ポエトリー:
「10月10日の短い詩」
わたしたちの詩歌は
うっすらと虹をかけている
足元に難題をたたえて
2021年10月10日
ポエトリー:
「10月10日の短い詩」
わたしたちの詩歌は
うっすらと虹をかけている
足元に難題をたたえて
2021年10月10日
ポエトリー:
「10月7日の短い詩」
昇る街の上
はしゃぐ君の顔
ふたつ上がらない太陽のひとつになる
2021年10月
ポエトリー:
「かつて理解して」
熱い涙は体温だ
森の真ん中に迷い込んだ
かつて人類は東へ向かい
新しい道を歩き始めた
かつて かつて
かつて わかって
かつて かつて
かつて 理解して
空回りでも心は回る
やがてその軸を焼き尽くした
かつて人類は渚へ向かい
仲間とはぐれて暮らし始めた
かつて かつて
かつて わかって
かつて かつて
かつて 理解して
僕のお母さんは朝早くに出かけ
夜遅くに帰ってきた
僕は海原に小舟を浮かべ
釣糸を眺めていた
かつて かつて かつて わかって
かつて かつて かつて 理解して
かつて かつて かつて わかって
かつて かつて かつて 理解して
かつて人類は
空をつかむように
同じ体温の誰かと
手を繋ぎあった
2021年8月
ポエトリー:
「小指は震える」
小指を
遠くに見える鉄塔と重ねてみた
すると、
ぶるっと音がして
小指から四方に電線が走った
目に見えるものはすべて捉えよと
うろ覚えの歌が言う
君は困らない
このままゆけるところまでゆける
はずだ
小指がぶるっとして
それは嘘だと弾けた
ところが
積み上げた仕草が
小指以上に語りかけてくる
すべて君の手柄だ
すべて君の手柄
すべて君の
すべて…
す…
小指が震える
2021年8月
ポエトリー:
「イカヅチ」
腕に繋がれた鷲が
猛禽類であることを自覚するが如く
如く
威嚇する
何を
この世界を
かつて、
己が身体で威嚇するものは
するものは
その隆々たる羽や
筋張った足や
足や
まっしぐらな眼光や
鋭い嘴や
今や、
開かれた空に放たれる
繋がれたままでも離さないお前の前夜はイカヅチ
イカヅチ
這い出る隙間もなくこの世の無情
無情
今夜、
お前の命はうるさい
うるさいにもほどがある
2021年7月
フィルム・レビュー:
『風立ちぬ』(2013年) 感想その2
映画『風立ちぬ』を見て今思うのは、やっぱりあれは菜穂子の物語だなと。二郎は子どもの頃から飛行機が好きでその道へ没頭しますが、栓なきことを言えばそれだけのことなんです。自分のもっとも良い時期に生涯の仕事をやり遂げた。それだけなんです。
じゃあお前はどうなんだと問われれば随分と心許ない。どころか二郎に比べちっぽけなことも成し遂げていない。そういう意味で言えば失礼ながら僕だけではない。世のほとんどの人がそうだと思います。
であるならば。二郎の生涯、と言ってもまだ壮年には程遠いですが、僕たちの人生とは少しかけ離れた世界とも言えるのかもしれません。にも関わらず宮崎駿監督はそうしたある種特殊なひとりのエンジニアの半生を描いた。なぜか?そこには菜穂子の存在があったから。それしかないように僕は思います。
この物語をもう少し知りたいと思って、原作のひとつにもなった堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読みました。原作と言うより着想を得た、と言ってよい繋がりだとは思いますが、そこで得た僕の感想はやはり、主人公の男は頼んない。
頼んないというのは物語の主人公としてという意味ですが、この物語の主人公は余命幾ばくもない女性とのサナトリウムでの交感、その言葉にならぬ、例えば夏草の先にしずくのように命が少しずつ溜まっていくような描写、そんな物語だと思うのですが、それに比較して主人公の男のつまらなさ。いや、二郎は優しくていい男ではあるんてすが、そうではなくこれは自分も含めた男のつまらなさなんだと思うのですが、突き詰めて言えば映画『風立ちぬ』での二郎もそれに似たような、彼は彼の人生をもしかしたら主体的に生きてきたというのとは少し違うのかもしれないと。
というところとの比較。菜穂子は完全に主体的であったわけですから、だからこの映画の二郎の半生というのは極端に言えばバックグラウンドに過ぎない。より重要なのは『風立ちぬ』というタイトルになっていますけど、そういう生涯の仕事をした、というはっきりと目に捕まえられるような代物ではなく、もう少しぼんやりとした抽象的なものが主題だったような気がして、その主題にもっとも近づいたのは菜穂子の方だったのではないかと。勿論二人の交感というところではあるけれど、それもより菜穂子の側にその働きかけはあった、というところが僕がこの映画はやっぱり菜穂子だよなぁと思うところではあります。