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詩のルール その②
詩のルール その①
詩との付き合い方
二十億光年の孤独 / 谷川俊太郎
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
夜の招待 / 石原吉郎
詩について:
「夜の招待」 石原吉郎
窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふあんでふち取って――
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子がゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる
(『サンチョ・パンサの帰郷』1963年)
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石原吉郎さんと言えば、背景が背景なものでつい深刻な顔をしてしまいがちですが、この詩はなんかパッと明るい感じがしました。明るいと言ってもやはり冷めた目線というか、「朝は 約束をしにやってくる」といえどもそこまで信じ切っていないというか。ただ僕の印象としては望みを託している方に気持ちは傾いているのではないかと思っています。基本的には石原さんの希望の詩なんだと思います。ていうか実際に希望の朝を迎えた時の、実体験に基づいた詩なのかもしれません。とまぁ、ここでもシベリアの強制収容所という石原さんの背景を見てしまいますが。
冒頭から‘ぴすとる’が鳴ったり‘かあてん’に火が付いたり戦争を想起させるような描写はあります。ただここで‘ぴすとる’や‘かあてん’と平仮名で表記しているところで印象はやわらぎますよね。ここに何か意味はあるのかなと思っていると、‘まちかまえた時間’、つまり争いごとが終わることが示唆される。平仮名はそういうことかもしれません。
‘にわかに寛大になり もはやだれでもなくなった人と 手をとりあって おうようなおとなの時間を その手のあいだに かこみとる’。この箇所、全部記載してしまいましたが、最高の言い回しですよね。‘もはやだれでもなくなった人’といった表現や‘おうようなおとなのじかん’といった表現、もうそれとしか言いようがないですね(笑)。
とにかく、平和な時間が訪れて、そばには象がいて、ここで言う象とは必ずしも動物の象のことではなく、人々ということかもしれませんが、いずれにしても‘おうよう’とした存在がある。そして‘来るよりほかに仕方のない時間が’やって来ることの見事さに石原さんは感動されているのです。
次の‘切られた食卓の花にも’から先のくだりは自由の象徴です。例えて言うと革命が起きて自由な世界が訪れる、歓喜の輪が広がってゆく、そんなイメージです。遂には手の中にある色とりどりのクレヨンまで溶けてしまう。それまでの考え方や思想までが溶けていくということです。
そして最後に‘朝が 約束をしにやってくる’わけですけど、ここではまだ朝はやって来ていない、まだ歓喜の中、人々が作り出す明かりはあるけれどまだ夜の闇の中にいる。今の段階では約束はまだできていない、そんな状態でこの詩は幕を閉じます。
とはいえ、これらはあくまでも僕の解釈です。それとて時間が経てば変わりゆくもの。僕は石原さんのシベリア体験と結びつけてしまいましたが、ここに戦争の影を見る必要はないし、そうではない読み方はいくらでも出来そうです。単純に夜が朝に変わる様とかね。いずれにしても何かが終わり何かが始まる、そんな気分をもたらす作品かもしれません。
個人的な話でなんですが、僕の祖父は終戦後、シベリアでふた冬を過ごし帰ってきました。祖父は近寄りがたい人だったので、喋った記憶はほとんどないのですが、石原吉郎さんの詩を僕はどこかに祖父を感じながら読んでいるところがあります。ですのでこの「夜の招待」には、あの時解放された人々の風景はこんな風だったのかな、祖父も半信半疑でありながら徐々に望みへと気持ちは傾いていったのかな、まんじりと朝を待ちわびていたのではないかな、そんな風に想像をしてしまいます。
ところでこの「夜の招待」は現代詩文庫の石原吉郎詩集で読んでいる時に、なにか引っ掛かりを覚えたのですが、調べて見るとこの詩は石原さんが初めて雑誌に投稿された時の詩なんだそうです(当時39歳だとか)。つまり石原吉郎のデビュー作です。そのデビュー作にピピンと来たオレもなかなかだなと、自画自賛してこの文章を終わりたいと思います(笑)。
詩に触れる
詩について:
『詩に触れる』
仕事でも趣味でも長く続けていると時折気付きが訪れます。世間的にはどうか知らないけど、そういうことか、こうすればよいのかという自分の中での新しい発見。誰にもそういう経験はあると思います。
僕は下手な詩をもう10年ほど書き続けていますが、僕なりの発見はこれまでに幾度か訪れました。先日のテレビ放送『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』もその一つです。内容については既に記載しているので省きますが、これは自分にとって得難い気付きでした。
そこで吉増剛造さんの詩を、もちろんこれまでも詩のアンソロジーや雑誌やなんかで吉増さんの詩に触れることはあったのですが、ちゃんと詩集を読んだことはなかったので、番組で吉増さんが朗読していたあの『黄金詩篇』、これを読みたいと思って、早速Amazonで検索したんですけど無いんです。番組終わりによくある皆が殺到して売り切れとかそういうことではなく、恐らくもう刷っていない。取り扱い外になってるんです。
番組終わりに僕と同じように吉増さんに興味を持った方、たくさんいると思うんですけど、こうやって現代詩への接近の機会を失ってしまうの、非常に残念です。今はネットで著作権はどうかは知らないけどアップしている人もいるし、吉増さんの他の詩集であったり、簡単にまとめたものがあるので是非、多くの人に吉増さんの詩を手に取ってもらいたいですね。
これはずっと前の僕の気付きでもあるんですけど、詩を書く力と読む力は繋がっているのではないかということ。これは詩に限らず、短歌や俳句も、或いは音楽や絵画もそうかもしれません。鑑賞する能力とそれに取り組む能力は互いに影響し合っている、そういう部分があるんじゃないかと思っています。
現代詩、非常に難解ですよね。でも頭で追っかけていかなくていいと思います。理解したという証を求めなくてもいいと思います。とはいえ、あまりにも取っ付きにくい。だからこそ触れる機会を持って欲しい。多分これは慣れだと思うんです。僕たちの日常に溶け込んでいれば、どんな難解な詩であっても何となく肌で感じていればそれでオッケー、人がどうかでも作者の意図がどうかでもなく自分はこんな感じ、というのを気軽に持てるようになれば、多分それが文化だと思うんですが、そうなればとても嬉しいです。
ですので現代詩という今の時代において随分と遠くに離れてしまったものに対して出来るだけ多く人に触れて欲しい。目に馴染んで欲しい、そう願っています。ビカソの絵を初見で見てもなんのこっちゃだと思うんですが、有名ですからもう目に馴染んでいますよね。誰でも何がしかの感じることはある。でもいちいち理解の証を求めないですよね。そういう風に現代詩とも気さくな関係を築いていければ、そしてやがて短歌な俳句のように自分でも気楽に創作していける関係になれば、詩を好きな人間として、こんな嬉しいことはないですね。
アマンダ・ゴーマンさんの詩を聴いて
兄弟/ビートたけし
漂泊者/W.H.オーデン
詩について:
漂泊者/W.H.オーデン
W.H.オーデン(1907年2月21日 – 1973年9月29日)。20世紀最大の詩人の一人と言われている巨人です。イギリス出身ですが、後にアメリカへ移住。時代が時代ですから戦争の影響が色濃く出ている詩が数多くあります。愛にまつわる詩も沢山ありますが、オーデンさんは同性愛者でありましたから、ヘテロセクシャルとはまた違う表現になっているところがとても魅力的です。
僕は海外の詩を読むのも好きです。が、はっきり言ってほとんど理解できていないです。海外の詩は宗教が絡んだりもしますし、それになんと言ってももともと詩は詩人が雲を掴むようにして編んだ言葉ですから、それが翻訳されるとなると尚の事理解し難い表現になる。ただそういう理解し難さが詩の魅力でもありますから、僕みたいなお調子者はその魅力に誘われてついつい海外詩へ手を伸ばしてしまうんですね。で結局ほとんど理解できない。僕の場合はそんなことの繰り返しです(笑)。
その点、オーデンさんは21世紀の日本人が読んでも割と馴染めるというか、こちらに引き寄せて読めるというか。無人島に本を持っていくなら間違いなく候補に上がるような、鞄の中にいつも忍ばせたい。僕にとってはそんな詩人です。
W.H.オーデンの詩「漂泊者」The Wanderer(壺齋散人訳)
運命は暗く どんな海の底よりも深い
運命に見舞われた人間は
春のさなかに 花々が咲き乱れ
なだれが崩れ 岩肌の雪がはがれるとき
自分の故郷を後にせねばならぬ
どんな手もあいつを抱きかかえることはできず
またどんな女たちの制止もあいつをとめることはできぬ
あいつは番人たちの間をすり抜け 森を横切り
異邦人となって 乾くことのない海を渡り
息詰まる海底の漁礁を通り過ぎていく
かと思えば 湧き水のほとりに横になって
ぶつぶつと言葉を吐いたりもする
岩の上にとまった おしゃべりな小鳥のように
疲労した夕方 頭を前方に垂れたまま
夢見るのは故郷のこと
妻が窓から手を振って 喜び迎えてくれるや
一枚のシーツに包まって抱き合う夢だ
だが目覚めながら見るものといえば
名も知らぬ鳥の群れか
浮気をする男たちがドア越しにたてる音だ
あいつを敵の虜にするな
虎の一撃から救ってやれ
あいつの家を護ってやれ
日々が過ぎていく不安な家を
雷から護ってやれ
しみのようにじりじり広がる崩壊から護ってやれ
あいまいな数を確かな数に変え
喜びをもたらしてやれ
帰る日が近づくその喜びをもたらしてやれ
この詩はその名のとおり漂泊者を詠んだ詩です。が実際の漂泊とは限りません。心の漂流という見方も出来るんじゃないでしょうか。
人はある年齢になると旅に出ます。実際に家を出る人もいるでしょうが、そうじゃなくても心の旅を始める。旅というのは行き先が決まってますから、この場合はやはり漂泊と言った方が適切でしょうか。親の保護下から離れ、自分なりの価値観の揺らぎに目覚める。その問いへの旅は誰にも止めることは出来ない。思春期はその一つの例かもしれません。
ある人はいつしか大人になり、特別な出会いを経て家庭を持つ。自分なりのホームを見つけるんですね。そこで一区切り付けばいいのですが、やがて恐らく、また新しい問いが心に芽生え、心の漂流が始まるなんてことも。
ここが嫌だという訳ではなく、ここではない何処かに本当の居場所があるのではないか。そんな風に思うのもまた人の心のありよう。ま、この詩は心の漂流ではなく、実際に家を飛び出しちゃった人の話ですが(笑)。
いつの日か帰る日はあるのだろうか。この詩は漂流を鼓舞する力強さ、或いは漂泊の所在なさだけでなく、そういう希望も含まれている。そんな詩だと思います。