「僕が生きてる、ふたつの世界」感想

フィルム・レビュー:

「僕が生きてる、ふたつの世界」

 

映画の始まりは主人公の大が生まれたところから。少しずつ育つ大の成長が描かれていく。微笑ましい場面があれば辛い場面もある。何気ない日常を追う映像を見ている間、しんどい場面ばかりではないのに、なぜか僕の胸の奥がつっかえたままだったのは、子ども時代の僕にも身に覚えがある風景がそこにあったからだろう。それはコーダだからということではなく、どこの家庭でもある風景。この映画の肝心な部分はそこだと思った。

もちろん両親がろう者である大と僕の家庭環境は大きく違う。けれど人の数だけ家庭はあって親子関係はあり、親子の数だけストラグルはある。劇中、登場人物のろう者が良かれと思って手助けをした大に「わたしたちのできることを奪わないで。」と言う台詞がある。その台詞こそがこの映画に向かう呉美保監督の態度ではなかったか。コーダという存在を特別なものとして特別な親子関係を描くのではなく、世界中の個々の親子が個々に異なるように、ある個々の親子関係を捉えた。この映画はそういう理解でよいのではないか。

映画を観た後、僕は図書館に寄り、そこに置いている映画雑誌をめくって呉美保監督のインタビュー記事を読んだ。劇伴は使用しなかったとのこと。そうだ!劇伴はなかった!雑音やら騒音やら周りのひとの声やらかやたら大きく聞こえたのはそのせいだったのか!無音の場面もいくつかあった。しかし泣きそうになった場面で無音だったのには参った!こんなシーンとした劇場で鼻水もすすれないじゃないか(笑)

俳優陣も素晴らしかった。主役の吉沢亮。綺麗なお顔なのに少しもそうとは感じさせなかった。映画一のキャラはヤクザのおじいちゃんを演じたでんでん。しかしなんと言っても母親役の忍足亜希子。母の愛たっぷりだけど重苦しくなく、暗くなりがちな話なのにどこか気の抜けた楽な部分があったのは、彼女の演技によるところが大きいのではないか。もちろん全体のそうした雰囲気を引っ張ったのは吉沢亮でもある。そうそう、父親の今井彰人も芝居をしていないぐらいものすごく自然で、まさにそこにいるようでした。あと、ユースケ・サンタマリアは胡散臭い役をやらせたら抜群やね(笑)。

手話を「手まね」と揶揄するおじいちゃん。けれど手話とは単なる「手まね」ではなく、表情を含めた言語であると、監督はインタビューで答えていた。それを証明するかのように母親はいつもまっすぐに大と目を合わせる。手話には方言もあるというのも描かれていた。単なる置き換えの道具ではなく普通に言語なんだな。そうだ、手話は必ず目を合わせるそうだ。なんと人間性のこもった言語なんだろう。

映画に劇伴は無かったけど、エンドロールでは主題歌が流れた。歌詞は劇中で母親が大に送った手紙の文章。こう響かせてやろうという意図のまったくない言葉。簡潔だけど、だからこそとても胸が熱くなりました。エンドロールの主題歌含めての映画だと思います。

ちなみにこの主題歌。最初は女性シンガーが歌ったそうだ。けれど母の圧が強すぎて(笑)、男性シンガーに変更したそうです。呉美保監督のこのバランス感覚がこの映画をより素晴らしいものにしたのだろうな。

Paradise State of Mind / Foster The People 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Paradise State of Mind』(2024年)Foster The People
(パラダイス・ステイト・オブ・マインド/フォスター・ザ・ピープル)
 
 
アルバムを気に入るパターンが2種類あって、ひとつは1、2回聴いてすぐに気に入るパターン。もうひとつは最初はあんまりなんだけど、繰り返し聴いているうちに好きになるパターン。フォスター・ザ・ピープルはもうずっと後者です。前回の『Sacred Hearts Club』(2017年)はその典型で聴く度にどんどんはまって最終的には2017年の個人的ベストに選びました。ということで今回のアルバムも最初はあんまりでしたけど(笑)、きっとよくなると繰り返し聴き続けました。そうするといろいろ見えてくるんですね。
 
これはなんでか。これも昔っからフォスター・ザ・ピープルはそうなんですけど、曲としては非常にポップではあるもののそれは初期衝動とか、あるいは気質的に作ってるとそうなってしまうっていう自然とポップになるっていうタイプじゃないんですね多分。聴いてるともう歌詞は暗いし、特徴的なマーク・フォスターの声なんか聴いてるとそれはホントにそう感じます。ただ、反するようですけど、マーク・フォスターは常にポップな作品を作ろうと心掛けている。つまり彼は職人なんですね。出来たらこんなんになっちゃったというのではなく、作ろうとして作っているわけです、多分。
 
でも軽く聴いてる分にはそんなこと分からない。ただ繰り返し何度も聴いてるとそういう細かさ、心配りが見えてくる。ま、ざっくりとはそういう人はいますけど、ここまで作り込むタイプの音楽家ってあんまりいないかもしれないです。非常に集中力の高い音楽家ですね。
 
ついでにもうひとつアルバムの聴き方があって、それはイヤホンで聴くかスピーカーで聴くかの違いです。なんか不思議とイヤホンで聴くよりスピーカーで聴いた方が断然いい場合があるんです。もちろん逆もありますけど、このアルバムは圧倒的にスピーカーから聴いた方がいいですね。繰り返し聴いてるうちに好きになってきて、最後、スピーカーから聴いて、あ、これええわ、で決定的になりました(笑)。
 
あとはこの微に入り細を穿つこの音楽がどうライブで再現されるかですね。前作の来日は気付いたら終わっていまして、残念ながら僕はまだ彼らのライブに行ったことがないのです。このスタジオ・アルバムがどう表現されるのか、一度聴いてみたいものです。
 
 

折坂悠太「呪文ツアー」感想

折坂悠太 「呪文ツアー」サンケイホールブリーゼ 2024年9月22日 感想

 

とても素晴らしいライブでした。春のツアーで披露された新曲が『呪文』アルバムという形としてリリースされたことで、こちら側にも聴き手としての備えがあったのかもしれないが、春のツアーからはより強固になった曲の数々が圧倒的とも言える確かさでまっすぐこちらに届いてきた。

今回披露された曲は折坂のMCにもあったように『呪文』という言葉に引き寄せられたものだそうだ。その心は僕には分からないが、ライブ一曲目の『スペル』に続いて披露された『坂道』を聴いたときのなんとなく合点がいった感じ。すなわち『呪文』アルバム自体の持つ身近さ、日常感というものが今の折坂のムードなのだなという感想。

と言いつつ、時勢からは切り離せない音楽家であるが故に、どうしても戦争という二文字が思い出される。どの曲もそこから糸を吐いたように感じられたのは僕の思い込みかもしれないが、僕にとってこの日のハイライトは前のアルバムからの『炎』とそれに続く『朝顔』であった。

「残された手段」もなく、「なすすべなくただ、ここにいる」そして「この雨は続く」。安全なところは何処にもなく「白線の上を」すらも。しかし特定の誰かや何かを糾弾などしない。わたしたちの日常にあるものはわたしであり、誰かや何かもまた同じであるから。ただ折坂は「あいつが来たら 眠らせてやろう」と歌う。あいつとは悪魔のことであるのかもしれない。しかし折坂は歌う。「同じ炎を囲む ぼくのララバイ」と。それすらわたしたちの日常のうちと。

アルバム『呪文』が最終曲の『ハチス』で終わるように、この日の本編ラストは『ハチス』。アルバムと同じようにそれまでのすべてを包むような存在がそこにあった。この曲のハイライトは中盤でのポエトリーリーディング。「遠くで雷が鳴り」、「パンにジャムを塗る手が止まる」。それはすなわち日常が脅かされる瞬間。しかし、あせらずせかさず、落ち着きを経て、「パンにジャムを塗る手は動く」。その時心によぎるのは「全ての子供を守ること」。

折坂悠太は詩人であると改めて思ったのは、言葉のひとつひとつがライブで改めて構築されるということ。ライブで音声を経てやってくるポエトリーは新たな意味が立ち上がるけど、でもそれは普遍ではなく変わり続けるものであるという実感が同時にある。恐らくそれは演者自身がそういうゆらぎを許容しているからであろうし、折坂のポエトリーが生きているから。

それにしても圧倒的なコンサートだった。演者と聴き手との関係がより近く、でもそれはファンフレンドリーということではなく、声がそこにいるような感覚。身近なひとが身近なことを歌っているような感覚。プロの表現者としての圧倒的な技量に打たれつつ、何度も繰り返された折坂の咆哮すら身近な温かさを感じさせたこと。ここにある表現は生き物であった。

身軽な辞書積んで

ポエトリー:

「身軽な辞書積んで」

 

背表紙に書かれた文字と
積み上げた時間はちょうど同じ目の高さ
航海は驚くほどなだらかで
まるで止みかけの雨のよう
今のわたしたちには
傘を忘れるぐらいがちょうどいい

時間があるかぎり
暦は振り出しに
いつだって明日は明日
今日は今日
誰も無理じいはしない

 

2024年8月

鹿

ポエトリー:

「鹿」

 

探り合っている風だったから
ほくらは隣り合う桜の木から一旦離れて
それでもそれほど間を置かずに合流をした

そもそもここにいる理由は
ある灌木の腰の辺りが
丁度よい角度でこちら側を向いていたからであって
連れ立って歩くぼくたちの背格好に
本来の意味を与えてくれているような気がしたから

その間、鹿がずっとこちらを見ていた
眼が水晶のような光り方をしていたので
ぼくらは少し言い淀んで
少しだけ前に止んだ雨でできた水たまりを指さし
ここは避けようと言いあった

早く腰を落ち着けるようにと言った両親のことばが
今さらのように思い出される
容姿と言動が異なるぼくらがベッタリとしている間に
鹿はどこかへ行ってしまった

ぼくらはいつのまにか
サイズ感の異なる円形劇場の端に腰をかけていた
産みの苦しみなどまるで感じなかったけど
あとから振り返ると今はきっとその類なのかもしれない
そう正直に言うと
さっきどこかへ行ったはずの鹿がまた現れて
ぼくときみは思わずぎょっとした

 

2024年6月

『Charm』(2024年)Clairo 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Charm』(2024年)Clairo
(チャーム/クレイロ)
 
 
米国のソングライターということですが、雰囲気としては気だるい欧州という感じ。アルバムジャケットの印象のせいかな。世代的にはボーイジーニアスと同じようなものかもしれないが、あちらはやはり米国という事でギター・サウンドがメインであるが、こっちのサウンドを特徴づけているのはピアノやフルート(かな?)だったりするので、やっぱ欧州的な印象は受ける。
 
ジャック・アントノフだとか元ヴァンパイア・ウィークエンドのロスタムといった有名どころと組んだという1stや2ndを僕は聴いたことがないが、今回のアルバムは一転してバンドによる生音にこだわったそうだ。元々、ベッドルーム・ミュージックという私的なところから始まった音楽活動のようなので、1stや2ndは大物プロデューサーの手を借りながら、ということだったのだろう。いずれにしてもこれだけメジャーな人と組んでいたわけだから、表現者としてそれだけ魅力があったということ。
 
それを表明するように本作のソングライティングもとにかく素晴らしい。アルバムは11曲あるが、それぞれにちょうど良いクセ、個性があり、しかもそれがオープンな表現となっている。それらが抜群の演奏で奏でられるわけだからそりゃいいに決まっているだろう。特に4曲目の『Slow Dance』あたりからの演奏が本当に素晴らしくて、曲もいいけど音に集中することでまた違った楽しみ方もできる。
 
先ずもって曲がいいからそれを壊さない形で演奏が進んでいき、曲ごとにアクセントになるような印象的なフレーズが必ずと言っていいほど挟まれてくる。クレイロ自身の手腕がどの程度まで及んでいるのかは分からないがバックの演奏と素晴らしいソングライティングが見事に溶け合った本当に豊かなアルバムだと思います。
 
#2『Sexy to Someone』や#5『Thank You』や『Add Up My love』といったポップチューンも満遍なく配されていて、その辺も抜け目ない。ひとつ希望を言わせてもらうと、全編ウィスパーボイスは物足りないかなと。どこか一瞬でも感情を爆発させてほしいなというのは野暮な話でしょうか(笑)。

『Ethereal Essence』(2024年)コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『Ethereal Essence』(2024年)Cornelius
 
 
ここで言うアンビエント・ミュージックとはいわゆる環境音楽、ヒーリングミュージックとは少し違うようだ。違うようだと言っても僕自身はアンビエント・ミュージックのことがよく分かっていなくて、昨年に京都で行われた’Ambient Kyoto’なるイベントを見に行ったぐらい。ちなみにそこにもコーネリアスは参加していた。
 
これまでのアルバムの中にも度々インストルメンタル的な、要するにボーカルの無い曲を幾つも収録しているし、アルバム以外でも色々な媒体でアンビエント・ミュージックを披露している(コーネリアスが自身のそうした一群の作品をアンビエント・ミュージックと捉えているのかどうかは不明)。今回のアルバムはそうした過去に発表したものアンビエント・ミュージック的なものを集めた作品だ。
 
と言っても、そこはコーネリアス。頭からお尻まで統一されたイメージの音楽が続き、キチンと一枚のアルバムとして成立しているので、いわゆる編集ものと言うよりはオリジナル・アルバムに近いと言った方がいい。この手のアルバムでも退屈せずに最後まで聴けてしまうのは流石というか、根っこに持つ陽性、ポップさのなせるワザ。
 
コーネリアスの取り組みとして、どうしても意味を持ってしまう人の声とそれ以外の音とを如何に並列に並べるかというのがここ数年のトライアルだったかと思うが、今回のアルバムでも例えば『サウナだいすき』とか谷川俊太郎を迎えた『ここ』においてその取り組みの一旦が伺え、とか言いながらやっぱり声が入ると言葉に気持ちが入ってしまうことも含めて、とても楽しい音楽体験がここにある。
 
特に『ここ』は先ず谷川俊太郎の朗読があって、そこに音を当て嵌めていくというスタイルを採っていて、普通はメロディやサウンドに声を乗せるのだろうけど、その全く逆を行く手法がとても面白い。いっそのこといろいろな詩人に朗読してもらうシリーズを続けてもらったらとても面白いなと思うが、そんなことはまずしないだろうな(笑)。

今頃はもう

ポエトリー:

「今頃はもう」

 

あの頃のボクは
風雲たけし城のジブラルタル海峡を渡り切る自信があった
横断歩道の白だけを歩くことだってできた
それでも見境なく飛んでくるロケットをよけることはできなかっただろう

そこにいればボクはもう死んでいる

 

2024年8月

つい今しがた

ポエトリー:

「つい今しがた」

 

つい今しがた
かつてない魂が
家の両端に並び立ち
息をする惑星の静かな囁きが
その家の両端に小さく呼応した

旗は静かに立っていた
殺戮と凶作が待っていた
藁をもすがる人人の足を踏んでいた
数奇な運命のわたしたちには
まるでそぐわない新しい歌が
旗と共に流れていた
コントラストは甚だしく無謬だった

わたしたちの知る権利はイエス
耐えうるだけのネガや文机はノー
文字通り、八方ふさがりの街で
わたしたちは鴨居に頭をぶつけるほどに育ちすぎた

足元には草の根の結び目
幾度目かの最適解

 

2024年6月

些細な夜明け

ポエトリー:

「些細な夜明け」

 

多くのことばが微弱な電波を発し
思い思いに暇を弄ぶ
わけでもなかろうに

ぼくたちのあいだに広がる些細な夜明け
見た目にも鮮やかな
わけでもなかろうに

脆弱な電波に乗ってきみが来る
それ自体がフェイクニュース
意外とよく喋るきみの広がり
だったとしても

よそ行きの声が次第に遠ざかる
水面のようにささやかな方便
群がるひとびとの声だけがして
教えられてきたことが失念する

ご名答
実にいじわるなことだけど
泣きたいわけじゃない
失念することが輝き

チャンスをくれたきみに
ぼくの抽斗の序列を教えてあげる
めったにないことが
きみに起きますようにと
ねぎらうことができますようにと

 

2024年5月