男の笑いと女の笑い

その他雑感:
 
「男の笑いと女の笑い」
 
 
日本が男性社会だというのはテレビを付けていると一目瞭然だ。男性MCと男性タレントがほとんどで、女性が多くを占めているというのは圧倒的に少ない。だってそりゃ男の方がオモロイからに決まってやんという声が聞こえてきそうだけど果たしてそうだろうか。
 
少し前になるが、松本人志が司会を務める「IPPONグランプリ」。女性芸人と女性タレントによって行われた回があった。面白い局面もいくつかあったのだが、総じて男性芸人に比べるとだいぶ落ちるよなぁというの大方の意見ではなかったか。僕はそう思った。でも考える。それって本当?
 
僕の奥さんはよく笑う。でも「M-1」とか「IPPONグランプリ」には全然興味がない。「笑ってはいけない」は嫌いだと言っていた。だからと言って奥さんはユーモアのセンスがないわけじゃない。だって家でも外でもよく笑うから。もしかしたら、男の方がオモロイやんというのは男性の笑いの価値観が世の中を支配しているからだけなのかも。
 
例えば女性ばかりの会に男が一人呼ばれたとする。女性たちが大笑いしている。男性は何が面白いのかよく分からないので愛想笑いをする。後日、男の友達連中に言うわけだ。何がオモロイか分からんかったわ。恐らくそれと同じことが女性の側では毎度起きているのかもしれません。
 
先ほどの女性限定「IPPONグランプリ」で優勝したのはハリセンボンはるか。確かに圧倒的に面白かった。出演者が言う。男女関係なく参加できるんじゃないかって。でもこれって、男が取り仕切る男が面白いと思う基準の笑いの大会にあなた出れますよって言ってるようなものではないかな。ちょうど今、NHKで男女が逆転するドラマ、「大奥」がやっているけど、まさしくあの世界。男女の立場が逆転しそれが何十年も続くと、女が面白いと思うものが世間の面白いの基準になるのだと思う。
 
男の方がオモロイやんというのは男社会だから出てくる言葉なのかもしれないな。なんだか他のことにも当てはまりそうだ。

第5回ワールド・ベースボール・クラッシック、開幕

野球のこと:
 
第5回ワールド・ベースボール・クラッシック、開幕
 
 
いよいよ明日からWBCの日本戦が始まる。先ずは東京での予選ラウンド。ここでの上位2か国が米国での決勝トーナメントへ進むことになる日本代表のいる予選Bグループで対抗馬となるのは韓国ぐらいか。とはいえ、ここでグズグズしているようでは決勝トーナメントも心もとないだろう。恐らく予選リーグでの目的は誰が使えて誰が使えないかの見極めだろう。短期決戦では取り返しのつかなくなる前に決断をしなくてはならない。いくら素晴らしい実績がある選手でも好不調はある。監督始め、スタッフの力量が問われるところだ。
 
スターターは大谷、ダルビッシュ、山本由伸、佐々木朗希でほぼ間違いないか。何が起きるか分からないが、余ほどのことがない限り彼らが大崩れすることはないだろう。問題はリリーバー。プレッシャーは回を増すごとに大きくなる。特にクローザーの重圧は相当だろう。どうにもならなくなった時はメンタルの鬼である大谷が務めることもあるかもしれない。栗山監督ならやりそうだ。捕手はソフトバンクの甲斐とヤクルトの中村。きついだろうが気持ちの強そうな二人なら大丈夫だ。
 
問題は打つ方。村上を始め吉田尚、山川と錚々たるメンバーが揃うが、過去のWBCを見ても、メジャー投手のムービングボールには今回も手こずるだろう。そのうえ、日本選手は一戦必勝の国際大会ではいつもガチガチになりがち。昨年のサッカーワールドカップで日本代表が躍進したのも、メンバーは海外組みがほとんどで普段からメッシら一流選手と渡り合っていたというのも大きい。そう考えると、メジャー組の鈴木誠也の離脱は痛い。ここでもやはり頼りは大谷ということにならざるを得ない。
 
そういう中でダルビッシュがリーダーシップを発揮し、硬くなりがちな国内組を解してくれているのは大きい。彼の「(日本代表は)少し気負いすぎというか、戦争に行くわけではない。気負う必要はないと伝えたい」というメッセージは良い効果をもたらしているはず。事実、グラウンドには勝負よりも大事なことが転がっている。皆、おかしなプレッシャーを感じずに伸び伸びとプレーをして、貴重な経験を今後の成長に活かしてほしい。
 
なによりも怪我なく無事に。勝ち負けよりもそれを祈るばかりです。

Rush! / Maneskin 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Rush!』(2023年)Maneskin
(ラッシュ!/マネスキン)
 
 
大ブレイクを果たした後のアルバムということで、どうなるんだろうと興味津々ではありましたが、こちらの想像を余裕で超えてきましたね。全17曲で前作『Teatro d’ira Vol.1』の倍以上の曲数!しかも8割方がアップリフティングなロックナンバーです。#17『The Loneliest』といったバラードも彼らの人気曲ですけど、ライブのノリそのままにそっちじゃなくてこっちでグイグイくるテンションが最高ですね。
 
しかも全部、目先を変えているので同じような曲がズラッとじゃない。この辺りがマネスキンたる所以というか、強烈な個性を持ったバンドではあるんだけど、そこに寄りかからずに古いとか新しいとかではなく、自分たちのその時々で大好きな音楽をやればいいじゃんという屈託のなさが1曲1曲の個性にも繋がってるという、非常にポジティブな化学反応がここでは起きています。
 
例えば、#2『Gossip』なんてフィーチャリング・トム・モレロですから、ギターでギュインギュインいくわけですけど、よくよく聴いているとエイミー・ワインハウス、テンポ落とせば、まんまエイミーやんっていう。しかもダミアーノのこぶし回しがエイミーそっくりで、サビの声裏返るところなんか多分意識していますよね。
 
マネスキンはエイミーのカバーを若い頃に(今も十分若いですが)ユーチューブにアップしていますから、間違いなく好きなんでしょうけど、そういう好きな部分と今現在の彼らの王道スタイル、そこにトム・モレロっていうところが合わさってなんか分からんけど、時代とかジャンルを超えてカッコいいことになってる。つまり、#9『Kool Kids』で「We’re not punk, we’re not pop, we’re just music freaks」って歌っているようにカテゴリーそっちのけで今やりたいことをやる。それが結果的に17曲全部が違う色を持っていることになる。けれどマネスキンとしての芯がずっと残っているから、マネスキンとしての土台は変わらない。しかも何年も前の曲だけじゃなく最新のアイドルズとかの影響も丸出しで、これこそがマネスキンなんだなと再認識しました。
 
まぁとにかく派手で過剰でカッコいいです。音楽としてだけでなく、カルチャーとして更新してってる感アリです。ミュージック・ビデオも最高なので、そっちも見てほしいですね。先ずは『Gossip』のミュージック・ビデオで度肝抜かれてください(笑)。

『100de名著 北条民雄/いのちの初夜』感想

TV Program:
 
『100de名著 北条民雄/いのちの初夜』感想
 
 
文学や音楽や絵画といった芸術に何を求めるかは人それぞれにあるのだろうけど、僕自身について言えば、受け手に何かしらのポジティブな作用をもたらすものであればよいなと思っている。
 
ポジティブと言ってもそれは俗に言う’元気をもらう’とか’勇気をもらう’ということではなくて(もちろん時にはそういう場合もあるのだろうが)、むしろ’知る’あるいは’知覚する’ということによる心持ちの豊かさ、視野の広がり、そういった自分自身の感覚領域をおし広げてくれるもの、そういう意味でのポジティブさとして捉えているところがある。
 
よき表現というのは、例えば水俣病問題を扱った『苦海浄土』やゲルハルト・リヒターの絵画がそうであるように、それがたとえシリアスな物語であろうと、辛い現実認識を伴うものであろうと、新しく知ることによる感覚領域をおし広げてくれるポジティブな作用がある。つまりそこには作者のいろいろな逡巡はあるのだろうけど、物事をよりよくしていきたいという動機が根底に流れているような気がする。その願いのようなポジティビティが受け取り手に作用しているのではないか。
 
北条民雄は勿論読み手を感動させようと思って書いたわけではない。また、辛い体験、死のうとさえした状況を全く暗い気持ちのまま書いたわけではない。彼は創作することに望みを託した。そしてそこには古今東西のよき芸術表現と同じように読み手の心に何らかのより良き作用をもたらす何かがあった。川端康成が北条民雄文学の紹介者になったのはそれを発見したからではなかったか。
 
その上で、北条民雄の’書きたい’或いは’生きたい’という強い意志に、彼なりの優しさで応えた川端康成。北条がハンセン病療養所という名の隔離施設で、23才という若さで息を引き取った日の翌日、北条に会いに療養所へ赴いた川端のエピソードはとても感動的だった

ゆるいエンタメ、プロ野球

野球のこと:
 
「ゆるいエンタメ、プロ野球」
 
 
うちの奥さんはドラマを2倍速で見ている。そんなんで面白いかとも思うが、今はそういう人が多いみたい。なんでもコロナ禍によるオンライン授業も倍速で見る学生が多いらしく、それなら先生いらんやん、AI音声とかどっかの企業の教材で十分やんとも思ってしまうが、いずれ本当にそうなってしまうのかもしれない。
 
何事も効率が求められる世の中で、エンターテインメントさえ「面白いかどうか」、もっと言えば「見てすぐに面白いかどうか」で判断されてしまう今日この頃。何であろうとずっと面白いなんてことはありえず、そこに至るまでの紆余曲折があってこそなのだが、私たちはその紆余曲折が辛抱できなくなっている。ということで、そういう皆さんにこそおススメしたいのが野球観戦!
 
野球はとにかく退屈です。サッカーやバスケに比べれば圧倒的に動かない。スピード感が無い。しかも何時間やっとるんだという試合時間の長さ。はっきり言って1試合の中で盛り上がる瞬間はそんなにない。それなのになんで見るか。それは一見何の動きもないところでも分かる人には分かる色々な動きがあるからです。
 
例えば配球。インコース投げたいけど次どうするのとか、アウトコースに投げたいけど前の打席で外ギリギリの球を打たれてるんだよなとか。それが合ってるかどうか別にして、野球は自分の中で勝手に楽しんでしまえる、一人上手ができる!また実際に野球場に行くと、一球ごとに野手が動いているのが分かります。しかも一人だけじゃない、連動してみんなが何かしらの動きをしている。
 
で、こういうのを分かるようになるにはどうすればよいのか。これはもう見続けるしかない。見て学ぶしかない(笑)。ただ「見てすぐ面白い」とは対極にありますから、最初っからずっとは楽しめません。でも大丈夫、野球はサッカーやバスケと違って、ずっと集中して見ていなくてもよい、目を離したっていい、それで十分分かってくることがある。そういうこっちサイドで調整できるゆるい楽しみ方が出来るのが野球なのです。
 
ま、どっちにしろ面白い試合なんて年に何回あるかどうか、ほとんどは僕も流し見です。でもスポーツ観戦なんてそんなもの。感動をありがとうなんて言いますが、そんなの滅多にないない(笑)。つーかスポーツ観戦は知的遊戯でもあります。感情はそのおまけです。確かに凄い試合が年に何回かありますが、それも退屈な試合を幾つも見ているからこそのご褒美みたいなもんですね。
 
ということで、普段、2倍速やショート動画ばかり見ている人にはうってつけの心に余裕が持てるゆるいエンタメ。この春からは是非結果がすぐに出ないのんびりとした野球で効率の悪い無駄な事への耐性をつけましょう。

Sometimes, Forever / Soccer Mommy 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Sometimes, Forever』(2022年)Soccer Mommy
(サムタイムズ、フォーエバー/サッカー・マミー)

 

Alvvaysに続いてはこれ、サッカー・マミーです。90年代の青春映画で流れていそうな90年代のオルタナ・ロック感が随所に現れています。それこそ『リアリティバイツ』を観た世代なんかはグッと来るんじゃないでしょうか。ハイ、私がそうですね(笑)。

90年代オルタナ・ギター・ロック、特に『ザ・ベンズ』とか『OK コンピューター』期のレディオヘッドの面影を感じます。#2『With U』とか#3『Unholy Affliction』とか#6『Darkness Forever』辺りですね。なんだかんだ言って、レディオヘッドはギター・ロックの地平を切り開こうとしていたこの時代が皆好きですから(笑)、この辺りのニュアンスが出てくるとやっぱ嬉しいです。

という中でこの時期の一方の雄、オアシスを彷彿させる#7『Don’t Ask Me』なんかもあったりして、この世代の音楽に親しんだ人間のツボをどんどん押してきます。アウトロのドラムがドタドタするところにギター・ソロが絡んでくるところなんてたまらんぜぇ。

ただまぁそれも、彼女がよいメロディーを持っているから、ソングライティングがしっかりしているから可能なんですね。アレンジがどう転がろうが問題ない。1曲目の『Bones』なんかを聴いていると曲の良さが凄く伝わってきます。つまり単純に曲の良さで勝負できる人なんだと思います。その中で彼女が選んだのサウンドが90年代オルタナ・ギター・ロックなのかなと思います。

後はボーカルですね。この世代にありがちな平熱トーンのボーカルが少し物足りない。いや、この声だからこそいいっていうのもあるとは思うんですけど、もう少し感情が爆発するような、聴き手に揺らぎを与えるような強さがところどころにはあってもいいのかなと思いました。

それにしてもフィービー・ブリジャーズといいスネイル・メイルといい、米国ではどうしてこう活きのいい女性シンガーソングライターが続々と出てくるのでしょうね。しかも全部ギター女子っていう。ロック不遇の2010年代にローティーンを過ごしたであろう彼女たちがなんでまたギターを手にしたのか、一方で男性側からこういうのが全然出てこないのも含めて謎です。とにかく、先述のAlvvaysや英国のビーバドゥービーなどなど、新しい人がドンドン出てくるのはオルタナ・ギター・ロック好きとしては嬉しい限り。

ちなみに子供にサッカーの英才教育を施そうと一生懸命になっている母親のことを米国では’サッカー・マミー’と言うそうです。’スネイル・メイル(カタツムリ便)’といい、この世代はネーミングセンスも抜群ですね。

『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年)感想

フィルム・レビュー:
 
 
『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年)
 
確かにこれだけの映像表現が可能であれば、120分をまるっと山王戦で通す方法もあったかもしれない。それだけの映像インパクトはあるし、スラムダンクの映画化を楽しみにしていた当時のファンを十分に喜ばせることは出来ただろう。けれども連載終了時から30年近く経った今、それだけをすることにどれだけの意味があるのだろうか。
 
確かにあのスピード感や立体的な動きを再現できたことには驚く。しかし技術は日々進化する。今は驚きの目で見られた表現でさえ、10年後20年後にはそれを上回るものは必ず出てくる。いずれ、あの時は凄かったね、で終わってしまう。あの『ジュラシックパーク』や『マトリックス』が人々の記憶に残っているのは単に映像表現が凄かったから、だけではないのだ。
 
ではこの映画にその深みを与えているものは何かと言えば、それは間違いなく宮城リョータの家族をめぐる物語。もう一人の主人公はリョータの母親ではないかとさえ思えるような、極力セリフを配した丁寧な描写、心象風景。これらを幾つも挟みながら殊更説明することなくただ山王との試合に挑むリョータの肉体表現へ徐々に変換されていく様。今まさに現在進行形でそれを目撃している私たち。
 
また過去を捉えた幾つもの場面は手に汗握る湘北対山王の死闘に興奮状態にある私たち観客に落ち着きをもたらす効果もある。緊張感はいつまでももたない。チェンジ・オブ・ペース。まるでポイントガードである宮城リョータのように井上雄彦は映画全体を俯瞰する。
 
ただ懐かしむために井上雄彦は腰を上げたのではない。これは『バガボンド』や『リアル』を経て、また現在の日本のバスケットボール界を見据えた、今の井上雄彦の新作である。作家に’同じこと’を望むなんて野暮なこと。何故ならそれは芸術家にとって死を意味することだから。ましてあの井上雄彦である。
 
『THE FIRST SLAM DUNK』は過去の焼き直しでもリメイクでもない。今の井上雄彦が一から創り上げたリクリエイト(再創造)作品である。きっと漫画『スラムダンク』のように井上雄彦の作品として何十年後も残るだろう。『THE FIRST SLAM DUNK』は決して、あの時は凄かったね、で終わらない。

Blue Rev / Alvvays 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Blue Rev』(2022年)Alvvay
(ブルー・レヴ/オールウェイズ)
 
 
毎年、年末の各媒体の年間ベストを眺めてると、いくつか気になるのが出てくるんですけど、2022年末の場合はこれがその筆頭でした。全然知らなかったんですけど、3枚目のアルバムだそうです。男女混成の5人組、カナダのバンドです。Alvvaysの読みはオールウェイズ。先にAlwaysというバンドがいたようで、急遽、w を vv に分割したらしいですけど、vvの方が意味あり気でいいですね。
 
ネオアコにシューゲイズでドリーム・ポップという、もうこの文句だけで好きになりそうですが、1曲目の『Pharmacist』を聴いた時点で「これ好き」ってなりました。そう思っているところにアウトロで最高のギター・ソロが流れてくるもんだから「これ好き」が「めっちゃ好き」に速攻変わりました(笑)。
 
ただこんな風に掴みでグッとやられるだけでなく、彼女たちの場合は聴けば聴くほど良くなっていく、どんどん好きになっていきます。多分それは完成度が高い、練り込まれているってことなんじゃないでしょうか。初めはさほど気にも留めていなかったボーカルにしても、よくよく聴いているとこの透明感が稀有なことに気付いて、しかも高音になっても同じようにス~ッと入ってくるんです。#8『Velveteen』の最後のところなんてその典型ですね。
 
あと、最初に言った1曲目とか一番人気かもしれない#3『After The Earthquake』といったネオアコ色の強いポップ・ナンバーのみならず、#11『Belinda Says』みたいな最後にボーカルがグワッと盛り上がる切ない曲もあるし、不意に#7『Very Online Guy』のようなシンセでリードしていく曲もあれば、はたまた思わぬジョニー・マー節に笑ってしまいそうな#5『Pressed』もあったりと、曲調も豊かでこういった点も最初の印象と違って長く愛せるアルバムになっているのかなぁと思います。
 
それにしても2022年にこんなギター・バンドがいたなんて驚きですね。ていうか2014年のデビューらしいので、ギター・バンドが見向きもされなかった時代にこういう実直に取り組んでいたバンドがいた、それが今花開いた、そういうことなんじゃないでしょうか。本人たちはこれからも時代に関係なくよい音楽を作っていく、そういうスタンスなんだと思います。こりゃ1枚目や2枚目もちゃんと聴いてみないとね。

『RRR』(2022年) 感想

フィルム・レビュー:
 
『RRR』(2022年)
 
 
インド映画は割と好きだ。好きと言えるほど見てはいないが、あの急に歌ったり踊ったりするのも含めて、「んなアホな」の練度が非常に高いインド映画は、あちこちに飛ぶストーリーや、アクションとか恋愛とか友情とか謎ときの全部盛りを強引にではなく、「んなアホな」のくせに説得力のある形で丁寧につなげていく。エンタメに徹した無茶苦茶さとそれを破綻させない丁寧さ。むしろ観客をその渦に巻き込んでしまうところがインド映画の魅力かもしれない。
 
つまりあのキン肉マンでおなじみの、ウォーズマンのベアークローを2つにして、いつもの2倍のジャンプに云々のくだり。あるいはバッファローマンによるキン肉バスター返し、「6が9になる!」。よくよく考えてみればおかしな話だが、とはいえ無茶苦茶な飛躍ではないし、それもアリかなと思わせる微妙なラインのギリ。というかこちらにそのギリを補正させる愛嬌。
 
『RRR』はこの「んなアホな」を許容できるギリの説得力を保ちつつ、その「んなアホな」のレベルを段階的に上げていき、「んなアホな」の許容範囲を徐々に拡張していく。そして観客に徐々に生まれる共犯意識。細かいところは抜きにしておもろかったらええやん、ではなく、細かいところを抜きにしていないからこそここまで面白いのだ。
 
エンタメの渦に巻き込まれて、一緒になって観客自身が更に面白くしていくライブ感。コロナ禍を受けた次のステップとして、こんなにふさわしい映画はないのではないか。

詩への向かい方

詩について:
 
「詩への向かい方」
 
 
詩は誰でも気軽に始められるアートです。音楽のように楽器が弾けなくてもいいし、絵画のように道具も要らない。同じ文学にしても俳句や短歌のような制限もないから、思い立って書くだけで誰もが始められる。こんなに間口の広いアートフォームは他にないと僕は思っています
 
そして思いつくまま書いてみる。意外と書けたら嬉しくなってまた書いてみる。そうするとネットで詩を調べたりするだろうし、アンソロジーの詩集を買ってみるかもしれない、特定の詩人の詩集を買うこともあるかもしれない。そういうことを繰り返していくうちに、ふと気付くことある。そうか、こうやって書けばいいんだ、詩とはこういうことなんじゃないかって。
 
でもその気付きは一瞬のこと。気付いたはずのことさえ分からなくなるし、すぐにまた別の壁が立ちふさがる。書けば書くほど分からなくなってくるし、読めば読むほど分からなくなってくる。これはもう音楽とか絵画とかも一緒ですけど、分からなくなってくるということは少しずつ分かってきているっていうことなんです。ただそうしたちょっとした気付きを繰り返していくと、たとえそれが些細な、それこそ紙きれや薄いセロファンのような薄い気付きであっても積み重なっていくものがあるんです。そしてその薄い積み重なりによって、少しずつではあるけれど、自分にとっての良い詩が着実に書けるようになっているのだと僕は思います。
 
ここで大事なのは自分にとって、ということです。少しずつ書けてくると、少しずつ詩が読めるようになってくると、詩とはこういうものなんじゃないか、詩とはこうあるべきなんじゃないかというルールが自分の中で芽生えてくることがある。それはそれでいいのだと思います。自分の目指す詩というものが明確になっているということですから、そこを目指せばいい。厄介なのはそのルールを他人にまで当てはめてしまうことだと思います。例えば、あなたのこれは詩じゃない、日記だ、単なる感想だって。
 
詩への向かい方って人それぞれなんだと思います。それこそ志高く絵画や音楽のようにいっぱしの作品としてアートとして成立させたい、そう思う人もいるだろうし、自分自身のセラピーのために書いている人もいるかもしれない。あるいは身近な人、困っている人に向けて元気になってもらいたい、そう思って書く人もいるかもしれない。千差万別、そこも含めて自由なアート表現なんだと僕は思いたいです。
 
せっかくの誰でも気軽に始められるアートなんです。広い間口をわざわざ狭くする必要はない。今の時代、ただでさえ詩は遠い存在なのですから、どんどんウェルカムでいい、僕はそう思っています。ただ自分なりの価値観で、こんなのは詩ではないと論じることも否定されるべきではありません。それもまたひとつの詩のありよう、詩への真摯な向かい方なのですから。
 
ただ僕のスタンスとしては、当人がこれが詩ですと言えばそれは詩でいいと思っています。せっかくの自由なアートなのです。ルールなんてクソくらえです。せっかくの懐の深い、自由な世界です。もっと多くの人に詩に触れてほしい、取り組んでみてほしい。それが僕の詩に対する基本的な向き合い方です。というところで繰り返しになりますが、これもあくまでもひとつの考え方です。