Eテレ 司馬遼太郎 雑談 「昭和」への道 感想

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司馬遼太郎 雑談 「昭和」への道

 

今、NHKのEテレで司馬遼太郎生誕100年の特番をしていて、1986年だったかな、『昭和への道』という、まぁあの戦争に向かって日本が狂っていた時代ですね、あれはなんだったのかというところをメインに司馬遼太郎が話をしているという当時の番組の再放送をやっていて、その第6回だったかに戦争期の日本に蔓延していた、特に軍人やメディアで非常に誇大な言語表現がなされていた、かつてない言語量を使ってしかも漢文のような古い言い回しなんかも多用しながら大袈裟な言語表現をしていたわけですけど、それを司馬さんは実態のない言葉と言ってるんですね。中身が空っぽで空虚だと。だって日本はヤバいなんていう本当のことなど言えやしないんだからつい誇大な表現でごまかす、糊塗する。まぁ愚かな時代ですけど、この中身がない、実態がないからつい言語表現は大袈裟になるっていうのは、司馬さんは当時の政治家のスピーチを例にとって、実体がない、言っている本人に実感がないからああいうもったいぶった大層な言い方になると言ってましたけど、本当にそうだなぁと、今も変わらないなぁと、やっぱり大袈裟にいいこと言う人は信用なりませんよね。

ここで話は僕の意見、別の方向へ行きますけど、日本の漫画は世界でも人気で評価も高いわけですけど、日本の漫画、アニメ、特撮なんかもそうですけど、ヒーローものの場合だいたい必殺技がありまして、ライダーキックとかブレストファイヤーとかですね、もう初期の頃からあるわけです。今じゃもうさらに進んで、「全集中、水の呼吸、一の型、なんとかなんとか!」みたいな何個あるねんっていうぐらい決め台詞があってですね、もうそういうのが日本人はいちいち大好きで、僕も「キン肉マン」とか「北斗の拳」とかの世代ですからそういうのに熱狂してたんですけど、まぁあれもですね、技名がとにかく大袈裟でなんのこっちゃ意味の分からないものもいっぱいあるんですけど、なんかそういう誇大表現に納得してしまうというか、「廬山昇龍波!」なんて言われると、わぁスゲーって興奮してしまう。やっぱ日本人は意味はよく分からんけどなんか凄そうな名前だったらそれでよしとしてしまう気質があるんじゃないかと。アベンジャーズにヒーローはいっぱい出てきますけど、それぞれのキャラが必殺技名を連呼しまくるってないですからね。

あともう一個言うと、これはもう前から思っていたことですけど、いわゆるJ-POPですね、これも熱い表現とか大層な言い回しが好きなんですね。君を守るとか君を助けるとか、ま、そんなこと現実的でないですよね、これもやっぱり実体がない。本当に助けるとはどういうことなのか、本当に守るとはどういうことなのか、そこの実体がないから無邪気に大声で歌えるのだと思います。それなりの現実認識、要するに実感があればもう少し違った表現になると思うんですけどね、でも聴いてる方もそれで熱狂してしまう、涙流して感動したりするわけです。僕は海外の音楽も沢山聴きますけど、僕の知っている限り海外にああいうド直球な応援歌ってないんじゃないかな。これも日本独特の文化だと思います。

だからまぁ、日本人というのはこういうポップ・カルチャーの分野においても大袈裟な表現、今で言うエモい物言いについ引っ張られてしまう傾向があるんだなと。なので、司馬さんの番組、あれは昭和のことを言ってますけど、今だって根本は変わっていなくて、中身のない、実感のない言葉に引っ張られがちな国民であるんだということを番組を見ながら、もちろん自分も含めてですけど、改めて思いました。

「スカーレット」はおもろい!!

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「スカーレット」はおもろい!!

 

朝の連ドラ「スカーレット」が面白いねぇ~。人生初です、朝ドラにハマったの(笑)。ドラマを見るにあたっては私の場合、どうも「いだてん」とか「スカーレット」とかみたいに合間合間に笑いがないとダメみたいですね(笑)。

朝ドラは何年か前からか家内が録画して夜に観てるんです。なので私もチラ見というか、今までもなんとはなしに観ていたのですが、こうもハマるとはね。今や「スカーレット」を観るのが一日の楽しみの一つになってしまいました(笑)。

最初はね、やっぱ子供時代の喜美ちゃんですよ!この子がすっごく面白くってですね、活発でしっかり者で、またお父さんとの掛け合いも楽しくって、ホンマおもろい子やったんです。なので、主役がね、当然のことながら成長すると演じる人が変わるんですけどね、ここがちょっと心配だったのです。あの喜美ちゃんじゃなくなるのかって。ところがですよ、長じた喜美ちゃん演じる戸田恵梨香さんがまた素晴らしくって、あぁもう大きなった喜美ちゃんこんな感じかもっていう自然な演技を披露されている。繋がりがちゃんと見えるんですね。戸田さん演じる喜美ちゃんももう最高です!

でやっぱお上手です。比較するわけじゃないんですが、前回の「なつぞら」の広瀬すずさんはやっぱりお若いですから、大人になって母親になってっていう主人公を演じるにあたっても広瀬さん自身が発する若さ、光が隠し切れないんです。手で押さえても指の隙間から光が漏れてしまう。

そこがですね、戸田さんは今年30才になるらしんですけど、ちゃんとその光を手の平で抑えることが出来るんですね。光が漏れてこないんです。そこがまた喜美ちゃんの切なさと快活さのコントラストとなってですね、劇中の喜美ちゃんはまだ18才かそこらなんですけど、やっぱ18才ですからそこのところのコントラストに自覚がないわけですよ。その辺りの出し入れを戸田さんはホントに上手に演じてらっしゃてて、私は普段ドラマをあまり観ないのでよく知りませんでしたが、戸田恵梨香さん、ほんと素晴らしい俳優さんだなと思いました。

私が「スカーレット」を好きなのはもう一つ理由がありまして、それは言い過ぎないということでしょうか。例えば大久保さんのくだり。大阪へ下働きに来た喜美ちゃんの前に女中のプロッフェッショナルである大久保さんが立ちはだかるんですが、この喜美ちゃんと大久保さんとの交流、見どころでもあるんですけどね、ここがサラッとしてるんです。過剰な表現がないんです。あと圭介さんとの初恋もサラッとしている。変に感動させようとか、変に盛り上げようとかってのが一切感じられなくて淡々と進む。恐らくここは製作陣、意図的にそうしているのだと思います。観てて窮屈さがない。クドクドと言わない。観る方に委ねられている。そういう部分にも風通しの良さ、自由さを感じているのかもしれませんね。

あと登場人物もみんな面白いです。私のヒットはお父さんに始まり、荒木荘のちや子さん。そしてなんと言っても大久保さんです!ほんと素敵な大阪弁を話すんですよ。昔の大阪弁っていうんですか、昭和の時代の、私の母親もまだそういう懐かしい大阪弁を使いますが(母の場合は泉州弁ですね)、上方落語で言うところの5代目文枝師匠みたいな耳当たりの良い大阪弁が、昭和の子供だった私にはなんとも気持ちいいんです。

「スカーレット」、まだ始まってそんなに経っていないんで、これからも沢山楽しめるかと思うとウキウキしてしまいます。今のところ私にとっての名場面は、喜美ちゃんが働き始めた頃、寝る前に枕を大久保さんに見立てて何度も「大久保っ!!」と投げ飛ばす場面ですね(笑)。

『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』 第34回「226」 感想

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『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』 第34回「226」 感想

 

ま、タイトルからして「226」ですから、不穏な空気で物語は進行します。時代が時代なので、この辺りの世情は描かずにはいられないですよね。ここをさらっと流さず国民にとってもどれだけ大きなインパクトを与えたか、人々の生活目線も交えながらの展開は観る方にも重たい空気を与えました。しかもそこへIOC会長のラトゥールが来日してくる。さぁ、どうする?田畑政治!!

一次は弱気になったまーちゃんですが嘉納治五郎の「やるんだよ!」の一声で吹っ切れます。図らずもラトゥールの東京案内を仰せつかったまーちゃんですが、道案内はなんと清さん!戒厳令が布かれた東京にはあちこちで道が封鎖され軍人が立っている。こりゃ抜け道に精通した者が必要だなと。そこで白羽の矢が立ったのが清さんでした。てことで小梅も登場!

いや~、やっぱこの二人は素敵ですな。画面が一気に華やぎます。孝ちゃんこと、この時は金原亭馬生って名になってますが、久しぶりの清さんと孝ちゃんの邂逅もあったりで、この回は不穏な空気で始まりましたが、第一部の登場人物たちがその空気感を見事にポジティブなものに変えていく。そーですよね、第一部の登場人物はみんな明るかった。久しぶりの大活躍の嘉納治五郎もしかり、第34話はそうした前向きな第一部の登場人物に支えられて切り開いていった回でもありました。

その極めつけは金栗四三の義母、池部幾江です。熊本に帰ったものの無気力な日々を過ごすいだてんこと金栗四三。そんな四三の元に治五郎先生から東京オリンピック招致に力を貸してほしいとの手紙が届きます。居ても立ってもいられなくなった四三は家族団らんの中、幾江に東京行きを嘆願します。

四三の変化に気付いていた幾江は意外にもあっさりと了承。ここで緊張の糸がほぐれたか四三は「俺なんかおらんくても寂しくなかでしょ」みたいなセリフを何気に呟く。しかしここで幾江はその言葉を逃さず堰を切ったように感情を爆発させる。
「寂しくないことなんかあるか!走ってばかりの息子でも4年もおらんだら寂しいわ!それが親じゃ!アホか!実の息子に先立たれたんじゃ!実の親を亡くしたお前も覚悟を決めて親子にならんか!!」

この回は226事件に始まり、ラトゥールの来日、そして清さん登場、治五郎大活躍、復興オリンピックの時のような子供たちの運動する姿。つらい世情になんとか堪える形で第一部の登場人物達のポジティブさが光を放ちました。このところ何だかなぁといった感じの四三も幾江の言葉に我を忘れて泣きじゃくる、幾江にしがみつく、その必死さのおかしみ。そうそう四三はこういう人であったと。

それにしても圧巻は幾江を演じる大竹しのぶさんでしたね。今回も行ったり来たり浮き沈みの激しい回でしたが、最後にすべてを持っていきました。四三のように観てるこっちも呆気にとられ、その後ぐわっと感極まる。演技してるとかそんなんじゃなく生々しく伝わってきました。それをユーモアで返す四三こと中村勘九郎さんも凄い。

ラトゥールにありったけの誠意を見せ、後は若者に任せたと言って去っていく嘉納治五郎。治五郎の雄姿もこれで見納めか。ってこの人に限ってそれはないですね(笑)。予告編ではあのシマちゃんの声も!
来週も楽しみだ!

「いだてん 第2部~田畑政治編~」、スタート!

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「いだてん 第2部~田畑政治編~」、スタート!

 

「いだてん 第2部~田畑政治編~」が始まりまして、ま~観てるとですね、今までの金栗四三や嘉納治五郎の奮闘は何だったのかと(笑)。何だあんなものとコケにしまくるマーちゃんこと田畑政治がキレキレですな。先週の感動の第一部最終回もあれはあれ、と感動の余韻を期待するこちらを見透かすように、四三だろうが治五郎だろうがベリベリとひっぺ返していく外連味の無さ。こーゆーの、いいですねぇ~。

もう丸っきりマーちゃんこと阿部サダヲの独壇場でして、まぁ僕みたいなクドカン×阿部サダヲ好きにはこれはこれでアリなんですが、これは完全に好き嫌いに分かれるでしょと(笑)。ただでさえ視聴率悪いのに、こりゃまた離れる人続出だなと(笑)。ま、そーゆー何かに慮るところが一切無しっていうのがいいとこなんですけど、流石にちょっと心配になってきたな(笑)。

第一部で積上げてきた登場人物の人となりもあれはあれというか、角度を変えればこうなるというか、そりゃ人間なんてそんなもんですから、どっからどう見ても素晴らしい人なんていないわけで、そんな風にこちらの思い込みをサラッとひっくり返すところは、人のことをどうこう言いながら、じゃあ自分はどうなんだいと、人の一面を見ただけであの人はどうとかこの人はどうとか分けちゃってるんじゃないのと、自分こそ物事を二極化してるんじゃないのっていう、己を顧みるというか、第二部初回を観た私にはそこのところがズキッとした感覚として残りましたね。

いや~、やっぱり「いだてん」はオモロイ!!

Eテレ 日曜美術館「絵が語る僕のすべて~絵本作家・画家 スズキコージの世界」感想

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日曜美術館「絵が語る僕のすべて~絵本作家・画家 スズキコージの世界」2019年4月7日放送 感想

 

芸術と作家の幸福な出会いを見るとこちらまで幸せな気持ちになってしまう。絵本作家で画家でもあるスズキコージさんもそんな一人です。あ、スズキさんの場合はかしこまって芸術と言うのではなく素直に絵と言った方がいいですね。

今は神戸に住まわれていて、時折外に出て大きな絵を描く。坂道の途上にある神戸北野美術館の一隅を借りての下絵も構想もないライブ・ペインティング。知り合いの楽団が訪れ賑やかな音楽を奏でる。観光客がなんだなんだと立ち止まる。辺り一帯、陽気な雰囲気で、そこはまるでスズキさんたち自体が絵本の世界にいるような、絵と実際の境目がない不思議な世界が現れます。

しかしスズキコージさんは今年71歳。ここまでに来るのに大変な時期を過ごして来られました。

東京の芸大を幾つか受験するも全て不合格。それでも静岡から上京し、働きながら絵を描く毎日。幸運な出会いがあり少しは絵での収入も得るが、世間に認められるのは40歳の時に描いた絵本、「やまのディスコ」で絵本日本賞を受賞してから。売れない時期には肉体労働など仕事を転々とし、電話や水道などを止められることもしばしば。それでも絵を描くことは楽しくてしょうがなったと。お腹が減るのも忘れて描いていたと。

スズキさんの画力であれば東京の芸大も恐らく、合格する術はあったはず。けれど、どうも違う、アカデミックな世界は俺には合わないと見切りをつける。売れない時代は絵の仕事を紹介されるも個性が強すぎると首になる。やっぱり純粋な絵描きなんですね。何のために描いているか。そこから離れられないんです。

ライブペインティングは3日に渡り行われました。3日目は生憎の雨模様でしたが、何事もなく絵を描き続けます。スズキコージさんは言います。「絵を描くことが向いてるんだろうね」と。

絵を描くことがイコール生きていくこと。スズキさんは緑内障にかかり、今見えるのは視野が狭くなった右目のみだそうです。全く見えなくなったとき。こればっかりは分からないなと仰ってました。

スズキコージさんは絵を描く。絵本だからとか、子どもに向けてだからとか、世間に向けてだとか、そんなことには一切頓着せずに、好きな絵を描き続ける。「絵描きじゃなかったらもっとさみしかっただろうね。俺が絵をつくりだせる人間だった。その絵が僕の生活を豊かにしてくれてるんだと思う。」

冒頭に僕は、芸術と作家の幸福な出会いを見るとこちらまで幸せな気持ちになってしまう、と書きましたが、そんな簡単なものではないですね。到底出来ないことです。スズキさんのライブ・ペインティングを直に見てみたい。そんな風に思いました。

Eテレ「落語ディーパー~風呂敷~」 感想

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Eテレ「落語ディーパー~風呂敷~」 2019.3.25放送 感想

 

珍しく2夜連続の「落語ディーパー」。昭和の大名人、古今亭志ん生の特集だそうです。ゲストに志ん生の孫弟子にあたる古今亭菊之丞を迎え、志ん生のエピソードを交えながらその魅力を語り合います。

1夜目の噺は「風呂敷」。あらすじを簡単に言うとこんな感じです。熊五郎が用事があるってんで出掛けるも、どうやら帰りは遅くなるらしい。女房のお崎がのんびりしていると、そこへ若い衆の新さんが熊五郎を訪ねてくる。あいにく熊五郎は居ないが、お崎も暇だし雨も降って来たんで、新さんお茶でも飲んでったらと新さんを家に上げるが、思いのほか熊五郎が早くに帰ってくる。別に平気な顔してお茶でも飲んでりゃいいんだが、この熊五郎がどうしようもないやきもち焼きとくる。しかも‘へべのれけ’に酔ってるとあっちゃあらぬ疑いを掛けられては大変。お崎は新さんを押し入れに隠して、さあどうしよう、近くの兄(あに)さんの元へ相談に行くのだが…。とまぁそんなお噺です。

流石NHKですね。「風呂敷」演じる志ん生の映像があるんです。これがやっぱり面白い、確かに東出昌大が言うように映像は白黒だし音声も明確じゃないから、古い資料映像のようで知らない人からするとつまらないものかもしれないけど、志ん生を知った身とあっちゃ動く志ん生がなんとも愛おしいのです。

やっぱしね、お崎さんにしても魅力的なんですよ。全然いやらしくないし、可愛げがある。頼りになるのかならねえのかよく分からない兄(あに)さんだっていい塩梅で、志ん生が演じると登場人物がホントに愛らしい。これはもうホントに誰にも真似できないですね。

で熊五郎は泥酔してる。これをまぁグデングデンに酔ってるだのヘベレケに酔ってるだの色んな言い回しがありますが、志ん生は「へべのれけ」と言う。これですよ、この言語感覚。「へべのれけ」と言うことで印象がぐっと近くなる。それでいてあの志ん生の語り口ですから、何とも言えない味わいがそこに生まれるんです。

番組出演者によると「風呂敷」は非常に難しい噺だそうです。だから、菊之丞は持っていないし、一之輔も一度高座にかけたことはあるけどそれっきりだと。対して若手の柳家わさびと柳亭小痴楽は割とあっけらかんと持ちネタにしているそうで、この辺りの距離感も面白いですね。

噺の中身にしたって、一緒にお茶を飲んだぐらいでこんな風になりますかね、というわさびは自分が演じる時は、新さんを間男にしちゃう。実際この噺は元々そういう噺だったそうですからそれでいいのかもしれないけど、お布団敷いてって噺にしちゃう。一方、一之輔はお茶飲んだぐらいでこんな風になってしまうっていうのがこの噺のミソだと言う。解釈の違いですけど、僕は一之輔派ですかね。この辺はもう年齢でしょうね。

てことで落語はこのように演者によって解釈を変えてもいいんです。勿論最低限のルールはあるのでしょうが、多少中身を変えても差し支えない。ここも落語の面白い所ですよね。また、菊之丞の師匠である古今亭圓菊は「風呂敷」のお崎と新さんのやりとりをお茶を飲むってパターンとお酒を飲むパターン、2種類用意していた節があると。その日のお客さんの状態によって使い分けていたんじゃないかっていう。お茶とお酒、ただそれだけの違いなんですが、やっぱりニュアンスは異なりますよね。なんか粋な話です。

落語というのは新作落語は除いて、みんな共通の噺なんです。それを如何に演じ分けていくかっていうところが腕の見せ所なのかもしれませんが、これ、音楽の場合もそうですね。カバー曲なんてのが時々ありますが、その歌い手の解釈、俺だったらこう歌うねっていう。硬い言葉で言うと批評ですが、そうした批評の精神がその芸術の価値を高めていく。落語もそういうことではないでしょうか。