映画『ヴィンセントが教えてくれたこと』 感想レビュー

フィルム・レビュー:

『ヴィンセントが教えてくれたこと』(2014年 監督:セオドア・メルフィ)感想

 

冒頭にジェフ・トゥイーディーの曲が流れてきたのを聴いて、僕はこの映画とは馬が合うと思った。この映画は他にもいい曲が沢山流れていて、エンドロールでかかるディランの曲なんかは主役のビル・マーレイがアドリブで演じていて、滑稽な佇まいはそれだけで一つの作品になる程の出来栄えだ。

監督のセオドア・メルフィはこれがデビュー作ということなので、きっと映画を作るにあたっては使いたい曲が山ほどあったのだろう。どっちにしてもジェフの曲が2曲も採用されていたので、僕としてはそれだけで何ポイントかは上がる。

先に述べた主役のビル・マーレイは飲んだくれで嫌われもののロクでもない爺さん。家には時折妊婦ながらも商売に懸命な馴染みの‘夜の女’が真昼間からやって来る。そんなある日、隣に親子二人が引っ越してくる。小学生にしては小柄な少年とその母親のシングルマザーだ。メインの登場人物はこの4名で、言ってみれば皆、人生につまずきまくっている連中だ。

話は変わるけど、Eテレでやってた大阪釜ヶ崎の特集「ドヤ街と詩人とおっちゃんたち~釜ヶ崎芸術大学の日々~」の録画をようやく観た。釜ヶ崎大学なる地域に根差した芸術学校を立ち上げた詩人の上田 假奈代(かなよ)とドヤ街のおっちゃんたちのドキュメンタリーだ。

そこでは芸術に関するワークショップが連日行われる。最初は怪訝な顔をしていたおっちゃんたちも自身の作品を持ち寄るようになる。次第に芸術やそこでの文化的交流ががおっちゃんたちの人生に違った側面から光を照らすようになる。勿論いい事ばかりではない。暴力沙汰やややこしい問題は起きる。それでも上田假奈代始め、そこに関わる人たちは釜ヶ崎という場所に根を下ろし続ける。

映画のビル・マーレイ演じるヴィンセントは確かにろくでもない奴だ。けれど、隣に越してきた親子を捨て置かない(最初は金目当てであるけれど)。少年もヴィンセントを捨て置かないし、身重の娼婦も何かとヴィンセントの世話を焼く。一方のヴィンセントだって、少年のことを考えているし、母親のことを考えてるし、娼婦のことも気に掛けている。人生につまずきまくっている4人は誰かを頼らざるを得ない一方で、誰かを捨て置いたりは出来ないのだ。

僕は果たしてどうだろう。この映画は基本コメディだし、最後もいい感じで終わるし、観ている方は、あぁいい話だなぁで終わるかもしれない。けど実際、そんな人たちが目の前に現れたとしたら。僕たちは映画の登場人物のように振る舞えるだろうか。

簡単な事ではないけれど、人生がこの映画のように基本コメディであるならば、手の届く範囲でもう少しやっかいなことになってもいいのかもしれない。それが僕たちの人生にも違った側面から光を照らしてくれるのかもしれないのだから。

「ヴィンセントが教えてくれたこと」とは。いや、ヴィンセントだけじゃなく、彼らが教えてくれたことは、もしかしたら人生を少しだけ楽しく生きる工夫なのかもしれない。

Go/Jonsi 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Go』(2010)Jonsi
(ゴー/ヨンシー)

 

ヨンシーはアイスランド発のシガー・ロスというバンドのフロント・マンで、ヘッドライナー・クラスの大物バンドなんですが、私は名前ぐらいしか知りませんでした。ま、ヨンシーという名前に引き寄せられ、なんとなく聴き始めたんですけど、1曲目の「Go Do」からもうぶったまげましたね。ヨンシーさん、冒頭からこりゃ鳥の声マネですか?

歌唱はほぼファルセット。ていうか地声もこんな感じなのか。声変わりしていない少年みたいな、いや少年じゃないなこれは。彼はそのルックスや声からも妖精だなんて称されることもあるようですが、私にはなんだかアンドロイドのように聴こえます。心を持ったロボット。それはつまり少年じゃなく老成しているから。アイスランドですから地理的に見ても地球の歴史が書き込まれたかのような声。ということで、これはやっぱり生身の人の声ではごさいませんな。

この「Go Do」はストリングスや管楽器もふんだんに使われていますが、オーケストラな感じはしない。やはり優雅で中性的。そこにドラム、と言うより太鼓(と言った方が的確か)がドコドコと舞台を少しずつせり上げていくような高揚感をもたらす。曲自体もドラマチックに展開してゆくから、まるでアイスランドの大地をドローンで空撮するかのようなイメージ、山河を駆けてゆくイメージ。つまり祝祭のような音楽ですね。

続く2曲目「Animal Arithmetic」では更にスピードアップし、アクロバティックなドカドカした太鼓が曲全体を引っ張っていく。やっぱり祝祭やね。3曲目の「Tornado」になるとテンポはスローに。この人どっから声出てんの?っていうヨンシーのハイトーン・ボイスを堪能できる曲。まるでソプラノ歌手のようでいながら、かしこまった感はなくポップな仕上がりは流石というべきか。後半に向けてハイトーン・ボイスは益々高くなってクライマックスを迎えます。

後半に入るとそれこそ極寒地を思わせる厳粛なナンバーが続く。最初に述べたように異世界を覗いているような景色が時に足早に、時にゆったりと流れて行く。人類の故郷を感じさせる温かみ。けれどそこには幾ばくかの狂気を孕んでいる。そんな音楽ではないでしょうか。

まぁ兎に角ご一聴を。かつて耳にしたことなないオリジナリティ溢れるサウンドにきっと度肝を抜かれることうけあいです。

 

Track List:
1. Go Do
2. Animal Arithmetic
3. Tornado
4. Boy Lilikoi
5. Sinking Friendships
6. Kolniður
7. Around Us
8. Grow Till Tall
9. Hengilás

(Bonus Track)
10. Sinking Friendships (acoustic)
11. Tornado (acoustic)

Eテレ 日曜美術館「絵が語る僕のすべて~絵本作家・画家 スズキコージの世界」感想

TV program:

日曜美術館「絵が語る僕のすべて~絵本作家・画家 スズキコージの世界」2019年4月7日放送 感想

 

芸術と作家の幸福な出会いを見るとこちらまで幸せな気持ちになってしまう。絵本作家で画家でもあるスズキコージさんもそんな一人です。あ、スズキさんの場合はかしこまって芸術と言うのではなく素直に絵と言った方がいいですね。

今は神戸に住まわれていて、時折外に出て大きな絵を描く。坂道の途上にある神戸北野美術館の一隅を借りての下絵も構想もないライブ・ペインティング。知り合いの楽団が訪れ賑やかな音楽を奏でる。観光客がなんだなんだと立ち止まる。辺り一帯、陽気な雰囲気で、そこはまるでスズキさんたち自体が絵本の世界にいるような、絵と実際の境目がない不思議な世界が現れます。

しかしスズキコージさんは今年71歳。ここまでに来るのに大変な時期を過ごして来られました。

東京の芸大を幾つか受験するも全て不合格。それでも静岡から上京し、働きながら絵を描く毎日。幸運な出会いがあり少しは絵での収入も得るが、世間に認められるのは40歳の時に描いた絵本、「やまのディスコ」で絵本日本賞を受賞してから。売れない時期には肉体労働など仕事を転々とし、電話や水道などを止められることもしばしば。それでも絵を描くことは楽しくてしょうがなったと。お腹が減るのも忘れて描いていたと。

スズキさんの画力であれば東京の芸大も恐らく、合格する術はあったはず。けれど、どうも違う、アカデミックな世界は俺には合わないと見切りをつける。売れない時代は絵の仕事を紹介されるも個性が強すぎると首になる。やっぱり純粋な絵描きなんですね。何のために描いているか。そこから離れられないんです。

ライブペインティングは3日に渡り行われました。3日目は生憎の雨模様でしたが、何事もなく絵を描き続けます。スズキコージさんは言います。「絵を描くことが向いてるんだろうね」と。

絵を描くことがイコール生きていくこと。スズキさんは緑内障にかかり、今見えるのは視野が狭くなった右目のみだそうです。全く見えなくなったとき。こればっかりは分からないなと仰ってました。

スズキコージさんは絵を描く。絵本だからとか、子どもに向けてだからとか、世間に向けてだとか、そんなことには一切頓着せずに、好きな絵を描き続ける。「絵描きじゃなかったらもっとさみしかっただろうね。俺が絵をつくりだせる人間だった。その絵が僕の生活を豊かにしてくれてるんだと思う。」

冒頭に僕は、芸術と作家の幸福な出会いを見るとこちらまで幸せな気持ちになってしまう、と書きましたが、そんな簡単なものではないですね。到底出来ないことです。スズキさんのライブ・ペインティングを直に見てみたい。そんな風に思いました。

グッバイ、コミュニケーション

ポエトリー:

『グッバイ、コミュニケーション』

 

グッバイ、コミュニケーション
聞こえないならコンセントに繋いどくれ
ワシはカエル
ヒキガエル
ミニクイのさ
金輪際会わないどくれ

グッバイ、コミュニケーション
実はまだ若いけど
一晩中側にいて欲しいと
言えたもんじゃない

だから緑のジャージに着替える
気兼ねなんかしないで
寝転んでテレビ見るのさ

グッバイ、コミュニケーション
あなたに会う資格はないのさ

 

2018年10月

悲しみでっぱり

ポエトリー:

『悲しみでっぱり』

 

悲しみというでっぱりが
ある日玄関に現れ
右肘にも現れ
普段無いものが急に現れると
廊下でつっかえたり
小指の先をぶつけたり
それは私が普段如何に回りを見ていないかを示すこととなった

しかし月日というのは不思議なもので
そのでっぱりが生まれつきのように感じ始める私は
悲しみというでっぱりを当たり前のこととし時には大股に
時には大げさに肘を畳んで毎日を過ごすようになる

玄関のでっぱりはやがてハンガーとなり
右肘のでっぱりは肘をついて居眠りする時のちょうどよい高さとなり
他の人にはない二つの得を私にもたらしたが
はたしてこれは私にだけ起きた現象か

そこで私は手近な友人や心安い同僚に
「お前にもこんなでっぱりはないか」と尋ねたところ
「あぁそれなら」と
一ヵ月程度の間に全員にあたる八名がほぼ似たようなでっぱりを差し出した

私のでっぱりはでっぱりと言える程度のでっぱりだったが
中にはでっぱりと言うより突っ張りだなというぐらい立派なものをこさえているものもいて
なるほどなぁ、何事も聞いてみないと分からないものだなぁと
妙に得心したのです

ところで私のでっぱりは上着を引っ掛けたり
肘を突いて寝るのにちょうどよい高さをもたらしたが
せっかくなので同じ八名に悲しみでっぱりの効用について聞いたところ
一人は右肩に出来たのでカバンがずり落ちなくて済むと言い
一人は臀部に出来たので体が傾いて困ると言い
一人は洗面所の床に出来たので歯みがきの時土踏まずが先ず気持ちいいと言った
中には人の気持ちが分かるようになったなどと殊勝な事をぬかす奴もいたが、
総じて前向きに捉えている人が多かった

しかしそのようなでっぱりはある日突然姿を消す
私は肘を滑らせてガラス窓に頭をぶつけその事を知った

私は「知らぬ間に悲しみというでっぱりが現れたように、知らぬ間に悲しみというでっぱりはいなくなる」ものだと物分かりのよい学者のように了解したが
なんだか急に玄関のでっぱりが恋しくなり
早く家にたどり着きたいようなたどり着きたくないような落ち着きのない心持ちになっていた

しかし待て
今現在では気付いていないがこの身体のどこかに悲しみというでっぱりがまだあるような気もする
或いは家中のどこかにも探し出せばまだあるような気もする
そんな風に思い返してみると私はいくらでも心当たりがある中年だった

その時、
私は焼場から出てきた父の骨を思い出していた

 

2019年1月

Eテレ「落語ディーパー~火焔太鼓~」 感想

TV program:

Eテレ「落語ディーパー~火焔太鼓~」 2019.3.26放送 感想

 

古今亭志ん生特集の第2夜は「火焔太鼓」。落語には頼りない主(あるじ)としっかり者の女房というのは付き物で、この「火焔太鼓」もそんな噺。

ある日道具屋の甚兵衛が古い太鼓を仕入れてくる。またそんなものを買ってきてどうすんの、と女房の小言が始まる訳だが、丁稚の定吉が店先でそれにハタキをかけるふりをして叩いていると、表から侍が駆け込んでくる。偶然通りがかった殿様が太鼓の音色を聴いて、いたく気に入ったご様子だと。是非、屋敷に持参せよと言う。甚兵衛は喜ぶが、妻は半信半疑。しかし甚兵衛が屋敷に太鼓を持参すると、殿様はすぐに買いたいと申し出る。甚兵衛の手元には思わぬ大金が手に入り、めでたしめでたしというお噺。

この噺、古今亭のお家芸だそうで、他の流派はやってはいけないという暗黙の了解があるとのこと。どうしてかと言うと、先にも書いた通り、あらすじとしちゃ大した話じゃない。これを志ん生が工夫を重ねて面白おかしく創り上げたという経緯があるから、志ん生の次男である志ん朝いわく、これは「オヤジの噺」なんだと。よそでやってる奴がいたら、「誰だそいつは」ってんで志ん朝がたしなめたっていう逸話があるようで、古今亭にとっちゃ一門を代表する大事な噺だそうです。東出昌大が今日はいつになく緊張感がありますね、と変な空気を感じていたみたいですが、ま、そういう噺なんだそうです。

落語なんてのは割と柔軟というか自由が効く芸なんですが、中にはね、こういうドシッとした重しみたいなものがあるのも面白いところではあります。そういや大阪にも「地獄八景亡者戯」なんていう桂米朝が復活させた大ネタがありますが、これはどうなんですかね。やっぱし敷居は高いんでしょうか?

志ん生の「火焔太鼓」に戻りますが、この噺はほぼ夫婦の会話で成り立っています。それも丁々発止やり合うってんではなく、女房が一方的にやり込める。でも、これがいい感じの夫婦なんです。二人の間に目には見えない情がある。仲睦まじさがあるんですね。これはやっぱり志ん生の人間力なんだと思います。こういう会話をあの声でテンポよくやられると、ホントに気持ちいいです。

そうそう、今回気付いたんですが、志ん生はリズム感が抜群なんです。どうもゆったりとゴニャゴニャ喋ってるイメージですが、結構早口なんです。でもそんなに早くない。ちょうどいいスピードで夫婦の会話がテンポよく弾んでいく。ベタな言い方ですが、間がやっぱり独特なんです。このつかず離れず、粘り気がありそうでない、湿り気がありそうでない独特の頃合いが抜群ですよね。

志ん生の特徴として合間合間にくすぐりを入れてくる。笑いどころを入れてくる。立川吉笑はパンチラインという言い方をしていましたが、この言い方、いいですね。例えば女房は頼りない甚兵衛を「だからお前さんはあんにゃもんにゃなんだよ」と言う。「バカだねぇ」とは言わずに「あんにゃもんにゃ」と言う。これ、まさしくパンチラインですよね。

それをさらりと言うところがまたよくって、まぁこれは志ん生自身が普段からそういうことを言う人なんだろうということですが、演じてるってんではなく、実際長屋の住人が言うようなちょっとしたユーモアの感覚が志ん生に備わっている。そういうことなんだと思います。

昔の人はそういうユーモアがありましたよね。私ごとで恐縮ですが、うちの母親なんかも昔アイドル歌手が歌ってると「風呂で蚊が飛んでるような声」だなんて言ってましたね。あと、大阪難波駅にかつてあった「ロケット広場」を「ロボット広場」なんて言ってましたが、こうなると間違って言ってんだかワザとなんだがよく分かりません(笑)。

ところで、今回の志ん生スペシャルから司会者となった片山千恵子アナウンサーがいい質問をしていました。女性を演じる時はどうするかって話。古今亭菊之丞が答えます。日本舞踊を習ってりゃ女性っぽい所作は身に付きますが、基本は話し方なんだそうで、けれど声音は必要以上に変えちゃいけない。女でも子供でもそうですが、極端に声音を変えるのは「八人芸」と言って嫌がられるそうです。要するにそんなの芸じゃねぇってことでしょうか。

確かに、志ん生の「火焔太鼓」だって夫婦それぞれの声音を変えちゃいない。普通に志ん生の声なんですね。それなのにちゃんと甚兵衛とおかみさんにしか聞こえないんですから、この何気なさがすなわち芸、凄みなんだと思います。

Eテレ「落語ディーパー~風呂敷~」 感想

TV Program:

Eテレ「落語ディーパー~風呂敷~」 2019.3.25放送 感想

 

珍しく2夜連続の「落語ディーパー」。昭和の大名人、古今亭志ん生の特集だそうです。ゲストに志ん生の孫弟子にあたる古今亭菊之丞を迎え、志ん生のエピソードを交えながらその魅力を語り合います。

1夜目の噺は「風呂敷」。あらすじを簡単に言うとこんな感じです。熊五郎が用事があるってんで出掛けるも、どうやら帰りは遅くなるらしい。女房のお崎がのんびりしていると、そこへ若い衆の新さんが熊五郎を訪ねてくる。あいにく熊五郎は居ないが、お崎も暇だし雨も降って来たんで、新さんお茶でも飲んでったらと新さんを家に上げるが、思いのほか熊五郎が早くに帰ってくる。別に平気な顔してお茶でも飲んでりゃいいんだが、この熊五郎がどうしようもないやきもち焼きとくる。しかも‘へべのれけ’に酔ってるとあっちゃあらぬ疑いを掛けられては大変。お崎は新さんを押し入れに隠して、さあどうしよう、近くの兄(あに)さんの元へ相談に行くのだが…。とまぁそんなお噺です。

流石NHKですね。「風呂敷」演じる志ん生の映像があるんです。これがやっぱり面白い、確かに東出昌大が言うように映像は白黒だし音声も明確じゃないから、古い資料映像のようで知らない人からするとつまらないものかもしれないけど、志ん生を知った身とあっちゃ動く志ん生がなんとも愛おしいのです。

やっぱしね、お崎さんにしても魅力的なんですよ。全然いやらしくないし、可愛げがある。頼りになるのかならねえのかよく分からない兄(あに)さんだっていい塩梅で、志ん生が演じると登場人物がホントに愛らしい。これはもうホントに誰にも真似できないですね。

で熊五郎は泥酔してる。これをまぁグデングデンに酔ってるだのヘベレケに酔ってるだの色んな言い回しがありますが、志ん生は「へべのれけ」と言う。これですよ、この言語感覚。「へべのれけ」と言うことで印象がぐっと近くなる。それでいてあの志ん生の語り口ですから、何とも言えない味わいがそこに生まれるんです。

番組出演者によると「風呂敷」は非常に難しい噺だそうです。だから、菊之丞は持っていないし、一之輔も一度高座にかけたことはあるけどそれっきりだと。対して若手の柳家わさびと柳亭小痴楽は割とあっけらかんと持ちネタにしているそうで、この辺りの距離感も面白いですね。

噺の中身にしたって、一緒にお茶を飲んだぐらいでこんな風になりますかね、というわさびは自分が演じる時は、新さんを間男にしちゃう。実際この噺は元々そういう噺だったそうですからそれでいいのかもしれないけど、お布団敷いてって噺にしちゃう。一方、一之輔はお茶飲んだぐらいでこんな風になってしまうっていうのがこの噺のミソだと言う。解釈の違いですけど、僕は一之輔派ですかね。この辺はもう年齢でしょうね。

てことで落語はこのように演者によって解釈を変えてもいいんです。勿論最低限のルールはあるのでしょうが、多少中身を変えても差し支えない。ここも落語の面白い所ですよね。また、菊之丞の師匠である古今亭圓菊は「風呂敷」のお崎と新さんのやりとりをお茶を飲むってパターンとお酒を飲むパターン、2種類用意していた節があると。その日のお客さんの状態によって使い分けていたんじゃないかっていう。お茶とお酒、ただそれだけの違いなんですが、やっぱりニュアンスは異なりますよね。なんか粋な話です。

落語というのは新作落語は除いて、みんな共通の噺なんです。それを如何に演じ分けていくかっていうところが腕の見せ所なのかもしれませんが、これ、音楽の場合もそうですね。カバー曲なんてのが時々ありますが、その歌い手の解釈、俺だったらこう歌うねっていう。硬い言葉で言うと批評ですが、そうした批評の精神がその芸術の価値を高めていく。落語もそういうことではないでしょうか。

Days Are Gone/Haim 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Days Are Gone 』(2013)Haim
(デイズ・アー・ゴーン/ハイム)

 

先日買い物をしていたら、あるアパレル店でハイムが流れていた。しばらくそこにいると、アルバムを通して流していたので恐らく店員の好みなんだろう。ふむふむ、なかなかいい趣味をしている。僕は今後もその店に行こうと思った。てことでハイム。2013年のデビュー作です。

ハイムは米国、カリフォルニアの3人姉妹。なんでも両親もロック・バンドを組んでいたという音楽一家だそうで、幼少のころから家のドラム・セットを競って叩いていたらしい。ライブ映像を観ると、ステージに太鼓を横並びにして3人で叩きまくるなんてのもあって、なかなか個性的。でもこれが結構重要でハイムはリズムなんだと。それもベースじゃなく打楽器のリズム。改めてデビュー作を聴いてみると、最初からそういう記名性が感じられて面白い。

メイン・ボーカルを取ってるのは次女のダニエル・ハイム。彼女はリード・ギターも担当している。ちなみにギターの腕前も相当なものらしく、ストロークスのジュリアン・カサブランカスに呼ばれたり、2018年のフジ・ロックではヴァンパイア・ウィークエンドのステージにゲストとして参加している。

で彼女のボーカルはさっき言ったようにリズムが内包されているから、跳び跳ねていて、リリックもそれを意識してか韻やアクセントを効かせまくり。可愛く歌おうなんて気はさらさらない男前な声も相まって、聴いていてホントに心地よい。甘い#5『Honey & I』だろうが、リズムが内から突いて出てくるもんだから跳ねちゃってしょうがない。メロディとリリックが完全に一体化しています。

コンマ何秒かのタッチでメロディに乗っけてく声はリズム・マシーンが体に内包されているかのようで、そのメイド・イン・ハイム家とも言うべきリズム・マシーンは3姉妹それぞれに埋め込まれているもんだから完全に同期している。長女エスティのベースと3女アラナのギター、そしてコーラスまでもが折り重なる阿吽の呼吸感は姉妹ならではだ。

勿論、キャッチーな曲を書くっていうソングライティングの部分が基本にはあるけれど、曲もリズムに導かれている感じ。だからゆったりした曲でも走っている。単にスピードではない走ってく感覚が心地良い。洗練されたサウンドの2ndアルバムも大好きだけど、3姉妹だけで演奏しているかのような極力詰め込まないサウンドのこのデビュー・アルバムも素敵だ。

モデルみたいにスラッとしてグッド・ルッキンな3姉妹だけど、ガールズ・バンドと一括りにしちゃいけない。男前で小気味よく、ガッツリ恰好いいロック・バンドだ。

 

Track List:
1. Falling
2. Forever
3. The Wire
4. If I Could Change Your Mind
5. Honey & I
6. Don’t Save Me
7. Days Are Gone
8. My Song 5
9. Go Slow
10. Let Me Go
11. Running If You Call My Name

夕焼け/吉野弘

詩について:

夕焼け / 吉野弘

 

次のURLは海外在住歴の長いある女性の記事(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190312-00010000-binsiderl-soci)。満員電車での席を譲る譲らないにまつわる外国人と日本人の違いについての記事です。簡単に言うと、外国人は反射的に譲るけど日本人はなかなか譲らないという話。自戒も含め、納得するところも沢山ありました。

でも頭より先に体が動くって、記事にあるようにやっぱ習慣じゃないとなかなかね。悪意があるのは論外ですけど、基本的に我々は内気ですから(笑)。そんなことでどうすんのって記事を書いた人に怒られそうですが、代わりたくても言えない人も沢山いるのだと思います。

この記事を読んで思い出した詩があります。吉野弘さんの「夕焼け」という詩です。吉野さんは谷川俊太郎さんや茨木のり子さんらと共に戦後日本の現代詩を築いてきた人。現代詩というと難解なものを想像するかもしれませんが、茨木さんも吉野さんも生活に根差した平明な言葉を用いる方々。谷川俊太郎さんの詩をイメージすると分かりやすいかもしれません。

内気で優しいばっかりについ損をしてしまう人たち。吉野弘さんはそうした人々へいつも温かい眼差しを向けられていました。

 

「夕焼け」 吉野弘

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に。
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をギュッと噛んで
身体をこわばらせて・・・。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

 

人が怒られているのにまるで自分が怒られているような気持ちになってしまう人がいます。困っている人を見ると自分まで困った気持ちになってうつむいてしまう人がいます。人の気持ちに敏感すぎて、なんで私はいつもこうなんだろう、なんで私はこんな弱いのだろうと、情けなくってしまう。

けれど吉野さんは言うのです。そんなことはない。その気持ちは人間が生きていくうちで、もっとも大切なことなんだよと。あなたはぜんぜん間違ってないんだよと。

茨木のり子さんの「汲む」という詩に「人を人とも思わなくなったとき堕落が始まるのね」という一節がありますが、どちらも通底しているものは同じなのではないでしょうか。

Sones & Eggs/佐野元春 感想レビュー

Sones & Eggs(1999年)/佐野元春

 

2000年はちょうど佐野のデビュー20周年で、アニバーサリー・ツアーを行ったりベスト・アルバムを2枚出したりと、それっぽい活動を盛んにしていた時期だ。20周年だから新しいアルバムをリリースしてファンの皆に喜んでもらおうという佐野らしからぬ理由で作られたこのアルバムは、正直言うと焦点がいまひとつ絞り切れていない。やはり佐野は作りたい時に作るべき人なんだよなぁと思ったりもするが、この頃は単に佐野自身の創作活動としてもあまり明確なビジョンを持てなかった時期だったのかもしれない。

このアルバムで佐野がチャレンジャブルだったのは楽曲そのものというより、創作方法というプロセスだ。元々佐野は日本全体で5番目という速さで自身のサイトを立ち上げた程のコンピューター・フリーク。80年代中盤から行っていたスポークン・ワーズにおいても、自身がコンピューターで作り上げたトラックに乗せて詩を朗読している。この時の佐野はその表現方法をメインの創作、ポップ・ソングの領域へと押し広げてみようとしたのだろうか。というより単に一度は取り組んでみたかったアイデアだったのかもしれないが、そういう意味では、当時のバック・バンドであるザ・ホーボー・キング・バンドと共にウッドストックまで出向き徹底的にバンド・サウンドにこだわった『The Barn』(1998年)の後というのはちょうどよいタイミングだったのかもしれない。

しかし結果的に言えば、そのトライアルは上手くいかなかった。佐野はサウンドをよく乗り物に例える。フォークであろうがロックンロールであろうがヒップホップであろうが何でもいい。言葉とメロディーを上手く乗せてくれる乗り物であれば何でもいいと。結局、この時の一人での打ち込みサウンドは佐野のソングライティングを受け止めるだけの乗り物にはなり得なかった。佐野自身も一人で作っても面白くなかったと後に冗談めかして述懐しているが恐らくそれは本心だろう。

しかし曲そのものに目を向けていけば、質の高い曲が多く収められている。佐野はライブやなんかでよくアレンジを変えて演奏するので、当時の僕はこれらの曲もいずれライブなどで新しくリアレンジしてくれたらなぁなどと思っていたが、実際に後の裏ベスト『Grass』(2000年)やカバー・アルバム『月と専制君主』(2011年)、『自由の岸辺』(2018年)でこのアルバムからの計4曲が再レコーディングされている。

本作を制作するに当たって、佐野は自身の作品のどういう部分をファンが支持してくれたのかというところに立ち返り、ファンの皆が喜んでくれるようなアルバムにしようというファン・フレンドリーな視点で制作している。それは20周年という節目を迎えた佐野のストレートなファンに対する感謝の気持ちの表れであり、キャリアで始めて過去の作品を振り返るという作業を行っている。

従って本アルバムは過去の作品を踏襲したものや、当時国内で勃興していたヒップ・ホップへの再接近などがある。特に冒頭の『GO4』はそのどちらをも意識した作りであるが、音も言葉も中途半端感が否めない。言葉が紋切型だし、前述したとおり音が弱い。残念ながらアルバム最後に据えられた、ドラゴンアッシュのKJとBOTZが手掛けたリミックスの方がよほどカッコいいと思うがどうだろう。

逆に言葉の切れ味が素晴らしいのは同じくヒップ・ホップ的なアプローチの『驚くに値しない』。かつての『ビジターズ』(1984年)の系譜といえるボーカル・スタイルで、ラップでもない歌モノでもないオリジナルの表現が立ち現われている。特に「偽善者たちの群れにグッドラックと言って~」で始まる2番からのリリックは秀逸。

このアルバムは全てを佐野一人で手掛けたわけではなく、曲によっては盟友ザ・ホーボー・キング・バンドが参加。とても素晴らしいバンド・サウンドを聴かせてくれる。そのひとつが『大丈夫、と彼女は言った』。情景を喚起させる丁寧な歌詞とそれを掬い取るバンドの演奏。特にKyonのアコーディオンが最高だ。

もう1曲のホーボー・キング・サウンドが『シーズンズ』。この曲の見せ場は何と言っても最後の1ライン、「さようならと昨日までの君を抱きしめて」とアウトロにかかる「Sha la la …」である。というよりこの部分が全てと言っていいだろう。「さようならと~」のフレーズは曲中に何度か繰り返されるが、最後のそれはそれまでとは全く異なる響きを持つ魔法の言葉となり、そしてそれは佐野の黄金フレーズである「Sha la la …」へと昇華されてゆく。この曲を初めて聴いた時は正直このベタであまりにもストレートな歌詞になんじゃこれと思ってしまったが、先ほど述べた最後のラインとアウトロでそんな気持ちはどこかに飛んで行ってしまった。恐るべし、佐野の「Sha la la …」。

佐野はやはり20周年ということでどうしてもアルバムを作りたかったんだろうと思う。しかし実際にはザ・ホーボー・キング・バンドとの渾身の『The Barn』後の空白のような時期で、次へのビジョンを整理している段階である。しかもこの時期の佐野は声に変調をきたし、上手く声が出せなくなっていた。低音で歌ったりファルセットを多用し、ボーカルにおいても試行錯誤の時期である。

そういう全体的な創作において旺盛な時期ではなかったにもかかわらず、佐野は自身のスタジオに籠り、ファンの皆に喜んでもらいたいと言って一人で新しい表現へのトライアルを続けてくれた。このアルバムはその結実である。何かと凸凹の多いアルバムではあるけれど、今振り返ってみればチャレンジャブルで極めて佐野元春らしいアルバムではないだろうか。

Track List:
1. GO4
2. C’mon
3. 驚くに値しない
4. 君を失いそうさ
5. メッセージ
6. だいじょうぶ、と彼女は言った
7. エンジェル・フライ
8. 石と卵
9. シーズンズ
10. GO4 Impact