Evermore / Taylor Swift 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Evermore』(2020年)Taylor Swift
(エヴァーモア/テイラー・スウィフト)
 
 
 
『フォークロア』に続くサプライズ第2弾。『フォークロア』とほぼ同じメンツによる続編です。なんにしても『フォークロア』全17曲、『エヴァーモア』全17曲、短い期間にこれだけの曲を作り上げる旺盛な創造力が凄まじい。しかも全部ちゃんとシングル切れるぐらいの完成度なんだもんなぁ。今更ながら、テイラー・スウィフト恐るべし。
 
つまり彼女は純然たるソングライターだということで、デビューは育った環境のせいかカントリーという船出だったけど、作品を重ねるごとに新しいサウンドに取り組んで、ていうか彼女ぐらい巨大になると自分の意向だけでは済まないだろうから、レーベルとのすり合わせもあるだろうし、ただ今となって思うのは、その中でサウンド云々というのは特別なこだわりというのは無かったんじゃないかな。
 
もちろんそんな簡単は話ではないだろうけど、彼女にはやっぱりこの圧倒的なソングライティングがある。ソングライター・チームと組んで何人かで、っていうことも時にはあるだろうけどそこは彼女が絶対的な主導権を取る、譲れない線としてあったのはそっちだったのかなとは思います。
 
だから『フォークロア』と『エヴァーモア』の2部作というのは、もちろんアーロン・デスナーを中心にしたザ・ナショナル周辺とのコラボレーションというのが大きなトピックではあるけれど、後年に彼女のキャリアを眺めた時に、ここはテイラー・スウィフトのソングライティングの爆発期というべき見方もできるんじゃないかとは思います。しかもどんどん深化していくという。
 
つまり『フォークロア』は初めに聴いた時はその新鮮さに驚いた。けど、やっぱりそれまでの彼女のソングライティングの流れではあったと思うんです。『エヴァーモア』と比べると明らかにキャッチーだし、ストリングスでの盛り上げであったり、今聴くとやっぱりマーケットを賑わせてきたテイラーの作品だなという感じはある。それが『エヴァーモア』になると純化していく、キャッチー云々とは違うところでソングライティングしている、ウケるウケないという雑念とは関係のないところで曲が出来てあがったんじゃないかなという気はします。
 
そして『フォークロア』はやっぱりアーロン・デスナーとタッグを組んだ、ボン・イヴェールを招いた、という個々が組み合わさったという印象がある。けれど『エヴァーモア』に至っては混ぜ合わさっている、コラボレーションというより一体化している、もっと言うとテイラーが完全に取り込んだ、テイラー印のサウンドになっているということだと思うんです。だから『フォークロア』でグラミー賞は獲りましたけど、実際のこのコラボレーションでの達成は『エヴァーモア』にあると僕は思います。だからどっちかと言われると僕はこっちが好きですね。
 
このアルバムは通勤時にSpotifyでよく聴いていたんですけど、僕はCDも買っていたので後からCDで聴くとですね、家のしょぼいコンポですけど、全然CDの方がいいんです。やっぱり端末だと聴こえない音がちゃんと聞こえるし、空気感というか空気の泡だとかがちゃんと感じられる。サウンドがサウンドなので、端末を通してでしか聴いていない人がいたら、是非CDでも聴いてもらいたい。このアルバムがまた違う形で見えてくると思います。

詩に触れる

詩について:

『詩に触れる』

 

仕事でも趣味でも長く続けていると時折気付きが訪れます。世間的にはどうか知らないけど、そういうことか、こうすればよいのかという自分の中での新しい発見。誰にもそういう経験はあると思います。

僕は下手な詩をもう10年ほど書き続けていますが、僕なりの発見はこれまでに幾度か訪れました。先日のテレビ放送『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』もその一つです。内容については既に記載しているので省きますが、これは自分にとって得難い気付きでした。

そこで吉増剛造さんの詩を、もちろんこれまでも詩のアンソロジーや雑誌やなんかで吉増さんの詩に触れることはあったのですが、ちゃんと詩集を読んだことはなかったので、番組で吉増さんが朗読していたあの『黄金詩篇』、これを読みたいと思って、早速Amazonで検索したんですけど無いんです。番組終わりによくある皆が殺到して売り切れとかそういうことではなく、恐らくもう刷っていない。取り扱い外になってるんです。

番組終わりに僕と同じように吉増さんに興味を持った方、たくさんいると思うんですけど、こうやって現代詩への接近の機会を失ってしまうの、非常に残念です。今はネットで著作権はどうかは知らないけどアップしている人もいるし、吉増さんの他の詩集であったり、簡単にまとめたものがあるので是非、多くの人に吉増さんの詩を手に取ってもらいたいですね。

これはずっと前の僕の気付きでもあるんですけど、詩を書く力と読む力は繋がっているのではないかということ。これは詩に限らず、短歌や俳句も、或いは音楽や絵画もそうかもしれません。鑑賞する能力とそれに取り組む能力は互いに影響し合っている、そういう部分があるんじゃないかと思っています。

現代詩、非常に難解ですよね。でも頭で追っかけていかなくていいと思います。理解したという証を求めなくてもいいと思います。とはいえ、あまりにも取っ付きにくい。だからこそ触れる機会を持って欲しい。多分これは慣れだと思うんです。僕たちの日常に溶け込んでいれば、どんな難解な詩であっても何となく肌で感じていればそれでオッケー、人がどうかでも作者の意図がどうかでもなく自分はこんな感じ、というのを気軽に持てるようになれば、多分それが文化だと思うんですが、そうなればとても嬉しいです。

ですので現代詩という今の時代において随分と遠くに離れてしまったものに対して出来るだけ多く人に触れて欲しい。目に馴染んで欲しい、そう願っています。ビカソの絵を初見で見てもなんのこっちゃだと思うんですが、有名ですからもう目に馴染んでいますよね。誰でも何がしかの感じることはある。でもいちいち理解の証を求めないですよね。そういう風に現代詩とも気さくな関係を築いていければ、そしてやがて短歌な俳句のように自分でも気楽に創作していける関係になれば、詩を好きな人間として、こんな嬉しいことはないですね。

シグナルは黄緑

ポエトリー:

「シグナルは黄緑」

 

昨日には 春の嵐が吹き溜まり
黄緑の 花びら装束買いに行く
太陽を遮る手のひらに昇る稜線

気取っていた 似合わないシャツに着替え
日溜まりの光線 夏に浴び
気付いてた 指折る日毎に傷付いていた

外面をぶら下げ靡くお堀端
手のひら繁る黄緑シグナル
蓄えたものが今にも無くなる

秋にはなんだか後ろめたく
後ろの席でずっと、眺めたい
今すぐ始めたい
いい加減にしておくれ
この湯加減は止めにしておくれ

今再び、手のひらの稜線が 行けと言う
もう二度と お前たちの世話にはならないと
春の引き戸、怯える気持ち
私たちどうか無事に、
新しい地球の歩き方 始めます

 

2稿 2021年3月31日

Eテレ『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』を見て

TV program:

『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』

 
 
 
現代詩に対して不満がありました。難解すぎるだろと。もっと生活に寄り添うべきだ。そんなんだから誰も見向きもしなくなるんだと。それでも僕は現代詩が好きで、雑誌や詩集を買ったりする。でも大方分からない、ほとんど理解できない。ならなんで買うんだよと言われれば、それでも抗しがたい魅力があるからというしかない。難解で時には読むのも億劫になる、しんどい。でもなんか気になる。僕にとって現代詩とはそういう存在です。
 
僕は言葉を追いかけようとするんですね。当然です。理解するにはそれしかないのだから。なんて書いてあるのだろう、なんて書いてあるのだろうと言葉を追いかける。けどほとんど分からない。で途中で追いかけるのを諦める。番組で佐野さんは吉増さんの詩を分かろうとしないと言っていた。驚いた。佐野さん、そんなこと言うんだって。一言一句は分らないけど、全体としての感覚に委ねる、佐野さんは為すがままに溶け込ませようとしていた。そこで詠まれているイメージに身を任せてしまう。そして感じた事もまた言葉で説明できなくていい。目から鱗でした。
 
現代詩は難解でよく分からないけど、つい手に取ってしまう。僕がさっきそう言ったのはそういうことなんだな。間違いなく頭で理解できていない。けれどそこで発せられる声に恐らく体は感応してるんです。だからなんだろうなんだろうと気になる。言葉にして解いていかなくてもいい、理解したという証を求めなくていい。感応したまま放置すればいい。それでも読み手の中に巡るものはあるのです。
 
詩とはそういうものなんだと。いや、こういうことの繰り返しをまた一歩、進めたような気がします。もちろんちゃんと筋が通って理解できるものもある。それも詩だし、そうじゃないのも詩。頭で分かろうとしなくても体が反応していればそれは詩を読んだことになる。新たな発見です。
 
そこで。佐野元春 and The Cyote Band の『コヨーテ、海へ』。この曲は評価が高いです。佐野さん自信もフェイバリットに挙げてるし、吉増さんも取り上げていた。けど僕には分からなかった。要するに現代詩に近い感じ?何に対して「勝利あるのみ」なの?何に対して「show real」なの?ここでも僕は言葉を追いかけていたんです。でもこの曲全体から感じ入るものはあった。一言で言うと肯定かもしれない。過去、現在、未来の肯定。それらを纏った風景。「宇宙は歪んだ卵」と始まるこの曲を僕は理解しあぐねていた。でも僕の体は感応していた。
 
それにしても吉増剛造さん。現代詩の巨人が佐野元春の曲を熱心なファンのように調べて来ていた。そしてその批評が核心を突いてくる。佐野さんのなんと嬉しそうなこと。一方の佐野さん、吉増さんに対する尊敬の念が溢れていた。僕は長く佐野元春のファンをしているけれど、あのような佐野さんを僕は見たことがない。
 
日本の現代詩はとても素晴らしいです。でもあまりに難解過ぎる。そこに対してのヒントがこの番組にはあったと思います。吉増剛造のあのリーディング。何かを感じ入ったのなら、それは聞き手の体のどこかが感応したということ。それが詩です。国語の教科書のように頭で理解する必要はない。体が反応したのならそれは詩を読んだということです。
 
ただ吉増さん、もうちょっと文字、読みやすくしてくんないかな(笑)

Eテレ『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』感想

TV program:

『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』感想

 

科学を信じ過ぎではないかという声がある。勿論、非科学的な思い込みや一方通行があってはならない。けれど科学ではないところから声を持ってきてもよいのではないか。

コロナ禍の中、専門家の言葉が大きくなっている。未曾有な事件に大切なことだ。けれど一方で文学者の声を頼んでもよいのではないか、僕たちは。もう少し。

甘い戯れ言ではない。詩人の声だ。理屈の通った、理解の微振動を越えた言葉の連なり、の向こうにあるもの。吉増さんの仰る「gh」に打たれたい(嗚呼、と詩人風に、ここでも僕は分かった振りをしてはいけない)。

ということに今、随分多くの人たちが気付き始めている。隙間、零れ、句読点の谷、そうしたものが必然的に人々を助くはず。いや、そうしたものを表現する、どうやって?

もっと近くに忍び寄っておくれ。あなたの韻律を頭の回りに。脳みそに、ではなく。神秘的な言葉の「gh」を神秘的とは言わずに、そこにある物体としてそのまま受け取る。僕たちは誰彼構わず、そうしたことが出来るのではないか。という希望を。

詩は言葉ではないものをなんとか言葉で表現しようとすることだと思っていたが、言葉で表現することではなかった。

黄緑

ポエトリー:

「黄緑」

昨日には 春の嵐が来た
黄緑の 花束買いに行こう

気取ってた 似合わない 斜めに構え
気付いてた 真夜中に傷付いていた

外面ぶら下げて賑やかなお堀界隈
そっと握りしめた黄緑の花びらかわいい

勝ち気なんだ 後ろめたく
はじっこの席で 後ろ眺めたいんだよ
いい加減に いい加減にしておくれ
こんな湯加減 止めにしておくれ

手のひらの黄緑が 行けと言う
もう二度と お前たちの世話にはならないと
新しい地球の歩き方 始めます

 

初稿 2021年3月27日

プールサイド

ポエトリー:

「プールサイド」

溺れること
歪んだ理想
僕たちは水泳選手になりたかったわけではない

プールサイド
血染めのタオル
僕たちは死ぬまでに何リットルの血を流すのか

濡れる歩道に
息づかいに
よどむあなたの足取り
その足り得る武器で
波立つプールの
荒い呼吸音

大丈夫、
敵わぬはずはない!
報われぬはずはない!

 

2021年1月

Truth or Consequences / Yumi Zouma 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
Truth or Consequences(2020年)Yumi Zouma
(トゥルース・オア・コンシクエンス/ユミ・ゾウマ)
 
 
オシャレやねぇ。こういうの好きです。オレにはオシャレ感ないけど(笑)。こういうのドリーム・ポップ言うらしいです。上手いこと言うてるようでよう分からん言い回しですけど、あれですよ、囁き系の女性ボーカルにシティ・ポップなメロディー、それが浮遊感あるサウンドに包まれるっていう。んん~、それもよう分からん説明やな(笑)。ま、オシャレってことで。
 
ただまぁこの手のサウンドは好きな人多いですから、それこそ実際に取り組んでらっしゃるアマチュア・バンドもたくさんいると思うんです、なんか出来そう感もあるしね。ただ、これだけの完成度はなかなか出来るもんじゃございません。特にメロディですね。世界最強のオシャレ・バンド、フェニックスを思い起こすようなメロディもいくつかあって、そこで先ずがっしりと掴まれますね。このメロディを持ってたら浮遊感だろうが、対極なハードロッキンだろうがなんでもイケルで~。
 
加えて耳当たりがすごく良い。韻なんですけど、その踏み方というか流し方が抜群ですね。あと言葉の切り方ですか、例えば#3『Southwark』のサビですけど、「Oh and I am imperfectly yours」って繰り返すんですけどここを「Oh and I am imper」と単語の途中で一回切って「fectly yours」って続けるとこなんてオシャレそのもの。つーか「Oh and I am」って言い回しもオシャレやないかい。ここに一拍ずれたようなコーラスがこれまた囁きボイスで被さってくるっていう、どんだけオシャレやねん!こーゆーのが全編流れてますから、もう盤石ですね。
 
ところでこのバンド、昔タワレコで手書きポップに惹かれて視聴した記憶がありまして、それは多分デビュー作だったと思うんですけど、聴いていいなとは思ったんです。ただそれ以上のものはなかった。要するにまだ雰囲気に勝るものがなかったんですね。でも名前は記憶に残った。そして2020年の年間ベスト、なんの媒体だったか忘れたけどそこそこよい順位で載っていた。あぁ、あのバンドじゃないかと。で聴いてみたら、すごく良かった。バンドとしての音像が完成してるじゃないですか。こうなりゃ強い、しばらくは良い作品を出し続けるんじゃないかと思います。
 
製作の方ですが、連中はニュージーランド出身ですが、リモートで作っています。それもコロナだからというんじゃなくて、メンバーがロンドンとかニューヨークとか別々に暮らしているから前々からそういうスタイルだったと。2020年はリモートで作られた作品が数多くありましたけど、彼女たちはとっくにリモートでやり込んでいてそういうスキルもちゃんと磨いてきているわけです。だからか分からないですけど、聴いててやっぱちゃんとバンド感がある。個々ではなくバンドとしての音が飛び込んでくる。そういう仕組みのそういうバンドで、なんか雰囲気も独特な感じはあります。
 
しかしまぁ、フェニックスとかThe1975とかオシャレ・バンドめっちゃ好きやなオレ。最近じゃThe Japanese House とかもそおやし。そのオシャレ感、オレにも分けてくれや~。

映画『すばらしき世界』(2021年) 感想

フィルム・レビュー:

『すばらしき世界』(2021年)

 

映画は当初、原作どおり『身分帳』というタイトルのまま行く予定だったらしい。ところが撮影が進んでいくうちに、思うところがあって西川美和監督は『すばらしき世界』というタイトルに変えたそうだ。
 
何故だろうか。監督は今までオリジナルの脚本でしか映画を作ってこなかった。けれど今回は『身分帳』という原作に出会って映画化しようと考えた。それは当然のことながら、ストーリーのみならず主人公にも魅力を感じたからであろう。そして撮影が進むにつれ、紙面でしか存在しなかった主人公がリアルな魅力を放ち始める。しかも演じるのは役所広司。生身の三上がそこにいるのである。
 
映画の後半では三上の就職祝いパーティーが開かれる。彼を支援してきた心暖かい友人たちは口々に言う。「もっと自分を大切に」、「辛抱することも大事」、「我慢できないときはここにいる私たちを思い出して」と。三上は頭を垂れてもう二度と短気は起こさないと誓うが、最も近くで三上を見てきた津乃田は複雑な思いだ。映画を観ている側の我々も答えのない疑問に迷い込む。こうやって三上が ‘丸くなる’ ことを望んでそれでよいのだろうか。「善良な市民がリンチにおうとっても見過ごすのがご立派な人生ですか!」と激しく苛立った三上を消し去ってよいのだろうか。
 
当初は三上の生き方を相容れなかった津乃田はしかし、三上と長い時間を共有することで彼の人間的魅力に惹かれていく。そしてそれは自身を見直す契機にもなる。三上に最も近い観察者である津乃田はすなわち映画を観ている我々でもある。そして津乃田や僕たちをそう導いているのは西川美和監督に他ならない。けれど監督にそう思わせたのは三上であるという循環。
 
僕たちはそこにいなかったがそこにいた。そして三上という人物に触れた。原作『身分帳』は乾いた筆致が魅力であるけれど、三上を或いは彼を取り巻く世界を知った以上、もうそれを『身分帳』という ‘乾いた物’ で言い表すことはふさわしくない、監督がそう考えてもおかしくないのではないか。 生身の人間が行き交う世界、それを西川美和監督は『すばらしき世界』とした。そしてそれは′ご立派な人生’ を歩む僕たちの世界をも含んでいる。
 
監督はこれまでオリジナルの脚本でしか映画を撮らなかったが、今回初めて原作のある話の映画化に取り組んだ。そして原作とは異なる視点を持ち込んだ。意味を限定する固有名詞である『身分帳』から意味を規定しない『すばらしき世界』へ。今となってはこれ以上のタイトルは考えられない。

備忘録

その他雑感:
 
 
 
その日、大阪市内にある会社でパソコンの画面を見つめていると、何か画面が揺れているような感覚になった。最初は気のせいかと思っていたのだが、だんだんと軽い車酔いをしてるような気分になり、あれ、オレなんか調子悪い?眩暈でもしてるのか?と思い始めた。まるで液状化現象のような、何か柔らかいものがゆっくりと動いているような感覚だった。
 
ほどなく誰ともなく、俺も、私も、と同じような感覚を口にする人たちが現れ、僕たちのフロアは1階だったので、すぐ隣の駐車場へ、「地震かな?」とか「地震とはちょっと違うよな」とか言いながらパラパラと外へ出始めた。 同僚としばらくそこで話をしていたが、特に何も起きる気配はなかったので、僕たちは事務所に戻って仕事を再開した。けれど柔らかいものの上に乗っているような感覚が完全に体から抜け切れたかどうかは判然としなかった。
 
デスクに戻り、ヤフーニュースをチェックすると、確か「宮城県沖で地震発生」との速報のみが表示されていたと記憶している。しかし、先ほど体験した感覚は僕の知っている地震とは違ったし、何より宮城県の地震がここまで影響を及ぼすとは考えにくかったので、この二つを結びつけることはなかった。未曾有の災害が起きたと知ったのは、家へ帰ってテレビを付けてからだった。
 
僕は大阪に住んでいて被害は受けていないが、毎年3月11日になれば、あの日、自分は何をしていたかを思い出している。特に意味はないが、このことはこれからも続けていくだろう。