粗忽ながら

ポエトリー:
 
「粗忽ながら」
 
 
 
音楽の種類にロックとかヒップホップとかブルースとか色々ありますけど、大きな括りで見ればこれら全てはポップ・ソングということになると思います。つまり大衆音楽ですね。これを文学に置き換えてみると、俳句や短歌は詩に含まれると言えるのではないでしょうか。
 
けれど詩は大衆のものか。これにはいささか疑問符が付きます。俳句や短歌が多くの人に愛されているのに対し、詩は何か僕たちの生活とはかけ離れた存在であるように思います。
 
詩というのは例えば、中原中也や山田かまちのような感受性の強い繊細な人が書くもの、というイメージはないでしょうか。また、ポエムという響きには不思議ちゃんが書くものというどこか馬鹿にしたイメージがあるかも。現代詩はどうでしょう。もうイメージも湧かないくらい遠いものですよね。一部のインテリが勝手にやってる感じ(笑)。まぁそれぐらい遠い存在だと思います。
 
でも詩というのは本来自由なものなんです。多くの人が俳句や短歌を気楽に楽しむようにただ風景を歌うもの、好きな人を想って書くもの、ちょっとした妄想や空想、ユーモアであったりシュールな世界だったり、そんな気楽で何気ないものなんです。
 
僕は詩を読むのも詩を書くのも好きですから、詩も俳句や短歌のように出来るだけ多くの人に親しんでもらいたいし、楽しんでもらいたい。詩はもっと日常に即したものなんだよというのが僕の意見です。勿論芸術足りえるようなエネルギーに溢れた詩もありますが、それは俳句や短歌も同じこと。一行や二行でもいい、教科書の隅に書いた落書きだって詩なんです。
 
てことで以下はこないだの日曜、ママチャリに乗ってる時に浮かんだ僕の空想です。ホント我ながらくだらないなぁと思いますが、なんか文章にするとそれっぽくなってませんか。ん?なってない?ま、本人が楽しけりゃいいんです(笑)。
 
 
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「粗忽ながら」
 
 
 

自転車で 荷物を落とした
振り返ると 人が手招く
自転車を止めると わたしは小さな丸になり
自転車の脇を 跳ねていった

毬になったわたしは 道を右に折れ
迷うことなく 皆の憩いの場 公園へ向かう
サッカーに興ずる子どもらが 毬を蹴り返し
誰に蹴り返したのかと 先を見やれば
手招く人がわたしを拾い上げ 小脇に抱えた

あなたはだれですかと尋ねると
わたしはあなたですと答え
毬のわたしは自転車のカゴへ
二人は仲良くお家へ帰った

家へ着くと 毬はおもちゃ箱
わたしは2階へ上がり 家族と夕飯の支度を始めた
誠に粗忽ながら 自転車から落ちたのは一体何だったのか
わたしは もはやなにがなんだか分からなくなっていた

 

2020年11月

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