Our Extended Play / Beabadoobee 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
EP『Our Extended Play』(2021年)Beabadoobee 
(アウアー・エクステンデッド・プレイ/ビーバドゥービー)
 
 
2020年のデビュー・アルバムに続くEP盤。4曲のみではあるが聴きごたえ十分、というかこのぐらいが丁度よいぞ。
 
というのもこのEPは The 1975 のブレーンであるマット・ヒーリーとジョージ・ダニエルがプロデューサーとして関わっていて、ビーバドゥービーとスタジオに籠って集中的に制作したらしいのですが、どうしても The 1975 っぽさは避けられないと。多分このままフル・アルバムってことになってしまうといったい誰のアルバムか分からなくなってしまうんじゃないかというところもあって、ちょっとした合間の出来事としてはこのぐらいがよいのかもと思った次第です。
 
と言ってもビーバドゥービーの気だるいくせに言うことを聞かなさそうな声の魅力は存分に発揮されているし、彼女の作品の中にポップ寄りのこういうのが混じっていてもよいのかなとは思います。ま、ギター女子感は横に置いときまして、次のアルバムでは1st以上にガシャガシャ言わしてもらいましょう。
 
The 1975 としてはこのところシリアスな作品が続いていたけど、こういう初期によくあったポップ・ソングを今でも書こうと思えば書けるんですね。本人たちはもうこういうのやらないのか。ていうかこっちがそれじゃ物足りない?なんにしてもビーバドゥービーのファンには The 1975 を気に入ってもらえるだろうし、The 1975 のファンにはビーバドゥービーを気に入ってもらえるような気はする。
 
しかしまぁ4曲というのはちょうどいい。わたしゃ割と真面目にアルバムは頭から最後までちゃんと聴かなきゃと思うたちなんですが、4曲だとちょっとした時間に気軽に聴けてよいですな。

イカヅチ

ポエトリー:

「イカヅチ」

腕に繋がれた鷲が
猛禽類であることを自覚するが如く
如く
威嚇する
何を
この世界を

かつて、
己が身体で威嚇するものは
するものは
その隆々たる羽や
筋張った足や
足や
まっしぐらな眼光や
鋭い嘴や

今や、
開かれた空に放たれる
繋がれたままでも離さないお前の前夜はイカヅチ
イカヅチ
這い出る隙間もなくこの世の無情
無情

今夜、
お前の命はうるさい
うるさいにもほどがある

 

2021年7月

Pressure Machine / The Killers 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Pressure Machine』(2021年)The Killers
(プレッシャー・マシーン/ザ・キラーズ)
 
 
2年連続で新作が届いた。コロナ禍で単に時間があったということもあるだろうけど、そんなことよりも曲が出来て仕方がないという方が本当のような気もする。デビューして20年、今はとても良い状態なのだと思います。なんにしても好きなバンドの新作が2年続けて聴けるのは嬉しいことです。
 
ブランドン・フラワーズがブルース・スプリングスティーンの大ファンだというのは有名なところ。今までもスプリングスティーン的な世界を時折覗かせてはいたけど、今回はそちらへ思い切り振りきったアルバムです。と言ってもそれはサウンド的な、Eストリート・バンド的なということではなく、歌詞の方ですね。
 
てことで歌詞が圧倒的に素晴らしい。元々、ストーリー・テリングを用いた歌詞はブランドンの真骨頂でしたが、アメリカン・ドリームからは遠い人々の存在をこれだけはっきりと浮かべ上がらせる歌詞は驚き。2曲目に『Quiet Town』という曲がありますが、そんな静かな町で起きる小さな物語。人生に訪れるちょっとした闇に引き込まれてしまった人々、或いは引き込まれそうな人々を丁寧に描いています。ブランドンさん、こんな深い内容の話を書けるんですね。ちょっと見直しました。ちなみに『Quiet Town』はスプリングスティーンというより、ジョン・メレンキャンプっぽいかな。
 
スプリングスティーンに『ウェスタン・スターズ』(2019年)というアルバムがあって、それは自身の年齢と照らし合わせるように晩年を迎えた市井の人々の姿を捉えたものなんですけど、この『プレッシャー・マシーン』はそのキラーズ版というか、ブランドンもそろそろ不惑を迎えて色々思うところはあるのかもしれないですね。ていうかアラフィフの私にも身のつまされる内容ですな、こりゃ。
 
あと大事なのはスプリングスティーンにしてもブランドンにしても無理に風呂敷を広げないというか、世の中多様性云々で今的に言えばジェンダーとか人種とかそういうところへ目配せした方が受けるのかもしれないけど、そういう視点ではなく自分の身の回りで起きていることを丹念に描いているというところに誠実さを感じますね。
 
歌詞に対する言及ばかりになってますけど、メロディも凄くいいです今回。自身のストーリー・テリングに導かれたのかどうか分かりませんが、詩の内容に沿った自然で美しいメロディ。確かに詩は素晴らしいですけど、そこにメロディーが加わることで景色がより立体的になりますね。ブランドン、凄い才能持った方なんだなぁと改めて思いました。そこに鳴るギターがまたいいんだ。
 
2年連続と言っても今回は少し毛色が違う。ていうかこれまでのキラーズにはなかった作品。ただ、こういうことが出来るのも前作『インプロディング・ザ・ミラージュ』(2020年)でのこれぞキラーズといった成果があってこそ。次のアルバムももう進行中だとか。今の彼らは第二期のクリエイティブなピークにあるのかもしれないな。
 
追記:ほとんどの曲の冒頭にアルバムの舞台ともなっている、ユタ州の人々のインタビューが曲のイントロダクションのような形で収録されています。歌詞カードにこの部分の記載はないですが、ネット検索をするとすぐに見つけることができます。そんなに難しい英語ばかりでもないので、ここの部分で何を言っているのかを知ると、このアルバムの聴こえ方はまた違ったものになるのかなと思います。ちなみにここはすべてが完成してから最後に付け足したそうです。

『風立ちぬ』(2013年) 感想その2

フィルム・レビュー:

『風立ちぬ』(2013年) 感想その2

 

映画『風立ちぬ』を見て今思うのは、やっぱりあれは菜穂子の物語だなと。二郎は子どもの頃から飛行機が好きでその道へ没頭しますが、栓なきことを言えばそれだけのことなんです。自分のもっとも良い時期に生涯の仕事をやり遂げた。それだけなんです。

じゃあお前はどうなんだと問われれば随分と心許ない。どころか二郎に比べちっぽけなことも成し遂げていない。そういう意味で言えば失礼ながら僕だけではない。世のほとんどの人がそうだと思います。

であるならば。二郎の生涯、と言ってもまだ壮年には程遠いですが、僕たちの人生とは少しかけ離れた世界とも言えるのかもしれません。にも関わらず宮崎駿監督はそうしたある種特殊なひとりのエンジニアの半生を描いた。なぜか?そこには菜穂子の存在があったから。それしかないように僕は思います。

この物語をもう少し知りたいと思って、原作のひとつにもなった堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読みました。原作と言うより着想を得た、と言ってよい繋がりだとは思いますが、そこで得た僕の感想はやはり、主人公の男は頼んない。

頼んないというのは物語の主人公としてという意味ですが、この物語の主人公は余命幾ばくもない女性とのサナトリウムでの交感、その言葉にならぬ、例えば夏草の先にしずくのように命が少しずつ溜まっていくような描写、そんな物語だと思うのですが、それに比較して主人公の男のつまらなさ。いや、二郎は優しくていい男ではあるんてすが、そうではなくこれは自分も含めた男のつまらなさなんだと思うのですが、突き詰めて言えば映画『風立ちぬ』での二郎もそれに似たような、彼は彼の人生をもしかしたら主体的に生きてきたというのとは少し違うのかもしれないと。

というところとの比較。菜穂子は完全に主体的であったわけですから、だからこの映画の二郎の半生というのは極端に言えばバックグラウンドに過ぎない。より重要なのは『風立ちぬ』というタイトルになっていますけど、そういう生涯の仕事をした、というはっきりと目に捕まえられるような代物ではなく、もう少しぼんやりとした抽象的なものが主題だったような気がして、その主題にもっとも近づいたのは菜穂子の方だったのではないかと。勿論二人の交感というところではあるけれど、それもより菜穂子の側にその働きかけはあった、というところが僕がこの映画はやっぱり菜穂子だよなぁと思うところではあります。

『風立ちぬ』(2013年) 感想その1

フィルム・レビュー:

『風立ちぬ』(2013年) 感想その1

 「風立ちぬ」を観た
 これは菜穂子の物語
 あの子の命はひこうき雲
 一粒。泣いた

これ、2015年に初めて『風立ちぬ』を見たときに書いた僕の詩です。下手な詩ですね(笑)。失礼しました。

一編の詩を読むような、詩集を開くとそこに匿われた物語が一気に吹き出し、詩集を閉じるとすべてが元に吸い込まれていく。あれは夢か幻か、いや現実だったのだと。そのようなじんわりとした余韻を残す映画でした。

映画は詩で始まり、詩で終わります。始まりはポール・ヴァレリーの詩の一節、「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」(「風立ちぬ いざ生きめやも」堀辰雄訳)ですね。風が立ったのなら生きねばならぬ、ということでしょうか。

では風が立たなかったら。当然風が立たなくても人は生きねばなりません。風が立つ、立たないは別にして生きねばならぬのがつらいところではありますが、案外気がつかないだけですべての人に風は立っているのかもしれません。

明確に風が立った二郎。カプローニさんに導かれて我が道を進みます。一方で菜穂子はどうか。僕は菜穂子にも風は立ったのだと思います。というかむしろそこに心を掴まれた。

映画は荒井由実『ひこうき雲』で終わります。そうですね。歌の途中からはエンドロールに入りますが、映画はこの歌も含まれる、この歌でもって完結する、そんな気がします。

宮崎駿作品には「女=守られるもの」、「男=守るもの」という構図があるような気がしますが(とか言いながら僕はラピュタがめっちゃ好き。ま、所詮男ですから)、この映画での菜穂子はそこを凌駕しているような気がするのですが果たしてどうでしょうか。女性からはどう見えたのかな、というところです。

ところで、『風立ちぬ』、これまでと比してもとりわけ絵が素晴らしかったと思いませんか。この点で言えば宮崎駿作品の最高傑作ではないでしょうか。風景の動き、人の動作、角度、それに伴う周りの変化。そうですね、飛行機の上を歩く二郎とカプローニの足元がへこむところ、最高でした。人の動きを見ているだけでもうっとりしますね。僕が好きななところは眼鏡の中の目と実際の目がそれぞれ別に描かれていた二郎の横顔。同じくド近眼の人間として感動しました。

多分いつも以上に絵に力を込めていたような気はします。台詞ではなく風景で、絵でやり過ごす、というケースが非常に多かったように思いました。この映画は詩で始まり詩で終わると言いましたが、そういう絵で見せるという部分も僕にそう思わせたのかもしれません。つまりここは意図的かと。詩というのは言葉ではなく風景なのかもしれません。

『100de名著 アレクシェーヴィチ/戦争は女の顔をしていない』感想

TV program:
 
『100de名著 アレクシェーヴィチ/戦争は女の顔をしていない』感想
 
 
ホントに知らないことばかりで、個人で検索するネットじゃこうはいきませんから、やっぱりテレビというのは必要だなぁとこういうのを見るたびに思います。今回はロシアの作家の作品です。ロシアでは先の大戦で多くの女性が兵士として戦場に赴いたとのこと。その彼女たちへの聞き取りがこの作品です。
 
4回目の放送では全てをここに書きたいぐらい重要な話ばかりでした。アレクシェーヴィチは言います。歴史は歴史家によって語られるが、人文学によって語られてもよいはずだと。歴史家の書く歴史には感情がなおざりにされているのではないかと
 
この言葉、今現在の私たちの暮らしにも当てはまるような気がします。テレビでは連日、医療従事者や経済学者が登場しますが、今となっては文学者や社会学者たちの意見もあってよいような気がします。もっと言うと画家や建築家といった異なるジャンルの人たちがどう考えてるのか、科学的な側面だけでなく、別の側面からの言葉も必要な時期がきているのではないかと思います。
 
アレクシェーヴィチはこの本の中に自身の考えは書いていないそうです。彼女たちの口から語られる言葉に、作者の哲学や思想を加えるべきではないと。そういえば少し前に読んだいとうせいこうさんの『福島モノローグ』も同じスタンスだったかと思います(いとうさんは’あとがき’さえ書くのをためらっていました)。それは作者の相手に対する態度でもありますよね。等しく聞く。それをアレクシェーヴィチは愛を持って聞くと書いています。
 
今回の講師を務められた沼野恭子さんはそうしたアレクシェーヴィチの態度を共感と言っています。上の者が下の者に対する同情ではなく共感であると。共感という言葉、よく耳にしますよね。「私もそう思う」、「その気持ち分かる」など、一般的にはそんなイメージかもしれません。
 
でもこれは僕の想像ですけど、アレクシェーヴィチはインタビューする相手を単に自分ではない相手とは見ていないと思うんですね。一歩違えば私も戦争へ行っていたかもしれない。ちょっとした偶然で彼女たちは戦場へ行き私は行かなかった。つまり彼女たちは私であるという認識。ここでいう共感というのはそうした切実感を伴った共感ではないでしょうか。愛を持って話を聞きに行ったというのはそういうことなのかもしれません。
 
「戦争は女の顔をしていない」。それは戦争は女性の心と体には合っていないということ。つまり戦争は男の顔をしているということです。しかしそれは戦争だけではないような気がします。今の私たちの暮らしは男が、もっと言えば中高年男性が作り上げたものです。でもこれって逆に言えばまだまだ別のやり方があるということでもあると思います。
 
アレクシェーヴィチがこの本を書いた時代は社会主義が崩壊し、資本主義が勝利した時代です。しかし今やその資本主義も行き詰まりを迎えています。更には新型コロナによる社会の変容。また男女差別や人種差別。ジェンダーや障害者、環境問題などなど、課題は山積みです。これはつまり今までどおりの中高年男性だけの視点では限界が来ているということではないでしょうか。
 
女性、若者、障害者、マイノリティー、今まで顧みられることのなかった視点が加われば、目から鱗のように物事は物事はより良い方向へ向かうかもしれない。そう考えるのはいささか楽観的でしょうか。けれど異なる視点がまだまだあるのは確かなことです。
 
この本は戦争について書かれた本です。番組で少し紹介されただけでも女性兵士たちの生な声は凄まじいものです。けれどその内容は現代にも通じる内容が多く含まれているように思います(この辺りを講師の沼野さんは実にうまく説明されていました)。それはつまりこれはただの記録、書物ではなく人文学によるものだからです。そのことを実証するようにアレクシェーヴィチは今現在、祖国ベラルーシの民主活動を行っています。

『SWITCHインタビュー達人たち~みうらじゅん×樋口真嗣』を見て思ったこと

TV program:
 
『SWITCHインタビュー達人たち~みうらじゅん×樋口真嗣』を見て思ったこと
 
 
先日放送の『SWITCHインタビュー達人たち~みうらじゅん×樋口真嗣』を見まして、後半の舞台となった目黒の五百羅漢寺行きてぇ~、でも東京かぁ~などと思いながら、怪獣談義を楽しく聞いていました。みうらさんの過去にNHKで制作にかかわった怪獣ドラマでのエピソード、よかったですね~。髪の毛の長い怪獣に禿があってそこが弱点になるっていうのを断固反対したという話。そりゃそうですよね、長髪だからその怪獣はみうらさんですよ。みうらさんは怪獣になりたかったわけですから、視点が全く違うということですね。今風に言えば怪獣ファーストじゃねぇ、てことでしょうか。
 
樋口監督は現在進行中の映画『シン・ウルトラマン』の監督を務めているそうで、映像も一部流れてましたね。『シン・ゴジラ』の時もそうでしたけど、今回も実際に怪獣が現れたらどうなるんだ、ウルトラマンが現れたらどうなるんだっていう話だと思うんですけど、そこでふと疑問が湧きました。やられちゃった怪獣の亡骸はどうなるんだ?
 
例えばウルトラマンには「八つ裂き光輪」って技がある。それで怪獣を真っ二つにする。でも今までの怪獣だと断面は赤くても血は流れないです。今回も怪獣はそういうもんだとすると、周りが血の海になる心配はまずない。でもあの図体ですから、あんなのがいつもでも転がってちゃ迷惑です。じゃ燃やそうと。でも燃やしていいのか、変な物質が大気に流れるんじゃないか。そこは検証が必要です。でも怪獣それぞれ体質は違いますから、それいちいち調べるの大変ですよね。それにいつまでも置いとけない。だいたい怪獣とウルトラマンが戦うのは山の中ですから、山で燃やすにしても大変だと。ということでここはウルトラマンに再度「八つ裂き光輪」で持ち帰り用のサイズにカットしてもらわないといけない。
 
その上で怪獣専用の焼き場というのを作らないといけないですね。当然、焼ききれるのかという問題もありますから、それなりの高温で処理できる施設でないといけない。で、焼く時には坊さんにも来てもらってお経を読んでもらう、もちろん科学特捜隊のメンバーも来ますね。服装はオレンジの隊服じゃまずいでしょうか。「おい、黒っぽいのないのか」という話になるかもしれないですね。怪獣は悪ではないですから、それぐらいはしかるべきだと恐らくみうらさんも思うはずです。骨壺、お墓、この辺も必要ですね。
 
ただウルトラマンがスペシウム光線で怪獣を爆発させちゃった場合、これ困りますねぇ。こうなるとアラシ隊員あたりが専用の回収器なんか拵えるんでしょうか。なんにしてもバラバラになったのを回収するのは大変です。てことで科学特捜隊からウルトラマンに要望書が提出されるかもしれない。「なるべくスペシウム光線はやめてください」と。

無数の冷たい雨

ポエトリー:

「無数の冷たい雨」

 

無数の冷たい雨が頬にへぱりつく
無数の光を乱反射させるために

わたしはそれを祝福とみた
近い将来、あなたが報われるための
つまりわたしが報われるための

とはいえ、
無数の冷たい雨は祝福されない

 オレだってやなんだよ
 うるさいんだよ
 降らせよ降らせよって

 今、
 一刻も早く立ち去るのを待っている
 無数の冷たい雨。
 なんてちょっとヒドイ言い方

時間で言うと午後の6時ぐらい、
喉元を過ぎたあたり
一方は口を開け
一方は蓋をして
驟雨
生き死にを漂わせる匂い

無数の冷たい雨が頬にへぱりつく
無数の光を乱反射させるために
近い将来、あなたが報われるための
つまりわたしが残されるための

 

2021年7月

Teatro D’Ira Vol. I / Maneskin 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Teatro D’Ira Vol. I』(2021)Maneskin
 
 
音楽ライターの沢田太陽さんが、2020年は映画『パラサイト』やBTSの活躍で韓国の年となったが、2021年は一躍スターダムにのし上がったマネスキンの登場やサッカーのユーロ2021での優勝もあり、イタリアの年になるかもと言っていた。と思ったら、先の東京オリンピックにおいて花形の100m走でまさかのイタリア選手が金メダル。僕も2021年はイタリアの年かもしれないと思い始めている。
 
思い始めているというか、イタリアの年になって欲しい、というかマネスキンの年になってほしい。やっぱBTSはポップ・グループだし、僕としてはバリバリのロック・バンドが頂点に立つのを見てみたい。
 
多くの人が腰を抜かしたという2021年ユーロビジョン・ソング・コンテストにおけるマネスキンのパフォーマンスは、これが二十歳そこそこの若者とは思えないほどの堂々たるもの。2000年代の衝撃デビューと言えばアークティック・モンキーズだが、今は貫禄たっぷりのアレックス・ターナーだって、デビュー当時は田舎の高校生丸出しだったから、マネスキンの、というかフロントマンのダミアーノのショーマンぶりはどう見ても破格。もう天下を獲ったかのような心意気は、ちっぽけなライブ・ハウスであろうが「俺はロックンロールスター」と大声で叫んでいた駆け出しのギャラガー兄弟みたいなもんかもしれない。
 
僕はマネスキンのようなハード・ロックをあんまり聞いたことないけど、そんな僕でも持っていかれるのだから、彼らはやっぱ特別なのだろう。ハード・ロックと言ってもそれは最新形で、こんな巻き舌でよく続くなぁと思わせる高速イタリア語ラップが彼らの曲の多くを占めていて、それが新鮮で面白くってシンプルにかっこいい。
 
しかもシャウトしまくる、今どき(笑)。ユーロビジョンでやった#1『ZITTI E BUONI』とか英語詞の#4『I WANNA BE YOUR SLAVE』とかサビの最後でシャウトするんですけど、こういうベタなシャウトって久しぶりに聞きました。彼らにはこういうちょっと笑うような過剰さ、あのきらびやかな衣装もそうだし、そういう面白さがあるんですけど、それが不思議とちっとも笑えないというか、むしろ滅茶苦茶かっこいいんですね。かっこよくて美しくて呆気に取られる。こういうのって今まではダサかっこいいっていう括りに入れられてしまっていたと思うんですけど、彼らはそこを余裕でぶち抜けた感じはありますね。本気でかっこいい。ここはデカいと思います。
 
でも昔はこういうアーティストが沢山いたんですね。デヴィッド・ボウイもそうだしプリンスもそうだし、彼らが引き合いに出されるクイーンだってそうですよね。でマネスキンの場合はそうした古き良きロック・スターへの回顧じゃなくて新しい部分、そこはやっぱり更新されていて、例えば大坂なおみが全米オープンでしたマスクのような新しい世代のこれまでとは全く違う感覚、価値観。
 
それをインディー・ロックでありがちな優し気にチル・アウトして表現するというのではなく、バリバリにハード・ロッキンして派手派手の衣装着て大股ひろげてシャウトするっていう新しさ。そこにさっき言った高速ラップだったりサウンド的なアップデート感、中学時代に組んだメンバー全員が奇跡の美男美女というなんじゃそれ感も含め、よくよく聴いているとこれ滅茶苦茶新しいじゃん、全く別ステージじゃん、ていうところへ持っていってしまえる規模のデカさがマネスキンにはあるような気がします。
 
ロックと言ってもいろいろあるから、こういう言い方すると語弊があるかもしれないけど、基本的にロック音楽は過剰さと性急さだと僕は思っている。その過剰さと性急さをこれでもかと体現するマネスキン。世のロック・ファンが色めき立つのも当然だ。

鳴り続けん

ポエトリー:

「鳴り続けん」

自戒や
自壊を含め
通りすぎたこと
ほぼ慰め

目障りな
あの人の面影
かつて流した
雨の日の体温

どこをどう打って
いたのやら
今や手のひらに
帰りぬと

その日と
その人の
粘り気は
雨の日の湿度

間近に迫った
夏の日のお囃子
いくどもいくども
時計は回りぬ

形は崩れつ
はらわたで
鳴り続けん
はばたいて
鳴り続けん

 

2021年7月