朝ドラ『エール』は皆の物語!

TV program:
 
朝ドラ『エール』は皆の物語
 
 
 
朝の連続テレビ小説『エール』が終了しました。第1回の放送を観たときは「なんじゃこりゃ」と思いましたが、徐々にハマって最後は夢中になっていました。主人公が男ってのは今までもあったのかちょっと分からないですけど、古山裕一という特異なキャラクターのせいかその辺りの違和感は全くありませんでした。あっぱれ、窪田正孝さん!
 
その裕一さん。純粋で人を疑うことを知らない、世間の常識からすればちょっと変わった人。けれど音楽の才能に溢れ多くの人々を元気づけていきます。そうですね、まさしくタイトルそのままに主人公が周りの人を輝かせていく、そんなドラマでもありました。
 
『エール』を一言で表すと脇役が輝いたドラマとも言えるのではないでしょうか。裕一の家族であったり、音の家族であったり、それ以外にも身近な友人や深い関わり合いのできた人たち。それぞれにスポットが当たる回が何度もあって、しっかりと見せ場を作っていました。あの人もこの人も、と振り返れば印象深い登場人物を沢山思い浮かべることが出来ると思います。
 
裕一はああいうキャラですし、コメディの要素も強いドラマでしたから、もっと印象付けようと思えばいくらでも目立つように演じることはできたと思うんです。でも窪田さんはそうはしなかった。主人公でありながら周りを輝かせることに徹したんだと思います。
 
そして何と言っても裕一の伴侶となる音さん。裕一のそばにいて最も輝いていたのは間違いなく音さんだったのではないでしょうか。
 
音さんはバイタリティーに溢れ、裕一を導いていきます。けれど自身のことに関しては上手くいかないことばかりなんですね若くして将来を嘱望された裕一と違って音は歌手を目指すもののなかなか芽が出ない。ようやく大舞台の主役の座を手に入れたと思ったら、身ごもり舞台を辞退せざるを得なくなる。子供が長じて再び夢に向かい始めるんですけど、ここでもやっぱり壁にぶち当たる。そして、音は大変な努力家ですけど努力家であるがゆえ越えられない壁を知ってしまう。
 
思えば主人公以上に起伏に富んだ役でしたけど、二階堂ふみさんは見事に演じられた。最初はこの人歌上手だなぁくらいだったんですけど、回が進むにつれて二階堂さんの演技に引き込まれていきました。セリフ回しもですね、音さんは語尾をはっきり発音するんです。僕は毎回そこを密かに楽しみにしていました。僕はすっかり音さん語尾発音フェチになりました(笑)。
 
物語の最後の方は表舞台から引っ込みがちだった音さんでしたけどそこからの二階堂ふみさんのコメディエンヌぶりは群を抜いてましたね。てことで11月の放送は音さんの表情や声で終わる回、要するに声オチ、顔オチが沢山ありました(笑)。
 
最終回もとっても素敵でした。病床のベッドからとぼとぼ歩いていつの間にかあのオープニング曲の砂浜へ変わるところ、ロマンチックでしたね。ここでの二人の表情、本当に素敵でした。
 
タイトルバック同様、カラフルで楽しく爽やかな朝ドラでした。流石に戦争中はしんどい場面が続きましたけど、そこ以外は登場人物ひとりひとりがしっかり輝くエールというタイトルに相応しい、誰それが特別どうということではない皆が主役のドラマでした。裕一さん、音さん、皆さん、よい時間を本当にありがとう!!

兄弟/ビートたけし

詩について:
 
「兄弟/ビートたけし」
 
 
詩を書く時はもちろん作者の個人的体験や見たこと聞いたこと、或いは長年培った思考や物事への捉え方がベースになりますが、それはあくまでもトリガーに過ぎず、詩において作者の喜怒哀楽というのは重視されません。むしろ作者自身の喜怒哀楽から離れることでその言葉は詩になりえるものだと思います。
 
例えば宮沢賢治の詩は賢治の個人的な体験や思想から出たものであるけれど、我々が読んでもとても心に響くものです。これは何故か。賢治の詩は個人の喜怒哀楽にとどまってはいないからです。宮沢賢治は自身の詩のことを‘心象スケッチ’と呼びます。この言葉が全てを表していますよね。だから我々はそこに入り込むことが出来るんです。
 
だから詩は日記とは違うんですね。個人的な体験がそのまま綴られた日記、あるいは個人的な感情がそのまま吐き出された日記に他人が入る余地はありません。せいぜい、あぁ、あなたは嬉しかったんだね、あなたは悲しかったんだねというぐらい。その言葉はその人だけのもので、そこから広がってゆくものではないんです。
 
次に取り上げるのはビートたけしさんの「兄弟」という詩です。たけしさんはお笑いだけじゃなく絵も描きますし文章も書きます。映画監督としては外国で大きな賞を取るほどの名監督ですよね。つまりたけしさんも賢治同様、自身の個人的な体験を他人事のように描けるひとなんです。
 
加えてこの「兄弟」という詩は子供時代の話ですから、もう何十年も前のことを思い出して書いている。つまりこの時点で個人的な体験から距離が十分に取れているんですね。簡潔で大切な部分だけが純化されている。流石のたけしさんも昨日今日の体験ならここまで描けなかったろうと思います。
 
 
 
 
「兄弟」 ビートたけし
 
兄ちゃんが、僕を上野に映画を見につれて行ってくれた
初めて見た外国の映画は何か悲しかった
ラーメンを食べ、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ
兄ちゃんが、後から入ってきた、タバコを吸ってる人達に
殴られて、お金をとられた
帰りのバス代が一人分しかなく
兄ちゃんは僕をバスに押し込もうとした
僕はバスから飛び降りた
兄ちゃんと歩いて帰った
先を歩く兄ちゃんの背中がゆれていた
僕も泣きながら歩いた

粗忽ながら

ポエトリー:
 
「粗忽ながら」
 
 
 
音楽の種類にロックとかヒップホップとかブルースとか色々ありますけど、大きな括りで見ればこれら全てはポップ・ソングということになると思います。つまり大衆音楽ですね。これを文学に置き換えてみると、俳句や短歌は詩に含まれると言えるのではないでしょうか。
 
けれど詩は大衆のものか。これにはいささか疑問符が付きます。俳句や短歌が多くの人に愛されているのに対し、詩は何か僕たちの生活とはかけ離れた存在であるように思います。
 
詩というのは例えば、中原中也や山田かまちのような感受性の強い繊細な人が書くもの、というイメージはないでしょうか。また、ポエムという響きには不思議ちゃんが書くものというどこか馬鹿にしたイメージがあるかも。現代詩はどうでしょう。もうイメージも湧かないくらい遠いものですよね。一部のインテリが勝手にやってる感じ(笑)。まぁそれぐらい遠い存在だと思います。
 
でも詩というのは本来自由なものなんです。多くの人が俳句や短歌を気楽に楽しむようにただ風景を歌うもの、好きな人を想って書くもの、ちょっとした妄想や空想、ユーモアであったりシュールな世界だったり、そんな気楽で何気ないものなんです。
 
僕は詩を読むのも詩を書くのも好きですから、詩も俳句や短歌のように出来るだけ多くの人に親しんでもらいたいし、楽しんでもらいたい。詩はもっと日常に即したものなんだよというのが僕の意見です。勿論芸術足りえるようなエネルギーに溢れた詩もありますが、それは俳句や短歌も同じこと。一行や二行でもいい、教科書の隅に書いた落書きだって詩なんです。
 
てことで以下はこないだの日曜、ママチャリに乗ってる時に浮かんだ僕の空想です。ホント我ながらくだらないなぁと思いますが、なんか文章にするとそれっぽくなってませんか。ん?なってない?ま、本人が楽しけりゃいいんです(笑)。
 
 
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「粗忽ながら」
 
 
 

自転車で 荷物を落とした
振り返ると 人が手招く
自転車を止めると わたしは小さな丸になり
自転車の脇を 跳ねていった

毬になったわたしは 道を右に折れ
迷うことなく 皆の憩いの場 公園へ向かう
サッカーに興ずる子どもらが 毬を蹴り返し
誰に蹴り返したのかと 先を見やれば
手招く人がわたしを拾い上げ 小脇に抱えた

あなたはだれですかと尋ねると
わたしはあなたですと答え
毬のわたしは自転車のカゴへ
二人は仲良くお家へ帰った

家へ着くと 毬はおもちゃ箱
わたしは2階へ上がり 家族と夕飯の支度を始めた
誠に粗忽ながら 自転車から落ちたのは一体何だったのか
わたしは もはやなにがなんだか分からなくなっていた

 

2020年11月

引退試合

その他雑感:
 
「引退試合」
 
 
先日、藤川球児投手の引退試合が行われたんですけど、僕はあれがどうも苦手です。藤川投手は’00年代の強いタイガースの象徴でもあり、僕も好きな選手の一人なんですけど、ああやってこれで最後ですよと笑顔で登場して、バッターがわざと空振りをして、意図的なショーを演出するのはどうしても直視できません。
 
先ず僕にはプロ野球選手というのは僕らの手の届かない特別な存在だという認識があります。150km/hの球を投げる。ホームランを打つ。とてつもない身体能力で届きそうもない打球をキャッチする。鍛え抜かれた体と技術を有したプロの選手が真剣に勝負をするからこそ、僕は感動したり興奮したりするんですね。それが予め決められた予定調和であれば興味はない、筋書きのないドラマだからいいんです。
 
藤川投手はまだ150km/h近い球を投げることが出来る。仮にチームが戦力として考えているならば、引退宣言しようがしまいが1軍で投げればいい。僕たち観る側としては戦力としてマウンドに上がった藤川投手を、あぁ、今日で最後かもしれないな、と心に思いながら観る。それが特別な存在であるプロ野球選手に対するリスペクトではないかと思います。もし残念ながら1軍に上がることが叶わなかったら2軍のマウンドに上がった藤川投手を観に行けばいいし、マウントに上がれなかったならばそれもしょうがない、プロの世界はそういうものなのだから。
 
引退するんだからそれでいいじゃないかとか、ファンが喜んでいるからいいじゃないかという意見もあるかもしれません。でもプロ野球選手は僕らの愛玩の道具ではないのです。あくまでも主体はプロの野球選手同士の真剣勝負であるというところを忘れてはいけないと思う。
 
引退試合に出てきた選手に花を持たせようと故意に空振りをする、故意に打ちごろの球を投げるというのは所謂「忖度」と呼ばれるものです。それはここ数年、政治の分野で何度も耳にした、僕たちが忌避していたものではなかったでしょうか。そんな大層なものではないよと言う人がいれば、それこそプロ野球選手へのリスペクトに欠けるのではないかと思います。
 
故意に空振りをするというのはその投手の価値をおとしめるものです。あの分かってても打てないと言われた火の玉ストレートはなんだったのかと。あの藤川球児が手加減される姿など見たくはありません。
 
プロ野球はファンあってのものです。けれど最も大事な部分は保持しなければならないと思います。

「伊集院光のらじおと(ゲスト:佐野元春)」2020.11.4 感想

その他雑感:
 
「伊集院光のらじおと(ゲスト:佐野元春)」2020.11.4 感想
 
 
 
佐野さんは40周年を機にベスト盤2種をリリースしまして、それに絡めたメディアへの露出がこのところ続いています。ラジオ出演についてはインターネットで後からでも聴けるので、全部ではないがチェックはしているんですけど、今回とくに聴きごたえがあったのが伊集院光さんの番組、『伊集院光とらじおと』での出演でした。
 
冒頭、まだ佐野さんが登場する前、つかみとして伊集院さんが話していたのは佐野元春の歌はカラオケでは歌えないという話。『SOMEDAY』を引き合いに話していたんですけど、これは僕も常々思っていたことなんで目から鱗でした。
 
佐野元春というと初期の頃なんかは特に一音に一語以上を載せたりだとか、英語を混ぜこぜにしたりというところで注目されて、この辺はサザンの桑田さんもそうでしたし、一般的にもそういう言われ方をするんですけど、一番の特徴は独特の譜割にあると僕はずっと思っていたんですね。だからカラオケやなんかで歌うと全然うまく歌えないんです、歌ってて全然楽しくない、だってかっこ悪くなっちゃうんだから(笑)。
 
ところが当然のことながら佐野さんが歌うとべらぼうにかっこいい。これはいつも僕は体内時計って言うんですけど、言葉のメロディへのフックのさせ方が抜群になんです。僕らが歌うとあんなにぎこちなくなる『SOMEDAY』を佐野さんはすごくスムーズに滑らかに歌う。その独特の佐野元春譜割を歌えるのは佐野元春だけという、これを伊集院さんは見事に言葉にしてくれて、さっきも言いましたが言葉数だとか英語だとかそういう話はよく聞くんですけど、佐野さんの譜割の話はメディアで初めて聞いたので、伊集院さん、すごいとこ突いてくるなぁと。ちなみに佐野さんは今もそうだし、この点は宇多田ヒカルさんもそうですよね。
 
佐野さんが登場してからも伊集院さんは面白いことおっしゃっていました。佐野元春は新しいものが好きなのに古いものも好きで、これは非常に珍しいことだと。例えば佐野さんはインターネットを早くからやっていた、ヒップホップ音楽を早くからやっていた。けれど一方でオールディーズと呼ばれる古い音楽が大好きだ。普通、新しいもの好きの人は新しいから好きなのであって、古いものが好きな人もこれは古いから味があるから好きなんだとなる。けれど佐野元春はどっちも好き。つまりは新しいから好きなのではないし、古いから好きなのではないのだと。これは見事でしたね。佐野さんも自身の感性をこういう風に解釈してもらって嬉しそうにしていました。
 
あと音楽の聴かれ方についてですけど、今はプレイリストなんて言って個々人が自由に音楽を聴いている。けれど作者が考えたアルバムの曲順通りに聴いていくとまた違った響きで聴こえてくるんですよという話を伊集院さんは野球が好きですから野球に例えてですね、2番バッターの役割とかを交えながら話していくんですね。それに対する佐野さんの答えもそれはコンセプト・アルバムと言うんだよと。僕は今までもそうしてきたし、これからもそうやってアルバムを作っていくと話されていて。で面白いのはそれでも佐野さんも伊集院さんも今のプレイリストみたいな線ではない点での聴かれ方についても全く否定していなくて、むしろ肯定している部分もある。けれど伊集院さんが言うのは気に入った曲があったらそれが収録されているアルバムを曲順通りに聴いてほしいなと。そうするとまた違った良さが現れますからと。とてもよい話だと思いました。
 
ちなみにこの話をするにあたって、伊集院さんは佐野さんの『コヨーテ、海へ』という曲の話から入って、それが収録されている『COYOTE』アルバムの話に繋げたんですね。まずファンとして嬉しいのは古い作品ではなく比較的新しい『COYOTE』アルバムというのを持ってきてくれたということ。そしてこのアルバムは佐野元春作品の中でも一つの映画となるようにいつも以上に全体のストーリーを意識して作られた作品だったということ。だからこの曲順とかコンセプト・アルバムの話をする例えに『COYOTE』アルバムを持ってくるのは伊集院光、よく分かってるなと(笑)。
 
今回佐野さんが色々なラジオに出演しているのを聴いてると、中には昔の話ばっかりするDJもいるんですね。ま、40周年でそれを記念したベスト盤が出る訳だからそういう話になるのは当然ちゃあ当然なんですけど、実はそれって聴いてる方もあんまり面白くない。ある番組では昔の話とか既存の佐野さんの発言を引き出そうとするDJもいて、だんだんと佐野さんの口数が少なくなって楽しくなさそうだなっていうのもあって(笑)。
 
その点、伊集院さんが番組の最後に話していたのは、伊集院さんも最初はやはり40周年だから昔の話から始めようと思っていたと。けれどちょっと話してみるとこの人はどうも昔の話には興味がない人だなと認識して、そこからは自分が今聞きたいことだけを聞こうとしていったと。実際、いくつか聞いた番組の中でもこの伊集院さんの番組が佐野さん一番楽しそうに笑いながら喋ってたし、だからやっぱ伊集院さんの観察力はすごいなと改めて思いました。
 
最後に聴き方の話でもうひとつ。今はラジオだってインターネットを通じて好きな時に聴ける。けど希望としてはほんのたまにでいいんだけど、リアルタイムで、或いは雑音の中で聴いてもらいたいなと、そんなことを伊集院さんは最後に話していました。つまりライブってことですよね。文字の書き起こしでもなく、インターネットで後から聴くでもなく、話し手が喋っている同じ時間を過ごしながら聴くというのは何かしら意味があるんじゃないか。そこを信じたいっていう。大きく見ればさっきのアルバムの曲順にもつながる話なんだと思います。
 
僕は佐野さんのファンですからついつい佐野さんの言葉に耳が向きがちなんですが、今回ばかりは佐野さんの言葉より伊集院さんの言葉が強く印象に残りました。Eテレ『100de名著』でも凄いコメントするときがありますが、伊集院さんは誰も気づかない王道を突いてくるんですね。誰も気づかないというと横からとか穿った見方とかってなるんだろうけど、そうじゃなく正面から見据えた誰も気づかなかったことを突いてくる。一般論ではなく自身の解釈でど真ん中を突いてくるっていうのは、なかなか出来ることじゃないですよね。これは爆笑問題の太田光さんもそうだと思うんですけど、ご自身の中にぶれないものの見方があるからなんだろうなと思いました。
 
伊集院さんはオレの主戦場はラジオとよく仰ってますが、それも頷ける、テレビで見る時とはまた違う魅力を発見した気もしました。伊集院さんのラジオ、他にも聴いてみようと思います。できればリアルタイムでね。

子供たちのヒーロー

その他雑感:
 
「子供たちのヒーロー」
 
 
 
「鬼滅の刃」が一大ブームとなっている。うちは保育士をしている奥さんが園児たちの影響で先にはまり、僕はそれを「ふ~ん」と横目に眺めていたのだが、先日のテレビ総集編を一緒に観たところ、遂に僕もはまってしまった。
 
僕はまだその総集編とその後に始まったテレビ・シリーズの再放送を観ているだけなので、ほんの序の口しか観ておらず、これからまだまだたくさん楽しめるという特権を持っている。どうだ羨ましいだろう(笑)。職場の同僚がコミックを貸すよと言ってくれたが、僕は借りない。これからテレビ・シリーズを毎週観ながらちびちび楽しむつもりだ。この特権を簡単に手放すものか(笑)。
 
人喰い鬼の話なので結構グロいシーンがある。小さな子供が観て大丈夫かなと思っていたが、そこはあまり気にはされていないようだ。確かに観ていてもさほど印象に残らない。「進撃の巨人」を観たときは気持ち悪くなって観るのをすぐ止めたが、あれとは決定的に何かが違うのだろう。それでも小さな子供たちに悪い影響がかなければいいなとは思う。
 
昨日、会社の帰りにTUTAYAへ寄ったら小さな子供が母親の手を引っ張って「鬼滅の刃」コーナーの前に行き、一生懸命になにかを説明していた。舌足らずの様子がかわいくて仕方がなかった。今朝は今朝でまた別の小さな子が炭治郎の羽織柄マスクをしていた。炭治郎は子供たちのヒーローなんだと思った。
 
主人公の炭治郎は心が清らかで優しい男だ。怖くても一歩踏み出して誰かを助けようとする。やられそうになっても諦めない。最後の最後までどうしたらいいか、どうしたらいいかと考え続ける。週刊少年ジャンプの主人公の伝統としてやたらメンタルが強いというのはあるにせよ、それは悟空やルフィのような天然な強さではない。炭治郎は誰かを守るために自らを奮い立たせていく、そこが魅力なんだと思う。
 
主要登場人物は炭治郎に限らず皆そうした後天的に身に着けたたくましさを持っている。苦境に陥っても「呼吸を整えてよく考えるんだ」と諦めずにベストを尽くそうとする炭治郎。男女関係なく今の子供たちにとって最高のヒーローなんだと思う。

愛の形

ポエトリー:

 

ふと「愛の形」というフレーズが浮かびまして、英語で言うと「Shape of Love」ですね。洋楽にそんなタイトルの曲がありそうだなと検索したんですけど、ありませんでした。邦楽にはありました。懐かしの Every Little Thlng です。あと初めて聞く名前ですけど、DISH っていうグループにもあるようですね。

もっと大きなくくり、「Shape of ~」で見ていくと真っ先に出てくるのがエド・シーランの「Shape of You」。再生回数50億!笑いますね。あとパッと思いつくのはスティングの「Shape of My Heart」。映画「レオン」の主題歌として有名ですね。映画と言えば「Shape of Water」。とても素晴らしい映画でした。

「~の形」、他にも色々ありそうです。つまり目に見えないものにも形があるということ。『聲の形』という映画がありましたけど、声や文字、あるいは手話としての言葉だけじゃなく、体の動き、あるいは心の動きにも形はある。きっとそれは人それぞれが持っている個性にも繋がるものなんだと思います。

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『愛の形』

なんとはなしに 出会っていた
なんとはなしに 話していた
二人は同じ映画をみていた
やがて笑い転げた

僅かなすき間にすべり込む
二人の間にしのびよる
ふれあいのときを大切にしよう
限りある命
愛の形

なんとはなしに 時がたっていた
なんとはなしに かげっていた
疲れていた 虹のような階段は
思いの外 前へは進めずに
君のこと 君のことだけに
いつしかなって なってしまった

僅かなすき間にすべり込む
二人の間ににじりよる
大きな黒い塊が
不確かな命
愛の形
それともこれは何の形?

 眠れぬ夜には
 大きく帆を上げて
 ゆっくりと漕ぎ出そう
 高鳴る胸の荒波を

僅かなすき間にすべり込む
二人の間にしのびよる
ふれあいのときを大切にしよう
限りある命

僅かなすき間にすべり込む
時が経つのもものともせずに
大切な想いをここにとどめよう
命ある限り
愛の形

眠れぬ夜にそっと…
二人の間にそっと…

 

2020年10月