エモい

その他雑感:

「エモい」

 

昨夜テレビでやっていた『鬼滅の刃~兄妹の絆~』を見まして、まぁ初めて鬼滅の刃を見たんですけど、すごく面白かったです。今朝、用事でドンキホーテに寄ったのですが、思わずグッズを買いそうになりました(笑)。来週は続きをするということなのでめっちゃ楽しみです。

見ていて一番に思ったのは、流行りの言葉で言うところの’エモい’というやつですね。感情の発露が生々しく描写されています。鬼にもその背後には悲しいドラマがあって、というのは見ていてシンドイです(笑)。家族の関係、敵との関係、仲間との関係、そのいちいちに激しいドラマがあって見ているこちらの感情を揺さぶる、そういうアニメだなと思いました。

テレビで有名人がこのアニメについて熱く語っている場面を見たことがありますが、見る人を熱くさせる要素がふんだんにあるように思います。僕は音楽が好きだからそっちの方面で考えてみると、音楽にも感情を波打たせるサウンドがあります。いわゆる’四つ打ち’というやつですね。

2、3年前だか邦楽には猫も杓子も四つ打ちという時期がありました。あれもやっぱり聴き手の感情を刺激するんですね。僕は音楽でも映像でも感情で煽られたくないというのがあって、それは僕個人の性格として割りとそっちへ引っ張られやすいというのを自覚しているからなんですね。音楽であろうとなんであろうと創造物に対してその本質以外のところで自分自身の評価を左右されたくない。そう思っています。僕がたまにこうやって文章を書くのはそういう部分も大きいです。

けれど考えるのは面倒臭いんですね。だから評価を感情に委ねた方がいい。その方が心地よいですしそれも分からなくはない。そしてそういう大げさな番組を見て感動して涙を流しても、その後は割りとあっけらかんとしている場合、これはいいんだと思います。言ってみればひとときの余暇、気の紛らわし、これはエンターテイメントが果たす大きな役割のひとつですから。

ただ気になるのはそこに、煽られた感情に引っ張られたまま日常が継続してしまうこと。例の半沢直樹もしかり、今の世の中、エモいが幅を効かせていますけど、ちょっとしたその積み重ねが少し心配になる気がしないでもない。

エモいと過剰さは隣り合わせです。物事の良し悪しをエモいに委ね過ぎないよう、少し引いてみることも必要かもしれません。エモいを余り体に詰め込みすぎないように、ですね。

Imploding The Mirage / The Killers 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Imploding The Mirage』 (2020年) The Killers
(インプローディング・ザ・ミラージュ/ザ・キラーズ)

 

キラーズももういいかなと思っていたんですけど、先行の2曲を聴いたらもう止まりませんでした。久しぶりに解放感があって、何かこうスパークしてる。もしかしたらこのアルバム、いいかもしれない、そんな期待感を感じましたね。

ここ最近のアルバムも悪くはなかったんですよ、これぞキラーズっていう曲もちゃんとあったし新しいことにも取り組んでいたし。でもちょっと窮屈な感じはあったんですね。ちゃんと新作を出し続けてくれてたんですけど、なんか頑張って無理してるのかな~と。

今回のアルバムもキラーズ全メンバー参加ではないです。だからというわけじゃないのでしょうけど、とにかく沢山の人とコラボしてて、さっき言った先行曲のひとつ「Dying Bread」なんてビックリしますよ、ブックレット見たらソングライティングになんと11人!!でもこれこそがブランドンの吹っ切れ具合を示してるんじゃないでしょうか。

プロデューサーは主にショーン・エバレットとジョナサン・ラド。目を引くのはジョナサン・ラドですよね。彼はフォクシジェンっていうバンドのメンバーで、他にもいろんなとこでプロデューサーとして活動してますけど、割りとマニアックというか芝居がかったサウンドを作る人で、でも最高にポップっていう。だから最初ジョナサン・ラドが来るキラーズの新作のプロデューサーと聞いた時は僕の中でうまく繋がらなかったんですけど、アルバム聴いてると徐々に明確になってきました。

要するにキラーズのいいとこをグイグイ突いてくるんですね。例えばブランドンが「ちょっとそれやり過ぎなんじゃないの?」って言ったら、「いやいや何言ってんすか、キラーズはこれでしょう」、「そ、そうか、そうだな」みたいな(笑)。良い意味でジョナサン・ラドの芝居っ気にブランドン、というかキラーズが再生していったというような印象を受けますね。

象徴的なのが表題曲の「Imploding The Mirage 」です。ブランドンの良さってあの伸びやかな声が真っ先に浮かびますけど、ドラマチックな歌い方も魅力ですよね、名曲「When We Were Young」とか。「Imploding The Mirage 」では「When ~」とは反対側にある押さえた芝居っ気というか、例えばサビの「~camouflage」、「~collage」と韻を踏むとこのイントネーションが下がるとこなんてバタ臭いんですけど不思議とカッコいい。いや~、ブランドン、吹っ切れてんなー。

ま、キラーズ史上最強のウキウキソングと言っていいこの曲でアルバムの最後を締めるっていうのが全てを象徴してるかな。ブランドン、「イェイェ~」ってコーラスするぐらいですから(笑)。それにしてもジョナサン・ラド、いい仕事してるなぁ~。

あとはこれをライブで聴きたいということですね。2、3年前に来日した時は台風で来日が遅れて大阪公演が中止になったんですよね。東京は武道館だったんですけど、聞くところによると結構空席が目立ったとか。世界最強クラスのヘッドライナーが日本ではあまり人気がないというのは信じがたいですけど、コロナが明けた日にゃ懲りずにもう一度来日して欲しいッス。次こそ大阪公演、待ってるぜ!

やらかした

ポエトリー:

「やらかした」

受話器を離した
手のひらから
3秒前の記録が
零れる

坂道を転がり
アスファルトに馴染み
長雨と混じり
曖昧なまま僕のもの

いつの日からか
かりそめに転がり
内ポケットの
固定化された思い出

それを大事に
本物であるかのように
抱きしめる
本物の傷の
痛み

2020年9月

林立

ポエトリー:

「林立」

 

軽く石畳に線を引いて
足を揃えた
林立する掌に白粉を塗った日
それでも新しく生まれてくるものに
何と応えよう

四つ角に
四季折々の自己嫌悪
あぁ手に負えない、けど秋には
飢えたポテト
チップスになってバリバリと

身近なものから順番に
月見の形に頬張って
だったらあなた、
翌朝早くに列車に乗ってお出掛けを

夕暮れの
ザクザクと拍を打つ落ち葉は
深呼吸の呼に窮して
二酸化炭素欠乏症
もうすぐ、ザアザアと夜がふる

洗い流す
夕立でもないのに何故?

音楽は
向こう側の
新緑の地域には行けなかった
音楽は
手すりを握れなかった

私たちは林立していた
お茶を沸かして立っていた

2020年9月

Folklore / Taylor Swift 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Folklore』(2020年)Taylor Swift
(フォークロア/テイラー・スウィフト)
 
 
なんでもステイホーム中にレーベルに内緒で制作したんだとか。プロデューサーはザ・ナショナルのアーロン・デスナーで17曲中11曲を手掛けている。テイラーさんは以前から一緒にやってみたいと思っていたらしく、けれどザ・ナショナルというとインディど真ん中の人なので、1曲ならまだしも通常だとレコード会社がうんとは言わない。そこで内緒で(しかもリモートで!)作ったそうです。
 
しかもアーロンさんはこれもUSインディのトップランナーであるボン・イヴェールに声をかけ、「exile」という曲で共演を果たしている。まさかテイラーさんのアルバムでジャスティン・ヴァーノンの声が聴けると思わなかった。とても新鮮な驚き。
 
以前から気になっていたとはいえ、このコロナ禍にあって アーロン・デスナーやボン・イヴェールと共演し、静謐で内証的なサウンドを選ぶというのはやっぱりテイラーさん自身に世を見る目の確かさというか、今何をすれば当たるかという、そういう下世話な話ではないのだろうけど、結果的に人々が求める作品をジャストに出してしまえるのは無意識的にせよ、やっぱり凄い人だなぁと思わざるを得ない。
 
肝心の曲の方は勿論ばっちりで、このところは派手な衣装に身を包んで、ポップなダンス・ナンバーを披露するといった印象が強くなった気がするけど、僕が最初にテイラーさんを知ったのはアコースティック・ギターを抱えて歌う「Fifteen」なので、基本はそっちの人なんだという気持ちの方が強い。案外そういうファンは多いのではないか。恐らくテイラーさんも自身のそういう地味だけど基本となるストロング・ポイントを理解していたはずで、けれどこれだけ巨大になると自分の思いだけでは済まない部分も多いわけで、そこをこの状況を逆手にとって密かに作家性の強い作品を出してしまうというのはなかなかしたたかというか、かっこええ話や。
 
アルバムはもう絶賛の嵐で、ここにきてテイラーさんのベストではないかとさえ言われている。卓越したソングライターである彼女があのアーロン・デスナーのサウンドで歌うのだから、間違いないに決まっている。彼女本来の持ち味であるメロディの良さが歌に注力したサウンドをバックに従え、初期の作品のように前に押し出されている。
 
ということでテイラーさんの曲がくっきりと浮かび上がってくるんだけど、思うのは盛り上げるのがすごく上手いなと。派手なサウンドではないんだけど、曲自体がそういう大波小波を内包しているから後半にかけて、特にブリッジでの盛り上がりが半端ない。「august」なんてすんごいです。どういうサウンドになろうがポップなところなところからは離れられない体なんでしょうか。てことで命名します。テイラーさん、あんたはブリッジの女王や。
 
プラス、今回はとりわけタイトルに『フォークロア』とあるように、’だれかの物語’にチャレンジしたということで、いつもの’わたしの話’ではない切り口のリリックも魅力。「the last great american dynasty」でのブルース・スプリングスティーンばりの遠い過去に思いを馳せたストーリー・テリングには思わず鳥肌が立ってしまった。過去の戦争から現在の医療従事者へと繋げる「epiphany」も素晴らしいし、ポップなところで言うと17歳の男の子になって歌う「betty」も面白い。けれどなんとなく物語にイントゥしていけないのは何故だろうか。
 
それはやっぱり’わたしの話’が完全に抜け切らないところで、例えば さっきの「the last great american dynasty」は凄くいいのに最後に「その家を私が買った」というリリックで締めくくっちゃうのはちょっとなぁと。あと「invisible strings」での「アメリカのシンガーに似てますね」と言われたってリリックもそれあんさんの話やないかと。巷で言われているほど’民間伝承’な歌ということではないような気もしますが、それも過去の作品と比べればということでしょうか。
 
ただやっぱりここは’だれかの物語’に徹底して欲しかったかな。そういう煌めきは随所にありますから。あぁ、「その家を私が買った」の一文さえなけりゃなー。
 
それと彼女はやっぱり声が強いですから、なかなか人の歌になり切れないというか、考えてみればまだ30才になったばかりということなので、そこをあんまり求めてもなってところはあります。僕がテイラーさんのアルバムを買うのは『フィアレス』以来、十数年ぶりなんですけど、更に10年経つとまたその辺も変わっているのかもしれません。 
 
僕にとっては新譜を追いかける人ではないですけど、これだけ巨大な人だと新譜が出りゃ自然と耳には入ってくるわけで、そういう中で今回のように「おっ、こりゃいいな」とまた手に取ってみる機会はこれからも案外あるのかもしれません
 
ところでテイラーさんがアーロン・デスナーに声をかけたときに、アーロンさんはボン・イヴェールとのユニットであるビッグ・レッド・マシンの新作に取り掛かっていたとか。ところがコロナ禍にあってそれが中断したところにテイラーさんから声がかかったらしいです。てことでビッグ・レッド・マシンとしての新作もあるかもですから、これも凄い楽しみです。

III

ポエトリー:

「III」

 

かなしみひかる星の空
まばたきひとつで落ちてくる
しずくを涙と取り替えて
あせふくしぐさも様になる

こよいだれかが郵便に
たくしたことばが川面に浮かび
ながれつくのはあの子の家の
はるかのきしたかなしみもうで

それとはしらずにぼんやりと
あのこは遠い求めに軽く応じて
かわらぬ声を手繰らせながら
はんどくらっぷ夜をつらぬく

よくあさひろがるかなしみが
なみ打ち際で行きつもどりつ
こころの糊代ズレはそのまま
なにもかわっちゃいないんです

とおい求めにゆられておきて
あちらこちらに変わらぬものが
みしらぬ誰かの招きに応え
けさはぐっすり休んでいます

こよいだれかが公園に
なくしたことばが川面にうかび
ながれつくのはあの子の家の
はんどくらっぷ手にやどる
それはわたしのそれともだれの

 

2020年8月

The Black Hole Understands/Cloud Nothings 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『The Black Hole Understands』(2020) Cloud Nothings
(ザ・ブラック・ホール・アンダースタンズ/クラウド・ナッシングス)
 
 
クラウド・ナッシングスというとハードなイメージがありました。ボーカルも声割れるぐらいシャウトするっていう。今回このアルバム、すごくいいいなぁと思って過去作も聴いてみたんですけど、やっぱそんな感じでしたね。
 
ところがこのアルバムはすごくポップなんですね。いや、今までも激しかったんですけど、曲はチャーミングだったようで、今回はアレンジも含めてポップっていうことで、だからすごく聴きやすいです。声割れてないし(笑)。ていうかどうしちゃったんだろうっていうぐらいソフトな歌声です。ただ相変わらずドラムはせわしないですな(笑)。ちなみにこのアルバムはリモートで作られたそうです。結果、元々持ってる彼らのメロディ・センスが前面にでてくるのが面白いですね。
 
そうそう思い出しました。過去作も普通に曲がいいからアルバム買おうかなって何度か視聴したことあったんですけどね、ただちょっとサウンドが好みじゃなかったっていう。でも今回はハードはハードなんですけどクラッシックなパンクっていうイメージで、クラッシュとかそんな感じ。ほらクラッシュも曲が抜群によくて細かいニュアンスちゃんと聴こえてくるでしょ。
 
あともっと古いところで言うと、ザ・バーズ。ああいうフォークロック的なニュアンスあります。3曲目の「An Average World」とかですね。我慢しきれなくなってかアウトロは激しくなりますけど(笑)。ずっと鳴り響くギターもいいですけど、丁寧にギター刻んでくるのがいいですね。
 
聴きやすいというところで言うと、ある意味邦楽ロックに通じるようなメロディっていうんですかね、起伏に富んでキャッチーなままいろいろ展開していくんです。洋楽に比べると邦楽はメロディのふり幅が大きいですから、割と馴染んできやすいと、そういう部分はあるかもしれません。ただ、このメロディ・センスはちょっとやそっとじゃ真似できませんね。
 
あと全体の構成が冒頭からアップテンポなのが続いて中盤は落ち着いたメロディ。インストもあって後半はまたテンポアップしていくっていう、まぁパターンと言えばそうなんですけどこれが見事にはまって、しかもトータル30分ちょいで、曲が抜群にいいですから、ホントに笑っちゃうぐらい全部いいんですけど、これはやっぱり最後まで集中して聴けます。もしかしたら傑作なのか?
 
ただ実はこのアルバム、サブスクでは聴けなくて毎月5ドル払うBandcampっていうサービスでしか聴けないそうです。すごくちゃんとしたサービスなんですけど海外もんなので僕は手を出せないでいますが、まぁ今回はYouTubeで聴けたっていう、ラッキーですね(笑)。ま、いつ聴けなくなるか分かりませんから、今のうちにしっかりと聴いておきたいなと。タダで聴こうなんざ不届きもんですな(笑)。
 
ちなみにBandcampでのこのアルバムの売り上げは25%が教育基金に寄付されるそうです。そしてこのアルバムではリモートでしたけど、続けて今度はみんなで集まって次のアルバムに取り掛かっているそうです。行動力のあるバンドなんだと思います。タダで聴いた報いに次はちゃんとお金払います(笑)。

グランド・ブダペスト・ホテル (2014年) 感想レビュー

フィルム・レビュー:
 

グランド・ブダペスト・ホテル (2014年) 感想レビュー

 

一人の女性が墓地を通り過ぎ、とある作家の胸像の前に立ち止まる。胸像にはいくつもの錠前が掛けられていて、女性も持参した錠前をそこに掛ける。彼女はベンチに腰かけ手にした本を開く。タイトルは「グランド・ブダペスト・ホテル」。そんな風にしてこの映画は始まります。

あらすじです。1930年代、さる東欧の国では由緒正しきホテルが人気を博していた。顧客は主にセレブリティ。特に年配のご婦人には絶大な人気を誇る。このホテルの人気を確たるものにしているのはコンシェルジュであるグスダヴ・H。そのおもてなしは微に入り細に入り、夜のおもてなしも辞さないというもの。ところが長年の顧客であるマダムに突然の訃報。彼女の遺産相続争いに巻き込まれたグスダヴは殺人容疑をかけられてしまう。

先ほど述べた冒頭のシーンに戻ります。本の裏表紙には作家の写真(※胸像の人ではない)。物語はその作家の回想でスタートします。若き日にグランド・ブダペスト・ホテルを訪れた時の記憶。そこで出会った深い孤独を刻んだ老紳士。その紳士は作家にかつて共に過ごした偉大なコンシェルジュ、グスダヴ・Hとグランド・ブダペスト・ホテルの物語を語り始める。

と、ここまでで、この映画は二重三重の入れ子構造になっていていることに気づく。ひとつ目が墓地の女性のシーンで、ふたつ目は彼女の本の中。みっつ目は更にその中の作家の回想で、よっつ目は作家の回想の中の老紳士の回想。というふうに物語は箱の中の中、またその中の中、といった具合に進んでいく。それはまるでおもちゃ箱のようで額縁の付いた紙芝居のよう。現に幕間が変わる毎にそれぞれのシーンを題したタイトルが画面いっぱいに表示される。

その映像は特徴的でウェス・アンダーソン監督は正面、真後ろ、若しくは真横からしか写さない。加えてシーン毎に統一したカラフルだけど淡い色使いは尚のこと紙芝居のような印象を与え、また登場するキャラクターはまるでスヌーピーのマンガのようにデフォルメされている。誰がどうという強いイメージ付けは控えられ、主役であろうが脇役であろうが同じトーンで語られる。ある意味平面的に、というか恐らく意図的に。有名俳優がバシバシ出てこれるのはそうしたトーン故、かな。そして全ての登場人物にどこかユーモア、どこか抜けているところがある、というのもチャーミングな点です。

映画はシュールでドタバタなブラック・コメディとして楽しめる。けれど特徴的なウェス・アンダーソン監督の映像美や不可思議さもあってファンタジーの要素も強くある。或いは追いつ追われつのクライム・ミステリーとして見る人もいるかもしれない。そのどれもが並列しているのは確かだが、やはり冒頭のシーンが気にかかる。

映画は「Inspired by the writings of STEFAN ZWEIG」という言葉で締めくくられます。シュテファン・ツヴァイクとは1930年代活躍したウィーンの作家だそうで、当時のウィーンはハンガリー・オーストリア帝国にありました。ユダヤ人への迫害もなく今で言う多様性が大いに認められた自由な雰囲気のその国家では文化的なサロンも充実し、シュテファン・ツヴァイクはそこでかのフロイトやカフカ、シュトラウスといった人々と交流を深めていったそうです。ツヴァイクは来るべき平和な世界をそこに見ていたのかもしれない

ところが時代はファシズムのが徐々に忍び寄るナチスが台頭してくる。やがてツヴァイクの祖国は完全に飲み込まれてしまう。そしてツヴァイクは自死を選んでしまう。絶望したのだろうか。

映画は基本的にはコミカルにテンポよく進んでいくがグロテスクな描写もあるのでご用心、ウェス・アンダーソン監督は要人物が最後にあっさりとああなってしまうことも含め、あの戦争のことを記憶させたかったのかもしれない。冒頭のシーンや「Inspired by the writings of STEFAN ZWEIG」という言葉は愛する作家、シュテファン・ツヴァイクを投影させ、自身の得意とする分野、得意とする手法であの戦争の時代を描くことではなかったか。

しかしそれはそれとして、絵本のように時折パラパラとページをめくり、或いは絵画のように部屋に飾って時折眺めたい、そんなチャーミングな作品であることは間違いない。まずはその世界に身をゆだねたい。

一筆書きの太陽

ポエトリー:

「一筆書きの太陽」

 

知らない人から埋もれていく
あれは
一筆書で書いた太陽

カラスは小躍り
自信なさげな僕はぐったりして
見知らぬ扉
ただぼんやりして開け放つ

短い夏
時間が惜しいから
タンスの奥から貯金を引き出した
溜まりに溜まった鬱を
振り込める先
一筆書の太陽

幼い時から騒いだりして
散らかしっぱなし
半透明に覆われた温もり
大事にしたいこだわり

更には言い逃れようと
アスファルトに立つ静かな熱気
夢中になって静かに荷ほどき
平らになった地面が余程気持ちいいのか
ひたすら横になっていたっけ

しばらくするとウサギの耳
ピンと立つように
ある日のこと思い出し
蛇腹になった未来を
出来るだけ目一杯
伸ばしてみた

それが唯一の自信
狭い報告に
一喜一憂するより
先頭切って走る短い夏
それが暴れ回る前に
そっと肩を叩き
そら、あれが太陽ですよと
よせばいいのにその気になって
軽く一筆書きする真似をする

濡れ落ちる太陽
踏みしめる唯一の自信
それがあればよかった

 

2020年8月

Fetch the Bolt Cutters/Fiona Apple 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
「Fetch the Bolt Cutters」(2020)Fiona Apple
(フィッチ・ザ・ボルト・カッターズ/フィオナ・アップル)
 
 
心に(或いは頭に)浮かんだものをそのまま表現出来ればよいのだが、形がないものを目に見える形に変換することはそう容易なことではない。それができるのが芸術家ということかもしれないが、芸術家だって思いのままを表現できるなんてことは稀であろう
 
試行錯誤なんていうけれど、実際はバッと書いたもん勝ちというか、頭からケツまで一気に出来てしまうのが一番強い。先日、棟方志功の映像を見たけどあれが芸術家ってもんだ。推敲すればするほど当初の感覚が薄れ、ダメな方へ向かうのでは思うのは僕が素人だからか。
 
ただ棟方志功だっていつもスッパリ出来てしまうというわけにはいかないだろうし、わけ分かんなくなって途中でやめた、なんてことがあるかもしれない。音楽界で言えば、天才の名をほしいままにしてきたフィオナ・アップルにしても作品ごとのインターバルがやたら長いのはその証左であろうし、逆に言えば満足できるものでなければ世に出さないという、これも芸術家としての態度。
 
今コロナ禍にあって大きなプロジェクトが組めない中、それぞれがリモートや宅録で作品をリリースしている。面白いのはそのどれもが最も大事な生な感情を出来るだけ簡素にパッケージしたようなシンプルなサウンドになっていること。そうなってしまったというニュアンスが強いのかもしれないが、あの手この手が入らず、初期衝動から最も距離が短い方がより本質を伝えることが出来るのは当然といや当然。
 
しかしフィオナ・アップルの『フィッチ・ザ・ボルト・カッターズ』はそうなる前からそのように作られた作品として明らかに毛色が異なる。そうなったのではなく、そうしたくてそうしたという意味合いは大きい。これはいかにすれば初期衝動を最短距離で(若しくはそのまま)パッケージできるかを突き詰め、尚且つそれを表現しうる技量を持ち合わせているフィオナが自らの意思で作り上げたフィオナ主導の作品だ。
 
心に(頭に)浮かんだものを出来るだけ形を損ねずに作品として変換させることは容易ではない。技量やセンスだけでなく、既存の表現に引っ張られることだってある。そこから如何に自由になるか。言ってみればそこが腕の見せ所だろう。
 
この作品はフィオナの中にある芸術衝動が出来るだけ形を損ねずに表出され、けれどそれが聴いてワクワクするような音の塊に翻訳されたフィオナ独自の大衆音楽である。