Harrys House / Harry Styles 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Harrys House』(2022年)Harry Styles
(ハリーズ・ハウス/ハリー・スタイルズ)
 
 
このアルバムの欧州ツアーではバンド・メンバーが全て女性ということなので、アルバム自体もそうなのかな、でも生バンドっぽくないなと、ウィキペディアで調べてみたら、アルバムはそうではなかったです。でもピノ・パラディーノとかジョン・メイヤーとかベン・ハーパーの名前があってビックリ。大物やん!ただ、ドラムは基本ドラム・マシーンでした。オレの耳もなかなかやな。ちなみにツアーの前座は公演毎にミツキやウルフ・アリスやアーロ・パークスらが務めるらしい。ハリー、徹底してるな。ていうか豪華すぎるやろ!
 
僕はほぼ並行してこのアルバムとリアム・ギャラガーの『カモン・ユー・ノウ』を聴いていたのですが、だんだん思うようになってきました、この2人、なんか似てるなと。つまり、リアムもハリーも基本はチームでソングライティングをしている、ずっと同じチームで。ただ全く人任せではなく、自分も名を連ねてソングライティングに関与している。これはさっき言ったようにツアーではハリーの意向が全面的に出ていますが、それと一緒ですね。
 
つまりチームとはいえハリーがボスだということ。しかもちゃんと自分の求められている役割を全うしつつ、自分はこれだという基本線は崩さないという、これは全くリアムもそうですよね。それにサウンドは、ドラム・マシーンであるにせよ基本は生演奏で、ライブではちゃんとバンド編成。言わずもがなリアムもがっつりバンド。てことで、アウトプットされる音楽は異なるけど、スタンスとしちゃ非常に似てるんじゃないかと。
 
で肝心のアルバムですが、凄いです、いい曲ばっかです。チームとして多分今は絶好調なんだと思います。とにかくイントロからしてキャッチーだし、AメロもBメロもサビもサウンドも全部キャッチー。音楽的な新しさは感じないですし、既視感のあるメロディっちゃあそうなんですけど、どっから聴いても満点です。はい、言うことないです。この辺もリアムの『カモン・ユー・ノウ』と一緒やね。
 
という完璧なポップ・アルバムなので全世界あちこちでチャート№1に輝いています、日本以外(笑)。冒頭でウィキペディアを見たって言いましたけど、ウィキペディアには各国のチャートも記載されているんですね。30行ぐらいの表なんですけど、日本のとこだけオリコン35位、ビルボード・ジャパン43位、他は非英語圏でも全部1位(笑)。アルバム1曲目は『Music for a Sushi Restaurant』で、アルバム・タイトルは細野晴臣の『HOSONO HOUSE』(1973年)から来ているというのにこの結果はちょっと残念。
 
ただどうなんでしょう、日本はまだ6~7割はフィジカル盤、つまりCDらしいので、ほとんどサブスクの海外とは集計が異なるのかなと。ま、それにしても順位低すぎ(笑)。非英語圏でもちゃんと1位になってますから、こういうのを見ると、日本人の洋楽離れを実感しますね。

C’mon You Know / Liam Gallagher 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『C’mon You Know』(2022年)Liam Gallagher
(カモン・ユー・ノウ/リアム・ギャラガー)
 
 
 待ちに待ったソロ活動とはいえ、3作目にもなると新鮮味が薄れつつあるのも確か。リアム自身が今回のはいろいろやってるから、イマイチだったとしてもコロナのせいにして次はガッツリやればいい、なんて気弱なことを言っていたものだから、低調な期待値で聴き始めたんですけど、いやいやこれは今までと比べてもかなりいいです。
 
ファンとしてはリアムの声が聴きたい、それも景気のいい曲で。という期待に真っ向から応えたソロ1作目があって、2作目は更にまな板の鯉状態で歌うことに徹したリアム、を経ての3作目という感じがやっぱりあります。気弱発言もありましたが、ここまでいろいろな曲調にトライアルできたのは、やっぱり1作目2作目の大成功があってこそ。ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラとコラボなんて以前のリアムなら考えられない。つーか、二人が会話してるのは今も想像つかない(笑)。
 
曲の練度で言えば今回が一番ですね。これまでどおりの制作チームではありますが、彼らの自由度も大幅にアップしています。ま、歌のないとこですね。1曲目なんて、リアムの声が聴けるまで1分近くかかるんですけど、しかもゴスペル(笑)。でもこれが全然OKなんですねぇ。他の曲でもアウトロを長めに取ったり、バンド演奏で聴かせるところがあったりしますし、リアムの声がメインなんだからという枷が取り払われて、素直に曲としての完成度が高くなってます。
 
ホントにもうオアシス云々というところから離れて、今のリアム・ギャラガーのアルバムということで完全に成立した感はありますね。そのリアム自身のボーカルもですね、皆の期待に応えねばというところではなく曲に合わせた自然体というか、アクの強い若手俳優がいつの間にか渋い演技をするベテラン俳優にになったみたいな感じというか、すごく肩の力が抜けて、余裕のある表現になっている気はします。アルバム・タイトルを「ボーカリスト」、もしくは「リアム、シナトラになる」にしてもいいぐらい。そりゃ言い過ぎか(笑)。
 
いやでも色んな曲があってなかなかですよ、このアルバム。リアムの壮大なバラードが好きな身としては、そういうのが#5『Too Good For Giving Up』1曲しかないのは寂しいですが、それをあまりあるバラエティーの豊かさ。ヴァンパイア・ウィークエンドっぽい曲も見事に歌いこなしているし、デイヴ・クロールが参加しているからフー・ファイターズっぽいのもあるし、もちろん今までどおりのもある。#11『Better Days』のコーラスで「Believe me, yeah」って伸びるとこなんて最高ですね。
 
そうそう、タイトル曲の#4『C’mon You Know』と#8『World’s In Need』はリアム単独作ということらしいです。リアムのソングライティングと言えば、繰り返しの多いシンプルなものというイメージがありますが、今回は2曲ともビッグなコーラス付き!こんなの今まであったっけ(笑)、というぐらいの曲が書けるんだからやっぱ今はいい状態なんやね。

ネットショッピング

ポエトリー:

「ネットショッピング」

明かりが漏れている
冷蔵庫が開いている
バタンと咳をして
扉を閉める

どこへ行ったのか
この部屋の暗がりは
いずれどこかの押し入れに
隠れたろうか

スマートフォンがついている
天井を照らしている
闇に光るマーケット
今夜は何を買わせるのか

どこへ行ったのか
ずっと大事にしていた宝物は
いずれどこかの戸棚にでも
隠れたろうか

箱買いしたトマトが
冷蔵庫で延々と冷やされ
もはや震えている

 

2021年11月

「没後50年 鏑木清方展」感想

アート・シーン:
 
「没後50年 鏑木清方展」京都国立近代美術館
 
 
日本画の美人画はあまり興味はなかったのですが、Eテレ「日曜美術館」で見た鏑木清方の作品がとても美しく、これは見ておきたいなと小雨まじりの京都へ出掛けました。あいにくの天気だったので、行く日を変えようかなとも思ったのですが、雨の方が人も少ないだろうと出発。これが大正解で、人気の展覧会にもかかわらず、土曜日ではありましたけど程よい人数でゆっくり鑑賞することが出来ました。
 
展覧会は目玉の三部作「浜町河岸」「築地明石町」「新富町」をクライマックスに清方のキャリアを順を追って辿っていく構成となっています。元々は挿絵画家として出発したということで、清方の絵は物語の一場面、という印象を受けますね。絵の背景に何かしらの物語があって、絵の登場人物の表情や体の動きなどを通して、こちらの想像力をかき立てる。僕の場合は絵そのものにどうこうというよりは、肩の入り方とか腰の浮かせ方とか、そういう微妙な体全体を通して出てくる表情に強く引きつけられました。全然関係ないかもしれませんが、この辺りは日本の漫画表現にも繋がる、西洋とは異なる日本人独特の人物の描き方というのがあるのかもしれないなとも思いました。
 
あと写真やネットでは分かりにくいところですが、実物を間近に見ると非常に細かい!髪の毛1本1本や肌の微妙な色合いの変化、睫毛、ものすごく繊細な表現がなされていることに気づきます。あと明治時代の江戸情緒を主題に描いていることが多いのですが、当時の風俗、とくに女性の着物の柄がすごく魅力的で非常にお洒落なんですね。柄もそうですけど、色見のバランスとかも、清方自身も凄くお洒落な人だったんじゃないかと思わせる配色の妙がありました。
 
でやっぱり目玉の三部作ですよね。特に「築地明石町」。女性の瞼の上に薄っすら線が入っているんですね。人によっては気に留めない箇所かもしれませんが、この線があると無いでは大違い。僕はこの薄っすらと入った線を見たいがためにこの展覧会へ行ったと言っても過言ではありません(笑)。
 
この三部作の下絵も展示されていたのですが、この下絵を見ると清方のデッサン力の凄さが分かりますね。鉛筆で描いて消しゴムで消すみたいなことは出来ませんから、ほぼ一発勝負で筆を載せていく、しかも着物を着ているのでやっぱり骨格を取りにくいんですね。それも大きなサイズで描いていく。これは相当難しいと思います。
 
ということで、漫画やイラストを描いている人が見に行ったらとても得るところがあるんじゃないでしょうか。それに江戸の庶民の風俗であったり、清方独自の画風がありますから、あまり日本画に興味がないという人も楽しめる展覧会だと思いました。

詩のルール その②

詩について:
 
詩のルール その②
 
 
これは僕の意見ですが、詩に分かりやすいとか分かりにくいとか難解だとかそうじゃないとかは関係ないと思っています。例えば音楽。ボブ・ディランはノーベル文学賞を獲りましたけど、あの歌詞をちゃんと分かっている人がどれだけいるか。少なくとも僕には分からない(笑)。ちゃんとには恐らくディラン本人にしか分からない。でも世界中にファンがいる。何故か。極端に言えば、皆そこに重きを置いていないからです(笑)。
 
絵画で言えばゴッホ。日本でもしょっちゅう展覧会があって、いつも大盛況ですけど、決して分かりやすい絵ではないですよね。もっと言えばピカソ、クレー、カンディンスキー。凄く人気がありますが、あの絵は理解できるか。僕も好きですけど、全然理解は出来てません。つまり鑑賞する側にとって理解できるできないの優先順位はそんなに高くはないのです。何か感じるものがあればいい。それが自分にとってよき作用をもたらすものであれば、それでOK。それだけのことなんです。
 
だったら詩だってそれでいいじゃないか、というのが僕の考えです。まどみちおの詩は分かりやすいって言うけど本当だろうか。吉増剛造の詩は難解って言うけど本当だろうか。まどみちおの詩はシンプルだから愛されているわけではないし、吉増剛造の詩は難解だからありがたがられているのではないのです。シンプルな詩を書く人、難解な詩を書く人、世の中にいくらでもいますが、その中でまどみちおや吉増剛造は愛されてきた。それは何故か、ということですよね。
 
時々、テレビでピアノ上手い王決定戦とか、歌が上手い王決定戦みたいなのやってますよね。どうやって点数付けるかっていうと、ピアノの場合はミスタッチをした回数が減点される。歌の方は機械が音程から外れてないかとかを判定する。言ってみればどちらも減点法です。日本的で嫌ですねぇ(笑)。もしかしたら詩もこれと同じように判定しようとしているのかもしれない。ここの意味は分かるか。これは何を比喩しているか。分からなければ×、あなたは詩が理解できない人です、という風に。
 
そうなれば誰もついてこないですよね。勉強が苦手な人が勉強を嫌いになるように、詩は理解できないなら、私には関係ないやって、好きになるはずはない。けどそんなことないよって僕は言いたい。勿論、人には向き不向きはありますから一概には言えませんが、音楽や絵画を楽しんでいるなら、詩だって同じように楽しむことが出来る。世の中、もう少し気軽に詩に接近できるムードがあればなぁって思います。

詩のルール その①

詩について:
 
詩のルール その①
 
 
詩にルールはないんですね。好きに書けばいい。勿論、人によってはそんなの詩じゃないとはっきりという人がいるかもしれませんが、基本的にはルールなんてないと思っています。個人的なことを書いてもいいし、世界について書いてもいい。でも長く書いていると自分の中である程度ルールが出来てきます。何でもありのはずが何でもありじゃなくなってくる。困るのは人の詩を読むときにそのルールが顔を出してしまうこと。それが冒頭で述べた、そんなの詩じゃないという判断に繋がっていくのかもしれません。
 
詩に分かりやすさは必要か。永遠のテーマに思えますが、これについて答えは出ているような気がします。つまり特に分かりやすさは必要ないということです。世に出回っているアートと呼ばれるものの多くが分かりやすさでもって書かれていません。分かる分からないはあくまでも結果です。自分の想像力を張り巡らせて思うがままに書いたものが、結果分かりやすかったり分かりにくかったりする。それだけのことかなと思います。
 
書き手は思うがままに自由に書けばいい。詩に分かりやすさは必要、なんてルールはないのです。絵画にしても音楽にしても作家はやりたいようにやればいい。それが創造するということではないでしょうか。人に分かってもらいたいから、人に評価されたいから、そういう理由で作っているわけではないのなら、創作に関しては自分のエゴをぶつけてしまえばいいと思います。
 
とはいえ誰にも相手にされないのはさびしいですよね。だから自分の作品の形を少し変えてみる。多少は道をならしておく。皆に喜んでもらえるようにラッピングしてみる。そういう工夫があるのだと思います。
 
ここからは僕の好みになります。詩は一言一句、分かる必要はないと思います。ただその詩の持っているムード、何を言わんとしているのか、そこから放射されているものは何か、それはキャッチしたいと思います。そしてそれは必ずしも作者の意図していたものでなくてもいいと思っています。逆に言うと、僕は皆が皆同じ解釈をしてしまうタイプの詩にはあまり興味がありません。つまり僕という個性は元々分かりやすさを好んでいないということなんですね。そのくせ、なんだこれ分からんなぁと四苦八苦する。つまり詩に関してはドMなんです(笑)。だから自分の書くものもヘンテコなものになってしまうのかもしれません。
 
 
その②へ続く。。。

シン・ウルトラマン(2022年)感想

フィルム・レビュー:
 
『シン・ウルトラマン』(2022年)感想
 
 
リアルタイムで観ていたわけじゃないのですが、僕が小さい頃はよく再放送をやっていて、断片的にですけど初代ウルトラマンを観ていました。だから映画の中に出てくる小ネタ、というかホントの小ネタになるとマニアじゃないと分からないとは思いますけど、ちょっとしたネタなんかは分かるんですね。だから劇伴なんかも当時のそれっぽい感じで初っ端から「おお!」って盛り上がるんですけど、初代のテレビ・シリーズを観たことがない人はどうなんでしょうね。ちなみにエンドロールを見てたら劇伴は当時のものをまんま使ってましたね(笑)。
 
あとやっぱり『シン・ゴジラ』ですよね。どうしてもあのイメージがあってその延長線上を期待してしまっていて、冒頭の禍威獣(←怪獣のことです。『シン・ウルトラマン』ではこう呼びます)が続々と出てくるシーンで、あ、これはリアル路線で見ちゃいけないなと、あくまでも空想科学モノとして見ないとなと思い直したんですけど、なかなか自分の中で軌道修正できなかったです。『シン・ゴジラ』と同じように自衛隊とか政治家が出てくるので、どうしてもそういう目で見てしまう。ただ実際のところ、作り手側もリアル路線に後ろ髪引かれる思いがあったのかなと。政治家絡みのシュールな場面はもう少しユーモアを強調しても良かったかなとは思いますが、その辺がちょっとどっちつかずだったかなとは思いました。
 
それと僕は邦画を見る時に、テレビドラマもそうですけど、俳優をその俳優として見てしまいがちで、例えば福山雅治はどんな役をしていても福山雅治としか見れないんです。でも時々そうじゃないときがあって、福山で言うと是枝監督の『父になる』ですよね、あれなんかは福山としてではなく、ちゃんと役として見れてくる。だから映画を観る時の僕の良し悪しの判断はそういうところだったりするのですが、今回で言えば主役の斎藤工がちゃんと役名になっていて、そういう意味では雑念なくちゃんと映画を観れていたかなと思います。あ、山本耕史の胡散臭いメフィラス星人も良かったですね(笑)。それ以外は、、、言わないでおきます(笑)。
 
ネタバレになるからあまり言いませんが、ラストももう少し何とかならんかったかなぁと。CGばっかというのはねぇ。。。ただウルトラマンの造形は素晴らしかったです。変に小綺麗にならずに、ちゃんと皮膚感というかなんとなくウェットスーツ感も残っていて、そういうリアルさはありました。あと空を飛ぶ時の形ですよね、昔のままというのが嬉しいです。というようなところで、やっぱ初代を何となく知っているからこその楽しみがいっぱいあって、僕は楽しかったし、それに大きい画面でウルトラマン見れただけでテンション上がっちゃう口なので、映画館で観て良かったなと思いましたが、全世代的に男女問わず楽しめる映画かと言われると、少なくともうちの奥さんは見ないだろうなとは思いました(笑)。僕はもう一回観たいぐらいですけど(笑)。
 
あと少し真面目な話をすると、ガンダムの富野由悠季監督がある対談で、頭のいい理系の奴らが世界を悪い方に持っていく、なんて話をしていたんですけど、この映画でも巨大化であったり時空を歪めるなんてのを理系の賢い人は際限なしに本能で突き詰めていってしまう、結局それが戦いの道具になってしまうというような悪循環が裏テーマとしても流れているような気はしました。
 
それとセクシャリティーに関する問題ですよね。これはもう今や音楽でも何でもそうですけど、ここのところの表現をいかに真っ当に出来るかというのが非常に重要で、若い世代では特にもう当然のように捉えているところだと思うのですが、そこでの認識が非常に甘いなと思いました。これではやっぱり昭和世代のクリエイターの作品だなと思われても仕方がないし、そういう意味でも幅広く支持はされないだろうなとは思いました。

記録

ポエトリー:

「記録」

不意にかすめた
左目の奥には
少し濃いめの
小さな記録

配線は
緩やかな円を描き
頭の位置で
ショートする

ひとり占めしていた
短い夏の思い出は
両手を挙げて
それは見事なさようなら

もちろん
思い出すことなど
なかったよ
だってもうこれは、
期限切れだからね

 

2022年5月