フィルム・レビュー:
『The Shape Of Water/シェイプ・オブ・ウォーター』〈2018年)
なんだか試されているような映画だ。僕は全てに等しくありたいと思う。けれど僕は日本人だ。同じ肌の色、同じ宗教、似たような価値観の中で育った。小学校時代、確かにいじめられっ子はいたし、皆に避けられている子はいた。けれど僕は避けたりはせずに、なるべく等しく接してきた。つもりだ。でもそれ、お前の本当なのか?
具体的に考えてみる。もし、僕の子供たちが大きくなって、身体に障害を抱えている人、若しくは肌の色の違う、宗教の違う人を連れてきたら。僕は顔色を何一つ変えず接することができるだろうか。僕には自信がない。しようとは思うけど、心が付いていかないかもしれない。
折りもおり。僕はアジアのとある地域にいた。たかが3日ほどの滞在であっても、海外に出たことが数えるほどしかない僕にとってそれは多少なりともストレスのかかる出来事だ。ふと考えてみる。僕はここで暮らすことはできるだろうか。
この映画には人間ではない生き物が出てくるが、それは単に生き物ということではなく、やっぱりメタファーだ。つまり僕は僕の物差しでは測れない人を見かけた時、身構える。極端に言えばそうした人を異物と捉えて明確に線を引いてしまう。会社に新しい同僚が来た時のように自動的に手を差しのべることは出来ないのだ。
この映画でも主人公たちは一瞬たじろぐ。けれど主人公とその友人たちは実はさほどでもない。主人公は何か特別な理由があって、ある生命に心を寄せていくのだけど、そうではない友人たちにしても初めて見る自分たちとは姿形が異なる人物(ここは敢えて人物と言う)に対してさほど拒否を示さない。自分たちとは姿形が変わろうとも、たまにはそういうこともあるさとでも言うような態度でさほどでもないのだ。
しかしこの映画にはそうではないない人たちも登場する。心安いパイ屋の主人は黒人が店に入ること拒否する。国家機密を扱う連中はいわずもがな。一方で自分たちとは違う誰かのことを、たまにはそういうこともあるさと肯定する存在か確かにいる。この映画はそのことも高らかに宣言しているのではないか。
僕は全ての人に等しくありたいと思う。けれど今のところはそういう機会が少ないから、いざ自分がその立場になった時どういう態度を取るのか正直分からない。主人公も友人たちも自分の物差しでは測れない誰かを異物と捉えて線引きしたりはしない。何故なら彼らも社会から弾き飛ばされた人たちだから。彼らはよく分かっている。それがどのような意味を持つのかを。だから彼らは自動的に手を差しのべる。
僕たちは想像する。一方で想像しきれないこともある。けれど人の気持ちなど元より分からないものなのだ。分からないことを当たり前の事とするならば、怖れる必要はないし無理をする必要もない。自分のストラグルを誰も分からないのと同様に他人の心情も分からないのだ。
人と人とは本来そういうものなのだとリセットしつつ、分からないまでも相手が今どういう思いでいるのかを想像する。思いやりの気持ちを多少なりとも持てればいい。分からないからこそ親切にできればいい。そして主人公やその友人たちが行ったように、僕も自動的に手を差しのべることが出来るようになれば。『シェイプ・オブ・ウォーター』を観て僕は今、そんな風に思っています。