朝が来るまで

ポエトリー:

『朝が来るまで』

 

あぁ、おやすみ

シーツにくるまり

 

世界は嘘で塗り固められてる

未来は雲に覆われてる

小鳥の歌が聞こえない

声が枯れるのは理屈じゃない

 

だから

おやすみ

今はただ

おやすみ

あぁ、おやすみ

シーツにうずくまり

 

こだまが帰るとは限らない

机の上じゃ測れない

癒えない傘が壊れてる

星が見えるのは理屈じゃない

 

だから

おやすみ

今はただ

おやすみ

 

朝が来るまで

側で見てるから

ずっと静かな

ベッドのある部屋へ行こう

 

ただ

おやすみ

今はただ

おやすみ

 

おやすみ

今はただ

おやすみ

 

2014年2月

シーモア 序章/J・D・サリンジャー 感想

ブックレビュー:

『シーモア 序章』  J・D・サリンジャー

グラース家について、重要人物である長兄シーモアについての物語。といっても次兄バディの一人語りによるもので、シーモア自身は登場しない。グラース家の兄弟に愛されたシーモアとは一体どのような人物だったのかがバディの目を通して描かれている。

しかし内容は難解。意味があるのか無いのかよく分からない文章が続き、筋立てはあってないようなもの。しかしこうした従来の文体とはかけ離れた手法でしか、作者は愛すべき人物を描写できなかったのだ。

当たり前のことだが人類が生まれてこの方、同じ人は一人もいない。しかし、そのただ一人の人について話そうとすれば、我々は‘我々の言葉’を使わざるを得ず、すなわちそれは‘みんなが知ってる言葉’でしかない。しかし‘みんなが知っている言葉’は、言い換えれば‘~のようなもの’でしかなく、人類史上初めての人を言い表すには適さない。だからバディは新たな言葉で言い表そうとする。それがここにある人類史上誰も聞いたことのない言葉、意味があるのか無いのかよく分からない言葉になるのである。

物事をありのまま伝えようとすれば、表現はますます抽象的になってゆく。今ある言葉だけでは言い切れない。彼のやさしさは彼だけのものであって、彼の首の傾げ方やつまづき方だって彼だけのものなのだから。

作者はそれを丁寧にすくいあげてゆく。愛するひとを語るのだから当然だ。そしてそれは作者自身の聖なる場所でもあるのだから。作者がそれを書く行為は、大切な何かが知らぬ間に消えてしまわぬよう、しっかりと握っておくためだったのかもしれない。

 

Alphabetical/Phoenix 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Alphabetical』(2004)
(アルファベティカル/フェニックス)

フェニックスの2ndアルバム。デビュー・アルバムが様々なタイプの曲を揃えた幕の内弁当的だったのに対し、本作は随分と落ち着いたミニマルな作品。一人一人に直接配るオーダー弁当のような細やかさで、佇まいも一気に優雅。ファーストからこれを聴いた人はびっくりしただろうけど、ここにはその違和感を覆すだけの洗練さが用意されており、オシャレなフェニックスの中でも最もオシャレなアルバムとなっている。

基本的にドラムは打ち込みで、そこにベースやアコースティック及びエレクトリック・ギター、鍵盤類がかぶさってくるのだが、そのアレンジが絶妙。必要最低限の音で構築されているものの、一つ一つの音の意味付けが明確で、空白をもメロディの一部にてしまう程の丁寧なアレンジ。控えめな打ち込み音やシンセが程よいスパイスとなって聞き手の印象に幅を持たせているし、なにより非常に温もりのあるサウンドに仕上がっているのが特徴だ。

美しいメロディは彼らの武器だが、普通ならそれを更に強調したくなるもの。たとえば派手なストリングスを導入したり、アウトロを長引かせたり。それらやぼったいアレンジは一切なく、逆にこちらの気を透かすかのようにあっさりと幕を引く。10曲目のタイトル・ナンバーなどは、「あー、もっと聴きたい」と思わせる、まさに寸止めアレンジ。5thアルバム『バンクラプト!』ではダサくなる一歩手前の派手なサウンドを披露しており、このさじ加減こそがフェニックス最大の魅力なんだなと。際どいところを涼しい顔をして回避する。そんな確信犯的なところに彼等独自の美学を感じてしまう。

そしてもうひとつ彼らの秀でている点は言語感覚だろう。単語の選択のセンスがずば抜けているように思う。そこにトーマの甘い声や独特な発音(フランス人が英語を喋るとこんな風になるものなのかどうかは知らないが)が加わって、転がるよう発声されるリリックは聴いていて本当に心地よい。しかもシンプルで気負いがないところがつくづくスマートなバンドである。

初めてこのアルバムを聴いた時はエレクトリカルな要素を感じたけど、直近2作の『バンクラプト』、『ティ・アーモ』を通過した今聴いてみるとかえってアナログな温かみを感じる。この幅広さも彼らの魅力だろう。

 

1. Eveything Is Everything
2. Run Run Run
3. I’m An Actor
4. Love For Granted
5. Victim of the Crime
6. (You Can’t Blame It On) Anybody
7. Congratulations
8. If It’s Not With You
9. Holdin’ On Together
10. Diary of Alphabetical

さよならは転じる

ポエトリー:

『さよならは転じる』

 

君がまだ若かった頃

虹が架かっていた

海は凪いでいた

耳を澄ましていた

 

外連味ない瞳のブルーと

背伸びをした君との不釣り合い

 

ある日不意に夕暮れが訪れた

その夜  君を色濃く浮かび上がらせた悲しみは

ビロードの襞となりまとわりついた

ずっと側にいてほしかったと離さなかった

 

しかしそれは血となり肉となり君の内に根付く

君はまだ知らないだろうが

 

さよならは

さよならは

すべて転じる

まだ見ぬ君の美に

 

2014年4月

フラニーとゾーイー/J・D・サリンジャー 感想

ブックレビュー:

『フラニーとゾーイー』  J・D・サリンジャー

サリンジャーの短編の中には「グラース家」にまつわるストーリーが幾つかあって、本編もそのうちのひとつ。7人兄弟の末妹のフラニ―とその上の兄、ゾーイーの物語である。元々別個に書かれたもの(『フラニ―』の2年後に『ゾーイー』が書かれたとのこと)だが、2作まとめて単行本にまとめられたのはごく自然なこと。まず、恋人と最悪な1日を過ごしたフラニ―の物語があって(『フラニ―』)、彼女が家に帰ってきた数日後の物語が『ゾーイー』となる。ちなみに、この切り替えが素晴らしい。「バタンッ!」と扉を閉める音が聞こえてくるようで、ひと言で言えばすごく洗練されている。

『フラニー』:
多分に感受性豊かなグラース家の兄弟。その中でもとりわけナイーブな大学生フラニ―は、周りのひと達が嫌で仕方がない。エゴが過ぎるというのだ。しまいにはそうした誰かを責めずにはいられなくなり、その矛先は恋人レーンにも向けられる。彼の愛を知ってはいても彼女にはそれを止められない。また、そうした自分にも嫌気がさし強烈な自己嫌悪。折角の週末を台無しにしてしまった彼女は意識朦朧、最後には気絶してしまう。

ここでのレーンは責められない。確かに適度にオシャレで適度に自意識過剰な彼はいけ好かない奴だが、誰だって人並み以上に自意識過剰だった頃はあったはず。自分の書いた論文をひけらかすぐらいはかわいいものだ。
そうしたレーンについつい反論してしまうフラニ―もまた非難されるものではない。だって彼女は彼を傷つけまいと必死なのだ。そのことにレーンは気付けるくらいの聡明さは持ってるし、それを自分のせいだと責めてしまうフラニーのナイーブさだって誰にも思い当たる節はあるのではないか。
お互いを気遣いつつも、相容れない二人の会話における、聖なるものと現実との揺れ動きが、手に取るようなリアルさで描かれている。余計な装飾なしに、ありのままの二人が見える見事な描写だ。短いが、僕はとても好きな作品。

『ゾーイー』:
多分に感受性豊かなグラース家の兄弟だが、母ベシーは至って現実的。食事もしないでふさぎ込むフラニーを心配しつつもどこかマイペースなのがいい。そこでゾーイーが何とか彼女を元気づけようとするのがこの物語の骨子だ。しかし単に元気づけようというのとはちょっと違う。余人には理解しがたいシニカルで饒舌なゾーイーは彼のやり方でそれを実践してゆくのだ。

この物語のクライマックスは最後にゾーイーが物事の真実をフラニーに語るところ。「目の前に出されたチキン・スープも見えないようでは、何も見えていないのと同じ」と語るあたりからである。そして圧巻は「太っちょおばさん」のくだり。ここで物語は一気に加速度を増す。
ここにあるのは愛。誰もが傷つきながらも相手を想う愛だ。そしてそれを心情に依りかかった情緒的な表現ではなくて、まっすぐにそしてユーモア持って迫る。一周回ってまた戻ってきたかのようなシンプルさが胸に突き刺さる。

サリンジャーはきっと詩人だ。手元には何百編の詩が携えられているはずだ。しかし彼はそれを一編たりとも外部には漏らしていない。きっと、晩年それを処分したんだと僕は思う。でないと彼の文章から漂うポエジーは説明がつかない。どちらも愛に溢れた素晴らしい作品だ。

『MANIJU』 覚え書き③

『MANIJU』 覚え書き③

佐野は以前、TV番組『ソングライターズ』で言葉と音楽の関係を紐解いた。詩は紙面に書かれた言葉、朗読される言葉、音楽を伴う言葉、それぞれ響き方が違ってくる。ということはつまり、表現の仕方も変わってくるということ。『MANIJU』の言葉は間違いなく音楽が伴う言葉だ。音楽と共にあることが前提の言葉。言葉だけでは成立し得ない、言葉と韻律とメロディがあって初めて成立する言葉。

佐野は以前、「言葉とメロディの継ぎ目のない関係」ということをさかんに話していたが、『MANIJU』ではその域にかなり接近しつつあるのではないか。そんな気がしてきた。言葉とメロディがある、というのではなくて音楽がそこにあるという感覚。音楽が川を流れ、いかようにも形を変えていく。もうそんなイメージでしかない。