Mr. Morale & The Big Steppers / Kendrick Lamar 感想レビュー

洋楽レビュー:
『Mr. Morale & The Big Steppers』(2022)Kendrick Lamar
(ミスター・モラル・アンド・ザ・ビッグ・ステッパーズ/ケンドリック・ラマー)
 
 

このアルバムは前後半、Volume1(Big Steppers)とVolume 2(Mr.Morale)に分かれているんですね。だから長いアルバムでもあるので思い切って前後半と分けて聴いていたんです。でVolume 1 の方から何回か繰り返し聴き続けて、あぁ今回は聴きやすいなぁなんて思っていました。もちろん、ケンドリックの作品ですからそんな単純に聴きやすいってこともないんですけど、割と重くないというか、急にセレブになってATM2台分ぐらいどうってことなくなってしまった自分や周りに対する違和感とか、昔ながらの男らしさを徹底的に叩き込まれた父親との関係とか、あとこれは4文字言葉連発という意味で聴くのしんどいので僕は時々飛ばしますけど(笑)、痴話ゲンカの一部始終とか、まぁこれまでの作品でこっちが免疫付いたのかもしれないですけど、割と負荷なく聴けるんです。

 
加えて音がべらぼうに恰好いいし、中には歌モノもあるしサウンド的な面白さもあってキャッチーな要素も結構ある。だからリリックはさておき、部屋で流して聴いても全然イケるなっていう感覚があった。ていう流れでじゃあそろそろVolume 2 を聴こうかってことでこっちも最初は音だけを聴いていたんです。でやっぱり恰好いいなぁと、ヒップホップ分かんなくても全然恰好ええわぁと。
 
まぁこれは、ケンドリックのアルバムを聴く時の僕のいつものやり方ではあるんです。やっぱリリックが強烈なのでシンドイ、後回しにしちゃえ、と。あと、いつも和訳付きの国内盤を買うんですけど、和訳片手に目で追ってくの大変なので、音まで気にしちゃいられないというのがある。でもそれも勿体ない、だから先ずは耳で楽しみたいなと。ケンドリックは勿論リリックだけの人ではないので、音楽的なところで先ずは楽しみたいというのがあって今回も先ずは訳を読まないでいました。とは言え、Volume 1 があったので、そこまでキツイものではないのだろうと高を括ってたんですけど、Volume 2 の和訳を片手に聴き始めたらですね、これはかなりヤバい、辛い内容がそこにはありました。
 
ずっとケンドリックが描いてきたことなんですけど、アフロアメリカンとしての歴史ですよね。特に性的なところ、レイプされレイプさせられてきたという事実。そういう中々消えない歴史、トラウマがアフロアメリカンにはあって、そしてケンドリック自身も幼いころに性的被害に関するゴタゴタにあっている、そして性的虐待や恐喝をした罪で服役しているR.ケリーも傷を負っていると。この辺のくだりは訳詞を読んでて本当にキツイです。
 
そしてケンドリックの告白ですよね、セックス依存症であるという。でケンドリックのパートナーであるホイットニーが登場して、彼女はすべてを包み込む聖母のようなんですね、でも実際はどうなんだろう、他の女の人とそういうことがあって、理由はあるのだろうけどそんな受け入れられるのかなとか、いやいやホイットニーも受け入れることができるぐらいアフロアメリカンにとってのトラウマ自体が深いものなのかとか、はたまたケンドリックぐらいになるとそれこそ女の人がヤバいぐらい寄ってきてもうまともな奴でもそうなってしまうのかな、でもなんでそうなっちゃうんだとか他にもいろいろ考え込んでしまう。
 
更に話は飛んで、日本だと在日2世とか部落の問題とかいろいろあるわけで、僕はEテレの『バリバラ』をたまに見るぐらいの知識しかないけど、じゃあ在日とか部落でもまだまだ言えないことがあるのだろうかとか、このアルバムはアフロアメリカンについてではあるので関係ないのかもしれないけど、こっちはそんなことまで考えてしまってまぁホントに重たい。あと、自分が子供の頃の記憶をたどりながら性転換をした親戚の話があったりもするし、曲自体は全体を通して聴きやすいし恰好いいんですけど、リリック含めた音楽としては気楽には聴けないなかなかしんどいアルバムではあります。
 
なのでVolume 2 も何回か聴いてますけどVolume 1 ほどじゃない、しかも和訳読みながらっていうのはそんなにないですね。アルバム買って2か月ぐらい経ちますけどまだ2回です、無理です(笑)。でも英語圏の人はこのアルバムを聴く度このヘビーなリリックが耳に入ってくるわけですよね、ちょっとそれは耐えられないなぁ(笑)。
 
最後にこういう事書いているとこのアルバムはじゃあどうなんだということになりますが、勿論素晴らしいです。先ずは当たり前のことして音楽として恰好いいかどうか、やっぱこれが大前提になりますけど、この点は流石ケンドリックの恰好よさです。あとやっぱリリックをね、何ラップしてるのか分からなくて音楽としてのみ楽しむ、勿論それもありですけど、リリックを読んでいろいろなこと、聴くのしんどい時はあるかもしれないけど、ケンドリックはやっぱ大事ことラップしてますから、日本人だから関係ないとかじゃなく、こういうことを知っておくというのも大事なんじゃないかなと、これは僕がケンドリックを聴き続けている理由でもあります。

ではまた

ポエトリー:

「ではまた」

 

わたしたちの
額に流れる汗
いつもより濃い目のコーヒー

通りに面したカフェで
わたしたちは互いの困難や苛立ちを語り合い
時には大げさに笑いあった

これまでの暮らしがわたしたちに与えたものは
初めから無かったものを無理やりぶら下げるようにして
雨傘や
時には進軍ラッパをかき鳴らし
人々がこうと決めた目的地まで
一目散、声を競ったんだ

見返りに求めたものは何だったのか
見知らぬまま胸ポケットの裏返し
朝昼晩、過不足ない食事を摂り
時折無駄をした痕跡
体のあちこちに歪む意思

もう二度と
交わることはないと知りながら
今日は昨日のこと
明日は今日のこと

わたしたちの
額に流れる汗
いつもより濃い目のコーヒー

無事に過ごせばいいじゃん
通りに面したカフェで
わたしたちは今日も
大げさに笑いあった

 

2022年8月

岡本太郎展 中之島美術館 感想

アート・シーン:
 
岡本太郎展 大阪中之島美術館
 
 
気付けば、大阪での岡本太郎展も10/2までと残り僅か、台風14号の影響もあり天候が不安定ではありましたが、かえって人出では少なかろうと、3連休の中日に行ってまいりました。
 
10時開館より少し早めの9時45分ぐらいに到着しましたが、既に行列ができていました。この天候にも関わらず流石ですね。会場に入ると最初に目に飛び込んでくるのは初期の作品群ですね。と言っても戦火で随分と消失してしまったようですが、学生時代の作品も含め幾つか展示されていました。岡本太郎といえば原色鮮やかなあの絵を思い浮かべますけど、始めからそうではなかった、ちゃんと写実に描いている絵もあって、当然と言えば当然なんですけど、こうやって観ると新鮮な驚きがあります。
 
展覧会は年代順に展示されており、絵だけでなく幅広く活動していた岡本太郎らしくいろいろな造形物もあって楽しく観ることが出来ます。僕はぐるっと回って2時間ちょいでしたが、そんなに経ったとは思えないぐらいあっという間でした。つまり岡本太郎の作品に対する評価はいろいろあるのでしょうけど、基本的にはエンタメなんだと、楽しませるだけではなく違和感を抱かせる部分も含めて見る側を飽きさせないエンタメなんだと思います。
 
あと面白かったのは、晩年にはテレビによく出ていて有名なフレーズ、「芸術は爆発だ」と共に目を見開く岡本太郎の姿が印象的でしたが、あれも芸術活動の一環だったようで、つまりにらめっこなんだと。動物でもなんでも相手とにらめっこしてそこから創作が生まれるというのがあるらしく、にらめっこというのは岡本太郎にとって重要な意味を持つ行為だったんです。あぁなるほどなと、あの岡本太郎の姿はあえてだったんだと(笑)、今になって腑に落ちるとは思わなかったです。
 
作品には一応タイトルがあるのですが、ま、その辺はよくわからないですよね(笑)、絵を観てももうなんのこっちゃ(笑)。でも圧倒的なパワーですよね、そこに何かあると思わせる、岡本太郎にはそうとしか見えない何かがあるのだと。つまり物を見る時に我々は形あるものとして、そこにある物を物質として認識するのですが、岡本太郎はそこを超えて何かエネルギーであるとか別のものに変換されて見えてくる。例えばリンゴは赤くて丸いですけど、じゃあ本当にそうなのだろうか、その本質は本来の姿はどこにあるのか、そこにあるじゃないか、それを描くんだというような、物を見る自分と物とが同じ意識下、同じレベルになって相互に見て見られる、そういう関係性があったんじゃないかと、何か意識レベルの交感があったんじゃないか、そんな気はしました。
 
あと芸術に対して、条件に挙げていることがいくつかあって、もう忘れてしまったんですけど(笑)、そのうちのひとつに「心地いいものであってはいけない」というのがありまして、やっぱり自己陶酔というか、自分で気持ちよくなってしまうことがあると思うんですけど、そうじゃないんだと、気持ちの良いものであってはいけないと。また、鑑賞する側に対しても何かをぶつけるというような、相手にとって心地よいものを提示する、ということとは真逆なものを提示する、というのは何か目から鱗というか、僕自身も居住まいを正されるような気持ちになりました。
 
あと見に来ている人ですけど女性が非常に多かった、特に若い女性が多かったのが印象的でした。岡本太郎の作品のどこにそういう要素があるのか、僕には見当がつかないですけど、今までもいろいろと展覧会へ行きましたけど、こんなに若い世代、特に若い女性が多かったのは初めてでした。
 
あとグッズ売り場が充実していましたね(笑)。とにかく岡本太郎の作品はキャラ付けしやすいというか、そこもさっき言ったエンタメ性と繋がると思うのですが、企画会議ででもあれしよう、これはどうか、っていくらでもアイデアが出たんじゃないかって想像できますよね(笑)。つまり岡本太郎の作品が他の誰かの創作を喚起している、作品が作品を生むっていう、そういう循環を促す力があるんだということなんです。それこ芸術ですよね、今もなお他人に伝播しつつ爆発しているんだと思います。

10 Tracks to Echo in the Dark / The Kooks 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『10 Tracks to Echo in the Dark』(2022年)The Kooks
(10トラックス・トゥ・エコー・イン・ザ・ダーク/ザ・クークス)
 
 
4年ぶり、6枚目のアルバム。ではあるけれど、元々5曲入りのEPとしてリリースしていた2枚をくっ付けたものらしい。今作リリースにあたってのルーク・プリチャードのインタビューを読みましたけど、ルーク自身はもうアルバムという形にこだわっていないようですね。いい曲が出来たらその時に出せばいいっていう考えのようです。
 
彼らのアルバムはデビュー以来、ずっと聴いています。その時々でサウンドの方向性は異なりますが、ハズレはないですね。ボーカルはいいしバンドはいいし何よりソングライティングに長けている。耳馴染みがよく、それでいて個性的なメロディをいつも聴かせてくれます。デビューして16年経ちますけど、まだこれだけポップな曲を書き続けられるのは実は凄いことだと思います。同期のアークティック・モンキーズはなにやら難解になってますからね(笑)。
 
今作でもそのストロング・ポイントは十分に感じられます。あとはサウンドをどう持っていくかというところだと思いますが、ここが今回はちょっと弱いかなと最初は思いました、最初はね(笑)。やっぱり大人しいんです。ところがここで諦めてはいけない!かの洋楽レビューの大家、ロリングさんも仰られていましたが、こういう時こそ2週間の法則。1週間聴き続けると「ん?ちょっといいかも」、2週間聴き続けると「これ、ええやん!」、と見事に印象が変わりました。
 
全体的に感じられるのはシンセですね、あとベースがしっかりと聴こえてきます。雰囲気としては彼らの4作目であるファンキーな『Listen』(2014年)に近いかもしれませんが、あそこまで振り切れてはいないです。つまりこのアルバムの最初の印象が弱いのは、振り切れていないように見えるからなんだと思います。でもよく聴いていると、彼らの持ち味、彼らのこれまでの道のりがちゃんと配分されていて、何気ないアルバムではあるんですけど、そんじょそこらのバンドにはできない、16年経ったうえでの経験、16年経っても失われない鮮度、そういうものを感じられます。
 
全10曲、目につく派手な曲はないです。しかも多くがミディアム・テンポの曲で占められています。にも関わらず、それぞれの曲の輪郭が明確でそれぞれ全く違う個性を持っている。これはなかなか出来ることではありません。ということでサウンド作りは誰と組んでいるのかなと調べてみたら、ドイツ人のプロデューサー、Tobias Kuhnとベルリンで録音したみたいです。これまた世間とは関係なしにやりたいことをやるクークスらしい判断で、こういうところも好印象です。
 
ということで意識したのは80年代のサウンド。シンセが印象的なのはそのせいですね。とはいえ当時のアレをそのままやるとダサいですから、そこはかいくぐって今のクークスに照らし合わせてみる。
 
つまり『Listen』アルバムで取り組んだ跳ねる要素、パーカッションを用いたり、他にもちょっとした味付け、例えば#5『Sailing On A Dream』では何気にサックスを入れてみたり、#6『 Beautiful World』はレゲエのリズムでリゾート感を出す、#7『Modern Days』ではダフトパンク風のコーラス、#8『Oasis』ではアップリフティングなギターリフ、そうした要素をシンセ・サウンドを基調に合いの手のように入れてくる。確かにクークスと言えば、のギター・サウンドは薄いかもしれませんが、よく聞くと多種多様で職人芸のようなデザインがなされていることに気づきます。プロデュースはドイツ人のTobias Kuhnとルークの共同となっていますが、マイスターのように時代を追いかけない実直な技が光っていますね
 
なので全体の印象としては地味ですし、クークス、本気出してないんじゃないの的な腹八分目な印象を持たれてしまうかもしれない、ファンには歓迎されにくいアルバムではあるかと思います。が、僕はしっかりと作り込んださすがクークスと思わせるとてもよいアルバムだと思います。なのでこのアルバム、あんまりだなと思った人も多いかと思いますが、懲りずにもう何回か聴いてもらえると違って聴こえてくるのかなと思いますね(笑)。

読書の秋

その他雑感:
 
読書の秋
 
 
『14歳の君へ』という池田晶子の著作を息子に手渡した。以前、Eテレの『100分de名著』で紹介されていたのを見て、息子が14歳になったら送ろうと思っていた。もちろん、ちゃんと自分でも読んでから渡した。
 
息子に望むことはここに書かれてあることを鵜吞みにすることではなく、こういう考えもあるんだという視野を広げてもらいたいということもう一つは誰かが異なる意見を述べた時にちゃんと聴くことが出来る素地を作ってもらいたいということ。若いころはとかくこうずべきだ、なんて自分の考えに固執するきらいがあるが(僕が多分にそうだった)、少しずつものの見方の幅を広げていってくれたら嬉しい。
 
以前贈った植松努の本は気に入ってくれたようで、自分の部屋の本棚に大切に置いてくれている。僕も多感な頃にこうした本に触れていれば少しは今と変わっていたのかもしれない。
 
息子も娘も時間があればスマホやタブレットを触っている。あれは色々な情報を与えてくれるが、Aiが使用者の傾向を勝手に分析し、困ったことにそれに応じた情報を流してくる。スマホで読む情報なんてたかが知れているが、そうは言っても毎日繰り返し続けられると、サブリミナル効果のように更に考えが偏るように刷り込まれていく。そんなことは分かっていてもついスマホを見てしまう。大人がこれなのだから、無防備な子供への影響度は計り知れない。
 
その点、紙の本というのは面倒な分、自分でちゃんと選んでいるという責任があるのがいい。それに1000円で買ったなら、ちゃんと1000円分は読もうという気になるし、子供に贈る場合も読まれずにその辺にポンと置かれたままだとかなり悲しいので、ちゃんと読んでくれる工夫をして手渡す。
 
それに読むのにはそれ相当の時間がかかるのがいい。スマホのように次々と自分にとって気持ちのいい情報が流れてくるということはないから、読みながら立ち止まったり戻ったりと自分で判断できるのがいい。また1冊読んでも、分かったような分からないような気になるのがいい。難しい本を頑張って読んだけど、結局よく分からなかったというのもなかなか良い時間の過ごし方だと思う。
 
そういうわけでこれからも折を見て、息子に本を手渡そうと思う。そろそろ中原中也の簡単なアンソロジーなどどうだろう。いやいやまだ早い。こんなところで詩から離れてしまわれても困るので、中原中也は高校生になって彼が困っているようならプレゼントしよう。もちろん、堅苦しい本だけじゃなく、漫画もたまに一緒に読みながら。
 
ところで娘はほとんど本を読まない。いくら薦めても全く駄目。先日、珍しく読んでいるなと思ったら、好きな芸能人のエッセイ本でした(笑)。

肌色からベージュへ

ポエトリー:

「肌色からベージュへ」

肌色からベージュへ
わたしたちはひとつの物語に仕舞われることを拒否した

 炎は木からしか生まれない
 その喋り方だと絶えず歯形が付くよ

いつかは思い浮かべる
まぶたの上

わたしたちは選択した
そして時折互いの名前を呼んだ
思い巡らせた後の幾つかで
わたしたちは合致した

人は死んだあと
どれだけそこにいるのか
今はもういないのか
夜明けまでにもいないのか

肌色からベージュへ
まだ誰も起きていない朝の
一番鳥は泣く

 

2022年4月

待つのです

ポエトリー:

「待つのです」

苦しみが
どこにも寄りかかれず足元おぼろ
暗闇の中
あちらこちらへふらついています

今夜ばかりは
春夏物が溢れかえ
しばし心は行方知れず
早くも気持ちが萎えそうです

それでは季節は跨げぬと
こんな夜中に表に出ては
心と体を夜風にさらし
僅かばかりの頭の整理

僕らの知ってる心の声は
もう少し力があればと願うから
つとめて明るい風をよそおいながら
明日の日の出を待つのです

 

2022年6月

サマーソニック2022 in 大阪 2日目 感想(2022.8.21)

サマーソニック2022 in 大阪 2日目(2022年8月21日)感想
 
 
3年ぶりのサマーソニック。3年ぶりというのもありましたが、今回はラインナップがかなりよいので、期待値がかなり上がっていました。天候の心配をしていましたが、なんのことはない、めちゃくちゃ暑い‼ これまでと比べてもかなりヤバい暑さでしたね(笑)。そこはペース配分をしながら、ていうか各ステージが凄すぎてペース配分できひ~ん。
 
まず最初に向かったのはリンダリンダズです。かなり人が入ってましたね。この時間帯のマウンテン・ステージでこれだけ入ってるのも珍しいんじゃないでしょうか。皆さん、すごくよく知ってはる(笑)。これは大阪にも洋楽に敏感なリスナーが沢山いることの証ですから、その意味でもとても嬉しかったです。皆さん、あの図書館ライブのYouTubeを見たのかな(笑)。この盛り上がりは、十代半ばのリンダリンダズにも喜んでもらえたと思います。
 
そのリンダリンダズですが期待に違わぬ格好よさで、なにより嬉しいのは彼女たちが終始楽しそうにしていることですね。ボーカルも曲ごとに順番に回していくところが、外部からの声が介在していない証拠というか、まさに自分たちの好きなようにやっている、その嬉しさが存分に出ていました。デス声も格好よかったですね。あと勿論、ブルーハーツの『リンダリンダ』、これを最後にちゃんと日本語でカバーしてくれて、これには私、感動して涙が出そうになりました(笑)。
 
リンダリンダズ終了後には急いでオーシャン・ステージへ移動し、ビーバドゥービーを見に行きました。ビアちゃんはですね、とにかくつい最近出た2ndアルバムがすっごく良くて、オルタナ・ギター女子っていうイメージからグッド・メロディを書く素晴らしいソングライターという風に私の中でも印象がガラッと変わったんですけど、ライブがですね、彼女はウィスパーボイス気味なところありますから、ちょっと心配してたんですけど、実際ライブを見るとそこのところがやっぱ弱いかなという気はしました、声が届きにくいというのがね。ただやっぱり雰囲気はありますから、オシャレなビーバドゥービーの世界がちゃんと構築されていました。本人たちもそうでしょうが、見ている方も楽しかったです。
 
その後は、軽い昼食を済ませまして、と言ってもコンビニおにぎり2つですが、この日は朝食をしっかりと食べてきたのでそれで充分ですね。オーシャン・ステージを出たところに屋台がありちょっとした天蓋テントがありまして、天蓋テントはここ以外にもソニ飯エリアにもありましたね。しっかり日除け出来るとは言い難いですが、あるとないでは大違い。設置していただいたことに感謝ですね。
 
そしてオーシャンへ戻り、リナ・サワヤマです。事前にYouTube見てましたけど、実物はその何倍も凄かったです。登場時から仁王立ちですよ、めちゃくちゃ格好いい‼ パフォーマンスもビヨンセじゃないかってぐらいエンターテイメントに徹していて、何より命がけでこの世界でやってやるんだっていう気迫ですよね、英国でここまでのし上がった彼女のエネルギーは凄まじかったです。次のグラミー賞の舞台に立ってるんじゃないでしょうか。
 
あと彼女の第一声が「実は日本人のリナ・サワヤマです」っていうのもグッときましたね。それとちゃんとここにも記載しないといけないのは、LGBTQに対する言及です。ステージで自身がバイセクシャルであること、そして日本人であることに誇りを持っているけどLGBTQに理解がない日本、同性婚が法律的に認められていない日本には失望しているとはっきり言って、賛同してくれる人は共に戦いましょうって。そういうエンパワメントしていく力、というか勇気ですよね、この日の会場にも人知れず悩みを抱えている人が絶対にいるんですそういう人たちに向けてとても心強いメッセージを発していたと思います。勿論、無関心な私たちにも。
 
サワヤマさんのパワーに引っ張られて、予想外の体力を消費してしまったので、ここは一旦エアコンの効いたソニック・ステージへ避難。しばらく体を休めた後、腹ごしらえのため屋台の集まるOASISへ。ここでフランクフルトと唐揚げ、ビール1杯にて栄養補給、ってオレはドイツ人か(笑)。前日の幕張では入場規制がかかったマネスキンに備え、早めにオーシャン・ステージへ向かいました。しかし唐揚げ美味かった(笑)。
 
そのマネスキン、凄い人でした。ヘッドライナーでもないのにこれだけの人が集まるなんて流石ですね。定刻通りに本人たちは散歩するみたいにすぅ~っと出てきて、いきなりの必殺『Zitti e buoni』‼ のっけから大盛り上がり、もう笑ってしまいましたね。彼らまだ21~23才ですよ、なのにこの貫禄、この圧倒的な王者の風格。マネスキンのことを知っている人も知らない人も関係なしに魅了したんじゃないかな。私の周りでも若い子がめっちゃ喜んでましたよ。
 
あとやっぱり凄いのは凄いんですけど、ちょっとした可笑しみもあるんですよね。笑ってしまう、でも恰好いいっていう。でもこれ実はとても大切なことなんだと思います。圧倒的な存在感、プラス親近感というのかな、ちょっと緩衝される部分があるっていうね。時代的に知らないですけど、多分、フレディ・マーキュリーのいたクイーンもこんな感じだったのかなと思いました。それとダミアーノ一人が目立つ、ということではなく全員にスポットが当たって全員でマネスキンなんだというね、そういう姿勢も見てて気持ちよかったです。
 
それとこの日の出来事としてどうしても避けて通れないのはヴィクトリアの星型ニップレス衣装ですね。最初は目を疑いましたけど、それと分かったときのインパクト、堰を切ったように皆大騒ぎしていました(笑)。さっき言った可笑しみですよね。それとロック音楽に大事なのは過剰さだと私は思ってるんですけど、その過剰さがマネスキンには余りあるほどにある。ここも彼らの魅力だと思います。
 
でもヴィクトリア、いつの間にやらそのニップレスがない状態に。。。ヤバいヤバい!え、マジで、そんなんありなん?と思ってると彼女、客席に降りて行ってオーディエンスと密着してる(笑)。過剰さを通り越して、ポカーンとしてしまいそうになりました。ホント、すごい人たちです。当然のことながら会場は大盛り上がり!
 
でも彼女のために言っておくと、全然いやらしくなくて、女性が性の対象として消費されることに対してのレジスタンスですよね、ジェンダーレスなバンドとしての姿勢というのかな、リナ・サワヤマとはまた別のエンパワメントしていく力があって、そこはオーディエンスに対してもちゃんと伝わったんじゃないかな。変な盛り上がり方ではなく、うんうん、っていう。こうやって文面だけだと何だそれ?って思うかもしれないですけど、あの場にいてあれを見た人たちを感化する何かはあったと思います。私も勿論そうです。ヴィクトリア、めちゃくちゃ格好いい‼
 
そしてここでも体力をかなり消費したので、マネスキン終了後はヘッドライナーに備えてしばし休憩しました。サマソニ大阪の特徴として異様に暑いというのがありますが、私がこの日補給したのは家から持参の約600mlのペットボトル3本(うち1本は冷凍)です。あとは軽食を時々摂る、ビスケット食べるみたいな感じ。それとさっきも言いましたが、朝食をガッツリ食べるというのも私なりの対策ですね。
 
そしてこの日最大のお目当て、ヘッドライナーのThe1975。かなり早めに行ったんですけど、既に沢山いました。マネスキンも人多かったですけど、The1975は更に、って感じでしたね。The1975にしても日本でのサマソニがコロナ後の初ライブ。我々も彼らが日本を好きでいてくれているのを知っているから否が応にも盛り上がります。定刻より少し遅れてThe1975の面々が登場しました。会場、異様な盛り上がりです。
 
いつのもテーマ曲で始まるのかなと思っていたら静かなサックスソロのイントロからまさかの『If You’re Too Shy (Let Me Know)』でスタート。あぁそうか、今日は楽しい曲でポップに行くんだ、久しぶりの再会をみんなで祝うんだ、そんな感慨を得ました。
 
そこからみんな大好きなThe1975のブライト・サイドを並べた曲のオンパレード。マティは新曲『Happiness』のPVのイメージそのままに、黒のパンツに白のシャツとグレーのジャケット、ちょっと崩した80年代風の出で立ちでタバコを手に歌います。久しぶりに見るマティはマティのまんまでその一挙手一投足がいちいち決まっている。マネスキンのところでも言いましたが、マティも笑ってしまうほど過剰で絵になる、恰好いいんです。マティを見てるとこっちまでオシャレになった気になりますが要注意、私みたいな凡人が真似をしたら絶対ダメですね、ただダサいだけになりますから(笑)。
 
という感じで楽しくステージは続いていく、少し物足りなさもありましたけど、久しぶりだしこれはこれでいいやとは思い始めたころに聴きなれたイントロが鳴りました、『Love It If We Made It』です。それまでの流れから考えるとこの曲をやるとは思いませんでした。油断していたら来ましたね、ブチ切れるマティ、叫びに叫びます。最後の方はへたり込んで放心状態。会場が異様な雰囲気になったと思ったら、続けて『People』ですよ(驚)。輪をかけて荒々しくシャウトしまくる姿、もの凄かったです。もうここで終わっちゃうんじゃないかっていうぐらいでしたけど、それぐらいヤバかったですね。
 
その後はお祭り状態の『The Sound』でジャンプして、最後は『Give Yourself a try』でした。個人的にも歌詞が素晴らしいし大好きな曲、ビートの効いたこの曲で終わるのも良かったですね。マティは最後だからかめちゃくちゃに踊ってました(笑)、いや~、最後までかっこいい!途中、いい感じの新曲も披露してくれましたし、次のモードっていうのかな、10月に新しいアルバム出るみたいですけど、その一端も垣間見えた気もするし、30代なりのちゃんと年齢を重ねてきた渋みも感じられて、第二期に向けた新しいThe1975がまた楽しみになってきました。そして来年、ジャパン・ツアーでまた大阪に来るって言ってましたね!
 
ということで随分長くなりましたが、以上が2022年サマーソニック大阪2日目の記録になります。3年ぶりということもあって大盛況で、大阪は毎年集客が厳しいなんて噂されていましたけど、今年の様子を見る限りはまだまだ大阪も大丈夫ですね。大阪にもこんなに洋楽好きがいるなんて嬉しい限りです。ていうか今回はラインナップが最高でしたからね。これだけガッツリロックというのも稀に見る状況だったと思います。あとなんとなく若い子が多かったように思います。特に女子が多かったんじゃないかな。とにかく体力的には非常に疲れましたけど(笑)、心は思いっきり充電できて明日から頑張るぞって気分になりました‼
 
最後の最後にソニック・ステージのセイント・ヴィンセントを見に行くってのもあったんですけど、翌日は大事な仕事もありましたし、ここは大人の判断ですね、素直に帰りました(笑)。ところでセイント・ヴィンセントの集客状況はどうだったのかな、そっちがちょっと気になるなぁ。

今、何処 / 佐野元春 感想レビュー

『今、何処 / Where Are You Now 』(2022年)

 

世界的なパンデミックを経た2022年、大規模な侵略戦争が起き、僕たちの国で最も権力を持つ政治家が殺害された。歴史が目の前に迫りくる中、ドロップされた通算20枚目のオリジナル・アルバム。困難な時代と向き合った曲が収められている。あまりにも今この時にジャストに響くので、いつ書かれた曲だろうとインナースリーブを開いたら驚いた。レコーディングは2019年から2021年に行われていた。

佐野は常々何かが起きたからといってその事にいちいち反応したりはしないと言っている。ソングライターというのは普段からある種の危機感を持って曲を書いていると。ではその危機感とは何か。今作で言うと、個の抑圧。より具体的に言えば、魂の危機であろう。しかしここで佐野が取り組もうとしていることは危機を煽り、聴き手を不安にさせることではない。

実質的なオープニング曲の『さよならメランコリア』というタイトルや続く『銀の月』での「そのシナリオは悲観的過ぎるよ」というリリックが示すように、このアルバムで佐野が主題としているのは困難な現実に対し、深いため息をつきシリアスな声を発することではない。佐野がここで言わんとしていることは尊い個についての言及。しかしそれは今に始まったことではない。佐野はずっとそのことに言及し続けてきた。ただ、今はその気持ちが強くなっているということ。

個人が解放されれば世界も解放される。個人が自由になれば世界も自由になる。佐野は具体的にそうは言わなかったが、これまでずっと僕は佐野からそのようなメッセージを受け取ってきた気がする。そして個を抑圧しようとする働きには異を唱え、まして心の問題にまで立ち入ろうとする行為にははっきりとノーと言う。実際、そのような態度を僕自身がちゃんと取れてきたわけではないけれど、そうありたいと願っていた。

しかし個の自由意思を押さえつけようとするものは何も外圧だけではない。内的な心の働きによってもそれはもたらされる。例えば、毎日耳に入るウクライナ情勢。戦争の惨禍を見てエモーショナルになる。そしてもし自分たちの住む国が侵略されたならどうするかと考える。そんな時こそ落ち着かなければならない。佐野は『君の宙』で「国を守れるほどの力はないよ」、「命を捧げるほどの勇気もない」と正直に歌う。大事なことは個と個の関係。「君を守りたい」という思いに余計なものは立ち入らせてはならないのだ。

ヒロイックで大げさな物言いなど必要ない。答えを持たない僕たちは答えを持つ(ているように見える)人につい惹かれるけど、僕たちには「英雄もファシストもいらない」(『大人のくせに』)。大切なのは個人の思い。例えばそれは「恋をしている瞬間」(『クロエ』)だ。何故ならそこには「正義も悪もなく」「過去も未来もない」し、「ルールも約束もなく」「右も左もない」から。外からも内からも浸食されることのない混じりけのない個人の思い。今、その個人の思いがあちこちで悲鳴を上げている。そのことに作者は警鐘を鳴らしている。いや社会に向けてというような大それた警鐘ではない。ワン・トゥ・メニーではなく、一人一人へ向けて声をかけている。まるでラジオの向こう側に語り掛けるように。

このアルバムでは何度も「魂」という言葉が歌われる。『さよならメランコリア』では「ぶち上げろ魂」と歌い、『銀の月』では「暮れなずんでいく魂」と歌い、『斜陽』では「君の魂 無駄にしないでくれ」と歌い、『冬の雑踏』では「あの人の気高い魂」と歌い、『永遠のコメディ』では「魂の抑圧」と歌う。佐野がこれほどまでに繰り返し僕たちに語り掛けるのは何か。それは魂を脅かす特定の何か設定し一線を引くことではなく、どうか君の魂を大事にしてほしいという個から個への願い。故に「いつかまた会えるその日まで 元気で」(『水のように』)という声が直筆の手紙のように胸に届くのだ。

しかしこのアルバムは冒頭で述べたとおり、難しい顔をして深いため息をつくアルバムではない。その証がこのアルバムで大々的に鳴らされているポップなメロディーとポップなサウンド。佐野は今までも個の大切さを歌ってきた。けれど今、その切実さはかつてないほど高まっている。しかしその高まりと同期するように佐野の音楽もまたかつてなくポップになり大衆性を獲得していく不思議。僕はこのことが素直に嬉しくてたまらない。

オープニングのピアノの律動を引き継ぐ形で鳴らされるドラムのデカい音と、「YesかNoかどっちでもなく 白か黒か決まんないまま」(『さよならメランコリア』)とシリアスなセリフを事も無げに歌う出だしの途方もないカッコよさ。『銀の月』の流れるような韻に中盤でギャンギャン鳴るラウドなギター。『クロエ』のAメロを省き真実にいきなり到達しようとするかのような優雅なメロディー、佐野流シティ・ポップ。これらの音楽を聴いて眉間に皺がよるわけがない。難しい問題はあるにせよ、佐野が切り開こうとするのはあくまでポップ音楽なのだ。

歴史が目の前に迫っている。しかし殊更ネガティブになる必要はないのではないか。僕はアルバム『ENTERTAINMENT!』のレビューで、僕たちはいつまでこの無邪気なオプティミズムを更新し続けることができるのかと書いた。何も遠慮することはない。物事がシリアスになればなるほど佐野の音楽がポップになっていくように、時代が暗く沈んだものになればなるほど、理想や希望はより大きくなる。これはごく自然なことなのだ。これまでと同じように心の中のオプティミズムを更新し続ければよいのだと思う。

厳しい現実認識を伴ったアルバムの実質的な最終曲『明日への誓い』は屈託のない希望の歌だ。悩みや心配事を抱えたまま、明日へ紛れていく。あちこちに大小さまざまな傷を負い、それでも理想や希望を思わずには生きていられない。個が個としてその核たる魂を尊重し、家族や友人、知人や隣近所の人たち、職場の人たちや時には見知らぬ誰かと、笑いあい、すれ違い、そうやって僕たちはこれまでもこれからも混じりあう。

しかしそんな希望の歌もクロージングの『今、何処』で再び個に戻る。家族であろうと友人であろうと誰も自分の代わりに生きてはくれないのだ。孤独であることを知りつつ、それでも時折、互いの居場所を確かめ合う営み。あなたは何処にいるのという問いは、すなわち私はここにいるという意。その思いは人の数だけ存在する。

『リコリス・ピザ』(2022年)感想レビュー

フィルム・レビュー:
 
『リコリス・ピザ』(2022年)
 
主人公は二人いまして、一人は15才の少年ゲイリー君。もう一人は25才の女性アラナ。この二人のつかず離れずの関係を描いた青春映画です。こう書くと少年とお姉さんのあれこれを想像してしまうのですが、この映画はそういう想像とは全く反対の位置にある映画ですね。
 
なので、じゃあ二人は一体どういう関係なんだ、というところが判然としないまま物語は進んでいくのですが、とはいえゲイリーにいい人が現れるとアラナは嫉妬するし、アラナにいい人が現れるとゲイリーは嫉妬するし、とにかくお互い必要以上に嫉妬する(笑)。じゃあ君たち付き合えよって感じなんですが、そういう感じじゃないんですよねこの二人は。
 
じゃ所謂ソウル・メイトかというと大概ケンカしてるしそういうわけじゃない。で話もですね、さっき話は進んでいくと書きましたが、いわゆる映画的なストーリーは全くないです。唐突に変な人が出てきたり、なにか思わせぶりな意図があるのかなと思いきやこれはどうも本編とは関係ないエピソードだぞとか、単純に二人のある時期の様子をただ撮っているという感じなんですね。
 
でも人生なんてそんなもんじゃんって。例えば好きな人が出来て告白して上手くいく、天にも昇る気持ちになる。でもそれはそれ、早い時期からそうじゃなくなるかもしれない。つまり明日のことなんて分からないんです。分からないし、大変な時でも全然関係ないことが唐突にやってきたりする。計算どおりじゃないし、脈絡がないし、そういうことの繰り返し。ま、この映画の二人みたいにあそこまで色々はないですけどね。
 
そんな中で相手に何かある時は真っ先に全速力で走る。二人に共通項があるとすればそれぐらいなんですけど、何回か相手のために全速力で走るっていう場面があって、そこがラストシーンにも繋がるんですけど、こういう場面はやっぱいいですよね、輝いてる。
 
てことでやっぱ青春映画なんです。冒頭に15歳の少年と25才のお姉さんのある時期の関係を描いた映画だって言いましたが、その間ゲイリーは子役として活動したり、ウォーターベッドの販売やピンボールの店をオープンしたり、アラナも一緒に活動しながら女優を目指したり、と実際の時系列的には年月が進んでいるはずなんです。はずなんですが、映画観てる印象からするとずっと15才と25才のままなんですね。つまり作り手はそんな細かいところは気にしていない、多分。とにかく青春のある時期のゲイリーとアラナの関係を描いた。それだけなんだと思います。
 
でとにかくこの時間の中ではたとえつかず離れずであろうと二人はお互いを必要としている。キュートだし輝いている。でもこの映画の後はどうなるか分からない。でもこの一時期だけは間違いなくお互いを必要としているんですね。という中でユーモアがあって、舞台は1973年ですから今から見れば、人種的にもジェンダー的にも不適切だったりする、そういうシニカルなユーモアも含めて、ポール・トーマス・アンダーソン監督ならではの中身があるようでない話が進んでいく、という映画なんだと思います。
 
そうそう、シニカルなユーモアというのもポイントですね。最近はそれをそのまま真に受けて、そうなんだ~って思ってしまう人も多いようで、ちゃうちゃう、これ皮肉やでっていうね、ここら辺の表現を敢えてするっていうところも好印象です。あと一応は、いやど真ん中のラブストーリーだとは思うんですが、いわゆるラブシーン的なものが全くないのがとてもよかったですね。
 
てことでとても素晴らしい映画だったんですけど、個人的に残念な点を一つ。ていうのも主役の二人、ともに映画初出演で初主演なんですけど、アラナ役のお姉さん、本名もアラナと言いまして、ロックバンド、HAIMのメンバーの一人なんですね。一般的は知られていない二人を主役にするっていうのがこの映画のストロング・ポイントだとは思うのですが、僕はHAIMが大好きなので、ずっとライブ映像とかミュージック・ビデオをアラナ・ハイムを観てたんですね。だから映画見てても、HAIMのアラナがついつい出てきてしまう。ま、音楽に興味ない人は気にならないとこですね(笑)。
 
まぁとにかく青春のある時期を走りに走った二人の物語。最後の最後でようやくお互いを探して求めて同時に走りつづける。その一番感動的なところで、勢い余ってぶつかってこけてしまう(笑)。僕はここで一番笑いましたけど、とにかく清々しくてチャーミングな楽しい映画でした。