改元を機に

その他雑感:

「改元を機に」

年齢を数える時に昭和64年が平成元年で、平成31年が令和元年だから、オレは今何歳だなんていう数え方は誰もしないだろう。

てことは織田信長は「ワシは天文3年の生まれだぎゃ。天文は23年までで翌年は弘治になって、弘治は3年まででその次は永禄で、永禄12年の翌年が元亀元年で今年は元亀3年。てことは今ワシは39歳だがや」なんて数え方はしなかったはず。話が急に戦国時代に飛びましたが。

今我々が桶狭間の戦いの時の信長は27歳で、本能寺の変の時は49歳だったというのを知るのは恐らく信長の側近とか祐筆とかがしっかり書き留めていたからで、当の本人は自分の歳を正確に把握していたかどうか。出自が農民の秀吉の年齢が曖昧なのはもっともな話だ。

何が言いたいかって、昔の人は自分の歳に無頓着だったんじゃないのって話です。昔の日本人は西暦なんて知らなかった訳だから元号で数えなきゃならない。でも昔はころころと元号が変わったもんだから、いちいち天文何年だから何歳だとか数えてられないだろうし、ていうか庶民はそんなこと知らない。てことは自分の年齢は去年は幾つだったから今年は幾つだろうなぐらいの積み上げ式の数え方しか出来なかったんじゃないだろうか。

そうすっと自分の正確な年齢もそのうち分からなくなって、要するに「そういや近所の平蔵が今年40っつってたな、じゃあオレも今年は40か?」ぐらいのテキトーな認識だったんじゃないだろうか。
現代に生きる我々は同い歳のあいつはあーなのに自分はどーしてこんななんだとか、何歳だからこうしていなくちゃならないとか、わりと年相応ってことを気にしがちなんだけど、この際昔にならってその辺はなんとなくでいいんじゃないでしょうか。

元号っていうのはそういう年齢に曖昧さをもたらす効用があったのかもしれず、ならばそれに素直に従って行きましょうと。改元を機に年齢なんて大体でいいんじゃないかと思った次第です。これからは昔の人にならって「そういやオレは幾つだったっけ?」ぐらいの大らかさで行きましょうか。

白い壁に蚊を一匹

ポエトリー:

「白い壁に蚊を一匹」

 

この年になってしたことと言えば
白い壁に蚊を一匹、殺しただけで
始まりとも気づかぬまま歩いた人生を
人生とは気づかずに通りすがる旅人を
声にかける
気にかける
あの子の夕べを
冷めたスープに乗っかって
全部平らにする旅に出る度に
思いのほか外爽やかな風吹き
吹きっさらしの挨拶に触れる
さっきまでそこにいたわたくしの
貴方はわたくしの宝物になるべきですと
きっとそのように言ったはずですが
路傍に寝そべり
出鱈目に並ぶ形を指でなぞりながら
いっそのこと似せてしまえばいいのです
誰かの声形に同調して
一歩でも二歩でも進んで行けばいいのです
それを邪魔とは言わずに
後悔にはならなかったと
後で振り返った時に
その時さえ
あなたと一緒ならいいのですけど
今、血の匂いがツーンとしましたし
いずれ私たちもサヨナラでしょうか

 

2019年3月

私たちの仕組み

ポエトリー:

「私たちの仕組み」

 

実際、あなたの為を思って
此処等にある素材を使って
一つの織物に仕上げてみる
先ずは手当たり次第

必ず、
一旦ハイと答えるあなたの前頭葉は微かに赤に振れ
一方で、
ジグザグに歩く子供たちの
色とりどりの方程式を解く解を視界の隅に捉えたはず

ところが、
金輪際、愛は重箱の中
納めた分だけ夜は腫れ上がり
頑なな定規があてがわれた上唇の
夜露にほどかれてたなびく匂い

よい知らせを待つ時間は長く感じられ
それは風呂上がりには懐かしい記憶
程なく、
遅い時間にお帰りが訪れる

手につたない名を取り合って
とりとめのない夜深むれば
欠けた貝殻の縁
苔むす程に合わされり

一つの織物は
薄い色にして仕上げた
気持ちは平らに記憶は折り重なる
その冷たさが私たちの仕組みです

 

2019年3月

Adult Contemporary/Milo Greene 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Adult Contemporary』(2018)Milo Greene
(アダルト・コンテンポラリー/マイロ・グリーン)

 

こういう音楽がどっから生まれたんだろうと彼らのプロフィールを確認するとLA出身だという。あぁLAなのかと意外には思うものの考えてみれば、一見フォーキーな雰囲気にもかかわらず、実際は様々なアーティストを経過したような節操の無さは確かに都会的かもしれない。LAと言っても広いから、都会とは限らないけどね。

様々なアーティストを経過と言ったけど、それは本人たちも自覚しているようで、#1「Be Good to Me」のPVでは何故かロッド・スチュワートで、#2「Young at Heart」ではブルース・スプリングスティーンが登場。80年代当時の彼らのPVを編集したものになっている。公式PVかどうかは知らないけど、だとすればなかなかのユーモア。

#6「Slow」はアルバム『トンネル・オブ・ラブ』期のブルース・スプリングスティーンで、まんま『トンネル~』に入ってそうだ。ちなみにこの『トンネル~』はかの『ボーン・イン・ザ・USA』の後のアルバムで思いっ切り地味だけど割と好きなので、僕的にはツボ。他の曲の元ネタが何かは僕にはよく分からないけど、多分その辺の隙間を突いてくる感じなんだろう。冒頭と途中に挟まれる短いインストのタイトルが「Easy Listening」というのも何か示唆的。

あとこれは前にも言ったが、彼らの音楽というのは箱とか器にみたいなもんで、その中で反響される音こそがマイロ・グリーンということになる。なので、反響させるメロディーというのは、いくら~っぽくても全く問題はない。その~っぽいメロディがどのように反響されるかが大事なのだ。つまりはマイロ・グリーンというのは入れ物で、その存在性の希薄さ、存在などはなから無かったような手応えの無さこそがマイロ・グリーンということになる。勿論これは褒め言葉です。

しかしいくら~ぽかろうが、マイロ・グリーンにしかならないところが面白い。時代とは関係なく、僕たちが今いるところとは別の世界で鳴らされる音楽。ということで、まぁベル・アンド・セバスチャンみたいなもんか。デビュー時から比べると人数は減ったみたいだけど、ベルセバのように長く活動してもらいたい。

 

Track List:
1. Easy Listening Pt. 1
2. Be Good to Me
3. Young at Heart
4. Drive
5. Please Don’t
6. Slow
7. Move
8. Runaway Kind
9. Easy Listening Pt. 2
10. Your Eyes
11. Wolves
12. Worth the Wait

Milo Greene/Milo Greene 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Milo Greene』(2012)Milo Greene
(マイロ・グリーン/マイロ・グリーン)

 

米国出身の男女混成バンド。幾つかあったバンドが何となく集まって出来たという経緯もあってか、誰がボーカルだとか誰がギターだとかいう取り決めはないようだ。聴いていても特定の個人が前面に出てくるというのではなく、何となくマイロ・グリーンというバンドがぼんやりと浮かび上がってくるくらい。しかしその靄のかかったぼんやりとした感じこそがこのバンドの記名性と言っていいだろう。

まるで彼岸から聴こえてくるような、或いは人里離れたあるコミュニティから発せられているかのような音像は何を意味するのか。僕たちのリアルな生活とは程遠いファンタジックな音像は、聴き手の脳内でループするドラッグのように幻想的だ。幻想的な旋律は僕たちの奥深くにある遥か彼方の記憶と結びつき、訪れたことのない風景を僕たちの前に現出させる。

それはやはり幻想なのか。音楽と言うものは耳で聴くものであるが、この場合、体全体へ静かに浸透していく感覚がある。音楽を通して転写された風景はしかし聴き手個人のありよう。訪れたことのない風景であろうとそれが喚起されるのは、それが僕たちの体の中にあるもう一つの現実だから。つまり隠し切れない狂気は僕たちのもの。

マイロ・グリーンの音楽が薄ぼんやりと聴こえるのは心の内で鳴る音楽だから。体全体を通して浸透していく音像がいつも揺らめいているのはそのせいだ。言い換えれば、マイロ・グレーンの音楽を鳴らしているのは僕たち自身でもある。

 

Track List:
1. What’s the Matter
2. Orpheus
3. Don’t You Give Up On Me
4. Perfectly Aligned
5. Silent Way
6. 1957
7. Wooden Antlers
8. Take a Step
9. Moddison
10. Cutty Love
11. Son My Son
12. Polaroid
13. Autumn Tree

2019年 ヴィンテージ・トラブル ジャパン・ツアー 4月18日 梅田TRAD 感想

ライヴ・レビュー:

2019年 ヴィンテージ・トラブル ジャパン・ツアー 4月18日 梅田TRAD

4月18日(木)に大阪の梅田TRADで行われた、ヴィンテージ・トラブルのライブへ行って参りました。いや~、凄かった。史上最強のライブ・バンドと称されるのも納得。激しいのなんのって。思ったより年齢層は高かったんだけど、皆、ボーカリストのタイ・タイラーに煽られて踊りまくり。最高に楽しかったぁ。けど、クタクタ…。先ずの感想はその一言です(笑)。

梅田TRAD へは初めて行ったのですが、東梅田商店街を横にスッと入ったところにあって、目の前に来るまでライブ・ハウスとは気付かない。恐らくスマホがないと迷ってました。ありがとうグーグル(笑)。

18時30分の会場から整理番号順に入りましたが、さっきも言ったとおり年齢層は高く皆ちゃんとした大人だし、スタッフも馴れたものでスムーズに中へ入ることが出来ました。早めに入れたので前から5列目ぐらい。しかもちょうどど真ん中!図らずもすんごい場所を取れました。

開演は19時30分。定刻通りに始まりました。ヴィンテージ・トラブル登場!うわ~、皆シブい!しかもかつてない至近距離!!う~、これだけでアガルぜぇ~。タイ・テイラーさん、おすまし顔の表情作って待機。始まるは意表を突くスローソング、「Nobody Told Me」だ。

続く2曲目ではロック・チューン(聴いたことなかったけどネットで調べると「Knock Me Down」という曲でした)。いきなりタイ・テイラー、仰向けで観客席へダイブ!え?2曲目でもう?!すぐに僕の頭上にもやって来ました(笑)。重っ、堅っ、筋肉質っ。途中、タイ・テイラーさんは逆立ち状態になったりしながらぐるっと回ってステージへ無事帰還。序盤だから客も元気だし、しっちゃかめっちゃかでしたね(笑)。

MCもかなり多めでした。僕の英語力だと何となくしか分かりませんでしたが…。ジョークも結構言ってたみたいでウケてました。でもジョークは僕の英語力じゃ無理ッス。皆、すごいなぁ。

彼らの特徴としては豪快なロック・チューンとソウルフルなスロー・ソング。この二本立てが基本なんですが、昨年出たアルバム『ChapterⅡ-EPⅠ』があれ?どうしちゃったの?っていうぐらいポップな作品でディスコっぽいのもあったんですね。ライブではそこからの曲がいいアクセントになっていました。「踊ろう!」っていう掛け声とともにちょっと違う雰囲気が出て楽しかったです。

で、やっぱ歌上手いッス。いや、そりゃ当然上手いんですけど、雰囲気が凄くあるというか、やっぱソウルですよね。魂を直接震わせる感じ。歌い方が独特で、後ろにずらして歌う人は割りと多いんだけどタイ・テイラーは前へ食い気味に歌うんです。それが先走ってるっていうんじゃなくてスムーズで、こういう感じでカッコよく歌える人ってあんまり居ないんじゃないかと思います。

まぁ兎に角タイ・テイラーですよ。煽り方が半端じゃないから、こっちは疲れてんだけどまたぐいっとテンション上がっちゃうんです。盛り上げるのがホント上手!僕が今まで見た中では多分一番タフなフロント・マンですね。もう何度フロアに下りてきたことか(笑)。最後は僕の目の前至近距離1mも無いとこで歌ってくれちゃったりしたもんだからもうたまらんす。ここはイケイケ女子なら抱きついちゃうところでしょうな。

終わったのは9時過ぎ。アンコールは2、3分で出て来ましたから、ほぼ2時限歌いまくりの踊りまくりの叫びまくりですよ。しかも最後は必殺の「Blues Hands Me Down」ですから、いや~、何度も言いますがスゴイっす!アゲアゲの「Strike Your Light」とか「Run Like The River」ももうこれで終わりかっていうぐらい振り切ってましたからね、我々も(笑)。みんなもよく頑張りました。

しかしまぁ、一体感が凄まじかったですね。当然パフォーマンスをするのはステージのヴィンテージ・トラブルの面々なんですが、何か一緒にやってるような、勿論それもタイ・テイラーさんのひっきりなしのコミュニケーションがあったればこそなんですが、その強引な楽観性というか、元気ない人もこっちに来て一緒に歌おうよっていう、強引に引っ張り上げてくれるようなポジティビティがそれこそ狭いライヴ・ハウスですから伝播するんです。だからショーが終わってメンバーが舞台に並んで挨拶する時だって、何かオレ達もやったぜっていう、今日は皆で素晴らしいショーをやったんだっていう一体感がバンドにも我々にもあるんです。これはホントに貴重な体験でした。クタクタでしたけど(笑)。

タイ・テイラーさんはいつも心地よく迎えてくれる日本が大好きだって目一杯讃えてくれたけど、でも日本だけじゃないんだな。きっとどんな国に行っても分け隔てなくオープン・マインド。そうやってどこに行ってもこの日見せてくれたような一体感を、親しさを見せてくれるんだろう。

そうなんです。アーティストと観客って距離があるっていうか、やっぱり例え近くに来ても、ちょっとこっちがビビってしまうところがあるんたけど、彼らの場合は実際何度も目の前までやって来たけど、親しさを感じるというか素直にイエーイってなれるんですね。あまりにもフロアに下りてくるんで、こっちが慣れちゃったというのもあるかもしれないけど(笑)、変な緊張感はなく素直に楽しめる、そういう雰囲気がある人たちなんです。

兎に角もう圧倒的なパワーでした。こちらも負けじと応えましたから疲労困憊(笑)。けど、体はクタクタ心は元気、って感じです。うん、我ながら上手いこと言うた。体はクタクタ心は元気。これこそがヴィンテージ・トラブルですね。こりゃしばらくは彼らの曲が頭から離れないぞ。アリガトウゴザイマスッ!!

「シェイプ・オブ・ウォーター」と「火の鳥~復活編~」について

フィルム・レビュー:

「シェイプ・オブ・ウォーター」と「火の鳥~復活編~」 ネタバレ注意!!

 

「シェイプ・オブ・ウォーター」のあれこれを思い巡らす中でラストを思い返していると、手塚治虫の「火の鳥~復活編~」を思い出した。「火の鳥~復活編~」のあらすじを簡単に説明すると、、、。

舞台は数百年後の未来。エアカー(=空飛ぶ車)から墜落死した青年レオナは、最新の科学技術によって息を吹き返す。しかし人工脳によって再生したレオナの脳はあらゆる生物を無機質としか見れなくなってしまい、人の造形がまるで怪物か何か物の塊のように見えてしまう。ところがある日、レオナは美しい人間の姿かたちをした女性を発見する。彼女の名はチヒロ。レオナは大いに喜びチヒロに愛の告白をするが、レオナの目に美しい人間の姿として映るその彼女は、実は美しくもなんともない鉄の塊、作業用ロボットに過ぎないのだった、、、。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のイライザが世界との違和感を感じているのと同じように、「火の鳥~復活編~」のレオナも違和感を感じている。そしてイライザが半魚人に同質のものを感じたように、レオナは作業用ロボット、チヒロと心を通わせる(そう。この物語はロボットの心を持ち始めた人間と人間の心を持ち始めたロボットとのふれあいの物語でもある)。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のラストは、殺されたイライザが半魚人の治癒能力によって命を吹き返す中で、半魚人と同じ水中で生きる能力を身に付け、そして二人は自分たちの場所へと旅立っていくというものだ。

一方の「火の鳥~復活編~」ではどうか。物語は謎解きの要素もあり話が大きく展開していくが、途中、自分を復活させたドクターに、「僕は人間なんですか!ロボットなんですか!はっきりさせてください!!」と叫ぶレオナは、最終的に自分の記憶をチヒロに移植し、チヒロと一つになることを選ぶ。そして生まれたロボットが汎用型作業ロボット、ロビタ。ちなみにロビタは「火の鳥」シリーズを通して登場するキャラクターでその誕生秘話というオチもついている。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のギレルモ・デル・トロ監督が「火の鳥~復活編~」のことを知っていたとは思えないが、要は世界に違和感を感じている主人公が世間からは異質なものとされる物体と心を通わせ、最終的には二人は同種族になる、一つになるという似たようなエンディングを迎えるというのはなんとも不思議な類似性だ。

結局、人にとって最も幸せな事ことは、自分を最も理解してくれる人に出会い、共に暮らすことなんだということなのかもしれない。

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を再考す

フィルム・レビュー:

映画『The Shape Of Water/シェイプ・オブ・ウォーター』を再考す

 

映画「シェイプ・オブ・ウォーター」のどこがいいか分からないと言う友人のひと言を受け、少し考えた。結局、合う合わないはあるけど僕の考えたところによると、「シェイプ・オブ・ウォーター」はこんな話ではないだろうか。

例えば。僕たちはあるコミュニティーに属している。その最たるものは国家。もっと身近に言えば、職場、学校、クラス。それこそ無人島で自活でもしない限り、僕たちはある一定の社会に属している。

けれどそのコミュニティーというのは厄介で、あるルール、常識を強いてくる。勿論、そのおかげで僕たちの社会は破たんせずに成り立っているのだが、中にはそのコミュニティー内の常識が息苦しくなることがある。極端な例を出すと、女性は女性らしくとか男性は男性らしくとか。殊に成り立ちが村社会である日本ではその傾向はより強く、場合によっては同調圧、多様性の拒否といった形で表れることになる。

少し大げさに言ってしまったが、誰しも自分が属する、或いはかつて属したコミュニティーの中で、大なり小なりのそうした違和感を感じたことはあるはずだ。

そこへある日、異端者が現れる。これも極端な例で言うと、外国人が職場にやって来る、教室にやって来る。それも割と身近なアジア人ではなくほとんど接したことのないアフリカ人だとする。異端者と言ったが、ここでは宗教が違う、生活様式が違う、美的感覚が違う、そうした僕たちの日常とはかなりの程度距離のある文化的な差異のことを言う。恐らく、多くの人間にとって彼(ここでは例として‘彼’とする)の態度は理解しがたい。彼の存在を異質なものとして取り扱うだろう。場合によって彼はいわゆるホームシック、孤立感を深め、強烈に「ここは自分の居場所ではない」と感じるかもしれない。

一方で、元々そのコミュニティーに属している人たちに中にも、今いるコミュニティーにどうしても馴染めない人がいるかもしれない。普段彼女(ここでは例として‘彼女’とする)はそれを表には出さないが、心の内に強烈な違和感を感じている。そこへある日異端者が現れる。彼女が彼の違和感を同質のものではないかと感じ始めたとすれば、彼女が彼に興味を持つ、ある種の仲間意識を感じ接近するのも理解できる話だろう。

すると思った以上に彼の疎外感は彼女の疎外感と重なるところがある。自分が育った、暮らした社会の中に自分は見いだせないが、自分が行った事も無い場所の文化風土に初めて触れた時に、これこそ私の馴染むものだ、と感じることが時には起こる。恐らく、人にとって最も嬉しいことは自分を理解してくれる人に出会うことではないだろうか(最もつらいことはその逆ではないかとも思う)。

今言った極端な例に限らず、人は誰しも違和感を感じることがある。大きくそれを感じている身近な人にその違和感を払しょくできる機会が訪れたなら。友人はそれを了解するだろう。手を差し伸べるだろう。映画を観た人ならお気付きだと思うが、今述べた‘彼’が半魚人であり、‘彼女’がイライザのこと。手を差し伸べる人々がイライザの友人たちのことである。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のどこがいいか分からないと言った僕の友人は、その場面必要?ってのが幾つかあって、そこにも拒否反応を示したとも言った。恐らく冒頭のイザベルの自慰の場面もその一つかもしれない。

主人公のイザベルは過去の出来事がきっかけで声が発せない。身なりも質素で一見静かな目立たない女性だ。その設定上、映画の観客は彼女を無意識のうちに貞淑な人と定義付けるかもしれない。けれど彼女は淑女でも無垢な存在でも何でもない。普通に性欲を有する僕たちと同じ存在。いい面もあれば、人に言えたものではない部分を心に有する僕たちと同じ存在なのだ。冒頭の自慰の場面はそのメタファーだったのだと思う。

僕だって多少の違和感は感じている。けれどそれは殊更ネガティブに反応するほどのことではない。ある社会に属している限り誰もが有するものであると分かっているし、それへの対処法も知っているからだ。けれど、そうではなくなる日がいつか来るかもしれない。僕たちがよく知っているように、今ある日常は明日もあるとは限らないのだから。加えてSNSという新しい社交場が重きをなす現在。この映画の出来事は僕たちの日常とはかけ離れた出来事として、突き放してしまえるものでもないのではないだろうか。

映画『ヴィンセントが教えてくれたこと』 感想レビュー

フィルム・レビュー:

『ヴィンセントが教えてくれたこと』(2014年 監督:セオドア・メルフィ)感想

 

冒頭にジェフ・トゥイーディーの曲が流れてきたのを聴いて、僕はこの映画とは馬が合うと思った。この映画は他にもいい曲が沢山流れていて、エンドロールでかかるディランの曲なんかは主役のビル・マーレイがアドリブで演じていて、滑稽な佇まいはそれだけで一つの作品になる程の出来栄えだ。

監督のセオドア・メルフィはこれがデビュー作ということなので、きっと映画を作るにあたっては使いたい曲が山ほどあったのだろう。どっちにしてもジェフの曲が2曲も採用されていたので、僕としてはそれだけで何ポイントかは上がる。

先に述べた主役のビル・マーレイは飲んだくれで嫌われもののロクでもない爺さん。家には時折妊婦ながらも商売に懸命な馴染みの‘夜の女’が真昼間からやって来る。そんなある日、隣に親子二人が引っ越してくる。小学生にしては小柄な少年とその母親のシングルマザーだ。メインの登場人物はこの4名で、言ってみれば皆、人生につまずきまくっている連中だ。

話は変わるけど、Eテレでやってた大阪釜ヶ崎の特集「ドヤ街と詩人とおっちゃんたち~釜ヶ崎芸術大学の日々~」の録画をようやく観た。釜ヶ崎大学なる地域に根差した芸術学校を立ち上げた詩人の上田 假奈代(かなよ)とドヤ街のおっちゃんたちのドキュメンタリーだ。

そこでは芸術に関するワークショップが連日行われる。最初は怪訝な顔をしていたおっちゃんたちも自身の作品を持ち寄るようになる。次第に芸術やそこでの文化的交流ががおっちゃんたちの人生に違った側面から光を照らすようになる。勿論いい事ばかりではない。暴力沙汰やややこしい問題は起きる。それでも上田假奈代始め、そこに関わる人たちは釜ヶ崎という場所に根を下ろし続ける。

映画のビル・マーレイ演じるヴィンセントは確かにろくでもない奴だ。けれど、隣に越してきた親子を捨て置かない(最初は金目当てであるけれど)。少年もヴィンセントを捨て置かないし、身重の娼婦も何かとヴィンセントの世話を焼く。一方のヴィンセントだって、少年のことを考えているし、母親のことを考えてるし、娼婦のことも気に掛けている。人生につまずきまくっている4人は誰かを頼らざるを得ない一方で、誰かを捨て置いたりは出来ないのだ。

僕は果たしてどうだろう。この映画は基本コメディだし、最後もいい感じで終わるし、観ている方は、あぁいい話だなぁで終わるかもしれない。けど実際、そんな人たちが目の前に現れたとしたら。僕たちは映画の登場人物のように振る舞えるだろうか。

簡単な事ではないけれど、人生がこの映画のように基本コメディであるならば、手の届く範囲でもう少しやっかいなことになってもいいのかもしれない。それが僕たちの人生にも違った側面から光を照らしてくれるのかもしれないのだから。

「ヴィンセントが教えてくれたこと」とは。いや、ヴィンセントだけじゃなく、彼らが教えてくれたことは、もしかしたら人生を少しだけ楽しく生きる工夫なのかもしれない。

Go/Jonsi 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Go』(2010)Jonsi
(ゴー/ヨンシー)

 

ヨンシーはアイスランド発のシガー・ロスというバンドのフロント・マンで、ヘッドライナー・クラスの大物バンドなんですが、私は名前ぐらいしか知りませんでした。ま、ヨンシーという名前に引き寄せられ、なんとなく聴き始めたんですけど、1曲目の「Go Do」からもうぶったまげましたね。ヨンシーさん、冒頭からこりゃ鳥の声マネですか?

歌唱はほぼファルセット。ていうか地声もこんな感じなのか。声変わりしていない少年みたいな、いや少年じゃないなこれは。彼はそのルックスや声からも妖精だなんて称されることもあるようですが、私にはなんだかアンドロイドのように聴こえます。心を持ったロボット。それはつまり少年じゃなく老成しているから。アイスランドですから地理的に見ても地球の歴史が書き込まれたかのような声。ということで、これはやっぱり生身の人の声ではごさいませんな。

この「Go Do」はストリングスや管楽器もふんだんに使われていますが、オーケストラな感じはしない。やはり優雅で中性的。そこにドラム、と言うより太鼓(と言った方が的確か)がドコドコと舞台を少しずつせり上げていくような高揚感をもたらす。曲自体もドラマチックに展開してゆくから、まるでアイスランドの大地をドローンで空撮するかのようなイメージ、山河を駆けてゆくイメージ。つまり祝祭のような音楽ですね。

続く2曲目「Animal Arithmetic」では更にスピードアップし、アクロバティックなドカドカした太鼓が曲全体を引っ張っていく。やっぱり祝祭やね。3曲目の「Tornado」になるとテンポはスローに。この人どっから声出てんの?っていうヨンシーのハイトーン・ボイスを堪能できる曲。まるでソプラノ歌手のようでいながら、かしこまった感はなくポップな仕上がりは流石というべきか。後半に向けてハイトーン・ボイスは益々高くなってクライマックスを迎えます。

後半に入るとそれこそ極寒地を思わせる厳粛なナンバーが続く。最初に述べたように異世界を覗いているような景色が時に足早に、時にゆったりと流れて行く。人類の故郷を感じさせる温かみ。けれどそこには幾ばくかの狂気を孕んでいる。そんな音楽ではないでしょうか。

まぁ兎に角ご一聴を。かつて耳にしたことなないオリジナリティ溢れるサウンドにきっと度肝を抜かれることうけあいです。

 

Track List:
1. Go Do
2. Animal Arithmetic
3. Tornado
4. Boy Lilikoi
5. Sinking Friendships
6. Kolniður
7. Around Us
8. Grow Till Tall
9. Hengilás

(Bonus Track)
10. Sinking Friendships (acoustic)
11. Tornado (acoustic)