フラニーとゾーイー/J・D・サリンジャー 感想

ブックレビュー:

『フラニーとゾーイー』  J・D・サリンジャー

サリンジャーの短編の中には「グラース家」にまつわるストーリーが幾つかあって、本編もそのうちのひとつ。7人兄弟の末妹のフラニ―とその上の兄、ゾーイーの物語である。元々別個に書かれたもの(『フラニ―』の2年後に『ゾーイー』が書かれたとのこと)だが、2作まとめて単行本にまとめられたのはごく自然なこと。まず、恋人と最悪な1日を過ごしたフラニ―の物語があって(『フラニ―』)、彼女が家に帰ってきた数日後の物語が『ゾーイー』となる。ちなみに、この切り替えが素晴らしい。「バタンッ!」と扉を閉める音が聞こえてくるようで、ひと言で言えばすごく洗練されている。

『フラニー』:
多分に感受性豊かなグラース家の兄弟。その中でもとりわけナイーブな大学生フラニ―は、周りのひと達が嫌で仕方がない。エゴが過ぎるというのだ。しまいにはそうした誰かを責めずにはいられなくなり、その矛先は恋人レーンにも向けられる。彼の愛を知ってはいても彼女にはそれを止められない。また、そうした自分にも嫌気がさし強烈な自己嫌悪。折角の週末を台無しにしてしまった彼女は意識朦朧、最後には気絶してしまう。

ここでのレーンは責められない。確かに適度にオシャレで適度に自意識過剰な彼はいけ好かない奴だが、誰だって人並み以上に自意識過剰だった頃はあったはず。自分の書いた論文をひけらかすぐらいはかわいいものだ。
そうしたレーンについつい反論してしまうフラニ―もまた非難されるものではない。だって彼女は彼を傷つけまいと必死なのだ。そのことにレーンは気付けるくらいの聡明さは持ってるし、それを自分のせいだと責めてしまうフラニーのナイーブさだって誰にも思い当たる節はあるのではないか。
お互いを気遣いつつも、相容れない二人の会話における、聖なるものと現実との揺れ動きが、手に取るようなリアルさで描かれている。余計な装飾なしに、ありのままの二人が見える見事な描写だ。短いが、僕はとても好きな作品。

『ゾーイー』:
多分に感受性豊かなグラース家の兄弟だが、母ベシーは至って現実的。食事もしないでふさぎ込むフラニーを心配しつつもどこかマイペースなのがいい。そこでゾーイーが何とか彼女を元気づけようとするのがこの物語の骨子だ。しかし単に元気づけようというのとはちょっと違う。余人には理解しがたいシニカルで饒舌なゾーイーは彼のやり方でそれを実践してゆくのだ。

この物語のクライマックスは最後にゾーイーが物事の真実をフラニーに語るところ。「目の前に出されたチキン・スープも見えないようでは、何も見えていないのと同じ」と語るあたりからである。そして圧巻は「太っちょおばさん」のくだり。ここで物語は一気に加速度を増す。
ここにあるのは愛。誰もが傷つきながらも相手を想う愛だ。そしてそれを心情に依りかかった情緒的な表現ではなくて、まっすぐにそしてユーモア持って迫る。一周回ってまた戻ってきたかのようなシンプルさが胸に突き刺さる。

サリンジャーはきっと詩人だ。手元には何百編の詩が携えられているはずだ。しかし彼はそれを一編たりとも外部には漏らしていない。きっと、晩年それを処分したんだと僕は思う。でないと彼の文章から漂うポエジーは説明がつかない。どちらも愛に溢れた素晴らしい作品だ。