映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その③

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映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その③

 

しつこいようですが『金子文子と朴烈』の話、その③です(笑)。
金子文子については先にも述べたように自伝が出版されていたり(絶版のようなので、図書館で探すつもり。高い中古品はあるようですが)、ネットで検索しても多くの情報を得られるのだが、朴烈についてはあまり検索に引っ掛かってこない。この辺りは朝鮮人と日本人の違いなのだろうか。

映画の中の金子文子もカッコいいんですが、朴烈もめちゃくちゃカッコよくて、じゃあ実際の朴さんはどうだったか。映画は供述記録などを基にほぼそのままのセリフだそうですから実際もあんなふてぶてしい野郎だったんです、やっぱり(笑)。金子文子も朴を「宿無し犬のような暮らしをしているのに、あの人は王者のようにどっしりしている」と称していて、戦後も周りに担がれたみたいですから、やはり泰然としたところがあったのでしょう。結局文子と二人で権力と戦うことになるのですが、当初朴烈は一人で皆の盾になろうとした訳ですからやっぱり英雄的気質があったということでしょうか。

二人は大逆罪ということで一旦は死刑判決を受けるのですが、この大逆罪というのはほぼ政府のでっち上げです。確かに朴烈は爆弾を入手しようとしますが、粗漏な計画の為失敗しますし、皇太子暗殺計画も書生の口角泡を飛ばす程度のもので具体的な計画は無し。それをこれ得たりと政府に利用されるわけです。

しかし朴烈の快進撃はここから始まるわけで、当初は煙に巻いていたものの文子が堂々と話始めたと知るや「あぁそうだ、皇太子暗殺を計画した」とあっさり自供し(というか敢えてその尻馬に乗り)、その激烈な思想や行動計画を頼まれもしないのに滔々と述べるわけです(ちなみに天皇は寄生虫だと述べるくだりは、日本人としても知っておいてよいものの見方だと思います)。そうなりゃ取り調べる側もこりゃ大変だとなって世を揺るがす大事件になるわけですが、これこそ朴のしてやったりで、要するに朴烈は自分で騒ぎをどんどん大きくして、同胞の決起をうながそうとするわけです。

でこれ、似たような話をどっかで聞いたことあるなと思ったら、吉田松陰です。松陰の場合、最初はついでに捕縛されたような感じだったんですけど、お白州の場で自分から時の老中暗殺計画を述べ立てます。松陰は‘狂’という言葉をよく使いますが、要は自分は革命の為の捨て石になろうという訳です。皆、立ち上がれ!と。松陰には帝国主義的な思想がありましたから(当然、あの幕末においてです。後の大正昭和期に松陰がもし生きていたとしたら、同じ思想を持ち続けていたかどうか。)、同じ土俵に上げることに抵抗を覚える方も多いかとは思いますが、姿勢というか心意気は相通ずるものがあるのではないかなと。僕はそんな風に思いました。

戦後、朴烈は釈放され、朝連(在日朝鮮人連盟)に英雄として招かれるが、反共であった朴はそこに参加することを拒否します。その後、仲間と共に今に続く在日本大韓民国民団を立ち上げ、初代団長に指名されますが、程なくその座も追われます。恐らく、生来協調することが出来ないたちだったのか。やはり権力に対する嫌悪感というか、映画で描かれているような孤高の人だったのかもしれません。吉田松陰は‘草莽崛起’という言葉を用いました。在野の民衆の力で事を成し遂げようというものです。松陰風に言えば、朴烈も金子文子も‘草莽崛起の人’だったということでしょうか。

ところでその民団代表当時の1948年に神戸事件が起きます。神戸事件とは、GHQの指令を受けた日本政府が「朝鮮人学校閉鎖令」を発令し、日本全国の朝鮮人学校を閉鎖しようとした事に対して、大阪府と兵庫県で発生した在日韓国・朝鮮人と日本共産党による暴動事件です。

この事件後、朴烈は「神戸事件の教訓(一九四八年六月)― 我等は子弟を如何に教育すべきか ―」と題するレポートを書いています。内容は、暴力によって訴えてはいけないとか、そのことはかえって朝鮮人の印象を悪くするとか、何より朝鮮人の子どもたちにも悪影響だとか、とりわけ教育の問題に政治を絡ませてはいけないと強く述べています。僕も読みましたが、非常にリベラルなんですね。かつて皇太子暗殺を企てた人物と同じ人物とは思えない程、一人落ち着いてリベラルなことを言っている。要するに大局に立って、人がまだ見えていない部分に先んじて気付き得た。そのような人物だったのかもしれません。

話が随分と逸れましたが、映画『金子文子と朴烈』は本当に素晴らしいです。牢屋に入れられ、自由に会えなくなった二人のそれでも私は貴方の全てを理解しているといった表情が何とも言えません。僕は日本人ですから、つい金子文子に目が行ってしまいますが、あの激烈な文子を受け止め得たのは朴であり、文子の導火線に火をつけたのは朴であると。ソウルメイトとという言葉がありますが、二人は確かにそうであったかもしれない。そんな風に思いました。

映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その②

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映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その②

 

この映画、韓国では200万人を超えるヒット作となったそうだけど、韓国でもこの二人については映画が公開されるまで、余り知られていなかったようだ。ちなみに原題は『朴烈』。で日本公開時のタイトルは『金子文子と朴烈』。なんか面白い。

でもインパクトとしては断然、金子文子でしょう。チェ・ヒソ演じる金子文子が強烈です。映画を観た後に知りたいことだらけだったので色々調べてたら、実際の金子文子という人は映画が誇張でも何でもなく本当にドエライ人だということが分かってきました。

映画でも獄中で自伝を書く場面があるのですが、それが実際に出版されて今も残っています。その内容を一部読んでいると凄いのなんのって。強烈に天皇を批判してはいますが、今現在の世で考えれば本当に真っ当な至極当然のことを述べていて、しかもそれが非常に分かりやすく理路整然と述べられている。そして私はこの考えをあなたに押し付けたりはしない。私は私の仕事をするだけだ、みたいなことを言うわけです。こんな自立した女性が大正期の日本にいたとは。しかも義務教育すらまともに受けさせてもらえなかった20才そこそこの女性が書いたっていうんですから驚きです。

映画の中の彼女はキレキレです。尋問で「朴烈に天皇制の矛盾を教えたのは私だ」と啖呵を切るとことか、同居するにあたって文子が朴に提案した誓いがまた、「二人は同志である」とか、「活動の場では金子文子が女性であることを考慮しない」とかもう痛快過ぎます。

日本はとかく男性社会で昨年の#metooだって日本は一人蚊帳の外みたいな感じで、ところが今から100年近くも前の日本にこんな自立した女性がいたってことは本当に驚きで、韓国で200万人以上が観たっていうのもそういう金子文子自身の国籍を越えた魅力があったればこそなのではないでしょうか。

勿論、朴烈も強烈なんですが、その彼を導いているのは金子文子なんじゃないかって思うぐらい、怒られるかもしれないけど、なんかオノ・ヨーコとジョン・レノンみたいな関係に見えてきました。そして金子文子を支持する韓国人がこんなにも多くいることに嬉しい気持ちを持つと共に、これが逆だったら。今、日本は自国を褒めそやすことに熱心だから難しいかもしれない、そんな風にも思ってしまいました。

ちなみにこの映画は冒頭に「実在の人物による実際の話です」みたいな字幕が出てくるけど、本当に本当のことのようです。彼らは尋問を受けていますから、実際の調書も残っているし、裁判の記録もちゃんと残っている。最初の裁判で朴烈が朝鮮の官服を着て登場するのも、金子文子がそれに合わせチマ・チョゴリ姿で入場したことも事実で、彼らの尋問でのやりとりやセリフもほぼそのままだそうです。

ところで。僕たち日本人は韓国を含めアジアの他の国を下に見ている節がある。それは言い過ぎにしても弟ぐらいには思っているんじゃないだろうか。文化にしても科学技術にしても政治にしても日本の方がイケてるんだと。でもそれは間違いなく妄想です。少なくともこの映画は難しい題材をどちらかの国に肩入れすることなく丁寧な取材をして見事に俯瞰で描いている。情緒的ではなく、落ち着いたトーンで作り上げている。それはほぼ全編に渡って韓国人俳優が話す見事な日本語からもよく分かることだ。

日本の報道の自由度は180か国中67位だそうだ。韓国も43位とそれほど高くないが、果たして日本にこれだけの映画が作れるだろうか。少し心配になってきた。

最後に少し説教臭いことを言うと、この映画は100年前の不幸な時代を描いた映画ではなく、今に繋がる話だと思います。現代も富めるものが益々富み、貧しいものが益々貧しくなる。表立って現れてこないがそんな時代でもあると言えるのではないでしょうか。僕の友人に小学校の教師をしている人物がいますが、彼からも非常に厳しい家庭環境にいる子供たちの話を聞く機会があります。そういう普段生活している中では見えない部分に思いを巡らせる、そういう機会を与えてくれる映画でもあるような気がします。

ちなみに僕はシネマート心斎橋で観ました。観に行った回はほぼ満員だったけど年配の方が多くを占めていました。けど若い人にぜひ観てもらいたい映画です。少なくともこの映画は、かつての僕には無かった新しいものの見方をもたらしました。

映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その①

フィルム・レビュー:

映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その①

 

僕は下手な詩を書いているが、そのひとつに「アメリカ人のことを知りたければアメリカ人の詩を読めばいい/中国人のことを知りたければ中国人の詩を読めばいい/韓国人のことを知りたければ韓国人の詩を読めばいい」というのがある。幼稚な詩だけど、発想としてはまぁそんな悪くないんじゃないだろうか。そこで。僕はこの映画を知った。だったらば観に行かなければ。そんな風に思った。

あらすじはざっとこんな感じ。舞台は大正期の東京。親に捨てられ悲惨な環境で育った日本人、金子文子はある日、朝鮮人アナキスト朴烈(パクヨル)の書いた詩「犬コロ」に衝撃を受け、彼に会いに行く。文子は朴烈と会ったその日に一方的に同居すると宣言。二人は仲間と共に「不逞社」を結成し、アナキストとしての活動を始める。しかし程なく関東大震災が発生。混乱に乗じて朝鮮人や社会主義者への虐殺が始まる中、二人も検挙され、言われの無い大逆罪の罪に問われていく。

映画の感想は、、、正直言って疲れた。先ず長い。それからオーバーアクション。ちょっと作り過ぎ(笑)。こういうのもアリなのかもしれないけど、慣れてないもので…。でも映画を観て疲れた本当の理由は他にちゃんとある。脳みそが整理が出来ずに混乱していたからだ。

先ず、朴烈は何をしたかったのか。金子文子は何をしたかったのか。当然映画を観ただけでは明確に分からない。関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは知っていたけど、日本政府が加担していたっていうのも本当なのか?そんなこと初めて聞いた。映画はある意味青春映画であり、強烈な愛の物語であり、当然社会的なメッセージもふんだんに盛り込まれている。だがクドクドと説明しない。特急列車のように物語は過ぎていく。物凄いスピードでエネルギーを放射していく。僕はこの映画に圧倒されていたんだと思う。ちょっと体力不足でした。

そこで映画を観た後の数日間、僕は暇を見て色々と調べ始める。3.1運動とは何か?アナキストとは?関東大震災時の朝鮮人虐殺について。朴烈とは?金子文子とは?そうすると彼らの思想が少しづつ見えてくる。彼らは天皇制を批判する。天皇といえば僕の頭の中は今の天皇だから、彼らの主張は???だらけ。でも落ち着いて考えれば違う。戦前の天皇のことだ。天皇は万世一系の現人神であり、国民はその保護下にいるのだというやつ。今の北朝鮮みたいなもんか。だから当時はそんな天皇思想に対しそんなのおかしいんじゃねぇかっていう日本人は沢山いたし、当然支配されている朝鮮人の朴烈はもっと思ったろうし、最下層で差別を受けて虐げられてきた金子文子はこの不平等な日本の諸悪の根源は天皇だって強く思う。つまり彼らは絶対的な権力に抗うレジスタンスなのだ。

とまぁ僕の方がクドクドと書いてしまったけど、実際「犬コロ」という詩がどんなものか、それを読んでもらうのが一番分かり易いと思うので、下に転載します。

 

 「犬コロ」 朴烈

 私は犬コロでございます
 空を見てほえる
 月を見てほえる
 しがない私は犬コロでございます
 位の高い両班の股から
 熱いものがこぼれ落ちて私の体を濡らせば
 私は彼の足に 勢いよく熱い小便を垂れる
 私は犬コロでございます

 (解説)
 空は当時の日本帝国最高権力の象徴である天皇だ。
 その空を見て吠えることができる犬畜生の勇気に感嘆する。
 位の高い両班が自分に向かって小便を垂れるのならば、
 やられっぱなしでなく彼の足に向って小便を垂れる。
 これは制度的権力に対する真っ向からの挑戦を宣言した言葉だ。

 

上記はネットで見つけました。「金子ふみ子コミュの朴烈の詩“犬コロ”」というタイトル(mixiユーザー 2005年11月22日 15:43)で記載がありました。勝手に転載して申し訳ないです。詩は青年朝鮮という雑誌に載っていたそうです。「犬コロ」。原文は、“ケーセッキ”と言いまして“犬畜生”“F○ck野郎”といった罵り言葉、卑語だそうです。このことも同じ記事に載っていました。

この映画はいわゆる反日映画ではありません。物語にはちゃんとした日本人も数多く登場するし、主役の二人だって英雄として描かれている訳じゃない。映画を観て僕はよーく分かりました。これは自由を求めて戦う若者の強烈な愛の物語です。不公平な世の中で自由を奪われ、犬畜生として扱われた名もない若者たちの反逆の物語です。日本がどうだとか韓国がどうだというのではなく、この映画のテーマはそこにあるのだと思います。

朝鮮人虐殺ということでえぐい場面も出てきます。それは僕たち日本人がやったのです。国が政府が加担をして隠滅しようとした事実です。僕たちは知らないことが多過ぎる。そういう部分に目を向けるきっかけにもなる映画だとも思います。

でも決して堅い映画ではない。ユーモアもところどころ、というかふんだんにあるし、やっぱり主役の二人だけでなく仲間の若者たち皆も生き生きしているから、爽快な映画でもあります。結局そこが一番大事なのかもしれない。

Lush Life/川村結花 感想レビュー

邦楽レビュー:

Lush Life(1999)川村結花

 

もう20年も前の話になるが、夜遅くにこの人のピアノ弾き語りライブをテレビで観たのを覚えている。それでこのアルバムを買ったのか、元々持っていたのか、そこのところの記憶は定かではないが、先日たまたまウォークマンに入れているこの『Rush Life』というアルバムを何年かぶりに聴いて、本当に声がいいし、メロディがいいし、言葉がいいし、とても素晴らしい歌い手だなぁと改めて思った。

なんでも現在彼女は裏方に回っているそうで、なんでこんなに素敵な声の持ち主が裏方なんだと、これだから日本の芸能界は駄目なんだと、思わずクダを巻いてしまいそうになったが、実際のところはどうして自分で歌わなくなっちゃったんだろうか。

当時は彼女の声が好きでよくこのアルバムを聴いていたんだけど、今聴いてみると豊かなメロディがとても耳に残る。彼女が作曲した超有名曲、『夜空ノムコウ』もこのアルバムの中ではあまり目立たない。どちらかと言うと大人しくて、つまりはそれだけ他の曲が色鮮やかな色彩を奏でているからで、例えば1曲目の『マイルストーン』を見ていくと、「僕らはどこに忘れてきたんだろう」という冒頭の歌詞がラストに「何でもできると思っていた どこでも行けると思っていた」という言葉に変換され、それが印象的なピアノのフレーズとコーラスでダイナミックに持っていかれる。ところが程よい高さというか、彼女の声もそうなんだけど無理のない高さでそのまま届いてくるから、ドラマティックなんだけど大げさじゃなく、こちらも自然体で受け止められる。

ドラマティックといえば6曲目の『イノセンス』もそうだ。特にサビの後のエキゾチックなコーラスは盛り上げるのに一役買っている。で、やっぱり立体的。一転、4曲目の『アンフォゲタブル』は静かなバラード。ブリッジでは「痛みに出会う度 強くなれるなら なれなくていい」と情感たっぷりに切なく歌うが彼女の高くない声は性別を越えるから地面に沿ってこれも具体的に形作られてこちらに響いてくる。

おどけた8曲目の『A Day He Was Born』や10曲目の『Rum & Milk』もいいアクセントになっているが、アクセントどころかこんなコミカルな曲でも抑揚があるからメロディが綺麗に景色を描いてくれる。やはり2次元じゃなく3次元で。

所謂ストーリーテリングというものは言葉が物語を紡いでいくんだけど、彼女の場合はもちろん言葉もあるけどメロディが物語の輪郭を形作り、声がそこに色を付けていく感じ。こういうタイプの歌い手ってなかなかいないから、表舞台に出なくなったのは本当に残念だ。

今はいくつか知らないけど、年齢を重ねた川村結花さんがピアノの前で歌う姿を僕はもう一度、夜中にテレビかなんかで偶然観たら、何か素敵な話だなぁなんて勝手に面映いことを思ってしまいましたが、そんな僕の妄想はさておき、もし本当に何処かで歌う機会があるのなら、直に聴いてみたい。そんな歌い手さんです。

 

Tracklist:
1. マイルストーン
2. 遠い星と近くの君
3. ヒマワリ
4. アンフォゲタブル
5. Every Breath You Take (Album ver.)
6. イノセンス
7. 夜空ノムコウ (Album ver.)
8. A Day He Was Born
9. home (Album ver.)
10. Rum & Milk
11. ヒマワリ -reprise-

Bonus Track
12. ときめきのリズム(Mellow Groove ver.)

Modern Vampires of the City/Vampire Weekend 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Modern Vampires of the City』(2013)Vampire Weekend
(モダン・ヴァンパイアズ・オブ・ザ・シティ/ヴァンパイア・ウィークエンド)

 

エズラによるとこのアルバムはアメリカについてのアルバムだそうで、アルバムジャケットもマンハッタン。けれどそのマンハッタンは数十年前のマンハッタンのようで、色もモノクロで雲がちょうどよい具合にかかっているから、それこそ中世のヴァンパイア城のようだ。ヴァンパイア・ウィークエンドの新作がようやく出るってんで久しぶりにこのアルバムを聴き直してみたら、古いアメリカというより古いヨーロッパに近い印象を受けた。

そもそもアメリカはヨーロッパからの移民が多くを占めている訳だから、古いアメリカを描こうとすると古いヨーロッパ的なるというのは当然かもしれないが、つまりそういうところまで意識してヴァンパイア・ウィークエンドはこのアルバムを作ったということだろうか。にしても2019年になってその意味が響いてくるとは。恐るべし、ヴァンパイア・ウィークエンド。

このアルバムはエズラの声から始まるように、彼の声を大々的にフィーチャーしている。実際しているかどうかは分からないが、決して軽くない歌詞が彼の声があることにより、全体としての明るいトーンに繋がっている。やはりエズラの声のアルバムと言っていいだろう。

歌詞は至る所に皮肉っぽいところがあってサリンジャーみたいで僕は好きだけど、多分エズラはインテリだからサリンジャーのようにへこたれない。いや実際には大変な事とか嫌な事ばかりなんだと思うけど、そういうのにマトモにぶつかっていかないというか、インテリだからちょっと経路が普通とは違うんだろう。

やたらインテリって言葉で片付けてしまって申し訳ないけど、ただ不思議とそのインテリが作った音楽が何故か凄く風通しがよくって、それは今回は彼ら流のアメリカのロックということらしいが、多分今までがアフロビートだったり欧米主体の音楽じゃないところを経由してきたからかもしれないし、そういう部分も含め改めてインテリだなって思わざるを得ないけど、やっぱり軽やかなのは面白い。

それに彼の声はやたらめったらよく通るから、ジャケットがモノクロだろうが、歌詞が皮肉めいていようがお構いなしに突き抜けてしまう。陽性だから「Diane Young」(=Dying Youngという意味か?)なんて歌っても全然平気なのだ。実験的で批評的(芸術というものは全てそうかもしれないが)であってもその陽性さは崩さない。要するに、難しい顔をしても何も解決しないということか。

 

Track List:
1. Obvious Bicycle
2. Unbelievers
3. Step
4. Diane Young
5. Don’t Lie
6. Hannah Hunt
7. Everlasting Arms
8. Finger Back
9. Worship You
10. Ya Hey
11. Hudson
12. Young Lion

国内盤ボーナストラック:
13. YA HEY (‘PARANOID STYLES’ MIX)
14. UNBELIEVERS (‘SEEBURG DRUM MACHINE’ MIX)

悲しみ

ポエトリー:

『悲しみ』

 

電車に乗るのが仕事か
すれ違いざま、君を見れなかった
今朝は早くに言葉を失くしたから
時間をかけて温めて
椀の中で休ませたい
白湯で

音を立てないサイフォンが頼りなく
呼吸すら定かでない
ただいまを言う代わりに
知らないことが増えていった
誰かが訪ねて来た
喫茶店のカランコロンみたいにちゃんとした姿勢だった

生まれてからまだちゃんと口にしていない
いい加減には出来ないんだね
邪魔者みたいに中古販売店の硝子ケースに仕舞われていたんだね
知ってるはずはないさ

 お前、
 そんな目で
 遠縁の人みたいなジェスチャーで近寄って来ても受け付けないよ

全て木曜日の夕方のせいにして
灰色のTシャツもろとも
赤く薄くなった所に馴染ませたい
じゃなかったら
明日はもう電車に乗れない

 

2018年8月

叙事詩と叙情詩

その他雑感:

「叙事詩と叙情詩」

 

日本の音楽詞は叙情詩が圧倒的に多い。60年代フォークから70年代のニュー・ミュージック、現代に至る所謂Jポップまで、そのほとんどが叙情詩だ。人々の感情に寄り添う叙情詩には胸が締め付けられるいい歌が沢山ある。

一方、叙事詩というは作者が一歩引いた視線というのかな。主人公はあくまでも彼や彼女。その彼や彼女の動く様やその友人知人、周りで起きる出来事や景色を作者は個人的な感情は横に置いといてそのままスケッチする。そんなイメージだ。

叙事詩は叙情詩の様に直接聴き手の感情に訴えかけてこないが、第三者を主人公に据えることで、聴き手は独自の映像を浮かべることが可能だ。映画みたいなもんだな。但し、具体的な映像は無いので、聴き手は自分の経験や想像力を駆使して勝手に思い浮かべていく。それは100人いれば100通り。いつしかそれは自分自身の物語となってゆく。

叙情詩は感情に直接訴えてくるので瞬発力はあるけど、想像力という点では希薄かもしれない。それに曲そのものの力より聴き手の感情に左右される点が無くもない。誰だって振られた後に悲しい歌が聴こえてきたらどんな歌であれ思わず感情が昂ぶってしまうだろう。

僕はやっぱり叙事詩の方がしっくりくる。思い返してみても高校時代、好んで聴いていたのはレピッシュとかユニコーンとかフリッパーズ・ギターとか。初期のサニーディ・サービスもそうだし、このサイトでカテゴリーを設けている佐野元春も全くその通り。主人公は僕ではなく、彼彼女。みんな叙事詩だ。今も日本の音楽を沢山聴きたいんだけど、結局洋楽ばかりを聴いてるのはそのせいかもしれない。

で自分で書くときもやっぱり叙事詩がしっくりくる。僕は感情的なところがあるので、情緒的なところは出来るだけ廃していきたい。一歩引いた視線で、僕ではない誰か別の主人公に動いてもらう。

今まで沢山書いてきた詩を眺めてみても、自分でいい出来だなと思えるのはやっぱりそういう詩だ。僕には叙事詩が合っている。

ChapterⅡ-EPⅠ/Vintage Trouble 感想レビュー

洋楽レビュー:

ChapterⅡ-EPⅠ(2018)Vintage Trouble
(チャプターII – EP I/ヴィンテージ・トラブル)

 

ヴィンテージ・トラブルが2枚組の新作を出しました。2枚組と言っても各5曲入りのEPです。2枚組と言っても2枚目は1枚目のアンプラグドです。なんでまたそんなリリース形態なの?と思いましたが、しばらく聴いてるとちゃんと2枚合わせて一つの作品という気がしてきましたね。

リリース形態も今までと違いますが、中身の方も今までと全然違う。何が違うって曲ですよ。曲の練度がメチャクチャ上がってるじゃないですか。もしかして今流行のソングライター・チームによる共作かと思いましたが、クレジットを見るとこれまで通りボーカルのタイ・テイラーを中心としたバンド内でのソングライティングでした。

そういやタイ・テイラーは今回のEP盤のインタビューで、「ライブの躍動感をパッケージしたかった」みたいなこと言ってますね。確かにこのバンドのスキルは相当なもんですから、ついついボーカルを含めたバンド・サウンドで押し切ってしまうところがあったのかもしれない。それじゃいかんだろう、ということで今回は曲作りにかなり注力したのかもしれませんな。

それにしても。ヴィンテージ・トラブルどうしちゃったの?っていうポップさ。思惑通り、曲の力で持っていく感じが凄くしますね。従来のどストレートなロックンロールはないですが、その分複雑な曲も増えて曲の練度はすっごく上がってる。リリックも手が込んでいて洗練されたライミングやアクセントに動きがあって気持ちいい。あれ、ヴィンテージ・トラブルってこんなことも出来るんや、ってちょっと驚きです。

で、このEPのツボは2枚目ですよ。なぁ~んだ、よくあるアコースティック・バージョンでお茶を濁したのかなんて思っているそこのあなた。確かに私も最初はそう思いましたよ。ところが曲重視の1枚目がここで活きてくるわけです。

先ずバンドの演奏が的確なんですね。しかもトレンドであるラテン音楽の要素を取り入れてくる。パーカッション主体でドライブし、ラストの曲はレゲエのリズムやね。この辺はもう抜群の安定感。しかもアレンジがシンプルですから曲の良さが更に際立つのです。なのでまた1枚目を聴きたくなる。そして1枚目を聴いているとまた2枚目を聴きたくなる。どーです、この幸福な2枚組スパイラル。曲重視の1枚目があっての2枚目のアコースティック・バージョン。なんだかこの2枚組の意図がちゃんと伝わってきたような気がしてきました。

彼らはその名のとおりヴィンテージなソウル、ロックンロール音楽のみをする方かと思っていましたが、跳ねたポップソングでも勝負できるんですね。どーもおみそれしやした。もうこうなりゃヴィンテージ・トラブルは無敵ですな。じゃ次はいつもどおりのロックンロールでぶっ放しますか。

 

Tracklist:
Disc 1
1. Do Me Right
2. Can’t Stop Rollin’
3. My Whole World Stopped Without You
4. Crystal Clarity
5. The Battle’s End

Disc 2
1. Do Me Right (Acoustic)
2. Can’t Stop Rollin’ (Acoustic)
3. My Whole World Stopped Without You (Acoustic)
4. Crystal Clarity (Acoustic)
5. The Battle’s End (Acoustic)

折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています

邦楽レビュー:

折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています

 

折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています。年の終わりに音楽各紙やネットで発表される2018年のベスト・アルバム選に折坂悠太という名前が散見されて、国内の老舗音楽誌、ミュージック・マガジンでは日本のロック部門で彼のアルバム『平成』が1位となっていました。てことで、最近になってようやくYoutubeで観だしたのですが、そしたら驚いたのなんのって。いや、驚いたんじゃなく、冒頭で述べたとおりちょいと感動しています。

僕は洋楽をメインで聴いているけど、別に邦楽を避けている訳じゃない。むしろ普段からなんか日本のいい音楽ないかなぁなんて思っている方だ。やっぱり母国語でしか得られないカタルシスは格別だから。

でも面白い表現、カッコイイ表現に時折出くわすことはあっても、心を揺さぶられるような言葉にはなかなか出会えない。勿論、音楽としてカッコよくなきゃ話になんないし、母国語なるが故、ついハードルが高くなってしまう。洋楽だと歌詞が少々アレでも曲が良けりゃ聴けちゃうからね。

折坂悠太さんの歌唱は独特だ。こぶしの入った節回しで合間にスキャットだのヨーデルだのを放り込んでくる。『逢引』という曲ではポエトリーリーディングもあって、いやこれも独特の口調でリーディングというより講談の口上っぽい。こういう声にならない声を発声する人はなかなかいない。

歌詞の方も独特で、最初は聴きなれない言葉遣いなので分かりにくいかもしれないが、独特の歌唱と相まって言葉がスパークしている。ぶつかり合っている。芸術というものは市井の人々の暮らしの中から湧き上がってくるもので、それはどうしようもなく地面を突き破って表れてくる。その時の地響きがここには記録されているということだと思う。

けれど折坂さんはそれを情感たっぷりに歌い上げるのではない。力を込めて目一杯歌っているけど、突き放している。それこそ講談師や浪曲師のようだ。宇多田ヒカルさんみたいに自分のことをまるで他人事のように歌える人と見たがどうだろう。どっちにしても言葉とメロディが有機的に機能している音楽に出会うことは楽しいことだ。

 

下に貼り付けたのはYoutubeのスタジオライブです。3分57秒後に始まる『逢引』という曲。僕には宇多田さんが登場してきた時のようなインパクトがありました。