を批判する。天皇といえば僕の頭の中は今の天皇だから、彼らの主張は???だらけ。でも落ち着いて考えれば違う。戦前の天皇のことだ。天皇は万世一系の現人神であり、国民はその保護下にいるのだというやつ。今の北朝鮮みたいなもんか。だから当時はそんな天皇思想に対しそんなのおかしいんじゃねぇかっていう日本人は沢山いたし、当然支配されている朝鮮人の朴烈はもっと思ったろうし、最下層で差別を受けて虐げられてきた金子文子はこの不平等な日本の諸悪の根源は天皇だって強く思う。つまり彼らは絶対的な権力に抗うレジスタンスなのだ。

とまぁ僕の方がクドクドと書いてしまったけど、実際「犬コロ」という詩がどんなものか、それを読んでもらうのが一番分かり易いと思うので、下に転載します。

 

 「犬コロ」 朴烈

 私は犬コロでございます
 空を見てほえる
 月を見てほえる
 しがない私は犬コロでございます
 位の高い両班の股から
 熱いものがこぼれ落ちて私の体を濡らせば
 私は彼の足に 勢いよく熱い小便を垂れる
 私は犬コロでございます

 (解説)
 空は当時の日本帝国最高権力の象徴である天皇だ。
 その空を見て吠えることができる犬畜生の勇気に感嘆する。
 位の高い両班が自分に向かって小便を垂れるのならば、
 やられっぱなしでなく彼の足に向って小便を垂れる。
 これは制度的権力に対する真っ向からの挑戦を宣言した言葉だ。

 

上記はネットで見つけました。「金子ふみ子コミュの朴烈の詩“犬コロ”」というタイトル(mixiユーザー 2005年11月22日 15:43)で記載がありました。勝手に転載して申し訳ないです。詩は青年朝鮮という雑誌に載っていたそうです。「犬コロ」。原文は、“ケーセッキ”と言いまして“犬畜生”“F○ck野郎”といった罵り言葉、卑語だそうです。このことも同じ記事に載っていました。

この映画はいわゆる反日映画ではありません。物語にはちゃんとした日本人も数多く登場するし、主役の二人だって英雄として描かれている訳じゃない。映画を観て僕はよーく分かりました。これは自由を求めて戦う若者の強烈な愛の物語です。不公平な世の中で自由を奪われ、犬畜生として扱われた名もない若者たちの反逆の物語です。日本がどうだとか韓国がどうだというのではなく、この映画のテーマはそこにあるのだと思います。

朝鮮人虐殺ということでえぐい場面も出てきます。それは僕たち日本人がやったのです。国が政府が加担をして隠滅しようとした事実です。僕たちは知らないことが多過ぎる。そういう部分に目を向けるきっかけにもなる映画だとも思います。

でも決して堅い映画ではない。ユーモアもところどころ、というかふんだんにあるし、やっぱり主役の二人だけでなく仲間の若者たち皆も生き生きしているから、爽快な映画でもあります。結局そこが一番大事なのかもしれない。

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』 感想レビュー

フィルム・レビュー:

『The Shape Of Water/シェイプ・オブ・ウォーター』〈2018年)

なんだか試されているような映画だ。僕は全てに等しくありたいと思う。けれど僕は日本人だ。同じ肌の色、同じ宗教、似たような価値観の中で育った。小学校時代、確かにいじめられっ子はいたし、皆に避けられている子はいた。けれど僕は避けたりはせずに、なるべく等しく接してきた。つもりだ。でもそれ、お前の本当なのか?

具体的に考えてみる。もし、僕の子供たちが大きくなって、身体に障害を抱えている人、若しくは肌の色の違う、宗教の違う人を連れてきたら。僕は顔色を何一つ変えず接することができるだろうか。僕には自信がない。しようとは思うけど、心が付いていかないかもしれない。

折りもおり。僕はアジアのとある地域にいた。たかが3日ほどの滞在であっても、海外に出たことが数えるほどしかない僕にとってそれは多少なりともストレスのかかる出来事だ。ふと考えてみる。僕はここで暮らすことはできるだろうか。

この映画には人間ではない生き物が出てくるが、それは単に生き物ということではなく、やっぱりメタファーだ。つまり僕は僕の物差しでは測れない人を見かけた時、身構える。極端に言えばそうした人を異物と捉えて明確に線を引いてしまう。会社に新しい同僚が来た時のように自動的に手を差しのべることは出来ないのだ。

この映画でも主人公たちは一瞬たじろぐ。けれど主人公とその友人たちは実はさほどでもない。主人公は何か特別な理由があって、ある生命に心を寄せていくのだけど、そうではない友人たちにしても初めて見る自分たちとは姿形が異なる人物(ここは敢えて人物と言う)に対してさほど拒否を示さない。自分たちとは姿形が変わろうとも、たまにはそういうこともあるさとでも言うような態度でさほどでもないのだ。

しかしこの映画にはそうではないない人たちも登場する。心安いパイ屋の主人は黒人が店に入ること拒否する。国家機密を扱う連中はいわずもがな。一方で自分たちとは違う誰かのことを、たまにはそういうこともあるさと肯定する存在か確かにいる。この映画はそのことも高らかに宣言しているのではないか。

僕は全ての人に等しくありたいと思う。けれど今のところはそういう機会が少ないから、いざ自分がその立場になった時どういう態度を取るのか正直分からない。主人公も友人たちも自分の物差しでは測れない誰かを異物と捉えて線引きしたりはしない。何故なら彼らも社会から弾き飛ばされた人たちだから。彼らはよく分かっている。それがどのような意味を持つのかを。だから彼らは自動的に手を差しのべる。

僕たちは想像する。一方で想像しきれないこともある。けれど人の気持ちなど元より分からないものなのだ。分からないことを当たり前の事とするならば、怖れる必要はないし無理をする必要もない。自分のストラグルを誰も分からないのと同様に他人の心情も分からないのだ。

人と人とは本来そういうものなのだとリセットしつつ、分からないまでも相手が今どういう思いでいるのかを想像する。思いやりの気持ちを多少なりとも持てればいい。分からないからこそ親切にできればいい。そして主人公やその友人たちが行ったように、僕も自動的に手を差しのべることが出来るようになれば。『シェイプ・オブ・ウォーター』を観て僕は今、そんな風に思っています。

映画『ボヘミアン・ラプソディー』感想レビュー

フィルム・レビュー:

『Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディー』(2018年)感想

 

クイーンとはフレディ・マーキュリーのことだと思っていたが、そうではなかったようだ。この辺りは、製作にブライアン・メイ(ギター)とロジャー・テイラー(ドラム)の二人が大きく関わっているから(それにしても二人とも演じる俳優さんがソックリ!)自然とそうなるのかもしれないけど、事実、作曲はメンバー全員が手掛けているし、フレディのソロが上手くいかなかったことからも、やはり彼らは4人でクイーンなのだと。このことはファンにとっては当たり前のことかもしれないけど、僕にとっては全く新しい発見で、てっきりフレディが全てのタクトを振るっていると思っていました。あの「ドンドンパッ!ドンドンパッ!」がブライアン・メイの発案だということも『ボヘミアン・ラプソディー』のあのオペラ部分をメンバーだけで歌っていたことも初めて知ってビックリしました。

圧巻は巷の噂どおり、ラスト21分のライブ・エイドの再現。CGだと芝居だと分かっていても鳥肌が立ってしまう。しかもフレディの人生そのもののような『ボヘミアン・ラプソディー』の歌詞がここでぐぐっと立ち上がってくる。そこはやはり感動的です。しかしまぁライブエイドを再現する今の技術はホントにスゴいなと。そこに演者の熱演が加わる訳ですから、この場面の熱量は相当なもんです。

ただ通常のライブ映像のように単純にオーッ!となったかというとそういうわけでもなく、当然そこに至るまでのストーリーがあるわけで、俄然盛り上がるというわけにはいかない。やっぱりそこに至るフレディのストーリーはかなり重いですから、僕はそれを踏まえてのライブ・エイドとして観てしまいました。ここは観る人によって感想が異なるところだと思います。

難点というか、ひとつ気になったのは、ホントにフレディは普段からあんなエキセントリックだったのかなってこと。実際のステージ以外での写真を見てみると穏やかな表情をしているし、僕のイメージでは普段は物静かな人なんじゃないかなって。それがステージに上がると皆が知ってるあのフレディにバッと変わるっていう。

映画でも契約の前にお前たちはどんなバンドかと聞かれて、フレディは教室の隅っこにいるような連中のための音楽(確かそんなニュアンス)と答えているわけだから、フレディの孤独を表現するのにエキセントリックじゃない描き方もあったんじゃないかと。それにいきなりパフォーマーとして完成されているんだもんなぁ。

その辺は時間の制約もあるし、なんだかんだ言ってフレディはスーパーな存在なのだから、ブライアン・メイにしてもロジャー・テイラーにしてもフレディの穏やかな姿を当然よく知っているわけだけど、今フレディのクイーンの映画を描く時にはフレディをスーパーな存在として描くのが一番いいんじゃないかということで落ち着いたのかもしれないし。

あとちょっと駈け足になってしまうけど、彼のパーソナリティーはどうやって育まれたのか。家族との関係、宗教、外見、移民であること。そこら辺も描かれていたのはとても良かったと思います。

今も尚、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの二人はゲスト・ボーカルなどを迎えながらクイーンとしての活動を継続している(ベースのジョン・ディーコンは表舞台から足を洗ったらしい)。つまりは、やはりクイーンはフレディ・マーキュリーだけのものではないということだ。

映画にもあったように、始まりはブライアン・メイとロジャー・テイラーの二人が作ったバンドにフレディが参加したということで、当然この二人にもクイーンという大きな幹を育て、根を張った血脈が流れている。過去の偉大なバンドはいくつもあるけど、圧倒的なフロント・マンが居なくなっても継続出来るバンドというのはかなり珍しいことかもしれない。

とまぁ、観る人によって感じるところは色々あるとは思いますが、観終わった後数日はクイーンの曲が頭を離れないということで、そこは全員の共通するところかなと思います。例に漏れず僕も実際のライブ・エイドのYoutubeは観てしまいました(笑)。レ~~~ロッ!!

映画『Big Fish』 感想レビュー

フィルム・レビュー:

『ビッグ・フィッシュ』 (2003年 監督:ティム・バートン)

 

私の父の自慢は小学校4年か5年の時、上級生もいる全校マラソンで2位になったという話。日頃の父の様子から私は全く信用していなかったのだが、ある日父はどこからか表彰状を探し出してきて私に見せた。すると驚いたことにそこには本当に‘校内マラソン大会第2位’と書いてあったのだった。その日以来、私は今までよりもほんの少しだけ父の話を信用するようになったが、それでもやはりその話は現実感の乏しいもので、本当と嘘の境をふわふわと漂っていた。言ってみればそれはファンタジーみたいなものなのかもしれないが、あれから何十年経った今となってはその本当と嘘の境を漂う所在なさこそが私にとってのリアリティーとなっている。もしかしたら、ティム・バートンにも似たような体験があったのかもしれない。

フィクションにはリアリティーが無いといけない。現実に起きたことよりその方がリアルに感じる時もある。物書きであれ絵描きであれ音楽家であれ、作家は現実に起きたことをそのままスケッチしている訳ではない。そこには作家自身の想像力の飛躍が存在する。芸術とは論文や新聞記事ではないのだから、正確に書くということはさして重要ではない。フィクションであれノンフィクションであれ、如何にリアリティーをぶち込めるかが鍵なのだ。ここで言うリアリティーとは、私にとって、あなたにとってという意味。嘘だってかまわない。

実際に起きたことの意味を、或いは実際には起きていない心の中で出来事を作家は我々に紐解いてくれる。現実に起きたかどうかは問題じゃない。大切なのは時に暖かく、時にひんやりとした手触りなのだ。

この映画は嘘の物語だ。けれどその嘘にはリアリティーがある。誰しも心当たりはあるかもしれないが、10代の頃は特別な力を持っていて、‘ほんとうのこと’と’まがいもの’を瞬時に見分けられる。本当に起きたことでも‘まがいもの’の場合はあるし、嘘の話にも‘ほんとうのこと’はある。この映画がどちらかは観た人の判断に委ねたい。