子供たちのヒーロー

その他雑感:
 
「子供たちのヒーロー」
 
 
 
「鬼滅の刃」が一大ブームとなっている。うちは保育士をしている奥さんが園児たちの影響で先にはまり、僕はそれを「ふ~ん」と横目に眺めていたのだが、先日のテレビ総集編を一緒に観たところ、遂に僕もはまってしまった。
 
僕はまだその総集編とその後に始まったテレビ・シリーズの再放送を観ているだけなので、ほんの序の口しか観ておらず、これからまだまだたくさん楽しめるという特権を持っている。どうだ羨ましいだろう(笑)。職場の同僚がコミックを貸すよと言ってくれたが、僕は借りない。これからテレビ・シリーズを毎週観ながらちびちび楽しむつもりだ。この特権を簡単に手放すものか(笑)。
 
人喰い鬼の話なので結構グロいシーンがある。小さな子供が観て大丈夫かなと思っていたが、そこはあまり気にはされていないようだ。確かに観ていてもさほど印象に残らない。「進撃の巨人」を観たときは気持ち悪くなって観るのをすぐ止めたが、あれとは決定的に何かが違うのだろう。それでも小さな子供たちに悪い影響がかなければいいなとは思う。
 
昨日、会社の帰りにTUTAYAへ寄ったら小さな子供が母親の手を引っ張って「鬼滅の刃」コーナーの前に行き、一生懸命になにかを説明していた。舌足らずの様子がかわいくて仕方がなかった。今朝は今朝でまた別の小さな子が炭治郎の羽織柄マスクをしていた。炭治郎は子供たちのヒーローなんだと思った。
 
主人公の炭治郎は心が清らかで優しい男だ。怖くても一歩踏み出して誰かを助けようとする。やられそうになっても諦めない。最後の最後までどうしたらいいか、どうしたらいいかと考え続ける。週刊少年ジャンプの主人公の伝統としてやたらメンタルが強いというのはあるにせよ、それは悟空やルフィのような天然な強さではない。炭治郎は誰かを守るために自らを奮い立たせていく、そこが魅力なんだと思う。
 
主要登場人物は炭治郎に限らず皆そうした後天的に身に着けたたくましさを持っている。苦境に陥っても「呼吸を整えてよく考えるんだ」と諦めずにベストを尽くそうとする炭治郎。男女関係なく今の子供たちにとって最高のヒーローなんだと思う。

女性アーティストを応援するゾ!!

その他雑感:
 
女性アーティストを応援するゾ!!
 
 
 
久しぶりに赤い公園を聴いています。やっぱいいですね。曲も演奏も最高なのになんで売れないのか不思議です。『猛烈リトミック』(2016年)は結構行くと思ったんですけどね。そういや赤い公園とほぼ同時期のきのこ帝国も2014年の『フェイクワールドワンダーランド』がそれまでの重い感じから一気にはじけてすごく格好いいアルバム、これでどうだ!って感じだったんですけど、本格的なブレイクには至らなかった。同じく女性陣メインのバンドで言うと、最近は羊文学もいいなぁなんて思ったりしていますけど、どーなるんでしょうねぇ?
 
 
 
 
なんかバンドに限らず邦楽の女性ってなかなか売れてこないです。男性陣は時代に応じて続々と新しい名前が出てきますけど、最近の女性陣だとどうでしょう、あいみょんぐらいじゃないですか。僕が知っているだけで中村佳穂とかカネコアヤノとか他にもすごい人いっぱいいるのにこれはやっぱ残念な状況です。
 
ここ数年、海外では女性アーティストの活躍が目覚ましいですよね。元々そうでしたけど#MeTooで更に火が付いたところがあって、政治的な発言も増えているしそれが作品にも反映している。しかもそれは女性だけじゃないです。サム・スミスとかフランク・オーシャン、彼らは同性愛を公言していますが、評価も高くセールス面でも実績を上げている。
 
BLMもそうですよね。映画『ブラックパンサー』を例に出すまでもなく、いわゆるマイノリティーと言われた人たちがメインストリームで重要な役割を果たしている。翻って日本は女性アーティストの活躍さえままならない。ダイバーシティなんて言葉を最近耳にしますが、こと日本では道遠し。これは僕たちカルチャーを享受する側にとっても大きな損失です。
 
これはメディアの責任も大きかったと思うんです。本来紹介者の役目を果たすべきメディアがインスタントなものしか紹介できなかった。でも逆を言えばこちらがそれを望んでいたからとも言えますよね。残念だけど僕たち日本人は文化に対する要求が異常に低いのかもしれない。個別にみれば日本人でも世界的な芸術家はたくさんいますが、一般的な受け手側の文化に対する優先度はかなり低いのかも、そんな風にも思ってしまいます。
 
でも時代は変わりました。テレビや雑誌といったメディアにかつてほどの影響力はありません。インターネットですよね、みんながそれぞれ個別で情報を収集し分け合う。もしかしたら1体1でコミュケートするラジオも見直されているかもしれません。大資本のメディアが質の高い文化を紹介しきれないのなら、僕たちで発信していけばいい。そういうことなんだと思います。事はそう簡単なことじゃないかもですけど。
 
あとやっぱり一番大きいのは日本は世界有数の男性社会であるということですね。確かに表向きは露骨な女性蔑視はないですけど、逆に言えば深く深く浸透しているということです。
 
例えば結婚している男女って大概は男性の方が収入が多いと思います。これ、当たり前のようになっていますけどなんかおかしいです。これは何も女性の方が劣っているから、ではないですよね。さっき邦楽では男性陣が次々とブレイクしていくけど、女性ではほとんどないって言いましたが、これも女性アーティストが劣っているからではないですよね。
 
やっぱり日本は根深く男が特をする世の中になっているということです。振り返ってみれば子供の頃、生徒会長は当たり前のように男でしたし、出席番号も男からでした。そういう積み重ねが少しずつ蓄積されてきた。知らず知らずのうちに男も女もそういう体にさせられていったんだと思います。多分僕たちは気付いてないけど男の方が圧倒的に楽な人生を歩んできた。無自覚であったとはいえ、それを甘受してきたということは僕たちもそちら側に加担していたということなんだと思います。
 
あれだけの才能が集まった赤い公園がブレイクしなかったというのは重い事実として受け止める必要があるのではないかと思っています。もっともっと日本の女性アーティストはブレイクすべきです。これだけミュージシャンがいるのに、売れてるの男性ばっかで、女性で売れてるのはアイドルだけってなんか変!フェスのヘッドライナーが男ばっかって考えてみりゃおかしいでしょ。
 
ってことで、これからはめちゃくちゃ小さなメディアですけど、このブログでもしっかり女性アーティストを応援していきたいと思います。
 
 
 

エモい

その他雑感:

「エモい」

 

昨夜テレビでやっていた『鬼滅の刃~兄妹の絆~』を見まして、まぁ初めて鬼滅の刃を見たんですけど、すごく面白かったです。今朝、用事でドンキホーテに寄ったのですが、思わずグッズを買いそうになりました(笑)。来週は続きをするということなのでめっちゃ楽しみです。

見ていて一番に思ったのは、流行りの言葉で言うところの’エモい’というやつですね。感情の発露が生々しく描写されています。鬼にもその背後には悲しいドラマがあって、というのは見ていてシンドイです(笑)。家族の関係、敵との関係、仲間との関係、そのいちいちに激しいドラマがあって見ているこちらの感情を揺さぶる、そういうアニメだなと思いました。

テレビで有名人がこのアニメについて熱く語っている場面を見たことがありますが、見る人を熱くさせる要素がふんだんにあるように思います。僕は音楽が好きだからそっちの方面で考えてみると、音楽にも感情を波打たせるサウンドがあります。いわゆる’四つ打ち’というやつですね。

2、3年前だか邦楽には猫も杓子も四つ打ちという時期がありました。あれもやっぱり聴き手の感情を刺激するんですね。僕は音楽でも映像でも感情で煽られたくないというのがあって、それは僕個人の性格として割りとそっちへ引っ張られやすいというのを自覚しているからなんですね。音楽であろうとなんであろうと創造物に対してその本質以外のところで自分自身の評価を左右されたくない。そう思っています。僕がたまにこうやって文章を書くのはそういう部分も大きいです。

けれど考えるのは面倒臭いんですね。だから評価を感情に委ねた方がいい。その方が心地よいですしそれも分からなくはない。そしてそういう大げさな番組を見て感動して涙を流しても、その後は割りとあっけらかんとしている場合、これはいいんだと思います。言ってみればひとときの余暇、気の紛らわし、これはエンターテイメントが果たす大きな役割のひとつですから。

ただ気になるのはそこに、煽られた感情に引っ張られたまま日常が継続してしまうこと。例の半沢直樹もしかり、今の世の中、エモいが幅を効かせていますけど、ちょっとしたその積み重ねが少し心配になる気がしないでもない。

エモいと過剰さは隣り合わせです。物事の良し悪しをエモいに委ね過ぎないよう、少し引いてみることも必要かもしれません。エモいを余り体に詰め込みすぎないように、ですね。

歌は世につれ世は歌につれ

その他雑感:
 
「歌は世につれ世は歌につれ」
 
 
クラウド・ナッシングスの新作が非常にポップだ。僕はこれまでクラウド・ナッシングスをちゃんと聴いたことはなかったのだが、ネット上でメロディが立ってすごくいいという情報を知り、じゃあと思って聴いてみたらハマってしまった。ハードでエモい印象があったのだが、すごく聴きやすくてちょっとネオアコっぽかったりバーズぽかったり。こういうの好きです。
 
また、間もなくリリースされるザ・キラーズの新作から2曲が先行公開されたのだが、これが笑ってしまうぐらいのキラーズ節で、もういい加減キラーズはいいかなと思っていたのだが、これを聴いたら買わねばなるまい(笑)。
 
もういっちょ。テイラー・スウィフトの「フォークロア」。テイラーさんはこのところ何処へ行きたいのかよくわからないサウンドだったけど、このアルバムではタイトルどおりフォーキー(と言ってしまっていいのかどうか)で、彼女本来の良さである曲の良さがしっかりと前に出ている。
 
ということで3枚だけですけどかつてなくポップなんです。すごく聴きやすい。多分これは今の状況を反映してるんですね。暗い世の中ですからシンプルにいい歌っていう、素直にソングライティングが活かされた曲が出てきてるんです。これ逆に世の中が浮かれてると暗い内省的な歌が多くなりますよね。世は歌につれ歌は世につれなんて言いますけど、つくづくその通りだなと思います。
 
物理的に大きなプロジェクトが動かせないというのもあるかもしれませんが、やっぱり皆、素直な曲を聴き手に真っすぐに届けたいという気持ちが強くなっているんだと思います。

テイラー・スウィフトからのサプライズ!急遽、新作「フォークロア」をリリース!!

その他雑感:

テイラー・スウィフトからのサプライズ!
急遽、新作「フォークロア」をリリース!!

テイラー・スウィフトのアルバムがサプライズでリリースされましたね。こんな時だからと、逆に今できることを積極的にトライして楽しんでいく。さすがテイラーさん、ポジティブですねぇ。

なんでもほぼリモートで作られたとのこと。それだけでもちょっとした驚きなんですが主要プロデューサーがなんとThe National のアーロン・デスナー、しかもBon Iverのジャスティン・バーノンも参加していてボーカルをとっている曲もある!タイトルが「フォークロア」というのも気を引かれます。

アーロン・デスナーとジャスティン・バーノンのコンビと言えばビッグ・レッド・マシンですよね。2年前でしたか、二人のコラボ・アルバムが出たの。このアルバムは僕も大好きで、このブログにもレビュー書きましたけど、ホントに素晴らしくって、その二人が参加するとあっちゃこれはもう聴かずにはいられないです。

僕はテイラー・スウィフトの熱心なリスナーではなく、手元にあるのは彼女が大ブレイクした「フィアレス」だけ。ミーハーですね(笑)。これは結構聴きましたけどただその後はね、どんどんセレブ化していって音楽の方までがっつりメインストリームに浸かっていきましたから、僕の興味は薄れていったんですけど、ここに来ておやおや、っていう力強さを感じてます。というのもジョージ・フロイドさんの事件後、ブラック・ライブス・マター運動をテロ呼ばわりするトランプ大統領に対し、「次の選挙では必ず落選させる」と発言したんですね。あぁ、彼女はそういう一面もあるのだなと。そこへ来てこのコロナ禍にも負けない創作ですから、これは俄然彼女に興味が沸いてきました。

さっそく今はSportifyで聴いてますけど、かなり良いですね。元々透明感のある切ない声の持ち主ですから静謐なサウンドがよく似合います。彼女はやっぱアコースティックな感じがいいですね。まだちらっとしか聴けてませんが愛聴盤になりそうな予感満載です。

さすがに急なリリースのせいかSportifyにリリックまだ載ってません。それに日本国内盤が出るのはまだしばらく先になりそうですね。僕は英語力が頼りないのでいつも和訳が記載されてる国内盤を買うのですが、これも間違いなくそうなりそう。それまではSportifyで楽しみたいと思います。

それにしても今年の僕の購入履歴、女性アーティストの割合が多くなってます。へイリー・ウィリアムズにフィオナ・アップル(←やっと国内盤が出て購入しました)にフィービィー・ブリジャーズ。ハイムも良かったです。世の動きを見てもこういう時は女性の方が柔軟なのかもしれませんね。

エンターテイメントとは何なのか

その他雑感:

エンターテイメントとは何なのか

 

僕はフィクションに如何にリアリティーをもたらすかがエンターテイメントだと思っています。事実だけを知りたければニュースを見ればいいし、専門的な学術書を読めばいい。でも僕たちがエンターテイメントに期待するものはそうじゃないですよね。言葉では説明できない心に響く何かを求めているはずです。

例えば。このブログでも度々記事を書いている佐野元春さん。僕は十代の最後に彼の音楽に出会って、音楽がただの音楽ではなくなったんですね。でも佐野さんの音楽は僕の日常とはリンクしていなかった。当時夢中になって聴いていた『No Damage』や『Someday』というアルバムで描かれる80年代の東京という都市生活者の風景というのは90年代の南大阪の田舎に住む僕の生活とはかけ離れたものでした。それでも僕にはまるでこれは僕の歌だと思うぐらいのリアリティーがあった。それは何故か。簡単に言うとそこには僕の想像力を喚起するフィクションがあったからだと思うんです。リアリティーはなにも実際に起きたこととは限らない。僕はそう思います。

でもフィクションにリアリティーをもたらすことは非常に難しいことです。エンターテイメントというのは作り物です。その作り物にどれだけリアリティーをぶち込めるか。言ってみればそこが作者の腕の見せ所。そこにはそれぞれの経験や築き上げた技術、もちろんセンス等々、一朝一夕にはいかない固有のアプローチがあるのだと思います。

けれど場合によってはその過程をすっ飛ばすことが可能かもしれない。工期を短縮することが可能かもしれない。コスト、労力を考えると省けるものなら省きたいという気持ちも分からなくもない。しかしそれはエンターテイメントという大いなる作り物という視点からは少し逸脱するものであるような気がします。

過程は作り手の魂でもあるわけです。従ってそこをすっ飛ばして得た即席のリアリティーが人の心を揺さぶることができたとしても、それは非常に脆い、いささか無理のあるリアリティーではないか。テラスハウスに限らず今はそうした即席のエンターテイメントが溢れているような気がします。

けれども即席のエンターテイメント=悪しきものではないですよね。例えばジャンクフード、ファストファッション、Youtube等々。もう僕たちの生活や価値観に組み込まれたものです。誤解のないように言いますが、僕は即席のエンターテイメントも好きだし、むしろそうしたもので育ってきたと思っています。

ただ大事なことはジャンクフードはドレスコードが求められるレストランとは違うという認識です。ジャンクフードには昨日入った初心者でも十年勤めたベテランでも同じ品質のものを提供できるという利点を持っていますが、料理の世界で何年も修行をした職人が作る料理とは異なりますよね。いちいち考えないけど僕たちはちゃんと分けて考えている。理解している。

そこのところを履き違えなければ何の問題もないということ。しかし中にはドレスコードを装う即席のエンターテイメントがある。逆に僕たちの側が即席のエンターテイメントにドレスコードを求めてしまう場合がある。そこの勘違いしないように僕たちはちゃんと見極めなければならない。そういうことだと思います。

今回のコロナ禍で分かったようにエンターテイメントは僕たちにとって無くてはならない大切なものです。だからこそエンターテイメントとは何なのか、創作におけるリアリティーとは何なのかということを作り手も受け取る側も今一度よく考える必要があるのかもしれません。

マイノリティの笑い

その他雑感:
 
「マイノリティの笑い」
 
 
僕も志村けんを見てゲラゲラ笑った世代ですから、追悼番組とかやってるとつい見てしまうんですけど、志村けんは万人に愛されたコメディアンみたいな言い方をされるとちょっとんんん?ってなります。志村けんってそんなみんなに愛されてたっけ?
 
で思ったんですけど、志村けんってやっぱマイノリティーの笑いですよ。世間では馬鹿にされるような人、あるいは見向きもされないような人を演じて笑わせる。バカ殿も変なおじさんも震えっぱなしのおばあさんもよく考えりゃやばいです。
 
そういう表の世界では目を背けられがちな人にスポットライトを当てて、バカやって笑わせる。いや、笑わせるではなく、いかに笑われるかということを考えていたと本人も言ってますよね
 
あと下ネタも異常に多いでしょ。今どきゴールデンであんなに下ネタやってたの志村けんぐらいじゃないですか。しかも口から食べ物出たり汚いし(笑)。実は僕もバカ殿をうちの子供たちが見るのはちょっと警戒してしまうんですね、下ネタ多いから。 自分が子供の頃は涙を流して笑ってたくせに。
 
だからこの構図っていうのはとても面白くて、やたら下ネタが多いとか世間的には危ない人が沢山登場するってのは、もしかしたら常識とか正しいとされるものへの異議申し立てみたいな気分はあったんじゃないかと、ちょっと意識していたんじゃないかと想像してしまうんですね。みんなそんな変わらないでしょっていう。
 
NHK BS でやってた一見大人のコント・ドラマの「となりシムラ」とか「探偵佐平60才」も社会的にちゃんとしてそうなおじさんの下ネタ全開だったでしょ。そういう部分を敢えてひけらかすみたいな、大げさに言うと、タブーを表に出すっていうことを意識してたのかもしれないですよね。
 
だからやっぱりみんなに愛された笑いの人というまとめ方はちょっと違うと思うし、一部の人は眉をひそめる、そういうマイノリティーの笑いを大向こうを相手にしてやりきっていた人なんじゃないかと思います。
 
R.I.P

社会的な事柄に関与しようとしない日本のカルチャー

その他雑感:
 
社会的な事柄に関与しようとしない日本のカルチャー
 
 
ついにというかようやく緊急事態宣言が出されたのだが、昨日の仕事の帰り道、地元ではちょいと有名なアイスクリーム店の前ではいつもと変わらず多くの若者がたむろしていた。まぁ若者というのはふわふわとしているもの。総理大臣や専門家委員会が何を言おうと彼らはニュースなんざ見ないだろう。かくいう僕も若いころはそうだったし偉そうなことは言えない。
 
そこで一役立つのが有名芸能人。彼らが一言言えば効果テキメンだと思うがいかがでしょうか?それこそ海外ではまだこれほど大事になる前の初期の段階で、ビリー・アイリッシュやテイラー・スウィフトといった若者に発信力のあるアーティストが「家にいよう。自分を守るだけじゃなく、大切な人や他の人にうつさないために」みたいなメッセージをさかんに出していたし、日本人でも最近で言えば野球のダルビッシュやサッカーの香川などが素晴らしいメッセージを発している。
 
数年前のフジロックで音楽に政治を持ち込むな論争があったけど、芸術なんてのは社会と切っても切れない間柄なわけで、アーティストが社会的な事柄にコミットするのは当然だと思うんだけどなぁ。
 
あのアイドル事務所の人たちやあのダンス・ボーカル・グループの人たちや他にも沢山若い子に人気のバンドはありますから、そうした人たちがステイ・ホーム的なメッセージを発信すれば都知事が言う何百倍も効果があると思うんです。「みんな学校もなくて、自粛自粛でしんどいだろうけど頑張って」っていう優しい言葉だけでなく、主体的な言葉で社会的なメッセージを発してもらいたいなと。繋がろうとかはすぐ言うのになぁ。

藤浪選手の敏感力

野球のこと:

「藤浪選手の敏感力」

 

一応毎日マスクをして出社しています。これは予防もあるけど、人にうつさない為、これが一番大きいですね。新型コロナウィルスは陽性であっても症状が表に現れない場合があるので、知らないうちに人にうつしているかもしれない。今の状況を考えれば自分は大丈夫、ではなく自分はもうそうかもしれないと、認識を改めた方がいいかもしれませんね。

そこで。阪神タイガースの藤浪選手です。味覚と嗅覚が近頃おかしいということで自ら申告し、PCR検査の結果、陽性反応が出たとのことです。

新型コロナウィルスは味覚と嗅覚を感じなくなる。これだけこのウィルスが蔓延しているのにこの事を知っている人がどれだけいたでしょうか。恥ずかしながら僕は知りませんでした。要するに藤浪選手は自ら調べて知っていたということですね。

これは藤浪選手が普段からいかに自分の身体に気を配っているかということと、野球選手というのはある意味社会的責任を負うのだということをしっかりと自覚している、ということを表しているのだと思います。

僕は子供の頃から阪神タイガースのファンですが、最近はチームというより、選手一人一人を応援する気持ちの方が強いです。藤浪選手に対してはこの数年大変な苦労をされていますから、その気持ちが特に強いです。

最近は鈍感力なんて言葉があります。少々鈍感な方が物事は前に進むし、精神的にも健全でいられるのだと。確かにそうした一面もあるかもしれません。でも僕はそうした声に違和感があります。やっぱり鈍感な人は鈍感なままだし、敏感な人は敏感なままで、結局敏感な人が割りを食ってしまうのが世の中ですから。

敏感な人は無理に鈍感になる必要はないんですね。敏感なままでいいのだと思います。人が気にしない些細なことに気がつける、これははっきり言って利点です。僕も大阪弁で言うところの気にしぃですから、余計なことに気を揉んでしんどい思いをすることが沢山あります。けど何も気にしないで人に迷惑かけるよりよっぽどいいし、気にすることで少しずつでも階段を登っていけるのではと思っています。

藤浪選手は非常にデリケートな選手だと思います。だから彼に対してはもっと大雑把でいいよとか、あんまり深く考えるなよとか、精神的なアドバイスをする人が多いかもしれません。

でもきっと精神論ではないんですね。藤浪選手は普通の人以上に色々なことに気付いています。それに知らぬまに上手くいくようになったというのでは彼も納得しないのではないでしょうか。

これまでも色々なことに気付いた上でじゃあどうするんだと具体的な解決法をいくつかトライアルしてきたのだと思いますし、恐らく陽性反応が出た今も次は何をすべきかということを理知的に考えているのだと思います。

鈍感力なんてくそ食らえです(笑)。藤浪選手には今のまま、その素晴らしい敏感力で大活躍してほしいです。これからも応援したいと思います。

「~させていただく」が気になる

その他雑感:

「~させていただく」が気になる

 

先日、娘の付き添いでE-girlsのコンサートに行ったんですけど、彼女たちが「歌わさせていただく」やら「出演させていただく」やら事ある毎に「~させていただく」と発言するのは何に対してへりくだっているのかよく分かりませんでした。

これは観客に向けて話してかけているので、観客に対して「歌わさせていただく」と言っているでしょうか。いや、観客にそんな権限はないし観客の側も「歌わさせてあげている」という感覚は全くないと思われるので、彼女たちはいちいち主催者であるプロモーターや所属する事務所のお偉方に公の場を通じて「歌わさせていただく」とへりくだっているのか。ま、そういうことではないでしょう(笑)。

コンサートはですね、非常に良かったんですよ。うちの娘も若い十代の女の子を中心とするお客さんも非常に満足していたと思います。コンサートというのは距離が一気に縮まるんですね。距離がグッと縮まってまた好きになる。そういう効果があると思うんです。ところが事ある毎に「~させていただく」と表現するのは折角に縮まったそうした距離をわざわざ演者の方から遠ざけているような気がするんです。

いいんじゃないですか、そんなへりくだらなくても。もっと堂々とね、パフォーマーとして素晴らしい能力をお持ちなんですから自分の意志として「歌います」、「共演します」と宣言してほしいです。何かにおもんばかったような、ちょっとエクスキューズが働くような言い方はしないでよって。

娘に聞いたら、そんなこと娘に聞かないですけどね、もし聞いたらそんな風には感じないと答えると思うんですけど、でもこれは大人の視点としてね、彼女たちも十分な大人ですから、というより一流の歌い手でありダンサーであるわけですから、そういう意識は持ってほしいなぁと思いました。なんでそんなとこで変な気を使わなくちゃいけないんでしょうね?やな世の中です。