あめのどようび

ポエトリー:

「あめのどようび」

 

ぼくがひとりでいたいとき
きみがあらわれてももんくはいわないよ
せっかくのどようびなのに
あめがじゃじゃぶりで
でかけるきがおきないわけさ

ずっとそのころ
きみはびょういんのまちあいしつで
そのむこうでもあめがじゃじゃぶりで
それどころじゃないじゃないか

せっかくのどようび
ぼくはひとりでいるようなきぶんで
とはいかないわけさ
そのうちとびらをのっくしないきみがあらわれて
とたんにはなしをはじめるから

ぼくがひとりでいたいとき
きみがあらわれてももんくはいわないよ
ぼくがなにかをしていても
きみはきゅうにはなしをはじめるし
そのうちそふぁーでちいさながめんをながめるし
でもかってだなんていわないよ

それでいいから
そのままでかまわないから
ぼくがひとりでいたいときなんて
じつはありはしないから

ぼくがひとりでいたいとき
きみがあらわれてももんくはいわないよ
どのみちきょうはあめがじゃじゃぶりで
なにもおきるわけないからさ

まどのそとは
きょうはあめがじゃじゃぶりで
いつもはじゃまなこだちたちもみえやしない
だったらせめてながしておくれ
いっさいがっさいながしておくれ

 

2024年3月

OTODAMA’22~音泉魂~ 2024年5月5日 感想

Your Favorite Things / 柴田聡子 感想レビュー

邦楽レビュー:

『Your Favorite Things』(2024年)柴田聡子

 

僕は歌詞と一般的な詩は分けて考えるようにしている。あまり文字として書かれた詩を読む人はいないだろうから、そこまで気にしている人はいないと思うけど、歌詞というのは、あくまでもメロディやバンドの演奏、ボーカリストの声を前提にした言葉であって、音楽家が表現しようとする音楽の構成要素のひとつという見方もできる。

なので、本来であれば言葉数多くを要さないと表現仕切れないところも、声や演奏が代わりに表現してくれたり、あるいはネガティブな歌詞であっても音楽全体としてポジティブに響かせることだってできる。歌詞だけを抜き取って楽しむことも勿論できるけど、それはそういう楽しみ方もできるということであって、音楽家が本来表現しようとしているところから少し外れた、言ってみればスピンオフみたいなもんだ思う。

ただ柴田聡子という人は歌詞だけでも成立するように、それだけ抜き取って読んでもらってよいように、あらかじめそういうものとして言葉を選んでいっているような気がする。ていうか彼女はそれこそ音楽とは離れた文字だけの詩集も出しているし、そこでも勝負できる人。ただ、ということを踏まえても、音楽と同時に発せられた言葉の切れ味にはもう手も足も出ない。完全に言葉と音楽の関係に自覚的な人が、音楽無しの言葉でも勝負できるレベルの言葉を紡ぎ、その上で音楽としてこれ以上もないほど言葉を機能させている。僕はもう#6『Kizaki Lake』を聴いいて参ってしまった。

僕は前作から聴き始めた口ではあるけど、前作とはかなり印象が違う。多分今までもアルバム毎に作風を変えているのだと想像する。ていうか今作はウィスパーボイスやん。ていうことではあるんだけど、これは多分かなりやり切った感があるのではないか、ていうぐらいの傑作だと思います。ついでに言うと、共同プロデュースとしてあの岡田拓郎の名前がクレジットされているけれど、岡田色というのはあまりというか、ほぼ感じない。それぐらい柴田聡子として屹立している。

今朝のこと

ポエトリー:

「今朝のこと」

 

誰かからの誘いがあってないようなことで
耳が赤くなる
昔からひとがいないところで咳をするのがクセだった
風が運ぶ音階を見ず知らずのひとに紹介する
そんなひとになりたかった

まさかが狭い部屋で衝突する
今朝は6時頃にそれが起きて目を覚ました
それは思い当たるふしがあるような完成が近いプラモ
ドキドキしていた

もうじき
風と風が向き合うところでこだまする
本当のことを知りたがるわりに地面に手をつこうとしない
そのくせ
ひとからの誘いで心あたたまる

だけど今朝は呼吸が短い
とりあえず今日は
言外で凍らせる人
そんなひとになりつつあった

 

2024年4月

4月

ポエトリー:

「4月」

 

いじわるなあの人のことばがそよ風
耳の奥を通りすぎて
花粉に紛れたよ
見知らぬ人の鼻先をくすぐりかねないよ
わたしたちはいたって元気に
4月を迎えたよ

 

2024年4月

軍隊

ポエトリー:

「軍隊」

 

近日中にオレたちは加害者になる
見知らぬ人を連行し海を渡らせる
羽根は優雅な鳶色で
短い距離を一直線に
ガラス戸さえもぶち破る
身体に流れる軍隊が
否応なしに向かわせる

賑やかな階段を踏みしめる
空は穏やかだ
しかし間違いなく黒ずんでいる
背丈は伸びる一方だったのに
今や無理難題を突きつけられ
今日遂にかなしみが
色濃く残る風景を背に
目指したものの当落線を踏み外す

羽根は優雅な鳶色で
道に迷った人々をとっ捕まえては
新大陸へと向かわせる
手続きなしの新大陸へ

 

2024年3月

折坂悠太 ツアー2024 あいず 心斎橋BIGCAT 4月15日 感想

ライブ・レビュー:

折坂悠太 ツアー2024 あいず 心斎橋BIGCAT 4月15日

 

今この時に折坂悠太は何を歌うのだろう。そんな気持ちを持ちつつ、初めての折坂悠太のライブに足を運んだ。その4月15日は月曜日。先週末から体調が芳しくなく、そのうえ月曜日という気分もあって、初折坂だというのに気持ちは上がらない。仕事を切り上げへBIGCATに到着。なんとか間に合った。そして定刻、バンドが現れた。

小さなライブハウスなので、演者が良く見えた。と言っても僕は極度の近視。眼鏡を掛けてはいても表情までは見えない。が、そんなことは別にいいや。折坂のギターが初っ端からいい音。彼らの世界にどっぷりと漬かることが出来た。

アルバムのリリースがあったわけでもなく、これといったプロモーションがあったわけでもないのだろうけど、ちょっとしたツアーを実施。こういうツアーは面白い。制作中なのだという来るべきアルバムに備えての新曲も沢山演奏してくれた。知らない曲なのにいい感じだ。ま、知っていても知らなくても折坂悠太の曲は馴染みがいいからスッと入ってくる。

そうだ、大半の曲は知らなかった。このところの新曲『人人』や『鶫』はあったけど、僕が持っている2枚のアルバムからの曲はそんなになかった。でもそれでいい。ていうか今夜はそれがいい。歌詞ははっきりと聞き取れない、けどぼんやりと耳に飛び込んでくるフレーズが、あぁ折坂悠太だなぁ。それにあの声、マイクは通しているけど、ダイレクトに聴こえる。張り上げる声と合間にボソッと話すMCの声、同じ人だという実感ができる。

特にテーマが無かったのだろう。バンドの演奏、アレンジも多岐にわたっていてとてもよかった。アンビエント音楽のような時間もあれば、どうしたプログレかと思う時間もあり、エレキギターがぎゃんぎゃん鳴る時間もあった。このバンドはパーマネントなものかどうかは知らないが、アルバムを一緒に作っているようだから気心知れた間柄なのだと思う。とてもいいバンドだった。

アンコールでも新曲が披露された。中盤がスポークンワーズ形式になっていた。最終的にはメロディが付くのかどうか知らないが、そこで「子どもをまもろう」と明確に語る折坂悠太がいた。今この時に彼は何を歌うのだろう。ぼんやりとそんなことを思いながらのライブであったが、時折そうした今の実感が聴こえてきたような気がする。うん、特に何かできるわけじゃないけど今はそれが素直な本音だ。

ちなみにツアー・タイトルの’あいず’は’eyes’なのだそうだ。僕はてっきり’合図’だと思っていた。勿論、織り込み済みだと思う。日本語は面白い。次は大阪城野外音楽堂とかで見たいな。狭いライブハウスがちょっと窮屈だった。

Where We’ve Been, Where We Go From Here / Friko 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Where We’ve Been, Where We Go From Here』(2024年)Friko
(ウェア・ウィーブ・ビーン、ウェア・ウィ・ゴー・フロム・ヒア/フリコ)

 

長らくロック不遇の時代などと言われてきたが、なんの前触れもなくこういうのが突如やって来るのがロックである。去年から騒がれていたザ・ラスト・ディナー・パーティーと違い、フリコは特に取りざたされることなくデビューしたにも関わらず、なぜかここ日本で真っ先に大バズリ。洋楽離れが叫ばれているこの日本でこんなことが起きる嬉しさ。早速、フジロックに出演決定ということで、ザ・ラスト・ディナー・パーティーとフリコそろい踏みのフジロック、うらやましすぎるぞ!

ザ・ラスト・ディナー・パーティーと同じく、フリコもライブ表現が抜群に恰好いい。バンドはボーカル&ギターのニコ・カペタンとドラムのベイリー・ミンゼンバーガーの二人。ライブではそこにサポートとしてベースが加わるのみというのが基本スタイルか。しかしこの小ユニットで鳴らされるサウンドの隙の無さ。荒々しくも洗練されたサウンドからは彼らの基礎体力の高さが伺える。しかし何より脇目もふらぬ初期衝動。やっぱロックはこれに尽きる。

アルバムを聴くのもいいけど、ついついライブなYouTubeを見てしまう。これはやっぱり単に音楽がいいということではなく、その音楽の鳴りに立ち居振る舞いを含めたビジュアル的なカッコよさがあるから。また実際のビジュアルもボーカル&ギターのニコ・カペタンがジョニー・デップ似のイケメンでドラムのベイリー・ミンゼンバーガーが女子というのもポイントが高い。狙ってできるわけじゃないけど、こういうところは非常に大きいです。寡黙にドラムをばしばし叩くベイリーもカッコいいけど、情熱的に体をくねらせセクシーにシャウトするニコにキャーキャー言う女子はきっと多いぞ。

Pratts & Pain / Royel Otis 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Pratts & Pain』Royel Otis(2024年)
(プラッツ&ペイン/ロイル・オーティス)

 

オーストラリアの新人デュオ。ラスト・ディナー・パーティーやフリコがドカンと来た一方でその隙間を縫うように個性的なバンドが登場している。この二人もなかなか凄い。先の2組が将来のヘッドライナー候補だとすれば、こっちはもっと斜に構えたひと癖もふた癖もあるバンド。ドラムスみたいなへなちょこロックかと思えば、シェイムみたいな硬派な一面もあってどれが本当の姿か分からないが、きっとどれも本当の姿。

しかしそれが誰でもできる手垢のついた代物であれば何もわざわざ表現することは無い。ここには彼らなりのやり方で彼らなりに捕まえた真実を彼らなりの誠実さで表現せざるを得ない性急さがある。一見すると変態的な音楽が鳴ってはいるように見えるけれど、彼らはロックの系譜にただ忠実たろうとしているだけ。ここには後に取っておこうなどという成熟さは一切なく、ただ自分たちの思い出を救い、目いっぱい青空に投げつける焦燥感しかない。へなちょこでも剛速球でも気にしちゃいられない。これは青春のパンク。あらゆる音楽をとっかえひっかえ夢中になり、ありとあらゆる栄養を身に付けた彼らは迷いなくアウトプットする。

これはあれに似てる、これはあれっぽいというのはあるにせよ勿論それらも織り込み済みで、彼らにとってはそのいずれもが大切な音楽。そんな距離が離れているわけでもない音楽を行ったり来たりしながら、妙に耳に付く愛嬌のあるメロディー。それを支えるのはギター。やっぱり青春はギターだ。

湯呑み

ポエトリー:

「湯呑み」

 

ぬくもりというものを景気づけに
一杯やろうというあなたが
冷え冷えとした心の内底に写し出しているもの

知らないことを覚えるため
知っていることを忘れるため
できるだけ工夫をこらしている私たちは
いつだって健気です

ある日
薄ぼんやりとあなたの似姿を湯呑みに浮かべ
ゆっくりと蓋をしました

だれかの酒の肴になるようなものが
かつてここにはありました
機能不全に陥る記憶
もいちど蓋をあける勇気はなくて

 

2023年2月