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折坂悠太「呪文ツアー」感想
折坂悠太 「呪文ツアー」サンケイホールブリーゼ 2024年9月22日 感想
とても素晴らしいライブでした。春のツアーで披露された新曲が『呪文』アルバムという形としてリリースされたことで、こちら側にも聴き手としての備えがあったのかもしれないが、春のツアーからはより強固になった曲の数々が圧倒的とも言える確かさでまっすぐこちらに届いてきた。
今回披露された曲は折坂のMCにもあったように『呪文』という言葉に引き寄せられたものだそうだ。その心は僕には分からないが、ライブ一曲目の『スペル』に続いて披露された『坂道』を聴いたときのなんとなく合点がいった感じ。すなわち『呪文』アルバム自体の持つ身近さ、日常感というものが今の折坂のムードなのだなという感想。
と言いつつ、時勢からは切り離せない音楽家であるが故に、どうしても戦争という二文字が思い出される。どの曲もそこから糸を吐いたように感じられたのは僕の思い込みかもしれないが、僕にとってこの日のハイライトは前のアルバムからの『炎』とそれに続く『朝顔』であった。
「残された手段」もなく、「なすすべなくただ、ここにいる」そして「この雨は続く」。安全なところは何処にもなく「白線の上を」すらも。しかし特定の誰かや何かを糾弾などしない。わたしたちの日常にあるものはわたしであり、誰かや何かもまた同じであるから。ただ折坂は「あいつが来たら 眠らせてやろう」と歌う。あいつとは悪魔のことであるのかもしれない。しかし折坂は歌う。「同じ炎を囲む ぼくのララバイ」と。それすらわたしたちの日常のうちと。
アルバム『呪文』が最終曲の『ハチス』で終わるように、この日の本編ラストは『ハチス』。アルバムと同じようにそれまでのすべてを包むような存在がそこにあった。この曲のハイライトは中盤でのポエトリーリーディング。「遠くで雷が鳴り」、「パンにジャムを塗る手が止まる」。それはすなわち日常が脅かされる瞬間。しかし、あせらずせかさず、落ち着きを経て、「パンにジャムを塗る手は動く」。その時心によぎるのは「全ての子供を守ること」。
折坂悠太は詩人であると改めて思ったのは、言葉のひとつひとつがライブで改めて構築されるということ。ライブで音声を経てやってくるポエトリーは新たな意味が立ち上がるけど、でもそれは普遍ではなく変わり続けるものであるという実感が同時にある。恐らくそれは演者自身がそういうゆらぎを許容しているからであろうし、折坂のポエトリーが生きているから。
それにしても圧倒的なコンサートだった。演者と聴き手との関係がより近く、でもそれはファンフレンドリーということではなく、声がそこにいるような感覚。身近なひとが身近なことを歌っているような感覚。プロの表現者としての圧倒的な技量に打たれつつ、何度も繰り返された折坂の咆哮すら身近な温かさを感じさせたこと。ここにある表現は生き物であった。
折坂悠太 ツアー2024 あいず 心斎橋BIGCAT 4月15日 感想
ライブ・レビュー:
折坂悠太 ツアー2024 あいず 心斎橋BIGCAT 4月15日
今この時に折坂悠太は何を歌うのだろう。そんな気持ちを持ちつつ、初めての折坂悠太のライブに足を運んだ。その4月15日は月曜日。先週末から体調が芳しくなく、そのうえ月曜日という気分もあって、初折坂だというのに気持ちは上がらない。仕事を切り上げへBIGCATに到着。なんとか間に合った。そして定刻、バンドが現れた。
小さなライブハウスなので、演者が良く見えた。と言っても僕は極度の近視。眼鏡を掛けてはいても表情までは見えない。が、そんなことは別にいいや。折坂のギターが初っ端からいい音。彼らの世界にどっぷりと漬かることが出来た。
アルバムのリリースがあったわけでもなく、これといったプロモーションがあったわけでもないのだろうけど、ちょっとしたツアーを実施。こういうツアーは面白い。制作中なのだという来るべきアルバムに備えての新曲も沢山演奏してくれた。知らない曲なのにいい感じだ。ま、知っていても知らなくても折坂悠太の曲は馴染みがいいからスッと入ってくる。
そうだ、大半の曲は知らなかった。このところの新曲『人人』や『鶫』はあったけど、僕が持っている2枚のアルバムからの曲はそんなになかった。でもそれでいい。ていうか今夜はそれがいい。歌詞ははっきりと聞き取れない、けどぼんやりと耳に飛び込んでくるフレーズが、あぁ折坂悠太だなぁ。それにあの声、マイクは通しているけど、ダイレクトに聴こえる。張り上げる声と合間にボソッと話すMCの声、同じ人だという実感ができる。
特にテーマが無かったのだろう。バンドの演奏、アレンジも多岐にわたっていてとてもよかった。アンビエント音楽のような時間もあれば、どうしたプログレかと思う時間もあり、エレキギターがぎゃんぎゃん鳴る時間もあった。このバンドはパーマネントなものかどうかは知らないが、アルバムを一緒に作っているようだから気心知れた間柄なのだと思う。とてもいいバンドだった。
アンコールでも新曲が披露された。中盤がスポークンワーズ形式になっていた。最終的にはメロディが付くのかどうか知らないが、そこで「子どもをまもろう」と明確に語る折坂悠太がいた。今この時に彼は何を歌うのだろう。ぼんやりとそんなことを思いながらのライブであったが、時折そうした今の実感が聴こえてきたような気がする。うん、特に何かできるわけじゃないけど今はそれが素直な本音だ。
ちなみにツアー・タイトルの’あいず’は’eyes’なのだそうだ。僕はてっきり’合図’だと思っていた。勿論、織り込み済みだと思う。日本語は面白い。次は大阪城野外音楽堂とかで見たいな。狭いライブハウスがちょっと窮屈だった。
折坂悠太『心理』~わたしなりの全曲レビュー
心理 / 折坂悠太 感想レビュー
平成/折坂悠太 感想レビュー
邦楽レビュー:
『平成』(2018)折坂悠太
講談師の神田松之丞が大変な人気らしく、私は確か一昨年ぐらい前にEテレでやってたインタビュー番組「SWITCH」で彼を知って、こりゃ面白れぇと早速音源を聴いたところそりゃ驚いたのなんのって。
私は同じくEテレの「日本の話芸」を毎週録画していますから、じゃあそこで時たまやる講談もいっちょ観てみようかなんて思って観てみますと(いつも落語以外は大概すっ飛ばします、すみません)、まぁ昔ながらの、あぁ講談ってこんな感じだったよなっていう印象で、なるほど、神田松之丞がだいぶ変わってんだなと。ま、それからは相変わらずすっ飛ばしております、あい、すみません。
で落語好きの友人に神田松之丞を紹介したところ、そいつは神田松之丞の講談を聴いても別に何とも思わなかったみたいで、私は拍子抜けした気分にもなりましたが、そういやそいつは音楽を聴かねぇやつだったじゃねぇかと、なるほどと一人得心しておりました。
どういうことかと申しますと、神田松之丞という講談師は兎に角大げさで、過剰で、やたらめったらエネルギーを放射する。恐らくその過剰さを私は気に入ったんですけど、要するにその過剰さというのは私にとってはロック音楽なんです。それも若い奴のやるロック音楽。過剰っつってもパンクやメタルなんていう騒がしい音楽という意味ではなくて、大人しくったって過剰で心象が騒がしい音楽はそこらじゅうにあるわけで、いちいち表現がオーバーな奴っているでしょ?でもその過剰さっていうのは重要で若さの特権なんです。
若いくせに過剰じゃねぇロック音楽なんての私は興味ないです。てことで、落語好きなのに神田松之丞がピンと来なかったのはそいつが音楽を聴かねぇやつだったからという理屈です。
前置きが長くなりましたが、折坂悠太です。過剰です。苦味とか雑味だらけでやたらめったらエネルギーを放射して暑苦しいです。どういうわけか「みーちゃん」とか「夜学」とかを聴いてると、米国のジャム・バンド、デイヴ・マシューズ・バンドを思い出しまして、ジャカジャカした感じとか、サックスの感じですかね?暑苦しいなんて言いましたけど、デイヴ・マシューズ・バンドっぽいっつってんだから、悪い気はしないでしょ、折坂さん。
なにしろ言葉がいいです。例えば1曲目の『坂道』。「重心を低く取り / 加速するこの命が / 過ぎてく家や木々を / 抽象の絵に変える」。続いて2曲目『逢引』は「互いの生傷を暗闇に伏せている」。いい表現するじゃないですか。
言葉で言うとダブルミーニング、掛詞が目に付きました。#2『逢引』の「各都市のわたくしが」は「各年(若しくは各歳)」にも聞こえます。#6『みーちゃん』の「みーちゃん、だめ」は「見ちゃだめ」だろうな。#7『丑の刻ごうごう』の「朝間近」は「浅まじか」或いは「マジか?」に聞こえます。
意図的なのか偶然なのかは知りませんが、たとえ偶然だろうと見て見ぬフリをする大胆さをお持ちではないかと。何かのインタビューで「字余りになるのが嫌で、言葉を綺麗に揃えてしまう」などと几帳面な事をぬかしておりましたが、この緊張と緩和はやはり日本の話芸と相通ずるものがございます。
ちなみに私が折坂悠太の『平成』をウォークマンに取り込んだ日は、昭和の大名人、5代目古今亭志ん生と5代目柳家小さんの落語を取り込んだ日でもありまして、只今、私のウォークマンにはこの3名が‘最近録音したもの’という同じカテゴリーに並んでおります。どうだい折坂、恐れ入ったか、コノヤロー!
Tracklist:
1. 坂道
2. 逢引
3. 平成
4. 揺れる
5. 旋毛からつま先
6. みーちゃん
7. 丑の刻ごうごう
8. 夜学
9. take 13
10. さびしさ
11. 光
折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています
邦楽レビュー:
折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています
折坂悠太さんという歌い手にちょいと感動しています。年の終わりに音楽各紙やネットで発表される2018年のベスト・アルバム選に折坂悠太という名前が散見されて、国内の老舗音楽誌、ミュージック・マガジンでは日本のロック部門で彼のアルバム『平成』が1位となっていました。てことで、最近になってようやくYoutubeで観だしたのですが、そしたら驚いたのなんのって。いや、驚いたんじゃなく、冒頭で述べたとおりちょいと感動しています。
僕は洋楽をメインで聴いているけど、別に邦楽を避けている訳じゃない。むしろ普段からなんか日本のいい音楽ないかなぁなんて思っている方だ。やっぱり母国語でしか得られないカタルシスは格別だから。
でも面白い表現、カッコイイ表現に時折出くわすことはあっても、心を揺さぶられるような言葉にはなかなか出会えない。勿論、音楽としてカッコよくなきゃ話になんないし、母国語なるが故、ついハードルが高くなってしまう。洋楽だと歌詞が少々アレでも曲が良けりゃ聴けちゃうからね。
折坂悠太さんの歌唱は独特だ。こぶしの入った節回しで合間にスキャットだのヨーデルだのを放り込んでくる。『逢引』という曲ではポエトリーリーディングもあって、いやこれも独特の口調でリーディングというより講談の口上っぽい。こういう声にならない声を発声する人はなかなかいない。
歌詞の方も独特で、最初は聴きなれない言葉遣いなので分かりにくいかもしれないが、独特の歌唱と相まって言葉がスパークしている。ぶつかり合っている。芸術というものは市井の人々の暮らしの中から湧き上がってくるもので、それはどうしようもなく地面を突き破って表れてくる。その時の地響きがここには記録されているということだと思う。
けれど折坂さんはそれを情感たっぷりに歌い上げるのではない。力を込めて目一杯歌っているけど、突き放している。それこそ講談師や浪曲師のようだ。宇多田ヒカルさんみたいに自分のことをまるで他人事のように歌える人と見たがどうだろう。どっちにしても言葉とメロディが有機的に機能している音楽に出会うことは楽しいことだ。
下に貼り付けたのはYoutubeのスタジオライブです。3分57秒後に始まる『逢引』という曲。僕には宇多田さんが登場してきた時のようなインパクトがありました。