映画『ボヘミアン・ラプソディー』感想レビュー

フィルム・レビュー:

『Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディー』(2018年)感想

 

クイーンとはフレディ・マーキュリーのことだと思っていたが、そうではなかったようだ。この辺りは、製作にブライアン・メイ(ギター)とロジャー・テイラー(ドラム)の二人が大きく関わっているから(それにしても二人とも演じる俳優さんがソックリ!)自然とそうなるのかもしれないけど、事実、作曲はメンバー全員が手掛けているし、フレディのソロが上手くいかなかったことからも、やはり彼らは4人でクイーンなのだと。このことはファンにとっては当たり前のことかもしれないけど、僕にとっては全く新しい発見で、てっきりフレディが全てのタクトを振るっていると思っていました。あの「ドンドンパッ!ドンドンパッ!」がブライアン・メイの発案だということも『ボヘミアン・ラプソディー』のあのオペラ部分をメンバーだけで歌っていたことも初めて知ってビックリしました。

圧巻は巷の噂どおり、ラスト21分のライブ・エイドの再現。CGだと芝居だと分かっていても鳥肌が立ってしまう。しかもフレディの人生そのもののような『ボヘミアン・ラプソディー』の歌詞がここでぐぐっと立ち上がってくる。そこはやはり感動的です。しかしまぁライブエイドを再現する今の技術はホントにスゴいなと。そこに演者の熱演が加わる訳ですから、この場面の熱量は相当なもんです。

ただ通常のライブ映像のように単純にオーッ!となったかというとそういうわけでもなく、当然そこに至るまでのストーリーがあるわけで、俄然盛り上がるというわけにはいかない。やっぱりそこに至るフレディのストーリーはかなり重いですから、僕はそれを踏まえてのライブ・エイドとして観てしまいました。ここは観る人によって感想が異なるところだと思います。

難点というか、ひとつ気になったのは、ホントにフレディは普段からあんなエキセントリックだったのかなってこと。実際のステージ以外での写真を見てみると穏やかな表情をしているし、僕のイメージでは普段は物静かな人なんじゃないかなって。それがステージに上がると皆が知ってるあのフレディにバッと変わるっていう。

映画でも契約の前にお前たちはどんなバンドかと聞かれて、フレディは教室の隅っこにいるような連中のための音楽(確かそんなニュアンス)と答えているわけだから、フレディの孤独を表現するのにエキセントリックじゃない描き方もあったんじゃないかと。それにいきなりパフォーマーとして完成されているんだもんなぁ。

その辺は時間の制約もあるし、なんだかんだ言ってフレディはスーパーな存在なのだから、ブライアン・メイにしてもロジャー・テイラーにしてもフレディの穏やかな姿を当然よく知っているわけだけど、今フレディのクイーンの映画を描く時にはフレディをスーパーな存在として描くのが一番いいんじゃないかということで落ち着いたのかもしれないし。

あとちょっと駈け足になってしまうけど、彼のパーソナリティーはどうやって育まれたのか。家族との関係、宗教、外見、移民であること。そこら辺も描かれていたのはとても良かったと思います。

今も尚、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの二人はゲスト・ボーカルなどを迎えながらクイーンとしての活動を継続している(ベースのジョン・ディーコンは表舞台から足を洗ったらしい)。つまりは、やはりクイーンはフレディ・マーキュリーだけのものではないということだ。

映画にもあったように、始まりはブライアン・メイとロジャー・テイラーの二人が作ったバンドにフレディが参加したということで、当然この二人にもクイーンという大きな幹を育て、根を張った血脈が流れている。過去の偉大なバンドはいくつもあるけど、圧倒的なフロント・マンが居なくなっても継続出来るバンドというのはかなり珍しいことかもしれない。

とまぁ、観る人によって感じるところは色々あるとは思いますが、観終わった後数日はクイーンの曲が頭を離れないということで、そこは全員の共通するところかなと思います。例に漏れず僕も実際のライブ・エイドのYoutubeは観てしまいました(笑)。レ~~~ロッ!!

映画『Big Fish』 感想レビュー

フィルム・レビュー:

『ビッグ・フィッシュ』 (2003年 監督:ティム・バートン)

 

私の父の自慢は小学校4年か5年の時、上級生もいる全校マラソンで2位になったという話。日頃の父の様子から私は全く信用していなかったのだが、ある日父はどこからか表彰状を探し出してきて私に見せた。すると驚いたことにそこには本当に‘校内マラソン大会第2位’と書いてあったのだった。その日以来、私は今までよりもほんの少しだけ父の話を信用するようになったが、それでもやはりその話は現実感の乏しいもので、本当と嘘の境をふわふわと漂っていた。言ってみればそれはファンタジーみたいなものなのかもしれないが、あれから何十年経った今となってはその本当と嘘の境を漂う所在なさこそが私にとってのリアリティーとなっている。もしかしたら、ティム・バートンにも似たような体験があったのかもしれない。

フィクションにはリアリティーが無いといけない。現実に起きたことよりその方がリアルに感じる時もある。物書きであれ絵描きであれ音楽家であれ、作家は現実に起きたことをそのままスケッチしている訳ではない。そこには作家自身の想像力の飛躍が存在する。芸術とは論文や新聞記事ではないのだから、正確に書くということはさして重要ではない。フィクションであれノンフィクションであれ、如何にリアリティーをぶち込めるかが鍵なのだ。ここで言うリアリティーとは、私にとって、あなたにとってという意味。嘘だってかまわない。

実際に起きたことの意味を、或いは実際には起きていない心の中で出来事を作家は我々に紐解いてくれる。現実に起きたかどうかは問題じゃない。大切なのは時に暖かく、時にひんやりとした手触りなのだ。

この映画は嘘の物語だ。けれどその嘘にはリアリティーがある。誰しも心当たりはあるかもしれないが、10代の頃は特別な力を持っていて、‘ほんとうのこと’と’まがいもの’を瞬時に見分けられる。本当に起きたことでも‘まがいもの’の場合はあるし、嘘の話にも‘ほんとうのこと’はある。この映画がどちらかは観た人の判断に委ねたい。