波打ち際

ポエトリー:

 

「波打ち際」

 

 

波打ち際で剥がれた人生が

一歩、また一歩と後ずさりす

真剣に生きた心意気さえ簡単に儚い

小鳥のさえずりほどに

 

目頭が熱くなる瞬間がひとにはあって

後ろめたいことのひとつやふたつ

それでも隠すことのできない腹立ち苛立ち

もくもくと雲が茹で上がり

 

それでいてときとして晴れわたり

またはのこのこと雨がやみ

いやあれはそうではなかったのですという断りは過ぎ

ひとに長く愛されるサイダーの泡

そんなものに憧れる

 

ゆっくりと潮が引いていく間ほどには

ひとは穏やかではないと知りつつ

少しづつ重ねたときを折り返し

少しづつ剥がれていくときを経てもなお

若人のように寄せては高波

生の陽気さへ同期す

 

 

2024年8月

 

薄まってゆく

ポエトリー:

「薄まってゆく」

 

薄まってゆく
何処かで誰かがわたしの代わりに悪事を働く
相当近くの湖でそれが起きている
今朝もその脇を自転車で通過する

バッテリーの充電は何処から来るのか知らないが充電器は重い
バッテリーは薄まるとかではない無くなるだけ
でも重い
無くなればまた充電すればいい
何処から来るのか知らないが

湖の水嵩は日によって違う
がよほどの大雨でもないと気づかない
か晴れ続きか
今気づかないのはどちらでもない
怠惰なだけ
薄まってゆくのは知っている

薄まってゆく

わたしの中に埋まっている貝が蓋を開け二三泡を吐く
音は出さずに弾け無かったことにする
その程度で済むから今はそれでいい
それでいいが事実自転車がぐらつく

何処から来るのか知らないが
今日もバッテリーは満タンできちんと重い
そして薄まってゆく
何処かで誰かがわたしの代わりに悪事を働く

今朝も速やかに朝日を浴びて湖の脇を走り抜ける
思いなおせばほら
もうぐらつくことはない
気にやむことはない

 

2024年10月

 

谷川俊太郎のこと

「谷川俊太郎のこと」

 

音楽にしても小説家にしても有名人はたくさん思い浮かぶけど、詩人と言われて名前が出てくるのは谷川俊太郎ぐらいだ。ほとんど読まれなくなった詩の世界にどの分野にも負けない有名人がいることは、詩の真似事をしているような僕にとっても非常に心強いものだった。

谷川俊太郎の詩は平易な言葉使いなので、わかりやすいと思われているが実はそんなことはない。ただ難しい言葉は使わないので間口は広い。でもやっぱり詩であるから一筋縄ではいかない。だから谷川俊太郎にはわかるようなわからないような詩を書く人、そんなイメージが一番しっくりくるのかもしれない。

詩は自分探しみたいに思われていることがある。昔テレビで上野千鶴子が「詩は自分に興味があるひとが書くもの」みたいなことを言っていた。上野千鶴子でさえその認識なのだから参ってしまうが、谷川俊太郎の詩には見事に谷川俊太郎の主張がない。びっくりするぐらい自分をほっぽって書いている。

僕などは詩とはそういうものだと理解していてもつい自分というものが顔を出してくる。自分を何処かにやるなどなかなかそうはいかない。よい詩というのは自分がないからといって他人事ではないし、ちゃんと芯があって自分ごととして書いている。でも人が読むときに邪魔になる作者はいない。難しい話だ。

谷川俊太郎の詩には言葉遊びのような詩、「かっぱかっぱらった」というのがあって、何故か今、谷川俊太郎と聞いて僕が最初に思い浮かべたのはその詩なんだけど、こんな詩、まさに自分がまったくないないような詩でも他人事のような空々しさはない。そういう深さや優しさ、当事者感が谷川俊太郎の詩にはある。

わかりやすい詩、わかりにくい詩、谷川俊太郎の詩にそんな言葉は当てはまらない。わかるようでわからないし、わからないようでわかる。どっちかというとそっちなんだと思う。とにかく平易な言葉なんだけど、日本語というものがこんなにわかりやすくてわかりにくくて、わかりにくくてわかりやすいということを地で行くその奥深さに読むたびにやられます。

意味を持つ言葉から意味を抜き取って、言葉を新しくする。いや言葉そのものはそこにあるままかな。でもちゃんと一から作ろうとしている。あからさまに凄いひとじゃないけど、読めば読むほどこのひと凄いなって思ってしまう。世に詩人は谷川俊太郎だけではないけど、沢山のひとにもっともっと谷川俊太郎の詩を読んでほしい。詩というのは、日本語というのはこんなにも凄いんだってある時ふっと気づくはずだから。

僕が年をとっても谷川俊太郎はあのおじいちゃんのままでずっと居続けるもんだと勘違いしていたけど、そうはいかないよな。そうはいかなかったのかな。

 

表側と裏側と

ポエトリー:

「表側と裏側と」

 

裏側に種があり
過去が尻込みをする
人の鼓膜の破れ方には自在があり
知っていいことと知らなくていいことが
あったりなかったりして
啄んだり啄まなかったり

表現が多目的トイレ
手の届かない閉と開
助けを必要としている
外から開けてくれる誰かの

表側に鐘があり
寝ている人を呼び起こす
人が眺める仔細の上に
詩が上滑りすればいい
知っていてもいなくても

声が鐘の間を吹き抜ける風が
言い淀んだりして心地いい

 

2024年8月

グレイの空

ポエトリー:

「グレイの空」

 

在るはずの無い河を越えて夜通し歩く
食い違いのあること
準備の有る無しにかかわらず
空を切ったり
草を編んだりして
それでも
道行きの有る無しにこだわらず
一筆かかれば珠玉の名画
になりはしないかなどと
想いを巡らしてみたり

こんばんは皆さん
これがわたしの作品です

グレイの空は
残り湯でもかけたように
背たけが伸びた分だけ仄白く
まさかの呼びかけに応じることもなく
溢れるに任せる

 

2024年8月

祝日の電車

ポエトリー:

「祝日の電車」

 

行楽地へむかう電車の中で
楽しそうな声が三っつゆれていた
顔を窓の外へむけたちいさなL字が横いちれつ
足下にはかわいい靴がきれいにならんでいる
その横にも座席は空いているが
両親は座ろうとはせず子どもたちの行儀が悪くならないように気を配っていた

わたしたちは座りませんから
というメッセージ

 

2024年10月

朝の電車

ポエトリー:

「朝の電車」

 

隣りに座るひとの
化粧をする右手が
僕の二の腕をたたく
ようやく終わったと思ったら
今度はバックから教材を取り出した
ペンを持つ右手が再び
僕の二の腕を叩く
集中している
僕は見知らぬひとに貢献している

 

2024年10月

せめていい方のことだけを

ポエトリー:

「せめていい方のことだけを」

 

ライオンの鬣に沿って日が昇ることなどがあると
身だしなみを思わせるフレーズが静かに降りてきて
自分が他所行きのおはようという声を持っていることに驚く
まさかここでさよならは言えないから
余所余所しく挨拶を交わすことになる

北へ向かう幹線道路では渋滞が起きているそうだ
今各々が、時間を忘れたり、名前を付けることを忘れたり、身支度を忘れたり、文字通り、何をするにも

一度には測れない事柄を一旦フリーズし、それは重い足取り、それは静けさ、余所行きのいってらっしゃい

間もなく翌朝、今度は身だしなみを思わせるフレーズがラフに降りてきて、自分が余所行きではないおはようという声を持っていることに気づく

悪いことは考えず
いいことの方だけを
せめて今朝の最寄りの駅までは

 

2024年7月

呪文 / 折坂悠太 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『呪文』(2024年)折坂悠太
 
 
なんといっても歌詞がいいですね。#1『スペル』の最後なんて「いとし横つら、魂、ディダバディ」ですから。これだけだと何のことか分かりませんが、そこに至るまでに生活感のある丁寧な描写があるから、「いとし横つら、魂、ディダバディ」でもちゃんと意味が立ち上がってくる。しかも限定していないから、人によってどうとでも受け取れる自由さがある。この辺りのふわっとした抜けの良さは流石です。詩人茨木のり子の言葉に、よい詩というのは最後に離陸する、というものがありますがまさにその通りですね。
 
あと言葉とメロディの関係、とても気持ちがいいです。#2『夜香木』の出だし、「夜香木の花が咲いて」というくだりから始まる一体感。初めから言葉にメロディが備わっていて、それを自然な形で抽出したかのような見事な表現です。で、1曲目2曲目と聴いてきて、おや、と思うところがある。物凄く小さな世界が描かれているんですね。作者自身のという事ではないと思いますが、身の回りの事を丁寧に描いていく。これはアルバムを最後まで聴いていって分かることなのですが、やはり暗い世相、そこに対して日常が脅かされる、そんな空気が作者を日常の丁寧な表現へ向かわせたのかな、そんな風にも思います。
 
それが露わになるのが#7『正気』。論破とか地頭といった言葉が飛び交う世の中で、いや、そうじゃないんですときっぱりと言うんだけど、その中にもちゃんと鍋に立てかけられたプラッチックのお玉の描写があり日常が添えられている。そしてその延長に「戦争はしないです」という言葉が繋がっていく。とても大事なことがここでは描かれているように思いますが、その曲のタイトルは『正気』なんですね。そういうものが簡単に奪われていく、大丈夫だと思っていても集団として個人としてあっという間に正気が奪われていく、その静かな恐怖が背後に横たわっているような気がします。
 
アルバムの最後を締めるのは#9『ハチス』。マービン・ゲイを思わせるようなソウル音楽というのがとてもいいです。いろいろあるけど「君のいる世界を好きって僕は思っているよ」と根はポジティブに、そんな心境が歌われます。逆に言えばそう歌わざるを得ないという事だとも言えますが、とにもかくにも日常、その大切さなものがいとも簡単に消えてしまう恐れ、そうしたものを抱えながら僕たちは生きている、そういうことをリアルに感じざるを得ない世の中になってしまったけれどそのしんどさを直接的に歌うのではなくソウル音楽に閉じ込めることで、他者への優しさや思いやりに立ち返ることが出来る。アルバムを総べる曲なのだと思います。
 
 

「僕が生きてる、ふたつの世界」感想

フィルム・レビュー:

「僕が生きてる、ふたつの世界」

 

映画の始まりは主人公の大が生まれたところから。少しずつ育つ大の成長が描かれていく。微笑ましい場面があれば辛い場面もある。何気ない日常を追う映像を見ている間、しんどい場面ばかりではないのに、なぜか僕の胸の奥がつっかえたままだったのは、子ども時代の僕にも身に覚えがある風景がそこにあったからだろう。それはコーダだからということではなく、どこの家庭でもある風景。この映画の肝心な部分はそこだと思った。

もちろん両親がろう者である大と僕の家庭環境は大きく違う。けれど人の数だけ家庭はあって親子関係はあり、親子の数だけストラグルはある。劇中、登場人物のろう者が良かれと思って手助けをした大に「わたしたちのできることを奪わないで。」と言う台詞がある。その台詞こそがこの映画に向かう呉美保監督の態度ではなかったか。コーダという存在を特別なものとして特別な親子関係を描くのではなく、世界中の個々の親子が個々に異なるように、ある個々の親子関係を捉えた。この映画はそういう理解でよいのではないか。

映画を観た後、僕は図書館に寄り、そこに置いている映画雑誌をめくって呉美保監督のインタビュー記事を読んだ。劇伴は使用しなかったとのこと。そうだ!劇伴はなかった!雑音やら騒音やら周りのひとの声やらかやたら大きく聞こえたのはそのせいだったのか!無音の場面もいくつかあった。しかし泣きそうになった場面で無音だったのには参った!こんなシーンとした劇場で鼻水もすすれないじゃないか(笑)

俳優陣も素晴らしかった。主役の吉沢亮。綺麗なお顔なのに少しもそうとは感じさせなかった。映画一のキャラはヤクザのおじいちゃんを演じたでんでん。しかしなんと言っても母親役の忍足亜希子。母の愛たっぷりだけど重苦しくなく、暗くなりがちな話なのにどこか気の抜けた楽な部分があったのは、彼女の演技によるところが大きいのではないか。もちろん全体のそうした雰囲気を引っ張ったのは吉沢亮でもある。そうそう、父親の今井彰人も芝居をしていないぐらいものすごく自然で、まさにそこにいるようでした。あと、ユースケ・サンタマリアは胡散臭い役をやらせたら抜群やね(笑)。

手話を「手まね」と揶揄するおじいちゃん。けれど手話とは単なる「手まね」ではなく、表情を含めた言語であると、監督はインタビューで答えていた。それを証明するかのように母親はいつもまっすぐに大と目を合わせる。手話には方言もあるというのも描かれていた。単なる置き換えの道具ではなく普通に言語なんだな。そうだ、手話は必ず目を合わせるそうだ。なんと人間性のこもった言語なんだろう。

映画に劇伴は無かったけど、エンドロールでは主題歌が流れた。歌詞は劇中で母親が大に送った手紙の文章。こう響かせてやろうという意図のまったくない言葉。簡潔だけど、だからこそとても胸が熱くなりました。エンドロールの主題歌含めての映画だと思います。

ちなみにこの主題歌。最初は女性シンガーが歌ったそうだ。けれど母の圧が強すぎて(笑)、男性シンガーに変更したそうです。呉美保監督のこのバランス感覚がこの映画をより素晴らしいものにしたのだろうな。