邦楽レビュー:
『よすが』(2021年)カネコアヤノ
僕はカネコアヤノは風景を描く作家だと思っている。 風景と言ってもそれは山や川ということではなくてより身近なもの 、手の届く範囲のことで、今回は特に自粛生活だからか、 アルバムのインナースリーブにあるようにあまり明るくない部屋の 一室からの風景ということになる。
ところが彼女の作品は、 これは前作もそうだが実質彼女自身の一人語りになっていない。 確かに歌詞は「わたし」や「僕」 という一人称が用いられているけれど、 決して作家本人の喜怒哀楽が述べられているわけではないのだ。 あくまでも主役は目に映る風景、「布と皮膚」であり「屋上で干されたシーツ」でありはたまた「瞳孔の動き」である。 彼女の視点がそこにフォーカスされている以上、 実のところ彼女自身の感情は横に置いておかれているのだ。
これは意識してのことだろうか。そこは分からない。 けれど彼女が自分の感情を掃き出すために歌っているのではないこ とは明らかだ。彼女はその大声を「自分のこと」 を歌うために使ってはいない。だから彼女がいくら心をむき出しに歌おうとそこに暑苦しさは窮屈さはな いし、むしろプラスに転じる明るさや開放感が宿っているのだ。
加えて、彼女には今「カネコアヤノ・バンド」 と呼べるメンバーがいる。 いつからのコラボレーションなのかは分からないが、 幾度かのレコーディング合宿を行い、 幾度もライブを重ねた彼らは、単にカネコアヤノとバック・ バンドではなく、もうすっかりバンドだ。アルバム1曲目、『 抱擁』でのアウトロ。ここでのコーラスのなんと穏やかな一体感。 更に言えばそれは、身近な風景を描くカネコアヤノならではの、 さっきまで肘を突いていた机に残る温かさたちが手を添えるコーラスで もある。
すなわちここには彼らバンド・メンバーの目があり、 小さな部屋にうごめく生命(そう、彼女の描く風景、 モノにはいつも命の宿りが感じられる)のあたたかな目がある。 彼女の歌が決して彼女の視点だけにならないのはそういうこと。彼女は人に向かって歌っている。「私」が前に来るのではなく「 歌」が前に来ているのだ。
それにしても、この’みんなの歌’感はなんだ。7曲目の『 閃きは彼方』ではそれこそトイ・ ストーリーのように部屋中のテーブルや歯ブラシやフライパンとい った身近な風景たちが楽団となり音を立てていて、 それをみんなで見たり聴いたりしているような錯覚がある。 やはり彼女の歌は「私の出来事」という狭い世界の話ではなく、 それがたとえ活動を制限された自粛生活から生まれたものであろう と、もっと大きな、 生きとし生けるものたちを描く壮大で切なる物語なのだ。
大事なことを何気なく「ポン」 と置いていくカネコアヤノさんの歌には、やっぱり何気ない何か、 例えば小学校時代から使っているシャーペンを今も大事にしている ような温かさを感じます。 決して正面切って人を励ます歌ではないけれど、 きっと誰かの支えになっている。そんな歌だと思います。