朝の電車

ポエトリー:

「朝の電車」

 

隣りに座るひとの
化粧をする右手が
僕の二の腕をたたく
ようやく終わったと思ったら
今度はバックから教材を取り出した
ペンを持つ右手が再び
僕の二の腕を叩く
集中している
僕は見知らぬひとに貢献している

 

2024年10月

せめていい方のことだけを

ポエトリー:

「せめていい方のことだけを」

 

ライオンの鬣に沿って日が昇ることなどがあると
身だしなみを思わせるフレーズが静かに降りてきて
自分が他所行きのおはようという声を持っていることに驚く
まさかここでさよならは言えないから
余所余所しく挨拶を交わすことになる

北へ向かう幹線道路では渋滞が起きているそうだ
今各々が、時間を忘れたり、名前を付けることを忘れたり、身支度を忘れたり、文字通り、何をするにも

一度には測れない事柄を一旦フリーズし、それは重い足取り、それは静けさ、余所行きのいってらっしゃい

間もなく翌朝、今度は身だしなみを思わせるフレーズがラフに降りてきて、自分が余所行きではないおはようという声を持っていることに気づく

悪いことは考えず
いいことの方だけを
せめて今朝の最寄りの駅までは

 

2024年7月

呪文 / 折坂悠太 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『呪文』(2024年)折坂悠太
 
 
なんといっても歌詞がいいですね。#1『スペル』の最後なんて「いとし横つら、魂、ディダバディ」ですから。これだけだと何のことか分かりませんが、そこに至るまでに生活感のある丁寧な描写があるから、「いとし横つら、魂、ディダバディ」でもちゃんと意味が立ち上がってくる。しかも限定していないから、人によってどうとでも受け取れる自由さがある。この辺りのふわっとした抜けの良さは流石です。詩人茨木のり子の言葉に、よい詩というのは最後に離陸する、というものがありますがまさにその通りですね。
 
あと言葉とメロディの関係、とても気持ちがいいです。#2『夜香木』の出だし、「夜香木の花が咲いて」というくだりから始まる一体感。初めから言葉にメロディが備わっていて、それを自然な形で抽出したかのような見事な表現です。で、1曲目2曲目と聴いてきて、おや、と思うところがある。物凄く小さな世界が描かれているんですね。作者自身のという事ではないと思いますが、身の回りの事を丁寧に描いていく。これはアルバムを最後まで聴いていって分かることなのですが、やはり暗い世相、そこに対して日常が脅かされる、そんな空気が作者を日常の丁寧な表現へ向かわせたのかな、そんな風にも思います。
 
それが露わになるのが#7『正気』。論破とか地頭といった言葉が飛び交う世の中で、いや、そうじゃないんですときっぱりと言うんだけど、その中にもちゃんと鍋に立てかけられたプラッチックのお玉の描写があり日常が添えられている。そしてその延長に「戦争はしないです」という言葉が繋がっていく。とても大事なことがここでは描かれているように思いますが、その曲のタイトルは『正気』なんですね。そういうものが簡単に奪われていく、大丈夫だと思っていても集団として個人としてあっという間に正気が奪われていく、その静かな恐怖が背後に横たわっているような気がします。
 
アルバムの最後を締めるのは#9『ハチス』。マービン・ゲイを思わせるようなソウル音楽というのがとてもいいです。いろいろあるけど「君のいる世界を好きって僕は思っているよ」と根はポジティブに、そんな心境が歌われます。逆に言えばそう歌わざるを得ないという事だとも言えますが、とにもかくにも日常、その大切さなものがいとも簡単に消えてしまう恐れ、そうしたものを抱えながら僕たちは生きている、そういうことをリアルに感じざるを得ない世の中になってしまったけれどそのしんどさを直接的に歌うのではなくソウル音楽に閉じ込めることで、他者への優しさや思いやりに立ち返ることが出来る。アルバムを総べる曲なのだと思います。
 
 

「僕が生きてる、ふたつの世界」感想

フィルム・レビュー:

「僕が生きてる、ふたつの世界」

 

映画の始まりは主人公の大が生まれたところから。少しずつ育つ大の成長が描かれていく。微笑ましい場面があれば辛い場面もある。何気ない日常を追う映像を見ている間、しんどい場面ばかりではないのに、なぜか僕の胸の奥がつっかえたままだったのは、子ども時代の僕にも身に覚えがある風景がそこにあったからだろう。それはコーダだからということではなく、どこの家庭でもある風景。この映画の肝心な部分はそこだと思った。

もちろん両親がろう者である大と僕の家庭環境は大きく違う。けれど人の数だけ家庭はあって親子関係はあり、親子の数だけストラグルはある。劇中、登場人物のろう者が良かれと思って手助けをした大に「わたしたちのできることを奪わないで。」と言う台詞がある。その台詞こそがこの映画に向かう呉美保監督の態度ではなかったか。コーダという存在を特別なものとして特別な親子関係を描くのではなく、世界中の個々の親子が個々に異なるように、ある個々の親子関係を捉えた。この映画はそういう理解でよいのではないか。

映画を観た後、僕は図書館に寄り、そこに置いている映画雑誌をめくって呉美保監督のインタビュー記事を読んだ。劇伴は使用しなかったとのこと。そうだ!劇伴はなかった!雑音やら騒音やら周りのひとの声やらかやたら大きく聞こえたのはそのせいだったのか!無音の場面もいくつかあった。しかし泣きそうになった場面で無音だったのには参った!こんなシーンとした劇場で鼻水もすすれないじゃないか(笑)

俳優陣も素晴らしかった。主役の吉沢亮。綺麗なお顔なのに少しもそうとは感じさせなかった。映画一のキャラはヤクザのおじいちゃんを演じたでんでん。しかしなんと言っても母親役の忍足亜希子。母の愛たっぷりだけど重苦しくなく、暗くなりがちな話なのにどこか気の抜けた楽な部分があったのは、彼女の演技によるところが大きいのではないか。もちろん全体のそうした雰囲気を引っ張ったのは吉沢亮でもある。そうそう、父親の今井彰人も芝居をしていないぐらいものすごく自然で、まさにそこにいるようでした。あと、ユースケ・サンタマリアは胡散臭い役をやらせたら抜群やね(笑)。

手話を「手まね」と揶揄するおじいちゃん。けれど手話とは単なる「手まね」ではなく、表情を含めた言語であると、監督はインタビューで答えていた。それを証明するかのように母親はいつもまっすぐに大と目を合わせる。手話には方言もあるというのも描かれていた。単なる置き換えの道具ではなく普通に言語なんだな。そうだ、手話は必ず目を合わせるそうだ。なんと人間性のこもった言語なんだろう。

映画に劇伴は無かったけど、エンドロールでは主題歌が流れた。歌詞は劇中で母親が大に送った手紙の文章。こう響かせてやろうという意図のまったくない言葉。簡潔だけど、だからこそとても胸が熱くなりました。エンドロールの主題歌含めての映画だと思います。

ちなみにこの主題歌。最初は女性シンガーが歌ったそうだ。けれど母の圧が強すぎて(笑)、男性シンガーに変更したそうです。呉美保監督のこのバランス感覚がこの映画をより素晴らしいものにしたのだろうな。

Paradise State of Mind / Foster The People 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Paradise State of Mind』(2024年)Foster The People
(パラダイス・ステイト・オブ・マインド/フォスター・ザ・ピープル)
 
 
アルバムを気に入るパターンが2種類あって、ひとつは1、2回聴いてすぐに気に入るパターン。もうひとつは最初はあんまりなんだけど、繰り返し聴いているうちに好きになるパターン。フォスター・ザ・ピープルはもうずっと後者です。前回の『Sacred Hearts Club』(2017年)はその典型で聴く度にどんどんはまって最終的には2017年の個人的ベストに選びました。ということで今回のアルバムも最初はあんまりでしたけど(笑)、きっとよくなると繰り返し聴き続けました。そうするといろいろ見えてくるんですね。
 
これはなんでか。これも昔っからフォスター・ザ・ピープルはそうなんですけど、曲としては非常にポップではあるもののそれは初期衝動とか、あるいは気質的に作ってるとそうなってしまうっていう自然とポップになるっていうタイプじゃないんですね多分。聴いてるともう歌詞は暗いし、特徴的なマーク・フォスターの声なんか聴いてるとそれはホントにそう感じます。ただ、反するようですけど、マーク・フォスターは常にポップな作品を作ろうと心掛けている。つまり彼は職人なんですね。出来たらこんなんになっちゃったというのではなく、作ろうとして作っているわけです、多分。
 
でも軽く聴いてる分にはそんなこと分からない。ただ繰り返し何度も聴いてるとそういう細かさ、心配りが見えてくる。ま、ざっくりとはそういう人はいますけど、ここまで作り込むタイプの音楽家ってあんまりいないかもしれないです。非常に集中力の高い音楽家ですね。
 
ついでにもうひとつアルバムの聴き方があって、それはイヤホンで聴くかスピーカーで聴くかの違いです。なんか不思議とイヤホンで聴くよりスピーカーで聴いた方が断然いい場合があるんです。もちろん逆もありますけど、このアルバムは圧倒的にスピーカーから聴いた方がいいですね。繰り返し聴いてるうちに好きになってきて、最後、スピーカーから聴いて、あ、これええわ、で決定的になりました(笑)。
 
あとはこの微に入り細を穿つこの音楽がどうライブで再現されるかですね。前作の来日は気付いたら終わっていまして、残念ながら僕はまだ彼らのライブに行ったことがないのです。このスタジオ・アルバムがどう表現されるのか、一度聴いてみたいものです。