ことば、いし

ポエトリー:

「ことば、いし」

 

たとえば
そこらじゅうの
いしを
あつめ
おとを
あたえ
いみを
あたえ
かたちを
あたえ
ことばは
なりたち
わたしたちの
くらしや
かいわ
なりたち
それがすなわち
ひとっとびに
いっちょくせんの
ことばの
たびだち
わたしたちも
たびたび
てをかし
ときには
しでかし
あたらしいと
ふるいを
くりかえし
めにみえる
あるいはめにみえない
そこらじゅうの
いし
ひとりあるき

2023年10月

冬のはじまり

ポエトリー:

「冬のはじまり」

 

少しずつ大事にあたためてきたのに

いつのまにか繭になって

ほどけなくなりました

いつか

あなたを暖める編み物ができればよいのだけど

 

わたしたちの夜空には

満天の星と寒風

翌朝の舗道は濡れていて

 

2023年11月

オンしたりオフしたり

ポエトリー:

「オンしたりオフしたり」

 

無限に起きることがない代わりに
スイッチをオンしたりオフできる乗り物があったら
ぼくは一生をかけてきみにたどり着けるだろう
磨いたらきらっと格段に光る乗り物
やればできる子
そんな魔法のスイッチを
自在にオンしたりオフしたりする回路を手に入れて
目指すは人工の池、花と緑の大地の

ささくれ立った根性その他、
良からぬものをジェット噴射し
ぐんぐん進むことにして
もうじきコントラストが
赤やら黒やらのコントラストがきみに向かうのを知る

知っているから
とりいそぎ大事な荷物をひとまとめにして
昨と日のあいだはふれないように
明と日のあいだはさわれないように
そりゃあめいっぱい気をつけて
ぼくは一生をかけて大事なきみに会いにいく
無限に起きることがない代わりに
することがめいっぱいある
今は今と日のゆらぎの中にいて
スイッチはオンしたりオフしたり

 

2023年10月

なんて特別なことだ

ポエトリー:

「なんて特別なことだ」

 

なんて特別なことだ
今夜きみに羽が生えだしてきて
今にも飛べそうだ
これだから人生はやめられない

まだ見ぬ風景があるのだと
しかしそれさえ人から見れば控えめなこと
難しがることなんてなく
なんならもう空中

たとえば
人から見れば星くず
もしくは砂粒
それでもかまわない


コップ一杯の水を飲んで身支度
なにかいつもと違う気がして
今夜にも羽が生えだしてきそうだ

 

2023年10月

溶けてなくなる前に

ポエトリー:

「溶けてなくなる前に」

きみはわたしの声を秒単位で欲しがる
溶けてなくなる前に
早く次のを放り込んでおくれ
でないと声を失うと

そんなにも欲しがるならば
なぜあのとき
日が陰るあのとき
待ち合わせの場所にきみは来なかったのか

冷たい夕に
わたしはひとり凍えていたのだ
きみが
秒単位で欲しがるのと同じに

わたしも
ちいさなひとりの人間だということを
知ってか知らずか
あいも変わらずきみは秒単位で欲しがる

溶けてなくなるのはなにも
きみばかりじゃないというのに

 

2023年10月

Eテレ 司馬遼太郎 雑談 「昭和」への道 感想

TV program:

司馬遼太郎 雑談 「昭和」への道

 

今、NHKのEテレで司馬遼太郎生誕100年の特番をしていて、1986年だったかな、『昭和への道』という、まぁあの戦争に向かって日本が狂っていた時代ですね、あれはなんだったのかというところをメインに司馬遼太郎が話をしているという当時の番組の再放送をやっていて、その第6回だったかに戦争期の日本に蔓延していた、特に軍人やメディアで非常に誇大な言語表現がなされていた、かつてない言語量を使ってしかも漢文のような古い言い回しなんかも多用しながら大袈裟な言語表現をしていたわけですけど、それを司馬さんは実態のない言葉と言ってるんですね。中身が空っぽで空虚だと。だって日本はヤバいなんていう本当のことなど言えやしないんだからつい誇大な表現でごまかす、糊塗する。まぁ愚かな時代ですけど、この中身がない、実態がないからつい言語表現は大袈裟になるっていうのは、司馬さんは当時の政治家のスピーチを例にとって、実体がない、言っている本人に実感がないからああいうもったいぶった大層な言い方になると言ってましたけど、本当にそうだなぁと、今も変わらないなぁと、やっぱり大袈裟にいいこと言う人は信用なりませんよね。

ここで話は僕の意見、別の方向へ行きますけど、日本の漫画は世界でも人気で評価も高いわけですけど、日本の漫画、アニメ、特撮なんかもそうですけど、ヒーローものの場合だいたい必殺技がありまして、ライダーキックとかブレストファイヤーとかですね、もう初期の頃からあるわけです。今じゃもうさらに進んで、「全集中、水の呼吸、一の型、なんとかなんとか!」みたいな何個あるねんっていうぐらい決め台詞があってですね、もうそういうのが日本人はいちいち大好きで、僕も「キン肉マン」とか「北斗の拳」とかの世代ですからそういうのに熱狂してたんですけど、まぁあれもですね、技名がとにかく大袈裟でなんのこっちゃ意味の分からないものもいっぱいあるんですけど、なんかそういう誇大表現に納得してしまうというか、「廬山昇龍波!」なんて言われると、わぁスゲーって興奮してしまう。やっぱ日本人は意味はよく分からんけどなんか凄そうな名前だったらそれでよしとしてしまう気質があるんじゃないかと。アベンジャーズにヒーローはいっぱい出てきますけど、それぞれのキャラが必殺技名を連呼しまくるってないですからね。

あともう一個言うと、これはもう前から思っていたことですけど、いわゆるJ-POPですね、これも熱い表現とか大層な言い回しが好きなんですね。君を守るとか君を助けるとか、ま、そんなこと現実的でないですよね、これもやっぱり実体がない。本当に助けるとはどういうことなのか、本当に守るとはどういうことなのか、そこの実体がないから無邪気に大声で歌えるのだと思います。それなりの現実認識、要するに実感があればもう少し違った表現になると思うんですけどね、でも聴いてる方もそれで熱狂してしまう、涙流して感動したりするわけです。僕は海外の音楽も沢山聴きますけど、僕の知っている限り海外にああいうド直球な応援歌ってないんじゃないかな。これも日本独特の文化だと思います。

だからまぁ、日本人というのはこういうポップ・カルチャーの分野においても大袈裟な表現、今で言うエモい物言いについ引っ張られてしまう傾向があるんだなと。なので、司馬さんの番組、あれは昭和のことを言ってますけど、今だって根本は変わっていなくて、中身のない、実感のない言葉に引っ張られがちな国民であるんだということを番組を見ながら、もちろん自分も含めてですけど、改めて思いました。

SENSUOUS / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『SENSUOUS』(2006年)コーネリアス Cornelius

 

このアルバムをリビングで聴いていたら、娘に「BGMやん」て言われてしまった。確かにそうかもしれない。でも音楽なんてそういうもんじゃないかとも思う。電車に乗ってると多くの人がイヤホンを付けているけど、スマホでは別の画面を見ているし、さして真剣に聴いているようには思えない。けれど僕も含め、けっこう多くの人が音楽無しではいられない。

僕は主に洋楽を聴く。ほぼ英語は解さない。対訳のついた国内盤CDを買うこともあるが、基本はサブスクが多い。もちろん歌っている内容を知ることでその音楽がもっと好きになることはあるが、それがなくても好きな音楽はたくさんある。多分僕の中で歌詞はそれほど多くを占めていないのかもしれない。部分的な英語しか分からなくてもボーカリストの声やトーン、バンドの演奏、メロディ、和音、そうしたものが一体となってあちこちから色んなタイミングで飛び込んでくる。それらひっくるめた連なりを僕なりに感知し楽しんでいるのだと思う。

電車の中でリラックスして聴いている多くの人もそうなんじゃないか。耳から色んな音が入ってきて感知出来たり出来なかったり。それでもこの音楽は好き、これはあんまり、というものは出てくるし、なんだっていいわけじゃない。それぞれの感性に従って、人は音楽を聴いている。分かる分からないといった意味よりも遥かに多く伝わっているものがあるのだ。

言葉で何か言ったってたかが知れているよ。僕は自分の考えなんて開陳するつもりはないし、お説教するつもりもない。コーネリアスはそんなこと言わないだろうけど、ま、そういうことだと思う。音楽なんてただの’振動’。でもその’振動’に人の心は揺れ動く。ただの’振動’に作家は心血を注ぐ。最後に心温まるシナトラのカバーを英詞のまま、しかも声にエフェクトをかけて歌うところが素敵だ。

コーネリアス 夢中夢 Tour 2023 Zepp Namba 感想

ライブ・レビュー:

Cornelius 夢中夢 Tour 2023  Zepp Namba 10月6日

 

僕は絵も好きだし、詩も好きだし、いろいろ見たり聞いたりしていると時に圧倒的な作品に出会って不思議な気持ちになることがある。コーネリアスのライブもそんな感じだった。煽るわけでもなく、大袈裟にするわけでもなく、平熱なのにこちらに伝わる何か。音楽を通して、いや、映像も照明も素晴らしいかった。それら音楽表現でやれることは全部やるんだという静かな熱があった。音楽の、いや何かを表現するとはこういうことなのだということをその一点に絞って見せてくれた。そんなライブだった。

ステージでの4人は小山田が真ん中にいるのではなく、4人が均等に並んで客席を向いている様子が素敵。余計なものに頼らず表現する潔さ。クールに、でも身体の奥に何かをたたえたまま、真っすぐ前を見据える。バンドとしてのエネルギーが放射されていた。僕はコーネリアスはバンドなんだということを知った。

音源もいいけど、ライブはまた別世界。全く違った。僕は体全体で感じていた。気安く感情に頼らずに音楽全体として表現し、映像表現を含めた音楽全体として聴き手に委ねる。気持ちのいいことを手っ取り早く歌って満足するようなまやかしではなく、表現行為に最初から最後まで真摯に向き合い、準備し、それを果たしていく。偉ぶるのでもなく控えめ過ぎるのでもなく、虚勢を張るのでもなく謙虚過ぎるのでもなく、出来得る限りの能力を使って表現する。

情緒に頼らず、真摯に向き合う姿勢の中から伝わるもの。それが聴き手の心を揺さぶるのだろう。表現するとはどういうことか。その真っ直ぐさに触れ、僕は胸がいっぱいになった。

本編で喋ることは一切なかったけど、アンコール最後の曲の間奏で小山田圭吾は口を開いた。「いろいろあったけど、またこうして演奏できてうれしいです。今日はどうもありがとうございました。」。朴訥に、静かな歌声と同じトーンでそう話した。

安野光雅展 / あべのハルカス美術館 感想

アート・シーン:

安野光雅展 / あべのハルカス美術館

 

最初の絵本『ふしぎなえ』を見ていると、描きたいことがどんどん溢れているんだなぁ、手が勝手に動いているんだろうなぁと思ってしまいました。それぐらいアイデアが出てきてどんどこ描けたんじゃないか、そんな気がしました。もちろんそんな簡単な話ではないでしょうけど(笑)。

エッシャーみたいな不思議な絵も楽しいけど、僕はその絵の中にいるピエロだかなんだか分からない異国的な登場人物が右往左往している様子がおかしくて好きです。手足が長くてキャラ的にデフォルメされたものだけど生き生きとしている。こういうところも楽しくずんずん描けちゃったんだろうなぁ。

あとまぁすんごい緻密です。『もりのえほん』なんてやっぱすごい画力だなぁと驚きますね。これもやっぱり頭の中にイメージがあってどんどん描き進めていけるんだろうなと。考えていたら多分描けないよ、こんなの。ってそれは凡人の考えかな(笑)。

それとは対照的に『天動説の絵本 てんがうごいていたころのおはなし』という、しっかりと構成を練られたような作品もあります。空想ばかりしていたという安野さんの真骨頂のような作品です。ストーリーが記載されてはいますけど、やっぱり絵が面白いです。この絵の空想力あってこそなんだと思います。

『旅の絵本』シリーズは俯瞰で風景やらそこにいる人々やらを描いているんですけど、これもやっぱり細かいです。で面白いのが、細かいんだけど人物の遠近感がさほど気にされていなくて、遠くの人の方がちょっと大きかったりする(笑)。こういう大らかさもいいなぁと思ってしまいます。やっぱそれよりも人物たちが動いているんです。安野作品の一番の魅力はやっぱりこの’動き’なんだと思います。

経歴を見ていると多分本格的な絵の勉強はされていないみたいですけど、実際はどうだったんでしょうか。アールブリュットという言葉がありますが、安野さんの絵もそういう魅力、規定されない自由さ、大らかさ、ユーモアがあるような気がします。あ、でも安野さんは普通に上手いです。

三国志を描いたシリーズもあるし、いろんな本の表紙絵やポスターもある。単に同じような雰囲気のものを描き続けたという人ではないということが分かります。晩年まで創作、空想が止まなかった、描きたいことがいっぱいあった芸術家だったんだろうなと思いました。

あなたといるだけで

ポエトリー:

『あなたといるだけで』

 

あなたといるだけで心が張り裂ける
あなたといるだけで胸が熱くなる

あなたがいるだけで時が動き出す
あなたがいるだけで心が満たされる

あなたといる時は落ち着いていられる
あなたといる時は穏やかでいられる

あなたは今何処にいる
あなたは今何をしている
あなたは今幸せなの
私があなたを幸せにしてあげる

そんな風に思われる事が
たとえ一瞬でもあったのかな
そんな風に慕われる事が
ほんの一度くらいはあったのかな
そんな風に人知れず過ごす日々があったのかな

 

2017年5月