Sones & Eggs/佐野元春 感想レビュー

Sones & Eggs(1999年)/佐野元春

 

2000年はちょうど佐野のデビュー20周年で、アニバーサリー・ツアーを行ったりベスト・アルバムを2枚出したりと、それっぽい活動を盛んにしていた時期だ。20周年だから新しいアルバムをリリースしてファンの皆に喜んでもらおうという佐野らしからぬ理由で作られたこのアルバムは、正直言うと焦点がいまひとつ絞り切れていない。やはり佐野は作りたい時に作るべき人なんだよなぁと思ったりもするが、この頃は単に佐野自身の創作活動としてもあまり明確なビジョンを持てなかった時期だったのかもしれない。

このアルバムで佐野がチャレンジャブルだったのは楽曲そのものというより、創作方法というプロセスだ。元々佐野は日本全体で5番目という速さで自身のサイトを立ち上げた程のコンピューター・フリーク。80年代中盤から行っていたスポークン・ワーズにおいても、自身がコンピューターで作り上げたトラックに乗せて詩を朗読している。この時の佐野はその表現方法をメインの創作、ポップ・ソングの領域へと押し広げてみようとしたのだろうか。というより単に一度は取り組んでみたかったアイデアだったのかもしれないが、そういう意味では、当時のバック・バンドであるザ・ホーボー・キング・バンドと共にウッドストックまで出向き徹底的にバンド・サウンドにこだわった『The Barn』(1998年)の後というのはちょうどよいタイミングだったのかもしれない。

しかし結果的に言えば、そのトライアルは上手くいかなかった。佐野はサウンドをよく乗り物に例える。フォークであろうがロックンロールであろうがヒップホップであろうが何でもいい。言葉とメロディーを上手く乗せてくれる乗り物であれば何でもいいと。結局、この時の一人での打ち込みサウンドは佐野のソングライティングを受け止めるだけの乗り物にはなり得なかった。佐野自身も一人で作っても面白くなかったと後に冗談めかして述懐しているが恐らくそれは本心だろう。

しかし曲そのものに目を向けていけば、質の高い曲が多く収められている。佐野はライブやなんかでよくアレンジを変えて演奏するので、当時の僕はこれらの曲もいずれライブなどで新しくリアレンジしてくれたらなぁなどと思っていたが、実際に後の裏ベスト『Grass』(2000年)やカバー・アルバム『月と専制君主』(2011年)、『自由の岸辺』(2018年)でこのアルバムからの計4曲が再レコーディングされている。

本作を制作するに当たって、佐野は自身の作品のどういう部分をファンが支持してくれたのかというところに立ち返り、ファンの皆が喜んでくれるようなアルバムにしようというファン・フレンドリーな視点で制作している。それは20周年という節目を迎えた佐野のストレートなファンに対する感謝の気持ちの表れであり、キャリアで始めて過去の作品を振り返るという作業を行っている。

従って本アルバムは過去の作品を踏襲したものや、当時国内で勃興していたヒップ・ホップへの再接近などがある。特に冒頭の『GO4』はそのどちらをも意識した作りであるが、音も言葉も中途半端感が否めない。言葉が紋切型だし、前述したとおり音が弱い。残念ながらアルバム最後に据えられた、ドラゴンアッシュのKJとBOTZが手掛けたリミックスの方がよほどカッコいいと思うがどうだろう。

逆に言葉の切れ味が素晴らしいのは同じくヒップ・ホップ的なアプローチの『驚くに値しない』。かつての『ビジターズ』(1984年)の系譜といえるボーカル・スタイルで、ラップでもない歌モノでもないオリジナルの表現が立ち現われている。特に「偽善者たちの群れにグッドラックと言って~」で始まる2番からのリリックは秀逸。

このアルバムは全てを佐野一人で手掛けたわけではなく、曲によっては盟友ザ・ホーボー・キング・バンドが参加。とても素晴らしいバンド・サウンドを聴かせてくれる。そのひとつが『大丈夫、と彼女は言った』。情景を喚起させる丁寧な歌詞とそれを掬い取るバンドの演奏。特にKyonのアコーディオンが最高だ。

もう1曲のホーボー・キング・サウンドが『シーズンズ』。この曲の見せ場は何と言っても最後の1ライン、「さようならと昨日までの君を抱きしめて」とアウトロにかかる「Sha la la …」である。というよりこの部分が全てと言っていいだろう。「さようならと~」のフレーズは曲中に何度か繰り返されるが、最後のそれはそれまでとは全く異なる響きを持つ魔法の言葉となり、そしてそれは佐野の黄金フレーズである「Sha la la …」へと昇華されてゆく。この曲を初めて聴いた時は正直このベタであまりにもストレートな歌詞になんじゃこれと思ってしまったが、先ほど述べた最後のラインとアウトロでそんな気持ちはどこかに飛んで行ってしまった。恐るべし、佐野の「Sha la la …」。

佐野はやはり20周年ということでどうしてもアルバムを作りたかったんだろうと思う。しかし実際にはザ・ホーボー・キング・バンドとの渾身の『The Barn』後の空白のような時期で、次へのビジョンを整理している段階である。しかもこの時期の佐野は声に変調をきたし、上手く声が出せなくなっていた。低音で歌ったりファルセットを多用し、ボーカルにおいても試行錯誤の時期である。

そういう全体的な創作において旺盛な時期ではなかったにもかかわらず、佐野は自身のスタジオに籠り、ファンの皆に喜んでもらいたいと言って一人で新しい表現へのトライアルを続けてくれた。このアルバムはその結実である。何かと凸凹の多いアルバムではあるけれど、今振り返ってみればチャレンジャブルで極めて佐野元春らしいアルバムではないだろうか。

Track List:
1. GO4
2. C’mon
3. 驚くに値しない
4. 君を失いそうさ
5. メッセージ
6. だいじょうぶ、と彼女は言った
7. エンジェル・フライ
8. 石と卵
9. シーズンズ
10. GO4 Impact

現代詩手帖

ポエトリー:

『現代詩手帖』

 

そこそこ満員の通勤電車で現代詩手帖やなんかを読むのは恥ずかしいことだから現代詩手帖の谷はより一層深くなる
誰もお前のことなど見てやしないというご意見は至極全うだが至近距離なのだからこの際私には通用しない
そんな時に限ってよく読めてしまう雰囲気が漂い始め、
けれど詩を読んでいるなんてこいつそういうやつかと思われる顔をしているのかオレはという懸念が持ち上がり、
最初に読んだ時の理解が一番大切なのにそれを疎かにしてしまう、あー、もう取り戻せない
私は折角の読めてしまえそうな雰囲気に入り込めず半端なままの
読む力と書く力は同じと言われる残念な生き物です
残念な生き物は今日も通勤電車で立ち読みをする
より一層

帰りの電車で出入口の座席の背もたれにもたれて現代詩手帖を読んでいると正面に女子高生四人組
無敵感が半端ない

「二十七ってトウェンティやっけ?」
「こんなとこでそんなん言うてたらアホ丸出しやで」

と気取って返す女がまた気取って呟く、「スリーサウザンド…」

「サウザンドって?」

気取った女は

「百」
「百って、ハン、ハン、ハンドレ…、ハンドレンとかそんなんちゃう?あ、ハンドレッド!!
「ほんならサウザンドは?」
「万……ちゃう?」

私の現代詩手帖は今日も耳に残らない
駐輪場へ着くと虫ゴムの切れた前輪はペシャンコ
愛車は重い電動車

 

2019年2月

眼にて云ふ / 宮沢賢治

詩について:

「眼にて云ふ / 宮沢賢治」

 

先日、友人と宮沢賢治のある詩の話になりまして、僕は宮沢賢治の熱心な読者ではないのですが、そういえばと家に一冊あったので早速読み返してみると、確かにかつて読んだことがあると、微かに記憶がよみがえってきました。「眼にて云ふ」という詩です。宮沢賢治作品の著作権は切れているそうなので、安心してここに転載します(笑)。

 

眼にて云ふ   宮沢賢治

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

※ 嫩芽(わかめ) 藺草(ゐぐさ) 魂魄(こんぱく)

 

読んでお分かりのように賢治晩年の詩です。賢治は病床にあって書いた幾つかの詩を「疾中」というタイトルでまとめていまして、「眼で云ふ」はその中の1編です。死の床で書いた詩群のタイトルが「疾中」というものまた凄い話です。

僕は手慰みに詩のようなものを書いていますが、もう賢治の足元にも到底及ばないですね(笑)。ぜーんぜん。もう参りました、って感じです(笑)。要するに賢治の詩には私心がないのです。だからこんなにも透き通っているんですね。死の床の血が滴るような詩でもまるっきり透き通っていて‘私’が全然ないんです。

でもこれ死の床だからじゃないんです。賢治の最も有名な詩に「雨ニモマケズ」という詩がありますが、あの詩の最後は「ミンナニデクノボートヨバレ / ホメラレモセズ / クニモサレズ / サウイフモノニ / ワタシハナリタイ」と締められています。

とか言いながら賢治は農学校の先生でもありましたら、地域の人々に頼りにされるわけです。ある日、寝込んでいる賢治のもとに農夫が相談にやって来るのですが、賢治は衣服を改め、板の間で正座をし話し込んでいたそうです。このことが賢治の死を早めたなんて言われ方もしますが、「雨ニモマケズ」を読んでいると、賢治は賢治で‘私’を捨てることと戦っていたのかもしれない。そんな風にも思いました。

詩というものは自分というものをほっぽってしまうことなのだと、頭では分かっていても、やはり詩は個人から出てくるものですから、いい詩を書きたいとか褒められたいとか、消したくても消えない‘私’といういやらしさが見え隠れしてしまいます。でも賢治の詩にはそれが見当たらない。特にこの「眼にて云ふ」は死の床だというのに透徹していて、特に最後の3行には言い表す言葉もありません。

Eテレ「落語ディーパー~真田小僧~」 感想

TV Program:

Eテレ「落語ディーパー~真田小僧~」 2019.3.11放送 感想

 

今回のテーマは「真田小僧」。子供が出てくる噺だそうです。小利口な悪ガキが父親から小遣いをせしめる話だそうで、大人をからかう悪ガキといやぁ僕は大阪人ですから、三代目春団治の「いかけや」を思い出しますが、どっちにしても悪ガキがイヤらしく見えちゃあしょうがない。春風亭一之輔によると、演じる人によっちゃ、ホントに嫌な子供になってしまう。前座でも二ツ目でもウケる鉄板ネタだそうですが、実は演じる人の人(にん)が出るとあっちゃ、ある意味恐ろしいネタでもございます(笑)。

「真田小僧」といえば。ということで東出昌大が紹介するのは三代目 古今亭志ん朝。なんつったって歯切れがいいですから、子供がイヤらしくも何ともないんです。愛嬌があるんです。ちなみに大阪人の僕が江戸っ子と聞いて先ず思い浮かべるのは志ん朝ですね。

続いて当代の柳家さん喬と柳家権太楼の映像が流れました。嬉しいですね。僕は両人とも大好きですから、アプローチの違いってんですか。さん喬さんはイメージどおりの上品な悪ガキ(?)で権太楼師匠もイメージどおり賑やかな悪ガキ。こうやって好きな落語家の演じ方の違いを見るのは実に楽しいことです。ニヤニヤしてしまいました。

落語には年寄りから女性から子供から色んな登場人物がいます。それをどうやって演じ分けていくか。この辺りの話も面白かったですね。一之輔さんは全く声音は変えないと。語尾や仕草、目線のみで表現するんだそうで、一方で柳家わさびは背が高いから子供を演ずる場合は手を結構使うと。腕を縮こませたり、手を顔の真下に持って来たりすることで背の高い自分を子どもっぽく見せるんだとか。柳亭小痴楽も自分の見た目の特徴をなんとか打ち消そうとしてるらしいですが、基本チャライやつですから本心はよく分かりません(笑)。

「真田小僧」の登場人物は基本、父親と子供。どっちに身を入れて演じるかで印象も変わってきます。一之輔さんは自分が父親になってからは完全に父親メインで演じていると話していました。今回の実演は小痴楽さんでしたが、観てると彼はやっぱ若いですから子供メインなんですね。彼のキャラもあるでしょうが子供メインがしっくりくる。なるほど、そういう見方もあるんだなと。やはり落語は奥が深いですな。

旅立ち

ポエトリー:

『旅立ち』

 

枕元に居て
楽しかったことや
乗り越えてきたこと
僕たちの生い立ちを
あぁ、こんなこともあったよねって
心で語り合いながら
目をつむる

僕たちの新しい旅立ちが
そこから始まる
最期を迎える日々の
出来事

思い出が新たに立ち上がり
愚かな日、縁側で

さようなら
友達
おやすみ
また会う日まで

今から僕は
明日へ向かうよ

 

2019年1月

野宿

ポエトリー:

『野宿』

 

僕たちの炎が燃え尽きる前に
僕たちのガソリンが尽きる前に

僕たちの田畑が刈り取られる前に
僕たちの電線が切断される前に

僕たちの記録が削除される前に
僕たちの記憶が燃えカスになる前に

僕たちの街から人がいなくなる前に
僕たちのカナリアが袋詰めにされる前に

僕たちが善玉と悪玉に線引きされる前に
僕たちの良心と悪意が引き裂かれる前に

僕たちの声帯が取り除かれる前に
僕たちのどちらでもないが非難される前に

言葉を持たない者たちが
灯火を何度も継ぎ足し野宿する
脳内が検閲される前の束の間
流れ星に走り書きをする

僕たちは夜空を見上げ生命に恋をする

 

2018年8月

平成/折坂悠太 感想レビュー

邦楽レビュー:

『平成』(2018)折坂悠太

 

講談師の神田松之丞が大変な人気らしく、私は確か一昨年ぐらい前にEテレでやってたインタビュー番組「SWITCH」で彼を知って、こりゃ面白れぇと早速音源を聴いたところそりゃ驚いたのなんのって。

私は同じくEテレの「日本の話芸」を毎週録画していますから、じゃあそこで時たまやる講談もいっちょ観てみようかなんて思って観てみますと(いつも落語以外は大概すっ飛ばします、すみません)、まぁ昔ながらの、あぁ講談ってこんな感じだったよなっていう印象で、なるほど、神田松之丞がだいぶ変わってんだなと。ま、それからは相変わらずすっ飛ばしております、あい、すみません。

で落語好きの友人に神田松之丞を紹介したところ、そいつは神田松之丞の講談を聴いても別に何とも思わなかったみたいで、私は拍子抜けした気分にもなりましたが、そういやそいつは音楽を聴かねぇやつだったじゃねぇかと、なるほどと一人得心しておりました。

どういうことかと申しますと、神田松之丞という講談師は兎に角大げさで、過剰で、やたらめったらエネルギーを放射する。恐らくその過剰さを私は気に入ったんですけど、要するにその過剰さというのは私にとってはロック音楽なんです。それも若い奴のやるロック音楽。過剰っつってもパンクやメタルなんていう騒がしい音楽という意味ではなくて、大人しくったって過剰で心象が騒がしい音楽はそこらじゅうにあるわけで、いちいち表現がオーバーな奴っているでしょ?でもその過剰さっていうのは重要で若さの特権なんです。

若いくせに過剰じゃねぇロック音楽なんての私は興味ないです。てことで、落語好きなのに神田松之丞がピンと来なかったのはそいつが音楽を聴かねぇやつだったからという理屈です。

前置きが長くなりましたが、折坂悠太です。過剰です。苦味とか雑味だらけでやたらめったらエネルギーを放射して暑苦しいです。どういうわけか「みーちゃん」とか「夜学」とかを聴いてると、米国のジャム・バンド、デイヴ・マシューズ・バンドを思い出しまして、ジャカジャカした感じとか、サックスの感じですかね?暑苦しいなんて言いましたけど、デイヴ・マシューズ・バンドっぽいっつってんだから、悪い気はしないでしょ、折坂さん。

なにしろ言葉がいいです。例えば1曲目の『坂道』。「重心を低く取り / 加速するこの命が / 過ぎてく家や木々を / 抽象の絵に変える」。続いて2曲目『逢引』は「互いの生傷を暗闇に伏せている」。いい表現するじゃないですか。

言葉で言うとダブルミーニング、掛詞が目に付きました。#2『逢引』の「各都市のわたくしが」は「各年(若しくは各歳)」にも聞こえます。#6『みーちゃん』の「みーちゃん、だめ」は「見ちゃだめ」だろうな。#7『丑の刻ごうごう』の「朝間近」は「浅まじか」或いは「マジか?」に聞こえます。

意図的なのか偶然なのかは知りませんが、たとえ偶然だろうと見て見ぬフリをする大胆さをお持ちではないかと。何かのインタビューで「字余りになるのが嫌で、言葉を綺麗に揃えてしまう」などと几帳面な事をぬかしておりましたが、この緊張と緩和はやはり日本の話芸と相通ずるものがございます。

ちなみに私が折坂悠太の『平成』をウォークマンに取り込んだ日は、昭和の大名人、5代目古今亭志ん生と5代目柳家小さんの落語を取り込んだ日でもありまして、只今、私のウォークマンにはこの3名が‘最近録音したもの’という同じカテゴリーに並んでおります。どうだい折坂、恐れ入ったか、コノヤロー!

 

Tracklist:
1. 坂道
2. 逢引
3. 平成
4. 揺れる
5. 旋毛からつま先
6. みーちゃん
7. 丑の刻ごうごう
8. 夜学
9. take 13
10. さびしさ
11. 光

Eテレ「落語ディーパー~長屋の花見~」 感想

TV Program:

Eテレ「落語ディーパー~長屋の花見~」 2019.3.4放送 感想

 

「落語ディーパー」がこの3月からまた始まりまして、この日はその1回目。その間出演者それぞれに佳き事があった模様で、中でも柳家わさびさんと柳亭小痴楽さんのお二人は真打に昇進したらしく、なんともお目出度い限りでございます。

記念すべき再開1回目のお題は「長屋の花見」。なんでもこちらの演目は‘The 落語’と呼べるような基本中の基本だそうで、人が沢山出てきてわちゃわちゃしたり、食べる所作があったり、落語の基本的な技術が大凡網羅されてると。だから演じる方は難しい。そういう演目だそうです。

話の中身も大した話じゃありません。貧乏長屋の住人が大店(おおたな:大家さんのことです)に連れられて花見に行く。けれど貧乏だから酒がありません、アテもありません。ま、貧乏は貧乏なりの宴会でもしますかっていう話です。で、このどうってことない話を面白おかしくってんですから、演じる方には技量がいる訳です。

この番組のいいとこは過去の名人の話を観れるところ。ほんのさわりですけどこれがいいんです。落語家と言っても沢山いますから、僕みたいな落語の初心者にゃどっから手を付けたらいいか分からない。そこでこういう風に観せてもらえると、じゃあこの人のをちゃんと聴いてみましょうかとなるわけで。僕も早速今回VTRが流れた5代目柳家小さん師匠のCDをば借りて参りました(笑)。

てことで、今回の「長屋の花見」は小さん師匠のVTRが流れます。まぁ上手いです。そりゃまぁ人間国宝ですから、素人の僕が聴いてもこの方凄いなと思います(笑)。肩肘張ってなくて淡々としてんですけどね、妙な可笑しみがあるんです。周りにもいませんか。この人が話すと妙に面白いって人。よく聞きゃ面白くもなんともない話なんだけど、この人が喋るとなんか面白い。その人間国宝レベルってことです(笑)。

「長屋の花見」ってのは元々は上方の「貧乏長屋」って話だそうです。それを5代目小さん師匠の師匠の師匠が東京に持ち帰ったそうで、番組では「貧乏長屋」演ずる6代目笑福亭松鶴の声(映像は無かったです)が流れました。懐かしい声やね。子供心に何となく覚えていますが、落語はちゃんと聴いたことが無いので、またネットでも観ようかと思います。まぁ便利な世の中や。

ちなみに「長屋の花見」は花見ですから、ちょうど今の時期、2月、3月にやるそうで、それもちょいと早い時期にやるんだそうです。ま、それが‘粋’ってことで、逆に桜が散り始めてんのにこれをやっちゃうと‘不粋’ってことになるんでしょうな。

そして番組後は番組ホームページで出演者による「長屋の花見」がフルで観れます。今回は春風亭一之輔さんです。例のごとく「ったく、しょうがねぇや」って感じがこの話によく合ってますな。

Eテレ 日曜美術館「生き物のいのちを描く~知られざる絵師 小原古邨~」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「生き物のいのちを描く~知られざる絵師 小原古邨~」 2019.3.3放送(2018.10.7の再放送) 感想

 

日美では時折、版画家が登場します。今回は小原古邨(おはらこそん)。明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本画家、版画家です。元々は日本画を描いていたそうですが、当時はジャポニズムなる日本画ブームがフランスで起きていて、古邨の絵も目を付けられます。この辺り、教科書に出てきたフェノロサも絡んでいるようですが、案の定、古邨の絵は海外で注目を浴びる。けれど創作は追いつかない。そこで古邨は量産可能な版画へと舵を切ることになります。

版画というのは版元、絵師、彫師、摺師の共同作業です。版元というのは今でいうプロデューサーですね。そのプロデューサーが絵師は誰それにしよう、彫師は誰それにしよう、なんて決めていく。で共同作業ですから、それぞれ皆が意見を持ち寄る。ここはこうしようとか、ここは技術的に無理だからこう変えてみようとか。そういう風にしてそれぞれの個性がぶつかり合って一つの作品が出来るわけです。その点、通常の絵画の一人の作家の強烈な個性の発露とは少し違うんですね。

今回の見所は、80年前の版木での古邨作品の再現です。再現するのは摺師40年の沼辺伸吉さん。版木を見て沼辺さんは「柔らかさを感じない。切れるような鋭さ、緊張感を感じる。」と仰っていました。

古邨の版画には江戸時代から伝わる伝統的な技法も用いられています。例えばカラスの黒は黒一色ではなく艶を出すための技法があったり、雪を立体的に表現する技法があったり。それは普通に観ていると気付けないところなんですが、見えないところに凝るというのは芸術作品のみならず工業製品においても見られる日本人の特徴なのかもしれない。そんな風にも思いました。

今回のスタジオ・ゲストは2名です。俳優のイッセー尾形さんと中外産業の美術担当、小池満紀子さんです。小池さんは埋もれていた古邨作品を発見し、世に出したすんごい人です。

イッセー尾形さんは言います。「芸術というのは西洋でいうと、写実主義があったら次は印象派があって、キュビズムがあってっていう、前の時代を批判して発展するというのがあるけど、この場合は江戸時代の浮世絵をそのまま発展させて、批判しなくて、健やかな健康的な発展の仕方を感じる」と。とても素晴らしい見方だと思いました。

あとイッセーさんはこんなことも仰っていました。「同じ版画家でも北斎は望遠鏡の目を持っている。逆に古邨は小さな世界に目が行く人なんじゃないか」と。また版画というのは非常に手がかかる。皆で積上げていくものです。それについては「謙虚な存在が一つ一つの版画の絵の中にある」と仰っています。「それを皆で表した時の喜び。これは一生辞めれらないだろう(笑)」と笑って話していましたが、これもとても素晴らしい見方だと思いました。

そういえば版画を再現した沼辺さんも「絵師は彫師や摺師がどういうアイデアを出すか楽しんでいたんじゃないか」と仰っていました。とかく芸術家というのはアクの強い、俺はこうでこうなんだという‘我’が強いもの、という印象がありますが、そればっかりじゃない。皆で協力して何かを作り上げることに喜びを感じる芸術家もいるんだと。考えてみれば当たり前のことですが、そういう部分にも改めて気付いた回でもありました。古邨もまた、全部自分でする人ではない、謙虚な人、和の人であったのではないかと。こういう芸術家もいいな、って思いました。

最後に。古邨の版画は日常の風景を描く花鳥画です。そこに強烈な我欲は感じません。日常なちょっとした風景ですから小さな命の存在が時にユーモラスに描かれます。小池満紀子さんは言います。「古邨の作品から自然に目を向けるのもいいかもですね」と。

Eテレ 日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」 感想

TV program:

Eテレ 日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」2019.2.24放送 感想

 

今回の日美は、日本各地に点在する印象派の作品をゲストの3名がそれぞれ訪問する趣向。女優の深川麻衣さんはひろしま美術館へ。演出家の大宮エリーさんは山形美術館へ。歌舞伎俳優の尾上右近さんは笠間日動美術館へ訪れていました。

印象派が登場するまでは宗教画や写実的な絵が主流をなしていました。そこへ印象派の画家たちが登場するのですが、専門家たちには「なんだあの絵は。印象を描いているだけじゃないか」と酷評されたそうで、それが印象派という名の語源になったそうです。

日本でも印象派の絵は大層人気ですから、色々な美術館に所蔵されています。今回の番組で印象に残った作家は2名。アルフレッド・シスレーとポール・シニャックですね。シスレーの作品はひろしま美術館に「サン=マメス」、山形美術館に「モレのポプラ並木」が所蔵されています。どちらも美しい絵です。自然の美しい景色がシスレーの眼を通して切り取られています。

ポール・シニャックは点描画で有名です。25才の時に描いた「ポルトリュー、グールヴロ」と68才の時に描いた「パリ、ポン=ヌフ」。どちらも同じ点描ですが手法は大きく異なります。68才の時の絵はそれこそ俳句のようですね。ちょっと勝手に画像を貼付できないのが残念ですが(笑)。

印象派というのは先にも述べたとおり印象を描いたもの。同じ景色でも作家それぞれの見え方というのは当然異なりますから、それぞれの心の風景、或いは目から脳みそに至る過程で変換された風景がそこにあるわけです。

僕たちは寝ている間に夢を見ます。しかし普段見慣れた景色が登場する現実的な夢であっても、実際の場所とはかなり違って見えることがよくあります。僕も夢の中に子供の頃よく利用した駅がふいに登場する時があるのですが、実際の駅とは随分違うんですね。或いは昔懐かしい思い出なんかもそう。印象に残る出来事、人、景色というのはある程度覚えていても、その周りの風景というのは案外大雑把なものです。

人間の脳みそというのは写真じゃありませんから、やはり印象に残っている部分しか覚えていないんですね。けれど強く印象に残っている部分はちゃんと覚えている。しかも場合によってはイメージを増幅させより強く残るものに補正している場合がある。印象派の絵は言ってみればそのような絵なのかもしれません。

それにしても、、、。モネの絵はそこらじゅうにあるな(笑)。