Let Me Get By/Tadeschi Trucks Band 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Let Me Get By』(2016)Tadeschi Trucks Band
(レット・ミー・ゲット・バイ/テデスキ・トラックス・バンド)

 

こういうのは普段からよく聴くわけじゃないんだけど、どういう契機かたまに聴きたくなる。ホーン・セクションを含め、総勢10名からなる大所帯バンドの3rdアルバム。ブルース・ロックと言うのかサザン・ロックと言うのかよく分からないが、電子音に溢れた現在ではアナログなバンド・サウンドがかえって新鮮だ。

バンドの全面に立つのはその名のとおりデレク・トラックスとスーザン・テデスキ。デレクは名うてのギタリストでありプロデューサー、スーザンはメイン・ボーカル。この二人の存在感が突出しているのかなと思いきや、実際はあくまでもバランスを重視した音作り。皆で同じ方向を向いて練り上げるといった風情で、僕は2枚目を聴いてないけど、1枚目と比べてもいいこなれ感というか、バンドとしての一体感がより感じられる。また今回は前身のデレク・トラックス・バンドでボーカルを取っていたマイク・マティソンが2曲、メイン・ボーカルを務めていることもいいアクセントになっていて、1枚のアルバムとしても広がりが出てきたように思う。

バンドの売りはデレクのギターということになるんだろうけど、キーボード関係が充実しているのも魅力のひとつだ。ほぼ全編に渡って、グランド・ピアノを始め、クラビネットやウィリッツアーといった電子ピアノ、そしてハモンド・オルガンがクレジットされている。演奏するのはコフィ・バーブリジュ。表題曲でもいかしたオルガン・プレイを聴かせてくれる。今回のコフィはフルートでも活躍。#9『アイ・ウォント・モア』でのデレクのギターとの掛け合いは本作の見どころだ。文字通り八面六臂の活躍で、デレク、スーザンと並んでこのバンドの顔と言っていいだろう。

このバンドはデレクのワンマン・バンドではないので派手なギター・プレイは見せないが、それでも時折見せるギター・ソロがあるとやはりグッと引き締まる。この辺りのさじ加減も抜群だ。テクニカルな集団だが、冗長にならずすっきりとまとめられていて風通しがいいのも特徴だ。

例えば、久しぶりに実家に帰って近しい人や地元の友達に会ったりっていうような何かホッとする雰囲気がこのバンドにはあって、米国産のブルース・ロックなんて言うとなんか敷居が高そうだけど、日本人の我々にとってもまるで初めからそこにあったかのような安心感がある。

この手の音楽は家でじっくり耳を傾けて、というイメージだが、意外と景色を見ながら外で聴くのがはまる。要は開放的なんだろう。

バンドはこのアルバムのリリースに際して来日、東京・大阪・名古屋でホール公演をしたらしい(なんと東京は武道館!)。日本にもこの手のバンドの需要が結構あるのがびっくり。一体どういう人たちが来るのだろうか?

 

1. Anyhow
2. Laugh About It
3. Don’t Know What It Means
4. Right On Time
5. Let Me Get By
6. Just As Strange
7. Crying Over You / Swamp Raga For Hozapfel, Lefebvre, Flute And Harmonium
8. Hear Me
9. I Want More
10. In Every Heart

#7の穏やかなフルート・ソロから#8に繋がるところがよいです。

The Sea/Corinne Bailey Lae 感想レビュー

洋楽レビュー:

『The Sea』(2009)Corinne Bailey Lae
(あの日の海/コリーヌ・ベイリー・レイ)

 

2016年に出たアルバム『The Heart Speaks in Whispers』を僕はかなり気に入っていてよく聴いたものだからそのアルバムのイメージが随分強くなってしまっていたけど、あれはコリーヌさんとしてはかなり新しいサウンドに舵を切った異質なもので、久しぶりに2ndアルバムの『THE SEA(あの日の海)』(2009年)を聴いたら、あぁコリーヌさんは元々こっちだったんだなぁと改めて思った次第。

1曲目のけだるい感じに早速「そうそう、これこれ」ってなって、2曲目の『All Again』で切なく盛り上がった日にゃ僕はもうとろけそうになりました(笑)。で続けて聴いてると、やっぱ声もいいんだけど、曲の素晴らしさに目が行って、そういや彼女は生粋のソングライターなんだなと。

感情の起伏に沿うというか、彼女の体に沿っていくようなメロディが彼女自身のパーソナリティを感じさせるんだけど、同時に彼女だけじゃなくみんなのメロディに溶けていくような柔らかさを宿していて、それは要するに普遍性ということになるんだろうけど、このメロディ・センスには改めて驚かされてしまいました。

エレクトリカルもふんだんにそっち寄りのサウンドを指向した『The Heart Speaks in Whispers』を経てこのアルバムを聴いてみるとメロディがギター主体だなぁと。実際、ライブ映像を見ているとギターを抱えている姿(←これがまた華奢な体にギターがよく似合うのです!)が結構あって、割とロック寄りというか、ライブでは弾き語りもしちゃうタイプ。そうそう、このメロディの感じはギターで作った曲なんだよなぁと、ギターも弾けないくせに妙に納得してしてしまいました(笑)。てことで、やっぱりコリーヌさんにはオーガニックなサウンドがよく似合います。

それとやっぱ声。『The Heart Speaks in Whispers』では曲調の変化に伴って、割と元気よくというか前を向いた声なんだけど、このアルバムでは少し口ごもるというか、色っぽく言えば恋人に遠まわしに話すような感じで、だから時折本音が出てグイグイッとボルテージが上がる時なんかはドキッとしちゃうし、それでもスッと引く時はすぐに引いちゃうみたいな。そんなコリーヌ節が縦横無尽のやっぱこれも相当な熱量のアルバムですね。

音楽はと言うと、メロディであったり言葉であったりサウンドであったりということになるんだろうけど、彼女の場合は声に集約されていくというか、勿論言葉も含めた曲自体の魅力も大きいんだけど、全てがこの声に集約されて着地する感覚があって、それは多量な感情を込めつつも、聞き手の心の中にすっと落ちてくるような、さっきも言ったように個人の思いを普遍的なものに変えていく力、それを癒しという言葉で簡単に片づけたくは無いけど、聴く人の心を優しく慰撫する、或いは鼓舞するのは儚くも力強いこの声なのだと思います。

天才的な声で有無を言わさずっていうんじゃなくて、身近にあってスッと距離が縮まるみたいな感じで僕にはなんか友達みたいな、隣で歌ってくれているみたいな親近感を感じてしまいます。YouTubeで沢山映像を見たけど、飾り気が無くてほんとチャーミング。素敵な方です。

 

1. Are You Here
2. I’d Do It All Again
3. Feels Like the First Time
4. The Blackest Lily
5. Closer
6. Love’s on Its Way
7. I Would Like to Call It Beauty
8. Paris Nights/New York Mornings
9. Paper Dolls
10. Diving for Hearts
11. The Sea

 (日本盤ボーナス・トラック)
12. Little Wing
13. It Be’s That Way Sometime

春の合図

ポエトリー:

『春の合図』

 

ゆっくりと近づく

話しかける合図

友達見つけたよに

ゆっくり離れるあいつナイス

 

おはようとしか言えない

あの子は寒いねと返す

ここから校舎までが

桜並木、春の合図

 

よかったね

誰にも責められることはない

よかったね

たまには人のこと横に置いといてさ

 

右側にいつも髪がハネタ

斜めからの光差した

影が近くなって

少し好きになった

 

君はいつも音楽室の中

外で待つこと

苦にならないのは何故だろう

冬の空気ってなんだか

澄んでいるのは何故だろう

困った人を見ると

胸が疼くのは何故だろう

 

よかったね

誰も触れられない

よかったね

少しずつ噛み砕いていく

 

右側にいつも髪がハネタ

斜めからの光差した

影が近くなって

また少し気持ち大きくなった

 

2015年11月

通学路

ポエトリー:

『通学路』

 

手を繋いだまま自転車に乗って

ふらつきながら学校へ向かう

冬は冬でおんなじマフラー

いつの間にリュックもおんなじ

春の日差しを斜めに浴びて

交差する 心通わす 声が笑ってる

 

いつまでも続くといいな

そんなことはどうでもいいか

今は未だに不確かな時代

但しいつか幸せになる

今よりもっと幸せになっている

子供連れて散歩する時も

手は繋いだままふらふらしながら

 

いつか地球が無くなってしまっても

決して迷子にならないように

緩やかに繋いでおくんだ

腰の辺りに巻いておくんだ

二人は繋ぐ 鮮やかな糸

いつか地球が無くなってしまっても

いつかちゃんと巡り合えるように

 

その前にやはり不確かな時代

二人 心 仲違いあるとして

もう二度と会うことがないなんて

そんな日々が巡り巡って訪れたとして

つまるところ僕たちは決して

運命だなあんて何にも当てにしちゃいないから

ただの一度も真に受けちゃいないから

 

但しそんなことはお構い無しに

今の今は鮮やかな糸

ほどけないように 見失わないように

いつか宇宙に漂ってしまっても

いつかちゃんと巡り合いますように

腰の辺りに巻いておくんだ

鮮やかな赤い色と

今の今は自転車 手は繋いだまま

じゃれあいながら学校へ向かう

朝の出来事

二人だけの内緒の話

 

2016年4月

春の訪れ

ポエトリー:

『春の訪れ』

 

都会に立って耳元で囁いた

呟き あさっての方向へ

水際立って立ち姿素敵

あの子はきっと爽やかペテン師

 

4月、

春の口元に書いている

君の耳元に流れている

少し襟元が汚れている

 

5月、

浮かない顔 春の音ずれ

 

2016年5月

Coloring Book/Chance The Rapper 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Coloring Book』(2016年)Chance The Rapper
(カラリング・ブック/チャンス・ザ・ラッパー)

 

普段はラップを聴かないけど結構好きです。僕はやっぱり言葉が気になるし、通常のポップ音楽よりラップとかヒップ・ホップの言葉の方がライムが転がって、気の利いたアクセントがあって、リリックが溢れて断然面白いやって思うことが時々あって、じゃあなんでラップ聴かないのっつったら、まあ単純に英語のリリックに全然ついていけないからで(笑)。なので、日本語のカッコいいラップがありゃ誰か教えてください(笑)。

それにラップって過去の楽曲とか社会とか時代背景とかいろんなことが重なり合って(←そーです、ラップは知性なのです)、そういうのにもついていけないってのもあるし、でもたまにそういう意味性とかリリックが全然分からなくても直接心に響いてくるのがあって(これはラップに限らずどんな音楽にも言えるんだけど)、言葉なんか分からなくたって直に音楽として伝わってくるものがある。まあそういう直接心に響いてくる音楽を大雑把にソウル・ミュージックって言い切ってしまえば、チャンス・ザ・ラッパーの『Coloring Book』もソウル・ミュージックのひとつなのかもしれない。ていうか僕にとってはもうまるっきりソウル・ミュージックです(笑)。

そりゃネットで歌詞を検索して和訳を見りゃ、へぇ~、そんなこと言ってんだってそれはそれで感心するし、どっかのライターが書いたレビューなんか読んでると、このアルバムにはピーターパンに出てくるウェンディが出てくるんだけど、そのウェンディはチャンス・ザ・ラッパーの故郷である全米一治安が悪いとされるシカゴ、ウィンディ・シティとかかっているとかで、そういうのが同じくシカゴ出身の先輩ラッパーであるカニエ・ウェストの昔のアルバムでも引用されてたとか、まぁ他のヒップ・ホップ音楽と同じようにそんなような背景が山ほどあるみたいだけど、そんなことは当然こっちはなんも分かんない(笑)。でも分かんなくてもそれで通用するというか、とにかく聴いてて幸せな気持ちになるっていうか、家人が寝静まった夜に聴いてたりすると、もうソファに座ってられなくて、立ちあがって踊りだしてしまうっていうか、まぁ実際恥ずかしながら踊りだしてしまうんだけど(笑)、要はそういうポジティブなエネルギーがこのアルバム(←正しくはミックス・テープって言うらしいです)には溢れるようにあるってことです。ま、そんな日は興奮してなかなか寝付けなかったりするんですが(笑)。

YOUTUBEで彼のライブ映像なんかを見ると本人も周りもみんな楽しそうで笑いながらラップしてるし、そりゃ『Same Drugs』をみんなで一緒にシンガ・ロングする映像を見てたらうらやましいし、ホント美しい光景だなって思うけど、もし僕がそこにいて英語なんか分からなくても、同じように美しい光景だなって、心が打たれて一緒に歌っている気分になるんじゃないかなぁって。あ、後から知ったけどこの歌、とってもいい歌詞です。

ラップってのは僕の解釈だとブルースというか、うまくいかない事とか、つらい事やな事をはっきりとそんなのクソ食らえだぜみたいに言ってしまったり、世の中そんなのおかしいじゃねぇかっていうようなことに反逆したりっていう怒りとか憤りっていう割とネガティブな声を力に変えていくっていうイメージがあるんだけど、このアルバムに至ってはそうしたネガティブな声を感じないというか、そりゃ歌詞をちゃんと見ていけばそういうのもあるのかもしれないけど、とにかく僕が感じるイメージとしては、祝福とか喜びとか生きていることを讃えている、ただそこにいることを讃えている、そんなポジティブな光がめいっぱい放射されていて、彼は音楽は売らない主義とかでCD化はされてないし、無料でダウンロードできて、僕ももっぱらYOUTUBEで聴いているんだけど、そういう彼の態度っていうのかな、要は子供たち、みんな聴いてくれみたいな彼の果てしない陽のパワー、ビッグ・バンみたいな陽性の力が伝わってくる、スマホで聴こうがなんだろうがちゃんと伝わってくる、それはやっぱ感動的な事なのです。

あと音楽的なところで言うと随分ラップのイメージとは異なっていて、ボン・イヴェールの『22,A Million』なみに声にエフェクト利かせまくってるし、ラッパ隊もきらびやかで、ゴスペルもふんだんに出てくる。ラップっていうと一定のリズムを延々ループさせてそこにリリックを乗せていくっていうイメージだけど、このアルバムはメロディもあるしポップ・ソングでいうサビみたいなのもある。それにトラックはメチャクチャカッコイイ!!僕がソウル・ミュージックだなんて言ったのはそんなところにも起因するのかもしれないけど、その場合、普通はラップとはみなされないらしくて、でもこのアルバムは、っていうか流石にチャンス・ザ・ラッパーっていうくらいだし、やっぱちゃんと自他ともにラップとして成立してしまっているところが実はスゴイところらしいです。らしいですってこんだけ書いておきながらなんですが、これも後から知ったことなので(笑)。

ラップらしからぬと言えばリリックも断然そんな感じで、前述のとおり僕はラップをあんまり知らないから偉そうなことは言えないけど、ラップってどっちかっつうとドギツイ言葉が出てきて攻撃的というかマッチョなイメージがあったりするんだけど(←どーも偏見でスミマセンッ)、このアルバムに出てくる情景ってのは全然そういうんじゃなくて、そりゃ『Summer Friends』みたいに友達がいなくなったりいい話じゃないことがいっぱい出てきたりするんだけど、そういうのが怒りに転化されるんじゃなく、日本にいて平和で自分も含めて身近な人が銃で撃たれてっていう世界とは無縁の僕みたいな人間にでも凄く自然に入ってくるというかスッと馴染んでいく表現になっていて。だからシカゴで生まれ育ったことは彼のアイデンティティーに大きく関与しているわけだけど、だからと言って暴力的になってかないっていうか、やっぱゴスペルであったり語弊があるかもしれないけど『Summer Friends』の美しさ、祈りに向かって行くというような美しさというようなものがあって、あんまり共感って言葉は好きじゃないから使わないけど(笑)、そういう部分も親子程年の離れた青年から僕は教えられたような気がして。そしてそれはやっぱり日本にいてもある種のリアリティが感じられる、よりよいベクトルへ向かう力になり得るものだと僕は思うのです。

ラッパーっていうととかくイメージがよろしくなくて、ドラッグとか暴力的な事とかがついて回るというか、実際チャンス・ザ・ラッパーも子どもの時にラッパーになりたいなんて言うと随分怪訝な顔をされたらしくって。でも当然ラッパーに知性は必要だし、社会的な貢献や影響も大きいし、なんだったらオバマ大統領(当時)に会ったりすることもあるんだぜっていう。そういうラッパーとしての地位向上というか意識を変えていくんだっていう意味合いもあってチャンス・ザ・ラッパーって名前にわざわざしたとかで、そこにもやっぱ彼の気概を感じられるし、音楽的にだって通常のラップではない新しいことにチャレンジしたり、音楽をフリーで提供するってやり方も、これはメジャーと契約しなくたって出来るんじゃないかと思って実際にやってしまって革命を起こしてしまっているし、そうした切り開いていくイメージが、一番最初の、何も知らないまま彼の音楽をYOUTUBEで初めて聴いた時に感じた、なんじゃこりゃ!?すげー、すげーよっ!!っていうどんどん溢れてくる陽性のパワーにも繋がってて、やっぱこの光の源はここにあんだよ、うんうん、っていう感じで。だからラップとかヒップ・ホップとかそんなカテゴリー云々じゃなくて大げさかもしれないけど『Coloring Book』は今この時代に光を差すような、人々の背中を押すような、時代とか世代とか性別とか国境とか人種とかを超えて、音楽を道具って言ったら怒られるかもしれないけど、実際に人々が前を向いて歩く力になり得るホントに素晴らしいアルバムだと僕は心から思うのです。

なんかひとりで盛り上がってますが、チャンスさんのことを知ったのは実はほん2、3週間ほど前のことでして…。なのでなんだ今頃知ったのか、っていうツッコミは自分で自分にしておきます(笑)。あとこのアルバムは色んな人が参加しているので、まだチャンスさんの声とごっちゃになってますってツッコミも一応(笑)。それとこういう音楽は子供たちや嫁さんのいる休日のリビングでかけたいなぁって思うので、僕個人としてはやっぱCD出して欲しいです…。わ、言うてもうた(笑)。

 

1. All We Got (feat. Kanye West & Chicago Children’s Choir)
2. No Problem (feat. Lil Wayne & 2 Chainz)
3. Summer Friends (feat. Jeremih & Francis & The Lights)
4. D.R.A.M. Sings Special
5. Blessings
6. Same Drugs
7. Mixtape (feat. Young Thug & Lil Yachty)
8. Angels (feat. Saba)
9. Juke Jam (feat. Justin Bieber & Towkio)
10.All Night (feat. Knox Fortune)
11.How Great (feat. Jay Electronica & My cousin Nicole)
12.Smoke Break (feat. Future)
13.Finish Line / Drown (feat. T-Pain, Kirk Franklin, Eryn Allen Kane & Noname)
14.Blessings (feat. Ty Dolla Sign, Anderson .Paak, BJ The Chicago Kid & Raury)

佐野元春 マニジュ・ツアー in 大阪 感想

 

佐野元春 マニジュ・ツアー/佐野元春&THE COYOTE BAND
~2018年3月11日 大阪フェスティバルホール~

 

昨年リリースされた佐野のアルバム『MANIJU』。そのアルバム名を冠したツアーが行われた。大阪はフェスティバルホール。3月11日の開催だ。

今回のツアーは2007年に結成したコヨーテ・バンドと制作したアルバムからのみの選曲になる。具体的に言うと、『COYOTE』(2007年)、『ZOOEY』(2013年)、『BLOOD MOON』(2015年)、そして昨年の『MANIJU』。嬉しい事だ。僕はアンジェリーナもSOMEDAYも好きだけど、もうライブで毎回演奏する必要は無いと思う。何かの機会にたまに演奏する程度でいい。佐野には今を叩きつける新しい歌が沢山あるのだから、当たり前のように僕はそっちを聴きたい。本当にそう思う。

僕は2階席の丁度真ん中辺りだった。ライブが始まって立とうとすると立てなかった。なんと2階席は誰一人立たなかったのだ。佐野のコアなファンの年代は僕よりもかなり上なのは分かっているが、まさか誰も立たないとは。僕はたまりかねて、途中の休憩の間に(そう、年齢層に配慮してか休憩まである!)、フェステバルホールの係員に後ろの通路で立ってもいいかと尋ねたが、やはりそれは駄目だと言われた。残念ながらこのことがライブを通してずっと僕のストレスとなってしまった。

ライブ自体は素晴らしいものだった。予想に反して、前半はアルバム『BLOOD MOON』からの曲が立て続けに演奏された。聴いている時は分からなかったが、後で振り返るとそれは意味のあることだった。中でも『私の太陽』が強く印象に残った。「きっと君は君のまま / 変わらない」。この曲はドカドカしたジャングル・ビートとキーボードのうねりがたまらないが、この日は何よりそのリリックが突き刺さった。

前半の最後に披露されたのは『優しい闇』。硬質なメッセージを携えたロック・チューンだ。サビではこう歌われる。「何もかも変わってしまった / あれから何もかも変わってしまった」。この日は3月11日。どうしたって震災を思わずにはいられない。確かにあの日を境に変わった。僕はこれまで、あの日を境に僕たちの生活や価値観は変わったと思っていた。けれどそれは‘僕たち’ではなかった。僕は何も変わっていない。この曲の最中、何気ない自分の偽善をふいに突き付けらた気がして僕はひどく狼狽えた。

後半はマニジュ・ツアーにふさわしく、新しいアルバムからの曲が披露された。素晴らしいソウル・ナンバー、『悟りの涙』はライブで聴いてもグッ来た。『新しい雨』が始まる前、佐野は自分たちの世代と新しい世代との交流の歌を作ったと言った。けれど正直に言うと僕にはそれがあまりピンと来なかった。すこし楽観的過ぎるんじゃないかって。

表題曲『MANIJU』は組曲仕立てになっている。後半に向かって音自体もどんどん大きくなって空間の境目が溶けていく。けれど客席に向けられた照明がかなり眩し過ぎて目を開けていられなかった。音楽に集中出来なかったのが残念だ。

『MANIJU』アルバムからの曲に挟まれて、『ZOOEY』アルバムからの2曲が演奏された。『世界は慈悲を待っている』。印象的なイントロのギターに続き、モータウンばりのリズムが跳ねる。曲は大げさに盛り上がったりはしない。淡々と進んでいく。けれど聴き手の心を掻きむしる。続く『ラ・ビータ・エ・ベッラ』。この2曲に僕は不覚にも泣いてしまった。

アンコールでは古い歌も披露された。『レインガール』がオリジナルに近いアレンジで披露されたのが嬉しかった。大好きな曲なので、一緒になって歌った。『ヤァ、ソウルボーイ』が演奏されたのも意外だった。どちらも今のコヨーテ・バンドらしくブルージーで渋い。とてもカッコよかった。最後のアンジェリーナでは隣のベテラン客がやたら盛り上がっていた。僕個人としてはアンコールでもコヨーテ・バンドとの曲だけにして欲しかった。それに休憩も要らない。年齢層に配慮するなら1時間かそこらでもいい。今を歌う今のコヨーテ・バンドと共にペース配分など気にせずに一気に駆け去ってしまった方がいい。ライブ後についそう思ってしまうほど、この日の僕は揺さぶられていた。

僕は10代の頃に佐野の音楽を聴き始めてからライブにはほとんど参加している。途中、なんだかんだと行けなくなった時期もあったけど、ここ10年ぐらいは再び参加し続けている。そしていつもいい気分で帰ってきた。そこに佐野がいる。実在している。そのことだけで僕には特別な事だった。しかしこの日のライブは少し勝手が違っていた。

音楽に何が出来るだろう。3月11日、僕は僕にとって特別な人のライブに行った。音楽が白々しく聞こえてしまう時があった。音楽が訴える言葉に涙する時があった。この日の僕はどちらにも極端に振れた。僕は何も知らないくせに感情が昂った。

音楽は何を訴えることが出来るのだろう。音楽は何に向けて真っ直ぐに突き進むことが出来るのだろう。ただ騒いでそれだけでいいのか。人々の心に何か残すことは出来るのだろうか。何かを残すなんて自惚れたこと考える方が間違っているのだろうか。少しでも何かをより良い方へ向かわせる意志が人々にあったのだろうか。今日のこの集まりは何か意味があったのだろうか。

そもそも僕はこの日のライブに何を求めていたのか。僕はきっと期待していたに違いない。3月11日のコンサートが僕の気持ちを少しは整理させてくれるものと。何か明確な、目に見えるもの。世界中で起きている理不尽な事に対し、痛ましい表情をしながらも、いつものように日常を過ごすだけの自分の偽善を蹴飛ばすような、すっきりとさせてくれる何かをもしかしたら求めていたのかもしれない。或いはそれでいいんだよと肯定してもらうのを待っていたのかもしれない。しかし同然ながらそんなものはない。なかった。当たり前だ。

マニジュ・ツアーの冒頭はアルバム『ブラッド・ムーン』からの曲が立て続けに演奏された。あのアルバムは発した言葉がそのままこちらへ帰ってくる硬質で辛辣なアルバムだ。今日、そのアルバムからの曲が沢山かかった。お前、今日は何かのキリになるかと思ったか、とでも言うように。

あの日から何もかも変わってしまった。違う。お前は何も変わっていない。お前まで変わってしまったなど傲慢な。必要以上に繊細になるな。痛ましい振りをするな。憂い顔をするな。眉間に皺を寄せるな。お前がそんな顔をしても何も変わらない。

ライブが終わって、家に帰っても落ち着かなかった。スッキリとするはずだと勝手に思っていたものが全くスッキリしなかったのは僕の勝手だ。もしかしたら2階席で本編の間じゅうずっと座らなくてはならなかったことや、アンコールで昔の曲が始まった途端、急に立ち上がってやたら盛り上がる人たちに苛立ったせいもあったかもしれない。益々こんがらがって僕は心の安定を欠いていた。

今にして思う。今まで音楽に、ライブに楽しさを求めていたのは僕の方だったのだ。日常の上手くいかないことをほんの1時間でも2時間でも忘れて目一杯楽しむ。そうだったはず。しかしこの日は妙な声が入り込んできた。お前にとって音楽はそれでいいのかと。

『世界は慈悲を待っている』のサビはこう歌われる。「Grace 欲望に忠実なこの世界のために / Grace 今すぐ そのドアを開け放たってくれ」。世界は欲望に忠実だ。これは何もそういう世界を非難している訳でも糾弾している訳でもない。お腹が空けば何かを食べるし、眠たくなれば眠るし、大切な人とも話をしたい。欲望に忠実な世界とはそういう平坦な普段の営みのことだ。そこに佐野は‘Grace’と言う。‘Grace’とは優美さ、寛容さ、或いは恩寵、神の恵みを意味する。

僕はこの日のライブの直後、こんな煮え切らない思いをするなら、佐野のライブにはもう行かないかもしれないと思った。けれど今は違う。ライブは楽しければいい。それはそう思う。でももう少し違う一面があってもいい。わけもなく感情が揺さぶられてその所在が分からなくなって、苛立って、それでもいい。

『ラ・ビータ・エ・ベッラ』で不覚にも僕は泣いてしまった。震災を想起させる歌に泣いてしまった。それは素直な感情の発露だったと思う。けれど一方で、お前なに泣いてんだ、という気持ちがすぐに持ち上がったのも事実だ。言ってみればこの日のライブはそうした感情のせめぎ合いでもあった。何をめんどくさいことをと言う人もいるだろう。でもそれはやっぱり必要な事だと思いたい。分からないまでも、知らないまでも、何も変わらないまでも、戸惑うことは、考えることは必要なのだと。僕はやっぱりドアを開け放たっていたいのだ。

僕はこれからも佐野のライブに行くだろう。また心の中を行ったり来たりするものに揺さぶられるかもしれないが、それをしっかりと受け止めたい。

佐野のライブでこんな複雑な感情になったことは初めてだ。それは3月11日にここ数年の曲だけでライブが行われたというのも大きな理由だったかもしれない。

夕凪の街 桜の国/こうの史代 感想

ブック・レビュー:

『夕凪の街 桜の国』 こうの史代

 

こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』を読みました。先ず絵がすっごく上手。そんなこと言うと、こうのさんはくすぐったがりそうだけど、本当に素晴らしい絵です。決して写実ではないんだけど、ちょっとした表情とか体の動きに実に敏感な絵で、伝わってくるものがとても大きいのです。

漫画だから静止画なんだけど、ちゃんと前と後ろがあるっていうか動いてる。絵に躍動感がある。桜の国(1)で七海ちゃんが野球のノックを受ける場面があるんだけど、その時のスローイング姿だけでもずっと見てられます。背景も丁寧に描き込まれていて、広島で暮らしている時の家の中の様子や街の背景に映るちょっとした人の姿なんかもしっかりと描かれていて、そうしたところからも人の動きの前と後ろを感じられる。だから人物が立体的なんだな。そうした流れの中でセリフがあってそのセリフにも前と後ろがあってしかもそこを急がないっていうか、読み手に時間を与えてくれる。だから俳句的っていうか行間がたくさんあって、少し読んでちょっと戻ってまた読んでみたいな、そんなゆったりとした時間を与えてくれるのです。

何気ない絵なんだけど、凄く表情が豊か。だから登場人物がとっても魅力的なんです。ちょっとした微妙な表情の変化を捉えていて、そこにもやっぱり前と後ろがあるっていうか。だからちらっとしか出てこない皆実ちゃんの会社の同僚たちだってちゃんと立体的で生活があって、何気ないからこそ、さぁーと流れて行ってしまわない。場面一つ一つ、セリフ一つ一つが流れて行ってしまわないのです。

東日本大震災があって、生き残った人がいて、生き残ったのになんで生き残ってしまったんだろうって加害者の気持ちになってしまう人たちがいて。皆実ちゃんもそうでした。なんで私は生き残ったのかって自分を責めて。だからようやくそこと向き合い始めて、ようやく歩き出そうとしたある日、急に皆実ちゃんの身に起きる現実に、「てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ったのに」ってセリフに愕然としてしまいます。

そして時が経って。おばあちゃんやお父さんや七海ちゃんや凪生や東子ちゃんが東京にいて、いや今も日本中のどこかにまだ沢山いるんだってことが、戦争が終わって70年以上も経ってもまだここにいるんだってことが流れて行ってしまわない。まだ前と後ろがあって、現在へ続いている、夕凪はまだ続いているのだと強く感じられるのです。

想像ラジオ/いとうせいこう 感想

ブック・レビュー:

『想像ラジオ』 いとうせいこう

 

夢ばかり見ている子供でした。野球選手になって大活躍する夢や悪い奴をやっつける夢や好きな女の子に告白される夢。いや、これは夢と言うより妄想かな。ていうか今もやってます(笑)。告白しますが、僕はいい年をして未だに妄想しています(笑)。

僕には大切な家族がいます。もし何かの理由があって会えなくなったら。僕は妄想すると思います。街角で急に会って、「あぁ、こんなとこで」、みたいな妄想を。それからまた一緒に居れる妄想を。もしくは本当にこの世から居なくなったら。僕は妄想すると思います。楽しかった時、険悪な雰囲気だった時(笑)、それから今の今、一緒にいる姿を。

僕が急にこの世から居なくなる場合もあるかもしれない。そうそう、実はそういうことを妄想してしまうことがあるのです。ここで自転車で転んで頭打って死んだらどうしようとか、電車に乗ってる時に後続の電車が突っ込んで来たらどうしようとか。

でもそうなったら僕は真っ先に妻の元へ駆けつけるかもしれない。いや、きっと駆けつける。きっと空へ召されるまでに幾ばくかの猶予があるはずだ。だから一刻も早く、空へ召されるまでに何とか妻の元へ駆けつけ、先ずはこうこうこういう理由でこうなったとことを、或いは詫びや言い残したいこと、或いはあそこの引き出しは開けないでくれとかをあれこれ告げるだろう。だから妻の元へ駆けつけるまでの少しの時間を利用して、必死に考えをまとめて必死に急ぐんだ。ていうかもうこれ、妄想入ってます(笑)。

『想像ラジオ』は‘魂魄この世にとどまりて’しまったDJアークの物語。かもしれないし、もしかしたら登場人物である作家Sの作中小説かもしれない。一方でこれホントのことかもしれない、ドキュメンタリーかもしれない。時々耳鳴りがしたり、気分が悪くなったり、変な声が聞こえたりっていうのは精神疾患的なものじゃなく、事実、何かの声が聞こえているのかもしれない。でもやっぱり作者いとうせいこうの想像かもしれない。まあ何だっていいや。

僕は小さい頃、大きくなったら妄想はしないだろうって思っていたけど、40を過ぎてもまだやっている。多分、もっと年をとっても死にそうになってベッドに寝たきりになっても妄想しているだろう。好きな人のこととか、それは妻だったり、妻じゃなかったり(笑)。あと僕がカッコいいスーパーお爺さんになってたり。

今は3月だから震災関連の番組があります。気になるから観るけど、「この後津波の映像が流れます」ってテロップが入ると僕は目を閉じて耳をふさぎます。僕は大阪にいて全く被災していないけど、僕にもムリです。

想像することは止めることができない。いいことだけじゃなく嫌な事も想像してしまう。しょうがない。気付けば勝手に想像してしまうのだから。きっと僕は死んでも想像しているだろう。もしあの世があればあの世に行っても想像しているだろう。会いたい人のこととか、会えない人のこととかを。

今はなき世界の終り

ポエトリー: 

『今はなき世界の終り』

 

味気ない 語るでもない

浮わついている 心の不思議

たまさかに 咳き込むように

昼過ぎのこと 表に出る

 

華やいだ街 ひどい言葉の先

広々とした道の ほろ苦い味

何から始めようか 何を約束しようか

ちらついた風 押されながら

 

果たすべきか 自ら問いかける

バチが当たるのも 覚悟の上

鼻につく 新鮮な檜の薫り

横ざまに 駆け捨てて

 

尚且つ 通りいっぺんの話題にも

ほとほと愛想を尽かし

もう嫌だ あの人の小さな声を

思い出すのも

 

意地悪な 物の見方をするのなら

腫れ物に触るような 先達の鎧に

くびき入れ 苛立ち紛れ

書きまとめを 火の中へ放り込めば

 

若干の後ろめたさも 今はなき世界の終わり

抜群の功績をもって 俄に称えられ

もういいです こんな時どうするかは誰にも教わっていませんからと

ひとり呟く

 

2017年12月