詩のルール その②

詩について:
 
詩のルール その②
 
 
これは僕の意見ですが、詩に分かりやすいとか分かりにくいとか難解だとかそうじゃないとかは関係ないと思っています。例えば音楽。ボブ・ディランはノーベル文学賞を獲りましたけど、あの歌詞をちゃんと分かっている人がどれだけいるか。少なくとも僕には分からない(笑)。ちゃんとには恐らくディラン本人にしか分からない。でも世界中にファンがいる。何故か。極端に言えば、皆そこに重きを置いていないからです(笑)。
 
絵画で言えばゴッホ。日本でもしょっちゅう展覧会があって、いつも大盛況ですけど、決して分かりやすい絵ではないですよね。もっと言えばピカソ、クレー、カンディンスキー。凄く人気がありますが、あの絵は理解できるか。僕も好きですけど、全然理解は出来てません。つまり鑑賞する側にとって理解できるできないの優先順位はそんなに高くはないのです。何か感じるものがあればいい。それが自分にとってよき作用をもたらすものであれば、それでOK。それだけのことなんです。
 
だったら詩だってそれでいいじゃないか、というのが僕の考えです。まどみちおの詩は分かりやすいって言うけど本当だろうか。吉増剛造の詩は難解って言うけど本当だろうか。まどみちおの詩はシンプルだから愛されているわけではないし、吉増剛造の詩は難解だからありがたがられているのではないのです。シンプルな詩を書く人、難解な詩を書く人、世の中にいくらでもいますが、その中でまどみちおや吉増剛造は愛されてきた。それは何故か、ということですよね。
 
時々、テレビでピアノ上手い王決定戦とか、歌が上手い王決定戦みたいなのやってますよね。どうやって点数付けるかっていうと、ピアノの場合はミスタッチをした回数が減点される。歌の方は機械が音程から外れてないかとかを判定する。言ってみればどちらも減点法です。日本的で嫌ですねぇ(笑)。もしかしたら詩もこれと同じように判定しようとしているのかもしれない。ここの意味は分かるか。これは何を比喩しているか。分からなければ×、あなたは詩が理解できない人です、という風に。
 
そうなれば誰もついてこないですよね。勉強が苦手な人が勉強を嫌いになるように、詩は理解できないなら、私には関係ないやって、好きになるはずはない。けどそんなことないよって僕は言いたい。勿論、人には向き不向きはありますから一概には言えませんが、音楽や絵画を楽しんでいるなら、詩だって同じように楽しむことが出来る。世の中、もう少し気軽に詩に接近できるムードがあればなぁって思います。

詩のルール その①

詩について:
 
詩のルール その①
 
 
詩にルールはないんですね。好きに書けばいい。勿論、人によってはそんなの詩じゃないとはっきりという人がいるかもしれませんが、基本的にはルールなんてないと思っています。個人的なことを書いてもいいし、世界について書いてもいい。でも長く書いていると自分の中である程度ルールが出来てきます。何でもありのはずが何でもありじゃなくなってくる。困るのは人の詩を読むときにそのルールが顔を出してしまうこと。それが冒頭で述べた、そんなの詩じゃないという判断に繋がっていくのかもしれません。
 
詩に分かりやすさは必要か。永遠のテーマに思えますが、これについて答えは出ているような気がします。つまり特に分かりやすさは必要ないということです。世に出回っているアートと呼ばれるものの多くが分かりやすさでもって書かれていません。分かる分からないはあくまでも結果です。自分の想像力を張り巡らせて思うがままに書いたものが、結果分かりやすかったり分かりにくかったりする。それだけのことかなと思います。
 
書き手は思うがままに自由に書けばいい。詩に分かりやすさは必要、なんてルールはないのです。絵画にしても音楽にしても作家はやりたいようにやればいい。それが創造するということではないでしょうか。人に分かってもらいたいから、人に評価されたいから、そういう理由で作っているわけではないのなら、創作に関しては自分のエゴをぶつけてしまえばいいと思います。
 
とはいえ誰にも相手にされないのはさびしいですよね。だから自分の作品の形を少し変えてみる。多少は道をならしておく。皆に喜んでもらえるようにラッピングしてみる。そういう工夫があるのだと思います。
 
ここからは僕の好みになります。詩は一言一句、分かる必要はないと思います。ただその詩の持っているムード、何を言わんとしているのか、そこから放射されているものは何か、それはキャッチしたいと思います。そしてそれは必ずしも作者の意図していたものでなくてもいいと思っています。逆に言うと、僕は皆が皆同じ解釈をしてしまうタイプの詩にはあまり興味がありません。つまり僕という個性は元々分かりやすさを好んでいないということなんですね。そのくせ、なんだこれ分からんなぁと四苦八苦する。つまり詩に関してはドMなんです(笑)。だから自分の書くものもヘンテコなものになってしまうのかもしれません。
 
 
その②へ続く。。。

シン・ウルトラマン(2022年)感想

フィルム・レビュー:
 
『シン・ウルトラマン』(2022年)感想
 
 
リアルタイムで観ていたわけじゃないのですが、僕が小さい頃はよく再放送をやっていて、断片的にですけど初代ウルトラマンを観ていました。だから映画の中に出てくる小ネタ、というかホントの小ネタになるとマニアじゃないと分からないとは思いますけど、ちょっとしたネタなんかは分かるんですね。だから劇伴なんかも当時のそれっぽい感じで初っ端から「おお!」って盛り上がるんですけど、初代のテレビ・シリーズを観たことがない人はどうなんでしょうね。ちなみにエンドロールを見てたら劇伴は当時のものをまんま使ってましたね(笑)。
 
あとやっぱり『シン・ゴジラ』ですよね。どうしてもあのイメージがあってその延長線上を期待してしまっていて、冒頭の禍威獣(←怪獣のことです。『シン・ウルトラマン』ではこう呼びます)が続々と出てくるシーンで、あ、これはリアル路線で見ちゃいけないなと、あくまでも空想科学モノとして見ないとなと思い直したんですけど、なかなか自分の中で軌道修正できなかったです。『シン・ゴジラ』と同じように自衛隊とか政治家が出てくるので、どうしてもそういう目で見てしまう。ただ実際のところ、作り手側もリアル路線に後ろ髪引かれる思いがあったのかなと。政治家絡みのシュールな場面はもう少しユーモアを強調しても良かったかなとは思いますが、その辺がちょっとどっちつかずだったかなとは思いました。
 
それと僕は邦画を見る時に、テレビドラマもそうですけど、俳優をその俳優として見てしまいがちで、例えば福山雅治はどんな役をしていても福山雅治としか見れないんです。でも時々そうじゃないときがあって、福山で言うと是枝監督の『父になる』ですよね、あれなんかは福山としてではなく、ちゃんと役として見れてくる。だから映画を観る時の僕の良し悪しの判断はそういうところだったりするのですが、今回で言えば主役の斎藤工がちゃんと役名になっていて、そういう意味では雑念なくちゃんと映画を観れていたかなと思います。あ、山本耕史の胡散臭いメフィラス星人も良かったですね(笑)。それ以外は、、、言わないでおきます(笑)。
 
ネタバレになるからあまり言いませんが、ラストももう少し何とかならんかったかなぁと。CGばっかというのはねぇ。。。ただウルトラマンの造形は素晴らしかったです。変に小綺麗にならずに、ちゃんと皮膚感というかなんとなくウェットスーツ感も残っていて、そういうリアルさはありました。あと空を飛ぶ時の形ですよね、昔のままというのが嬉しいです。というようなところで、やっぱ初代を何となく知っているからこその楽しみがいっぱいあって、僕は楽しかったし、それに大きい画面でウルトラマン見れただけでテンション上がっちゃう口なので、映画館で観て良かったなと思いましたが、全世代的に男女問わず楽しめる映画かと言われると、少なくともうちの奥さんは見ないだろうなとは思いました(笑)。僕はもう一回観たいぐらいですけど(笑)。
 
あと少し真面目な話をすると、ガンダムの富野由悠季監督がある対談で、頭のいい理系の奴らが世界を悪い方に持っていく、なんて話をしていたんですけど、この映画でも巨大化であったり時空を歪めるなんてのを理系の賢い人は際限なしに本能で突き詰めていってしまう、結局それが戦いの道具になってしまうというような悪循環が裏テーマとしても流れているような気はしました。
 
それとセクシャリティーに関する問題ですよね。これはもう今や音楽でも何でもそうですけど、ここのところの表現をいかに真っ当に出来るかというのが非常に重要で、若い世代では特にもう当然のように捉えているところだと思うのですが、そこでの認識が非常に甘いなと思いました。これではやっぱり昭和世代のクリエイターの作品だなと思われても仕方がないし、そういう意味でも幅広く支持はされないだろうなとは思いました。

記録

ポエトリー:

「記録」

不意にかすめた
左目の奥には
少し濃いめの
小さな記録

配線は
緩やかな円を描き
頭の位置で
ショートする

ひとり占めしていた
短い夏の思い出は
両手を挙げて
それは見事なさようなら

もちろん
思い出すことなど
なかったよ
だってもうこれは、
期限切れだからね

 

2022年5月

言葉のない夜に / 優河 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『言葉のない夜に」(2022年)優河
 
 
いわゆるUSインディー・フォークと呼ばれる系譜にあたるのだろか。優河の音楽は今回初めて聴いたのですが、冒頭の数十秒で確信しました。あ、これオレの好きなやつや。
 
USインディー・フォークというとフリート・フォクシーズとかビッグ・シーフの名前が浮かびますけど、1曲目の『やらわかな夜』を聴いた感想はマイロ・グリーンですね。あんまりメジャーな存在じゃないですけどコーラス感とかピアノの入り方が彼らの1stアルバムに近いような感触がありました。
 
続く『WATER』はこのアルバムの特徴である優河自身による多重コーラスが独特の浮遊感を出しています。時折聴こえるエレピかな、シンセかもしれないですけどズレたような相打ち音がとても心地よいです。描かれる景色に一気に引きずり込まれる感じですね。
 
3曲目『fifteen』、なんでフィフティーンっていうタイトルか分かりませんけど、聞いた瞬間ノラ・ジョーンズだ、って思いました。あのくすんだ声、スモーキーなんて言われますけど英語で歌うと同じなんじゃないかと思うほどそっくりな声です。この曲はギターがいいですね。すごく印象的に鳴っていてこの曲に関してはロック色が強く出ています。もう1回言います。ギターがすごくカッコイイ。
 
続く『夏の庭』も独特の浮遊感が漂っています。タイトル通り、夏ですよね。そこで描かれる景色も少しけぶっているでしょうか。2分ちょいの短い曲ですけど、メロディもバンドも声も完璧に近いですね。素晴らしいです。優河はあるインタビューで、悲しみを帯びた曲だと言葉や演奏がすでに悲しいのだから、ボーカルまで悲しくなってしまうと情緒過多になる、と語っています。そういう意味でこの曲なんかはそこでバランスを取る彼女のボーカルの妙がすごく出ているような気がします。
 
5曲目『loose』も『fifiteen』と同じくロック色の強い曲です。この曲はドラムが印象的な活躍をしますね。あとこのアルバムで欠かせないのが電子ピアノです。僕も大好きなフェンダーローズやウーリッツァーが沢山使われています。この曲ではメインがローズでそこに印象的なピアノのフレーズが入ってくる。ホント、素晴らしい演奏でうっとりします。
 
アルバムで演奏しているのは魔法バンドの面々です。元々、優河の前のアルバム『魔法』に参加していたミュージシャンがそのままバンドという形をとって、以来、ライブやレコーディングを共に行っているとのことです。折坂悠太の重奏とかカネコアヤノバンドみたいな感じですかね。自然発生的に生まれたバンド、故の説得力があります。
 
6曲目の『ゆらぎ』。アルバムの中で一番強い光を放っているのはこの曲でしょうか。先ほど述べたボーカルの曲へのアプローチがこれまた凄いですね。バンドメンバーもほれ込む優河の声、確かにある一定の声音というのはあるのですが、アルバムを聴いていると、彼女は曲によって歌い分けているのが見て取れます。声の質感が曲ごとに違う。この曲では声で曲をリードしていくというか、声が前に来ていますね。特に最後のコーラス、「愛が・・・」とリフレインしつ最後へ向かい着地する部分は多重コーラスも相まって声の力が凄い。このアルバムのハイライトのひとつですね。
 
コーラスの美しさだと次の『sumire』でしょうか。曲調は全然違いますけど、通底するところは『夏の窓』に近い曲のような気もします。こっちはもう少し明るいイメージかな。僕はこのアルバムで初めて優河を聴いたのですが、前作までコーラスはしてこなかったそうです。どんな感じだったのか気になるのでこれから聴こうとは思っていますが、とにかくコーラスは今回から始めたと。で、やってて面白かったからデモでは全曲コーラスを付けてるそうです。となればそれも聴いてみたい気がしますね。
 
『灯火』はドラマの主題歌になりました。ということでドラマサイドから要望があったのかなと思わせる他の曲とは異なるトーンがありますね。一言で言うと派手(笑)。なんてったってサビで始まりますから。ただ違和感があるかといえばそうでもない。この辺は魔法バンドの流石の存在感といったところでしょうか。でもこういう曲がポンと入ることで全体としてのスケールの大きさに繋がっていると思います。
 
で、『灯火』で一旦しめて、最後の『28』は夜明けを迎えるような作りになっています。もう完全に太陽が出てきていますね(笑)。こういう明るいトーンで終わるところに彼女たちの意思が表れているような気がします。28というのはどういう意味だろうか?1周回って明け方の4時ということでしょうか。4時だとまだ暗いか(笑)。
 
アルバム・タイトルにあるように言葉がキーワードになります。言葉というのは実態があるようでない、言わば借りものの器です。人々の間にはなにがしかの共通の意思疎通アイテムが無いとコミュニケーションは図れませんから、我々は仮に嬉しいとか悲しいとか丸いとか赤いとかを名付けているんですね。でも正確に言うと、例えばあなたが今朝食べた食パンは昨日のそれとは違う。食パンもあなたの体も1日分変化している。大げさに言うと、今朝のあなたの食パンを食べるという行為は人類史上初めての経験なわけです。であればそれに的確に当てはまる言葉はこの世にもまだ存在していないということになります。でもそこになんとかして既存の言葉、我々で言うと日本語を使って言い表そうとする、というのが詩人の仕事なのかなと思っています。
 
つまり、というような理由で優河は言葉というものを当てにしていない。けれど逆に言えば言葉を非常に大切に思っているとも言えます。このアルバムの抽象的な歌詞は慣れていない人からすると難解に聴こえるかもしれない。そんなもってまわった言い方をしないで、例えば悲しいなら悲しいって言えばいいじゃないかって。ただ、みんなが即座に理解しうる言葉、インスタントな表現で即座に理解してもらえたとて、そこに何の意味があるだろうか。であればわざわざ歌う必要はないのではないか。つまり言葉で表現することに対して、優河は出来るだけ誠実であろうとしている、ということなんだと思います。
 
夜というのは人々が思いふける時間帯ですよね。時には眠れない夜を過ごしたりもする。そこには簡単に言葉をあてはめられないものです。けれど我々は言葉を探そうとする。そう考えると『言葉のない夜に』というタイトルもなかなか深いものがありますね。

サヨナラ

ポエトリー:

「サヨナラ」

見違えたよ
その喋り方
見違えたよ
その微かに目にかかって前髪
急にどうしたんだいという声に備える君の
億劫な瞳

いつでもどこでも
見ず知らずの人に喋りかけられるようにいたい
そんなことを仲良しの友達にも言う君に
僕たちは悪気がないようクスクス笑った

そんな日の明け方、
僕たちの靴下にはよじれたような染みがあって
けどそれには目もくれずおしまいの証、
サヨナラと
手を振りあったりしたんだよな

 

2022年3月

OOPARTS / 羊文学 感想レビュー

邦楽レビュー:

『our hope』(2022年) 羊文学

 

聴いて一番に思うことは塩塚モエカの声が力強くなったということ。いや、力強くなったというだけじゃないな。彼女はきっと語り部になったのだと思う。物語があって、そこに自分自身の喜怒哀楽は立ち入らせない。表現者としてまた一歩、前へ進んだのだと思う。

ではあるけれど、音楽というのはボーカルだけじゃない。彼女が歌わなくてもバンドが表現してくれることがある。その取捨選択が見事だなと思う。つまりバンドとしてもまた一つ、ステージが上がったということ。サブスク時代にあって歌以外の部分は飛ばされることが多いけど、こと羊文学の音楽の聴き手に関してはそんなことしないかもしれない。

リズム隊であったり、コーラスであったり。ボーカルであったり、ギターであったり、3ピースではあるけれどこれだけ音がまとまってガッと届いてくるバンドはそうはいない。いくら塩塚モエカの才能が素晴らしくとも彼女一人ではここまでの音楽にはならなかった。突出した塩塚モエカのバンドではなく、どこからどう見ても羊文学というバンドでしかないというのが清々しい。

その清々しさはやはり3人の曲に向かうアプローチから来るのだと思う。よい意味で淡々としているというか、勿論実際はそんなことはないのだろうけど、入れ込まなさ、というのが背後にあるのではないかと。メロディーありき言葉ありき曲ありき。そこにどうアプローチしていくかしかなくて、ああしてやろうとかこうしてやろうといった気負いがない。それは恐らく前作やコロナ禍であってもライブを続けてきたことの成果であり、曲に向かっていればよいのだという自信の表れなのかもしれない。#7『くだらない』での深刻でありながらも淡々とした疾走感と、だからこそのやるせなさはそれを端的に表している。

オープニングの『hopi』は暗い夜更けを朝へ向かってゆっくりと進む船になぞらえた曲。その後、何気ない日常を描いた#6『ラッキー』から宇宙規模の#10『OOPARTS』(この曲はイントロがThe1975を思わせるね)まで、様々な世界をめぐりつつ、けれど最後の#12『予感』では結局「おやすみ」としか言えないというのがたまらない。

OTODAMA’22~音泉魂~ 2022年5月5日 感想

ライブ・レビュー:
 
OTODAMA’22~音泉魂~ 2022年5月5日 感想
 
 
5月5日、7日、8日に大阪は泉大津フェニックスで開催される音楽フェス、音魂’22の初日に行ってきた。他の音楽フェス同様2年ぶりの開催だそうだが、僕が参加するのは今年が初めて。やってるのは知っていたし、なかなか素敵な出演者が揃っているなという印象もあったので、近場だし、なんなら自転車でもいけるのでそのうちにと思っていたが、今回はグレイプバインにくるり、そしてなにより羊文学が来るということで、これは行かねばと再開一発目の5/5(木)初日のチケットを購入した。
 
ステージは2か所で交互の演奏になる。演奏が終わると割とすぐにもう一つの場所で演奏が始まるので、続けて次のステージを前の方で観ようと思っても間に合わない。でもどこにいても演奏はしっかり聴こえるので特に問題はない。このどこにいてもすべての演奏を聴く事が出来るというのはこのフェスの利点やね。あと中央にシートエリアがあって、地べたに座るところとイスを置いて座るところが別々に区切られているのがよいです。もちろん飲食OKなので、皆ゴザを敷いてゆったりと鑑賞している。アルコールOKでしたけど、バカ騒ぎをしている人は皆無でとてもマナーのよい環境でした。
 
僕の一番のお目当ては羊文学。新しいアルバム『OOPARTS』も素晴らしかったもんね。久しぶりのフェスということで観る方もちょっと緊張していたと思うけど、華やかで茶目っ気たっぷりの羊文学がそれを吹き飛ばしてくれました。こういうキャラの人だったんだと(笑)。そんなことを知れるのもフェスのいいところです。
 
もちろん演奏も素晴らしかったです。とても3ピースとは思えない分厚いサウンドで、いわゆるシューゲイザーですけどギターの響きがとても心地よかったです。途中で気付いたんですけどベーシストはギターを弾いてましたね。ベースはコンピュータか袖で誰か弾いてたのかな。3ピースなのでその辺は臨機応変にということでしょうか。ボーカルも力強く安定していて、見た目は華奢ですけど、芯のある鍛えられた声ですね。新しいアルバムでも声が力強くなったなぁという印象を受けたのですが、生で聴いてそれを確認することが出来ました。険しい顔して結構ロックな歌い方が格好いいんですが、MCになるとほのぼのとしたキャラになるギャップ萌えも〇。
 
あと新しいアルバムが出たばっかりでそのことにも触れていたんですけど、そこからは1曲しかしないっていうのが計算なのか天然なのか(笑)。とにかく期待に違わぬ、というかそれ以上でますます好きになりました。
 
ただこの日、僕がガッツリ聴いた中で最高だったのはグレイプバインでした。もうめちゃくちゃかっこよかったです。特に昨年のアルバム『新しい果実』からの3曲が最高でしたけど、中でも『阿』は圧巻でしたね。田中和将の咆哮が辺りの空気を切り裂いていました。アルバムも良かったですけど、ライブだと尚のこと素晴らしかった。やっぱりこの人たちはライブの人なんですね。「今日みたいな天気に合わせて」と言って、随分と昔の『風待ち』も演奏してくれました。当時は僕もまだ20代でしたけど大好きな曲だったのでとても嬉しかったです。そうそう、ライブ中は喋らないという評判でしたけど、結構気さくに喋ってましたよ。関西人らしくもっちゃりと(笑)。
 
ところでライブ前のチューニング、本人たちがやってました。あまりに普通にごちょごちょやってたから、観客の方も歓声あげるタイミング逃したみたいな感じになっていました。え、あれ、本人ちゃうんって(笑)。
 
そしてグレイプバインの次がくるり。なんで立て続けやねん!前で観られへんやんか!と思っていたのは僕だけではなかったと思いますが、これは正解でしたね。あのグレイプバインのすぐあとは並みのバンドじゃキツイです(笑)。でゾロゾロとくるりのステージへ向かったのですが、こんなに人おったっけ?というぐらいの大観衆でした。流石くるり、すごい人気やね。
 
『上海蟹~』や『ばらの花』といった有名曲で始まり、田中和将より更にもっちゃりとした岸田繁の関西弁を挟みつつ、『すけべな女の子』で勢いつけてって感じでしたけど、最新アルバムの『天才の愛』からはひとつも演奏しなかったのが残念だったかな。くるりのハイライトは最後に演奏した『街』。僕は初めて聴きましたが調べてみると2000年の曲なんですね。『青すぎるそらを飛び交うミサイル』という歌詞があったり、最後に世界の都市名を連呼したりというところで、思うところがあってこの曲を選んだのだと思います。全身全霊を込めて歌う岸田繫の姿に心を打たれた人も多かったはず。僕もその一人でした。
 
5月初旬にしては暑かったですけど、夏に向けてよい肩慣らしとなりました。屋台はそんなに期待してなかったんですけど、結構充実してましたよ。すごい行列でしたけど(笑)。今度来るときは家から食べ物もって行ってもいいかもですね、真夏じゃないから痛まないし。あと会場全体が芝生ってのがいいですね。足にやさしい(笑)。暑さも軽減されるんじゃないでしょうか。こんな近場でこんなに素晴らしいフェスがあるなんて滅多にあることじゃないので、これからは毎年チェックしようかなと思っています。

朝の光

ポエトリー:

『朝の光』

 

緩やかな髪のウェーブに光がさして
それは朝の光だから見ることをやめない
ずぶ濡れの夕べの記憶は
バタートーストと共に
喉の奥に流れた
はず

今朝みたいにたっぷりと時間がある日は
コーンスープをしっかりと
飲み干すだけの余裕が私にはある
これも、はず

朝からつまらない冗談を言う父親の
気の抜けた声にはまるで覚悟がない
これが我が家のトップランナー
けれど贅沢は敵
私はある程度の相槌が打てる子だ

たかが一年ばかり早く生まれただけで先輩面するアイツにも教えてやらねば今朝のスローガン
贅沢は敵

小学校の時に覚えさせられた寿限無が頭を離れない
水行末ならぬ水餃子
コーンスープと合わないことは知っている
それはとても大事なこと

緩やかな髪のウェーブに光がさして
けれどまだ勝ち名乗りはするなよ
今日はまだ始まったばかりだということを忘れるなよ

 

2019年5月

Love All Serve All / 藤井風 感想レビュー

邦楽レビュー:
 

『Love All Serve All』(2022年) 藤井風

 

日産スタジアムでの無観客一人ライブがあったり、紅白歌合戦で特集を組まれたりと大飛躍の2021年となったわけだが、ここでアルバムとしても売れて、よい評価も得て、いよいよ邦楽シーンの顔になろうかという、言わば勝負のタイミングでリリースされた本作。

とにかく曲が抜群にいいです。複雑なメロディーだけどスムーズに進行して、印象的なサビで一気に持っていくっていう、最高にキャッチーなポップ・ソングです。あちこちで韻を踏む言葉選びの巧みさとかもそうですけど、この辺は考えて出来ることではないと思うので、初期衝動のなせる業というか、今は凄くいい状態で曲が出来ているのかなぁと想像します。キラー・フレーズも満載だし、一度聴いたら頭から離れないですね。
 
ただ、それでいいのか藤井風、というのが実はありまして、最初から最後までいい曲ばかりだし、聴いてて心地よいし、非常によくできたポップ・ソング集だとは思うのですが、そこからの広がりですよね。なんかこう期待してたのとちょっと違うなぁと。もっと個性的なのがグワッと来るのかなと思ってたんですけど、普通にええアルバムやんていう。
 
ピアノの前に座って、一人で歌ってるときは個性の塊でめちゃくちゃ格好いいんですけどあの他とは一線を画する突き抜けた個性がアルバムになるとなんか薄っすらしてるなぁと。そこは多分アレンジなんだと思うんですが、その90年代ぽい、久保田利伸っぽいアレンジがあまり魅力的なものになっていないような気はします。曲はいいしボーカルはいいし、そこにビタッとはまるサウンドがあれば最高なんだけどなぁと思ってるのは私だけでしょうか。既視感のあるシンセのフレーズはなんだかなぁ。。。
 
ただアレンジに関しては、最近は宇多田ヒカルの『BADモード』でも編曲に加わっていたA.G.クックと一緒になんか始めたみたいなので、フットワーク軽く今回はこれ、次はこれっていう風に決めつけはせずコロコロ変えていくタイプなのかもしれません。それはそれで面白いとは思いますが、今回のアルバムに関しては決め手に欠ける気がしました。
 
アルバムは凄く売れて、多分これから先もしばらくは売れ続けるとは思いますけど、万人に好かれるポップ・ソングを作る人ではなく、好きなことをめちゃくちゃやって、僕ら凡人の理解を超えていく作品を残してほしいなとは思います。藤井風っていいよねじゃなく、なんか分からんけど、すげぇっていう。やっぱ彼にはそっちを期待してしまいますね。いいアルバムだとは思うんですけど、あの圧倒的な存在感とかいい意味での異物感が薄まっちゃったかなぁというのが正直な感想です。