Eテレ 日曜美術館「まど・みちおの秘密の絵」 感想

TV program:

Eテレ 日曜美術館「まど・みちおの秘密の絵」 2016.1.10 アンコール・放送

 

まどみちおと言えば、僕はやっぱり『ぞうさん』のイメージ。平仮名で書かれた詩。子供から大人まで親しまれる間口の広い作家、詩人というイメージだ。そのまどさんが50代を迎えた頃から絵をたくさん描き始めたという。それも何やらダークな抽象画。これは一体どういう事なんだ?ということからこの番組は始まる。

ゲストは谷川俊太郎。番組では再現VTRを交えながら色々語られていくが、やっぱり谷川さんの言葉が一番しっくりくる。蓮の花は綺麗だけど池の下はドロドロなんだという話。絵描きでも音楽家でも何でもいいけど、クリエイターと呼ばれる人はみんなダークサイドを持っているとか。なかでも印象的だったのは言葉はちゃちだという話。言葉があるということはその言葉は既に意味を持ってるということ。目の前にある存在だけを表現したいけど、言いたいのはそんな言葉ではないという事実。人類が言葉を持つ以前の状態で存在と接したい。人が見るという行為と宇宙の間にはなんら介在するものがあってはいけない。『見る=宇宙』なんだと。言葉を用いる人たちがこういう事を言う。だから詩人の言葉は信用できるのだろう。

で、まどさんは言葉の表現に行き詰まりを感じる。そしてその空白を埋めるように絵を描き始める。この絵が素晴らしい。絵の教育を受けていない創造性豊かな人が描いた絵。パッと見た感じではパウル・クレーに似た抽象画に見えたけど、やっぱ違う。暗い。もっと自分の魂と直結した絵なんだな。これは誰かに見せるための絵ではないというのがあるんだ。正確な数字は忘れたけど、まどさんは51才頃からの2~3年で百以上の絵を描いている。で、あるとき悟るんだ。これからは自分にとっての美を追求してゆこうと。

そこからの絵はなんかきれいに見える。まさに自分と宇宙が直結したような絵。それでいてまどさんの詩のような明るさがちゃんと見えてる。生命への尊敬が見えてる。でここからまどさんは絵をほとんど描かなくなる。てゆうか描く必要がなくなったんだ。だって人に見せるためのものではないんだもの。思い付きで言葉を出しているんじゃない。色々あっての言葉なんだ。ことにまどさんのような平仮名ばっかの詩だとそう思いがちなんだけど、違うんだ。この何気なさが詩人の凄みなんだ。

 

2016年1月

Eテレ 日曜美術館「アメリカの国民的画家・ワイエス」 感想

TV Program:

Eテレ 「日曜美術館〜アメリカの国民的画家・ワイエス」 2017.9.10 放送

 

アンドリュー・ワイエス。20世紀の米国を代表する画家。幼少時から高名な画家である父より絵の手ほどきを受ける。父は息子を挿絵画家にすべく、徹底的に写実的な描写を求める(時には同じくモチーフを数百回も描かせた!)が、長じるにつれ自由な表現を求め始めたワイエスはやがて父との間に乖離を感じ始める。

五人兄弟の末っ子で病弱だったワイエスは次第に学校へも行かなくなり、家の近所の人々との交流を深めるようになる。次第に当時厳しく分けられていた黒人居留地へも足を運ぶようになり、彼らとの邂逅はその後の活動に大きく影響を与えるようになった。

再現描画力が抜きん出ていて(この基本的な技倆は父親からの英才教育の賜物であろう)、それこそ草の一本一本まで描写する執拗な精緻さを持っているわけだが、にも関わらず彼の絵から受ける最大の印象は気配という一言に集約される。上手く描くことを目的とした絵では無く、如何にその人の年輪をキャンバスに刻みつけるかに持ち得る表現の全てを注ぎ込んだような絵。故に我々目に飛び込んでくる最大のものはどうあってもその気迫であり気配なのである。

米国に限らず、国を支えるのはお金持とか政治家とか世渡り上手といった成功者ではなく、名もない市井の人々であり、ワイエスが美しさを感じるのは厳しい自然界や理不尽な社会の中にあっても懸命に生き、ズル賢さでは無く生真面目さでしか生きることが出来なかった人々であり、貧しくとも現実を受け入れ、地を這って生きてきた人々に人間という生き物の気高さ見出していたのだと思う。人間にとって最も大切なことは何か、人の営みとは何かということのワイエス唯一の答えが、絵の中に凝縮されているのだと思う。

この何に美しさを見出すかという部分は、同じく小さな村の暮らしの中で、農業の専門家として人々の暮らしを少しでも良くしたいと奔走し、最良の精神を‘デクノボー’に見出した宮沢賢治を思い起こさせた。

僕はこの番組が好きだ。この番組のいいところは、無理に分かろうとしない二人の司会者のトーンにもよる押し付けがましさの無さと、毎回ゲストに呼ばれる人たちのアーティストに対する深い尊敬だ。今回のゲストの一人で、バイオリニストの五嶋龍氏が言った「答えはこれだよと言ってはくれないけれど、見た瞬間に何か答えを得たような気がする。」という言葉はワイエスの絵を語るに最も的確な言葉のひとつかもしれない。

もうひとりのゲスト、岐阜県現代陶芸美術館館長であり、ワイエス研究の第一人者である高橋秀治は言う。
「自分と共感を持てるまわりの人たちを描くことが結果的に普遍性を獲得している。」
これは多くの場合、あらゆる芸術に当てはまる真理なのかもしれない。

 

2017年9月

Eテレ 日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 2017.1.29 アンコール放送

 

新聞のテレビ欄に面白そうな番組を発見した。Eテレの『日曜美術館』。吉田博。精緻な木版画と書いてあった。僕は興味を引かれた。

画家、吉田博は今も海外では人気があるらしいが日本ではあまり知られていない。彼が活躍した昭和初期当時も日本画壇は黒田清輝を中心とする淡い色使いの人物画、所謂新派と呼ばれるグループが主流を占めていたようで、吉田のような油絵は旧派と呼ばれ、あまり評価をされなかったらしい。ともあれ、反骨の人、吉田は己の技法を突き詰めていく。そして49才の時に木版画と出会う。

その木版画。木版画とは言われてみないと分からない程の精緻さと奥行き、表現力だが、これはもう見てもらうしかない。僕らが持つ葛飾北斎とか棟方志功といった木版画のイメージを軽く跳躍する驚くべき作品。空前絶後だ。霧の表現、朝日の表現、水流の表現、水面の表現。全てがまだそこにある生きている景色。静的でもあり動的でもあり自然そのものである。彼はイノベーター。誰もなしえない未知の領域を表現している。

『濁流』は圧巻だ。文字通り唸りを上げている。圧倒的な動と静がそこにある。堅い樫木に細かく掘っていく作業は困難を極めた。歯を噛みしめるため奥歯が随分やられたという。1週間もかかったらしい。いや、1週間で彫りあげたのだ。これは驚異だ。何故そこまでして彫ったのか。答えは簡単。そこに線が見えるからだ。自分が進むべき線がはっきりと見えているのに描かない芸術家がいるだろうか。余談だが芸術家には我々には見えない、この進むべき線がはっきりと見えている。何故そんな風に描いたかなどという質問は多くの場合愚問だ。

吉田はいつまでも絵の表現を追い求めていく。満足しない。それこそ書生時代は「絵の鬼」と呼ばれるぐらい熱中した。沢山歩いて、沢山山に登って、沢山景色を見て、沢山人の絵を見て、何度も海外へ行って、自分の絵を高めていく。そして彼の絵は年代を追うごとに磨かれていく。彼の最後の作品である『農家』はその極みだ。芸術に年齢は関係ない。この絵は芸術には何が必要かということを証明している。

彼の言葉がある。
~自然と人間の間に立って、それをみることが出来ない人のために自然の美を表してみせるのが天職である。~

心に留めておきたいことがもう一つある。それは自分が決めた道であればそれを向上させるためにはいかなる努力も惜しんじゃならないということ。沢山学んで、吸収して、実践していかなくてはならない。自分の技法はこうだ、自分にはこれしかないとか、自分にはこれが合ってるというのではなく、新しいやり方に挑戦していかなければならない。芸術にとって停滞は悪だ。彼はそんなことは言わなかったけど、心得として、そんな風に聞こえた。

今年、『吉田博 生誕140年 回顧展』が幾つかの地域を巡回している。残念ながら北関東ばかりでこちらにはやってこないようだ。でもまあいい。僕はまだ長生きする。死ぬまでに吉田博の木版画を見る。

 

2017年2月