Month: 7月 2021
二十億光年の孤独 / 谷川俊太郎
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
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美しが丘
ポエトリー:
「美しが丘」
短い嘘から始まる勇気
間近に迫ったたった今
極端に曲がったガードレール越しに
心臓破りの丘、初めての勇気
思い出してもみよ、これみよがしに
打ち解けた日のお祝い
初日の美しヶ丘
できあがったばかりの首を固定して
春の心地、外へ出かける
十分な潤いに滑りだす
ガシッとコンクリートを掴む足
歩く度、増えるキズに
新品ではなくなることの心地よさ
近くを歩けるだけ歩く
腕を振る角度は固定されていても
その看板に偽りはない
いつからか分からない
毛の生えた程度のドキドキ
心は晴れやかに落書き
そこに飛び出すカラスは西から
雲がよぎり長い影がひとつ傾いて
問題ない、ふたつでひとつ
心の中の相棒に語りかける
四時間ばかり先のこと
口からでまかせのハカリゴト
ことあるごとに口を開き
サブタイトルに心を開き
誤魔化さないでと
虚ろな眩しさたおやかに
ガードレール越しに
心臓破りの丘、初めての勇気
傍には大いなる古時計があって
存分に仰ぎ見る太陽
銀色に光るボディ
視線を投げて光る初日の美しが丘
はじめまして、
私はニンゲンというものですと
丁寧にお辞儀す
2021年5月
夜の招待 / 石原吉郎
詩について:
「夜の招待」 石原吉郎
窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふあんでふち取って――
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子がゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる
(『サンチョ・パンサの帰郷』1963年)
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石原吉郎さんと言えば、背景が背景なものでつい深刻な顔をしてしまいがちですが、この詩はなんかパッと明るい感じがしました。明るいと言ってもやはり冷めた目線というか、「朝は 約束をしにやってくる」といえどもそこまで信じ切っていないというか。ただ僕の印象としては望みを託している方に気持ちは傾いているのではないかと思っています。基本的には石原さんの希望の詩なんだと思います。ていうか実際に希望の朝を迎えた時の、実体験に基づいた詩なのかもしれません。とまぁ、ここでもシベリアの強制収容所という石原さんの背景を見てしまいますが。
冒頭から‘ぴすとる’が鳴ったり‘かあてん’に火が付いたり戦争を想起させるような描写はあります。ただここで‘ぴすとる’や‘かあてん’と平仮名で表記しているところで印象はやわらぎますよね。ここに何か意味はあるのかなと思っていると、‘まちかまえた時間’、つまり争いごとが終わることが示唆される。平仮名はそういうことかもしれません。
‘にわかに寛大になり もはやだれでもなくなった人と 手をとりあって おうようなおとなの時間を その手のあいだに かこみとる’。この箇所、全部記載してしまいましたが、最高の言い回しですよね。‘もはやだれでもなくなった人’といった表現や‘おうようなおとなのじかん’といった表現、もうそれとしか言いようがないですね(笑)。
とにかく、平和な時間が訪れて、そばには象がいて、ここで言う象とは必ずしも動物の象のことではなく、人々ということかもしれませんが、いずれにしても‘おうよう’とした存在がある。そして‘来るよりほかに仕方のない時間が’やって来ることの見事さに石原さんは感動されているのです。
次の‘切られた食卓の花にも’から先のくだりは自由の象徴です。例えて言うと革命が起きて自由な世界が訪れる、歓喜の輪が広がってゆく、そんなイメージです。遂には手の中にある色とりどりのクレヨンまで溶けてしまう。それまでの考え方や思想までが溶けていくということです。
そして最後に‘朝が 約束をしにやってくる’わけですけど、ここではまだ朝はやって来ていない、まだ歓喜の中、人々が作り出す明かりはあるけれどまだ夜の闇の中にいる。今の段階では約束はまだできていない、そんな状態でこの詩は幕を閉じます。
とはいえ、これらはあくまでも僕の解釈です。それとて時間が経てば変わりゆくもの。僕は石原さんのシベリア体験と結びつけてしまいましたが、ここに戦争の影を見る必要はないし、そうではない読み方はいくらでも出来そうです。単純に夜が朝に変わる様とかね。いずれにしても何かが終わり何かが始まる、そんな気分をもたらす作品かもしれません。
個人的な話でなんですが、僕の祖父は終戦後、シベリアでふた冬を過ごし帰ってきました。祖父は近寄りがたい人だったので、喋った記憶はほとんどないのですが、石原吉郎さんの詩を僕はどこかに祖父を感じながら読んでいるところがあります。ですのでこの「夜の招待」には、あの時解放された人々の風景はこんな風だったのかな、祖父も半信半疑でありながら徐々に望みへと気持ちは傾いていったのかな、まんじりと朝を待ちわびていたのではないかな、そんな風に想像をしてしまいます。
ところでこの「夜の招待」は現代詩文庫の石原吉郎詩集で読んでいる時に、なにか引っ掛かりを覚えたのですが、調べて見るとこの詩は石原さんが初めて雑誌に投稿された時の詩なんだそうです(当時39歳だとか)。つまり石原吉郎のデビュー作です。そのデビュー作にピピンと来たオレもなかなかだなと、自画自賛してこの文章を終わりたいと思います(笑)。
春の陽気
ポエトリー:
「春の陽気」
帽子を取って走る姿に
いま一度ほれおなす
確かあれは
桜並木
賀茂川のほとり
無尽蔵にこみ上げる
大切に想う気持ち
春の陽気に請われて
減じてしまうよ
まさか、
まさかね
眩しい光線
お願いするよ
そのままどこかへ持ち去らないで
伸び盛りの欲望
ほどなく断ち切る
桜並木
賀茂川のほとり
いつか来た道
2021年4月