TV program:
『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』
現代詩に対して不満がありました。難解すぎるだろと。もっと生活に寄り添うべきだ。そんなんだから誰も見向きもしなくなるんだと。それでも僕は現代詩が好きで、雑誌や詩集を買ったりする。でも大方分からない、ほとんど理解できない。ならなんで買うんだよと言われれば、それでも抗しがたい魅力があるからというしかない。難解で時には読むのも億劫になる、しんどい。でもなんか気になる。僕にとって現代詩とはそういう存在です。
僕は言葉を追いかけようとするんですね。当然です。理解するにはそれしかないのだから。なんて書いてあるのだろう、なんて書いてあるのだろうと言葉を追いかける。けどほとんど分からない。で途中で追いかけるのを諦める。番組で佐野さんは吉増さんの詩を分かろうとしないと言っていた。驚いた。佐野さん、そんなこと言うんだって。一言一句は分らないけど、全体としての感覚に委ねる、佐野さんは為すがままに溶け込ませようとしていた。そこで詠まれているイメージに身を任せてしまう。そして感じた事もまた言葉で説明できなくていい。目から鱗でした。
現代詩は難解でよく分からないけど、つい手に取ってしまう。僕がさっきそう言ったのはそういうことなんだな。間違いなく頭で理解できていない。けれどそこで発せられる声に恐らく体は感応してるんです。だからなんだろうなんだろうと気になる。言葉にして解いていかなくてもいい、理解したという証を求めなくていい。感応したまま放置すればいい。それでも読み手の中に巡るものはあるのです。
詩とはそういうものなんだと。いや、こういうことの繰り返しをまた一歩、進めたような気がします。もちろんちゃんと筋が通って理解できるものもある。それも詩だし、そうじゃないのも詩。頭で分かろうとしなくても体が反応していればそれは詩を読んだことになる。新たな発見です。
そこで。佐野元春 and The Cyote Band の『コヨーテ、海へ』。この曲は評価が高いです。佐野さん自信もフェイバリットに挙げてるし、吉増さんも取り上げていた。けど僕には分からなかった。要するに現代詩に近い感じ?何に対して「勝利あるのみ」なの?何に対して「show real」なの?ここでも僕は言葉を追いかけていたんです。でもこの曲全体から感じ入るものはあった。一言で言うと肯定かもしれない。過去、現在、未来の肯定。それらを纏った風景。「宇宙は歪んだ卵」と始まるこの曲を僕は理解しあぐねていた。でも僕の体は感応していた。
それにしても吉増剛造さん。現代詩の巨人が佐野元春の曲を熱心なファンのように調べて来ていた。そしてその批評が核心を突いてくる。佐野さんのなんと嬉しそうなこと。一方の佐野さん、吉増さんに対する尊敬の念が溢れていた。僕は長く佐野元春のファンをしているけれど、あのような佐野さんを僕は見たことがない。
日本の現代詩はとても素晴らしいです。でもあまりに難解過ぎる。そこに対してのヒントがこの番組にはあったと思います。吉増剛造のあのリーディング。何かを感じ入ったのなら、それは聞き手の体のどこかが感応したということ。それが詩です。国語の教科書のように頭で理解する必要はない。体が反応したのならそれは詩を読んだということです。
ただ吉増さん、もうちょっと文字、読みやすくしてくんないかな(笑)