「鶴瓶上岡パペポTV」を観ていた頃の話

その他雑感:

「鶴瓶上岡パペポTV」を観ていた頃の話

 

高校生の頃、「鶴瓶上岡パペポTV」が大好きで、毎週欠かさず観ていた。たまに鶴瓶と上岡龍太郎のどっちかが収録に来れない時があって、そういう時は来ている方が一人で一時間喋り続けていたんだけど、鶴瓶が一人の時はなんかワクワク感があってそれはそれで楽しんでいたように思う。一方、上岡龍太郎だけの時は、今聞けば面白いのだろうけど高校生の僕には退屈だった。

でも同級生には上岡龍太郎のファンがいて、彼の口からはよく上岡龍太郎の話題が上がった。彼は勉強がよくでき、とてもしっかりしていて、僕は出来が悪かったけど、不思議と彼とはよく遊んだ。彼はいわゆる優等生タイプで、でも僕らの前ではしょっちゅう先生の悪口を言っていて、そのギャップが可笑しかった。パペポの公開収録に誘ってくれたのも彼だった。

朝早くに読売テレビへ行って整理券を貰う。収録は夜だったのでそれまでかなり時間があったわけだけど、一体僕らは何をして時間をつぶしていたのだろうか。まったく思い出せない。とにかく僕らは何度かパペポを観に行き、パペポ以外にも互いの好きなミュージシャンのコンサートに行ったり、遠い時には泊りがけで横浜スタジアムまで足を延ばしたこともあった。そしてそういう時はいつも当然のように彼が全て下調べをしてくれた。でもお互い別の大学(もちろん彼は僕よりレベルが上の)に行っていつの間にか関係は途絶えた。あんなによく遊んだのに不思議なものだ。

彼は先生やクラスメートにも好まれ、よく出来たちゃんとした人物だったが、今思えば、彼自身は自分はそっち側の人間という意識は無かったように思う。むしろ僕たちみたいな人間のくだらなさの側に愛着を持っていたのかもしれない。

上岡龍太郎の訃報を聞いてなぜか僕は彼のことを思い出している。学校では賢そうな顔をしてもっともらしいことを言うくせに内輪になると急に砕けて毒ばっか吐く人懐っこいあいつといた高校生の頃を。そういえば今の僕の年齢はあの頃の上岡龍太郎と同じぐらいだ。だから何ってことでもないけど。

日本国内盤がないっ!!

その他雑感:
 
日本国内盤がないっ!!
 
 
ボーイジーニアスのアルバム『ザ・レコード』が素晴らしくて、対訳の付いた日本国内盤CDを待っているのだけど、今のところリリースのアナウンスはない。今年のベスト・アルバム選ではほぼ間違いなく上位に来るであろう作品の日本国内盤が発売されないというのはどういうことだろうか。一方でシェイムの新譜は対訳付の国内盤が出ているようだ。ローリングストーンズ誌の表紙を飾るほどのボーイジーニアスの国内盤がなくて、まだまだメジャーとは言えないシェイムがあるというのは何だかよく分からない。
 
そういや昨年に出たウィルコのダブル・アルバムも結局、国内盤のリリースはないままだ。長らくウィルコを聴いてきたがこんなことは初めて。同時期に出たフェニックスもそうだった。この時もよりマイナーなルイス・コールやドライ・クリーニングの新作は日本国内盤があったから、結局名前のデカさは関係ないのかも。単純に発売元の判断なのかもしれないが、ウィルコもフェニックスも日本での発売元はワーナーミュージックジャパン。非常な大手だが、ウィルコやフェニックスといった大物ですらもう採算は取れないということなのだろうか。
 
今時のサブスクは音質も悪くないし、これからもどんどん良くなっていくだろう。CDが無くてもそれはそれで構わないが、日本語訳を読みたい派としてはちょっと困る。ウィルコなんて対訳を読んでもよく分からないから尚更だ。
 
当然、歌詞も音楽の魅力の一つであるわけで、歌詞がちゃんと読まれないのはアーティスト側としても大きな損失。有料でいいからサブスクにも対訳が付くようになればいいが、そんなことすると益々日本国内盤が売れなくなるし、多分そんな手は取らないだろう。ていうか、技術的に可能なのか?
 
どっちにしろ’対訳がない問題’についてはどこかに手を打ってほしい。サブスクでも訳詞が付くなら、オプション価格であっても全然かまわない。最近は翻訳アプリの精度も良くなっているが、いちいちコピペなんてしてられない。同じように思っている人は結構いると思うんだけどな。

芸術と生活

 
芸術と生活(坂本龍一の訃報に際して)
 
 
坂本龍一が亡くなった。訃報に際する報道により、氏の情熱的な活動を知り、知的でクールなパブリックイメージが覆った人も多かったかと思う。子供時代の僕にとってはピコピコしたYMOの人であったり、女装をして清志郎と戯れたりの人であったが、気付けば、世界で活躍する人の一番に挙げられる人、日本という枠外にいる人、という印象になっていた。
 
芸術というものは第一義においては、作家が誰に気兼ねすることなく思うに任せて創作をする、ということだと思う。けれどもその先、創りたいように創ってそれを放り投げる、あとは他者に委ねる、それでいいかどうかは考える余地がありそうだ。
 
坂本龍一は自身の才能に任せて創りたいように創り、後は知らない、という人ではなかったように思う。芸術と生活は繋がっているもの、地続きであるということを強く意識していた。被災地での活動や「NO NUKES」や最近で言えば神宮の森についても、それは単に彼が社会的な出来事に強く関心があったということだけではなく、芸術と生活、あるいは芸術と社会は地続きでなければならない、という意志が根底にあったからではないだろうか。坂本龍一はそれを単に口ずさむだけでなく、行動で示した。
 
そしてそれは共に行動することで被災地の若い人たちに受け継がれた。今まさに神宮の森について訴えている人たちに受け継がれた。プロの音楽家として活動している人たちに引き継がれた。まさしく彼は若者を導く教授であった。
 
震災、あるいは戦争といった災厄に対して、音楽が、あるいは芸術が出来ることは何もないのではないか。そう打ちひしがれた芸術家は沢山いたかと思う。けれど、そうではないんだよ、芸術と生活は、あるいは芸術と社会は切っても切れないものなんだ、必要なものなんだから発信していかなければならない、行動していかなければならない、ということを体現していた人がいた。
 
その事実は非常に心強いものだった。坂本龍一は芸術家であると同時に、そのこと自体が社会の一員であるという認識に立っていた。それはすなわち、彼が十代の時になりたいと願っていたコスモポリタンの姿そのものではなかったか。
 
これからも私たちの前には大きな出来事が立ちはだかるだろう。しかし私たちには坂本龍一がいたという事実がある。そのことはずっと長く私たちの胸に横たわり続けるだろう。私たちの多くは芸術家ではないけれど、そのすべては生活と社会と繋がっている。
 
これを機に氏の遺した音楽を聴いてみようと思います。
 
R.I.P.

男の笑いと女の笑い

その他雑感:
 
「男の笑いと女の笑い」
 
 
日本が男性社会だというのはテレビを付けていると一目瞭然だ。男性MCと男性タレントがほとんどで、女性が多くを占めているというのは圧倒的に少ない。だってそりゃ男の方がオモロイからに決まってやんという声が聞こえてきそうだけど果たしてそうだろうか。
 
少し前になるが、松本人志が司会を務める「IPPONグランプリ」。女性芸人と女性タレントによって行われた回があった。面白い局面もいくつかあったのだが、総じて男性芸人に比べるとだいぶ落ちるよなぁというの大方の意見ではなかったか。僕はそう思った。でも考える。それって本当?
 
僕の奥さんはよく笑う。でも「M-1」とか「IPPONグランプリ」には全然興味がない。「笑ってはいけない」は嫌いだと言っていた。だからと言って奥さんはユーモアのセンスがないわけじゃない。だって家でも外でもよく笑うから。もしかしたら、男の方がオモロイやんというのは男性の笑いの価値観が世の中を支配しているからだけなのかも。
 
例えば女性ばかりの会に男が一人呼ばれたとする。女性たちが大笑いしている。男性は何が面白いのかよく分からないので愛想笑いをする。後日、男の友達連中に言うわけだ。何がオモロイか分からんかったわ。恐らくそれと同じことが女性の側では毎度起きているのかもしれません。
 
先ほどの女性限定「IPPONグランプリ」で優勝したのはハリセンボンはるか。確かに圧倒的に面白かった。出演者が言う。男女関係なく参加できるんじゃないかって。でもこれって、男が取り仕切る男が面白いと思う基準の笑いの大会にあなた出れますよって言ってるようなものではないかな。ちょうど今、NHKで男女が逆転するドラマ、「大奥」がやっているけど、まさしくあの世界。男女の立場が逆転しそれが何十年も続くと、女が面白いと思うものが世間の面白いの基準になるのだと思う。
 
男の方がオモロイやんというのは男社会だから出てくる言葉なのかもしれないな。なんだか他のことにも当てはまりそうだ。

読書の秋

その他雑感:
 
読書の秋
 
 
『14歳の君へ』という池田晶子の著作を息子に手渡した。以前、Eテレの『100分de名著』で紹介されていたのを見て、息子が14歳になったら送ろうと思っていた。もちろん、ちゃんと自分でも読んでから渡した。
 
息子に望むことはここに書かれてあることを鵜吞みにすることではなく、こういう考えもあるんだという視野を広げてもらいたいということもう一つは誰かが異なる意見を述べた時にちゃんと聴くことが出来る素地を作ってもらいたいということ。若いころはとかくこうずべきだ、なんて自分の考えに固執するきらいがあるが(僕が多分にそうだった)、少しずつものの見方の幅を広げていってくれたら嬉しい。
 
以前贈った植松努の本は気に入ってくれたようで、自分の部屋の本棚に大切に置いてくれている。僕も多感な頃にこうした本に触れていれば少しは今と変わっていたのかもしれない。
 
息子も娘も時間があればスマホやタブレットを触っている。あれは色々な情報を与えてくれるが、Aiが使用者の傾向を勝手に分析し、困ったことにそれに応じた情報を流してくる。スマホで読む情報なんてたかが知れているが、そうは言っても毎日繰り返し続けられると、サブリミナル効果のように更に考えが偏るように刷り込まれていく。そんなことは分かっていてもついスマホを見てしまう。大人がこれなのだから、無防備な子供への影響度は計り知れない。
 
その点、紙の本というのは面倒な分、自分でちゃんと選んでいるという責任があるのがいい。それに1000円で買ったなら、ちゃんと1000円分は読もうという気になるし、子供に贈る場合も読まれずにその辺にポンと置かれたままだとかなり悲しいので、ちゃんと読んでくれる工夫をして手渡す。
 
それに読むのにはそれ相当の時間がかかるのがいい。スマホのように次々と自分にとって気持ちのいい情報が流れてくるということはないから、読みながら立ち止まったり戻ったりと自分で判断できるのがいい。また1冊読んでも、分かったような分からないような気になるのがいい。難しい本を頑張って読んだけど、結局よく分からなかったというのもなかなか良い時間の過ごし方だと思う。
 
そういうわけでこれからも折を見て、息子に本を手渡そうと思う。そろそろ中原中也の簡単なアンソロジーなどどうだろう。いやいやまだ早い。こんなところで詩から離れてしまわれても困るので、中原中也は高校生になって彼が困っているようならプレゼントしよう。もちろん、堅苦しい本だけじゃなく、漫画もたまに一緒に読みながら。
 
ところで娘はほとんど本を読まない。いくら薦めても全く駄目。先日、珍しく読んでいるなと思ったら、好きな芸能人のエッセイ本でした(笑)。

今日は投票日

7月10日の雑感:

民主主義は時間がかかるシステムだ。確かに専制主義国家の方が何も決めるにも早い。しかしそれは一部の権力者や賢い人に任せるシステム。頭がよくて、知識があって、力のあるエリートに任せればいい。はっきり言ってそっちの方が楽じゃん。でもそれの行く着くところは選民思想でしかない。

民主主義は時間もかかるし、余計な対立も煽る。でも民主主義とは選挙に勝った政党が好き勝手にやっていいというものではない。選ばれた政党は選ばれなかった政党を支持した人々を含めるすべての国民の代表者だ。確かに自身の政党の思惑が優位に働くが、前提としてすべての国民の利益を考えなければならない。トランプによって歪められてしまったが、民主主義とは多数決で勝った方が好きにやっちゃえばいい、というシステムではないのだ。

わたしたちは今一度、この民主主義というものを考えなければならない。「民主主義というものに完成形はない」とは誰が言った言葉だったか。どうせ自分の意見なんて通らない、ではない。選挙で多を得なかったとしても民主主義というシステムがある限りわたしたちの意見はないがしろにはされない。その声を少しでも大きくするために選挙はある。

大人なのに子供の漫画が描ける人

その他雑感:
 
大人なのに子供の漫画が描ける人
 
 
僕は絵ばっかりかいていた子供で、絵と言っても漫画ですね、ほらクラスに一人はいませんでしたか?漫画のキャラクターをノートに描いて皆に見せてる子。あれです(笑)。
 
僕が小学校高学年の頃はそれこそジャンプ黄金時代で、ケンシロウやらキャプテン翼やらをよく描いていたんだけど、低学年の頃は藤子不二雄のキャラをよく描いていた。クラスには他にも同じように絵を描いている子がいたけど、僕は負けている気がしなくて内心少し得意になっていた。
 
ある日、大人びた(と言っても1、2年生だが)女の子が転校生としてやってきて、彼女もノートに絵を描いてきていた。皆が凄い凄いと言うので、気になって見に行ったら、そこにはとてもリアルな犬の絵がたくさん描いてあった。ませた彼女の雰囲気も相まって、漫画ばっかり描いてる自分が随分恥ずかしくなったのを覚えている。多分その記憶があったから、自分が小さい頃に何を描いていたのかを覚えているのだろう。
 
藤子不二雄Aはある時期から子供向けの漫画ばかり描いてることが嫌になってきたそうだ。そこでできたキャラクターが喪黒福造だと先日の訃報にあたってのニュースが伝えていた。物珍しいアニメだったので、僕も『笑ウせぇるすまん』を最初は興味深く観ていたけど、そのうち全く観なくなった。僕にはブラックユーモアは馴染まなかった。
 
藤子不二雄Aは満足していたかもしれないけど、大人なんだから『笑ウせぇるすまん』を描けることに驚きはしない。本人は嫌になったのかもしれないけど、大人のくせに子供向けの漫画ばかりを描けてしまうことの方が何倍も偉大だ。それにあのキャラクター。怪物くんとかハットリくんとかよくもまぁあんなの思いつく。
 
ドラえもんも怪物くんもハットリくんもみんな僕たちの友達だったなぜなら僕たちも間抜けでおっちょこちょいののび太でありヒロシでありケンイチ氏だったから。
 
R.I.P.

3月11日の雑感

3月11日の雑感:
 
 
早いもので2022年も2か月が過ぎた。今年の冬は随分と気温が下がり、例年にも増して寒かったなと思いつつ、即座にほとんど雪が降らない大阪に住んでいてこんなこと言ってちゃいけないなと思い直した。
 
寒いからというわけでもないのだろうけど、2月の初めごろに体調を崩した。一応抗原検査は受けたものの、結果は陰性。しかしその後今に至るまでずっと体調が悪い。体がしんどい。頭痛が続く。
 
そのうち治るだろうと思いつつ、こりゃ世に言うコロナの後遺症じゃないかとコロナになったわけでもないのに、いやそれも抗原検査だしよく分からない。そういえば肩痛の強い薬を飲み続けたことも影響しているのかなとも思ったりするものの、原因なんて分からないからまぁ気分が晴れない。てことで2月になってからというものの、何事に対しても意欲が下がり気味だ。
 
体調以外にも調子の悪いことがいろいろ続いている。戦争も起きたし、ホントに気分が優れない。とりあえず、「日本でデモ行進をしてもクソ役にも立たない」と言った人が我々のリーダーじゃなくてホント良かったなと思う。
 
日本は島国だから戦車がゴトゴトやって来ることはないだろうけど、ミサイルやなんやらは空からバンバン降ってくるかもしれない。そうなりゃ銃なんて何の役にも立たないかもしれないけど、妻や子供を守るためには僕も銃を取るのか。まさか。ウクライナの人たちもそんな気持ちがあるのかなぁと想像しつつ、嫌だ嫌だ、想像するだけで怖い。
 
東日本大震災が起きたのは11年前。天災ではある。たくさんの人が亡くなり、たくさんの人が立ち直れぬ悲しみを負った。今は人が意図して人を殺している。
 
 

宇多田ヒカル、『君に夢中』について

その他雑感:
 
 
昨日テレビを見ていたら、宇多田ヒカルの『君に夢中』の歌詞の中の「人生狂わすタイプ」という一節に言及している人がいて、その人はミュージシャンだったんですけど、普通だったら「人生狂わせる」ってなるんだけど「狂わす」となっているところが凄いだなんて、言葉の意味にスポットを当てた話をしていて、いやいやそっちやないやろ、「狂わせる」って歌ってしまうとメロディと言葉が分離してしまうからや~ん。
 
歌の歌詞っていうのはメロディやサウンドがあっての言葉であって言葉だけを切り取って云々かんぬんというのはその前提であれば分かるんですけど、この場合はちょっと違いますよね。言葉をいかにして音楽として機能させていくかってところが腕の見せ所で、宇多田ヒカルはそこが非常に長けてる、そういうことだと思います。
 
つまり「人生狂わすタイプ」。僅か数文字ですけどここ、韻を踏みまくってるんです。細かく見ていくと、「じんせい」で頭とお尻の母音が同じイ音というのが先ずあって、「狂わす」の「わす」と「タイプ」が a と u で掛かってます。でその「タイプ」の真ん中にイ音があってそれも「じんせい」のイ音と韻を踏んで、イ音に戻ってくる。
 
でここのメロディ。僕は音符を読めないですけど、そんな僕でも音程が上下してるの分かります。それと「人生狂わす」のイントネーション、なんでもいいですけど、「おなかがすいた」とか「あたまがかゆい」といった喋り言葉のイントネーションに近いですよね。つまりなんで 「人生狂わすタイプ」 が耳に残るのか。こういう部分全部ひっくるめて言葉とメロディが仲良しの状態でスムーズに機能しているからなんです。単純にこの言葉がエモいから、ではないんですね。あと言わずもがなですけど、ここの前後の歌詞、「夢中」と「deja vu」とも脚韻を踏んでいます。
 
ということでこの曲、そこのところを意識して聴いてもらうとずっと韻を踏みまくってるのが分かるし、アクセントとかイントネーションで言葉とメロディを一体化させているのが分かると思います。勿論、この曲だけではないです。宇多田ヒカルはライミングを多用しています。なんでか?それはポップ・ソングの一つのマナーだからです。ていうかポエトリーのマナーですよね。古くはランボーもそうだしブレイクもそう。ディランだってそうだし、あのビリー・アイリッシュだってそう。ライミングというのは言葉の伝播力を高めるひとつの手法なんです
 
ジャパニーズ・ポップだってかつてはそうだった。佐野元春にしても桑田佳祐にしてもカクカクした日本語をいかにメロディと一体化させるかというところに苦心をしていた。どうやってか。欧米の音楽やポエトリーを参照したんですね。それ以前のフォークとかニューミュージックが重視した歌詞の意味から離れて、言葉をどう音楽化させるかというトライアルの時代があったわけです。
 
その後、バンド・ブームがあって90年代のメガ・セールスの時代があって、今に至るJ-POPという世界にも稀に見る音楽マーケットが出来た。凄い事です。でもよくないことも起きた。つまりこの中で事足りるようになったんですね。音楽をやるきっかけが日本のポップ音楽、ロック音楽となり海外の音楽を聴かなくなったんです。で歌詞について言えば、言葉をどう音楽として機能させていくかということより意味性、何を歌ってるかが重視されるようになった。つまりかつてのフォークやニューミュージックの言葉の捉え方へ戻ってしまったんです。しかも今やより情緒性、エモいが強調されるようになってしまった。
 
これ、家電や携帯電話でよく言われたガラパゴス化と同じですよね。なんかどんどん狭い方向へ向かって行くっていう(笑)。でも音楽の歌詞というのはやっぱりメロディがあって、ミュージシャン固有の声があって、和音があって、サウンドがあって成り立つものだと思うんですね。ディランがノーベル文学賞を獲った時に議論になったのも、ディランの詩は音楽なのか、文学なのかっていう、そこなんです。
 
だからテレビを見ていてですね、日本の最前線にいるミュージシャンが宇多田ヒカルの曲に対して真っ先に切り込むべきそこへの言及がなく、言葉の意味に向かってしまった、要するに内に向かった話をしていくというのはやっぱり聴いていて歯がゆかったなと。宇多田ヒカルは、この曲は違いますが今回のアルバムでは2021年に話題となったフローティング・ポインツと組んでるぐらいの人ですから、もっと大きく捉えてほしかったなと。ちょっと食い足らなかったので、ここで言わせてもらいました(笑)。

Spotifyのまとめ機能

その他雑感:
 
Spotifyのまとめ機能
 
 
Spotifyから2021年のまとめデータが届いた。2021年に僕が一番よく聴いた曲、アーティスト、ジャンルなどが数字と共に明示される。僕が有料のSpotifyを始めたのは去年の終わりからだから、1年のデータを見るのは今年が初めてだ。
 
とても面白い機能だなと思うと同時に、何億というSpotifyユーザー全員に一瞬でこういうのを送ってしまえるAIにちょっとおののいてしまう。当然、個人情報と紐づいているわけだし、やっぱちょっとやな感じ。とはいえSpotifyユーザーをやめるわけじゃなし、だんだんこういうのを何とも思わなくなっちゃうんだろうな。あぁ、完全に1984の世界だ。
 
ちなみにこの結果によると、僕が今年Spotifyで一番聴いた曲はウルフ・アリスの「Lipstick on the Glass」らしい。うん、確かにそうかもしれない。ただ2位以下もずっとウルフ・アリス(笑)。つまりアレだ、アルバム『Blue Weekend』をしょっちゅう聴いていたということだ。てことで曲単位で聴く人にこの機能は有効かもしれないが、アルバム単位で聴く人間にとっちゃあんまり意味をなさないということになる。ま、それでも一番聴いた曲が分かるのは面白い機能ではある。
 
ただ僕の一番のお気に入りアーティストとしてリトル・シムズが出てきたのは解せない。確かにリトル・シムズもウルフ・アリスと1、2を争うほどよく聴いたけど、聴いた回数のトップ10はウルフ・アリスが占めてたんじゃないの?リトル・シムズのアルバムは曲数がめっちゃ多かったからか?なんかよく分からん。