「僕が生きてる、ふたつの世界」感想

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「僕が生きてる、ふたつの世界」

 

映画の始まりは主人公の大が生まれたところから。少しずつ育つ大の成長が描かれていく。微笑ましい場面があれば辛い場面もある。何気ない日常を追う映像を見ている間、しんどい場面ばかりではないのに、なぜか僕の胸の奥がつっかえたままだったのは、子ども時代の僕にも身に覚えがある風景がそこにあったからだろう。それはコーダだからということではなく、どこの家庭でもある風景。この映画の肝心な部分はそこだと思った。

もちろん両親がろう者である大と僕の家庭環境は大きく違う。けれど人の数だけ家庭はあって親子関係はあり、親子の数だけストラグルはある。劇中、登場人物のろう者が良かれと思って手助けをした大に「わたしたちのできることを奪わないで。」と言う台詞がある。その台詞こそがこの映画に向かう呉美保監督の態度ではなかったか。コーダという存在を特別なものとして特別な親子関係を描くのではなく、世界中の個々の親子が個々に異なるように、ある個々の親子関係を捉えた。この映画はそういう理解でよいのではないか。

映画を観た後、僕は図書館に寄り、そこに置いている映画雑誌をめくって呉美保監督のインタビュー記事を読んだ。劇伴は使用しなかったとのこと。そうだ!劇伴はなかった!雑音やら騒音やら周りのひとの声やらかやたら大きく聞こえたのはそのせいだったのか!無音の場面もいくつかあった。しかし泣きそうになった場面で無音だったのには参った!こんなシーンとした劇場で鼻水もすすれないじゃないか(笑)

俳優陣も素晴らしかった。主役の吉沢亮。綺麗なお顔なのに少しもそうとは感じさせなかった。映画一のキャラはヤクザのおじいちゃんを演じたでんでん。しかしなんと言っても母親役の忍足亜希子。母の愛たっぷりだけど重苦しくなく、暗くなりがちな話なのにどこか気の抜けた楽な部分があったのは、彼女の演技によるところが大きいのではないか。もちろん全体のそうした雰囲気を引っ張ったのは吉沢亮でもある。そうそう、父親の今井彰人も芝居をしていないぐらいものすごく自然で、まさにそこにいるようでした。あと、ユースケ・サンタマリアは胡散臭い役をやらせたら抜群やね(笑)。

手話を「手まね」と揶揄するおじいちゃん。けれど手話とは単なる「手まね」ではなく、表情を含めた言語であると、監督はインタビューで答えていた。それを証明するかのように母親はいつもまっすぐに大と目を合わせる。手話には方言もあるというのも描かれていた。単なる置き換えの道具ではなく普通に言語なんだな。そうだ、手話は必ず目を合わせるそうだ。なんと人間性のこもった言語なんだろう。

映画に劇伴は無かったけど、エンドロールでは主題歌が流れた。歌詞は劇中で母親が大に送った手紙の文章。こう響かせてやろうという意図のまったくない言葉。簡潔だけど、だからこそとても胸が熱くなりました。エンドロールの主題歌含めての映画だと思います。

ちなみにこの主題歌。最初は女性シンガーが歌ったそうだ。けれど母の圧が強すぎて(笑)、男性シンガーに変更したそうです。呉美保監督のこのバランス感覚がこの映画をより素晴らしいものにしたのだろうな。

『眩暈 VERTIGO』(2023年)感想

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『眩暈 VERTIGO』(2023年)監督・井上春生

 

映画の感想を書こうと何度か試みているのだけど、何度書いてもただ表面をなぞっているような気がして書いた気にならない。でも考えてみれば、今までに見たこともない映画だったので、言葉に出来ないのは当たり前だ。見たというより、見てしまった、いいのだろうか、という感覚さえある。

詩というのは一応は紙に言葉が印刷されたものだけど、こちらに伝わるものは言葉だけとは限らない。アクセントやリズム、抑揚。或いは景色、自分の過去に照らし合わせた映像が喚起される場合もあるし、全く知らない映像、それこそ心象風景としか言いようのない抽象的な何かが渦巻くことだってある。ただそれは詩に限った話ではないし、同じく文字しか情報のない文学作品ならよくあることだろう。詩がそれらと少し異なるのは、人によって、或いは同じ人でも時間や場所、状況によって喚起されるものがビックリするぐらいまちまちだということだ。

僕は吉増剛造の詩を読んでも全く分からない。しかしそれは多分言葉の意味として分からないということだろう。現に心のなかで音読すると皮膚感覚が泡立ってくる。詩が単なる紙に書かれた言語に過ぎないなら、こんなことは起きないだろう。吉増の詩はどう考えても言葉だけには収まらない得体の知れないものなのだ。

けれどそれは当然の話で誰もが知ってる得体の知れたものなら、わざわざ詩を書く必要はないのだし、どこかからそうそうこれこれなんて言って持ってくればいいのだ。そうはいかないから詩人は詩を書いてるのだろうし、吉増が言った「未完成を目指す」というのもなんとなくそういうことのような気はする。

つまり詩であればあるほど、創作に誠実であればあるほど見たことも聞いたこともない度は大きくなるわけだから、分からないのは当たり前の話で、でも何か分からないけど胸を打つ、感慨として何か残る、というものが表れればそれは’見た’’聞いた’もしくは’経験した’ということになる。ただ吉増剛造もジョナス・メカス(の作品を僕は観た事はないけど)もそうしようと思ってそうしたわけではなく、ただ単に真摯に取り組んだということなのだろう。

そうやって芸術は積み上げられ引き継がれていく。監督も井上春生もまたその一人なのだ。それにしても、よくもこんな瞬間を撮ったと思う。映画だからもちろん映像もあるし音もある。けれど一方で文字しかない詩のようにも感じられる。吉増の「メカスさん」という何とも言えない呼び声。創作時の「書いておかないと忘れちゃう」と言った時の時間の歪み方。セバスチャンの人間を超越したような佇まい。吉増とセバスチャンの間に流れた沈黙。記憶としてのはずのメカス。どうしてあんな瞬間を撮ることが出来たのか。紛れもなく、見たことも聞いたこともない瞬間の連続だった。

けれどこの映画の敷居は決して高くない。もちろん、ジョナス・メカスのことや吉増剛造のことを知っていれば尚よいのだろうけど、分かる人にだけ分かればいいという映画では決してない。一応はドキュメンタリー映画ということにはなっているけど、色々な工夫がされていて、観ていて楽しい要素もあり、一概にドキュメンタリー映画とは言えないつくりにもなっている。数人に朗読をしてもらった音声を少しずつずらして重ねていくところなんて、恰好いいし、テーマでもある揺らぎと相まってとてもよかった。そういうポップさもある。

僕が行った日は観客が僕を含めてたった8人しかいなかった。きっとこの映画を求めている人はたくさんいると思う。多くの人が知らないままなんじゃないかという事が残念に思った。もっとメディアで紹介されてほしい。きっと観るたび何度も何度も異なる感想が現れるのだと思う。もう一度観たいと思った。

クライムズ・オブ・ザ・フューチャー(2023年)感想

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クライムズ・オブ・ザ・フューチャー / Crimes of the Future(2023年)

 

この手の映画を観るのは初めてだったが、個人的にはいわゆるディストピアもの含め近未来SF小説は好きなので、わりと違和感なく映画の世界に入りこめた。一部、目を逸らせたくなる場面もあるかもとの事前情報もあり少し身構えていたが、そこは作品世界を踏まえての表現、つまり敢えて人工的に見える作りになっていたので、特に気持ち悪いことはなかった。グロいけど生々しくない。

この映画は環境問題から着想を得たということだが、進化した人間がプラスチック(有害物質)を食べられるようになるというのはブラックユーモア以外の何ものでもない。ということで真面目に見れば、眉間に皺を寄せて観ることもできるが、一方でなんじゃこれは的なユーモアの感覚も忘れてはいけない。腹を開く器具が手の形を模していたり、それを操作するリモコンが気持ち悪い形状をしているのもその延長。

要するにデヴィッド・クローネンバーグ監督としては思いついたワクワクするアイデアを何とか形にしたいと考えた時に、環境問題とくっ付けることでこれ更に面白く出来るやん、となったんじゃないかという穿った見方もできる。高尚な環境問題を考える映画と言うより、新しい臓器ができちゃう体とか、痛みがなくなった人間とか、外傷に性的な興奮を覚えてしまうとかいうデヴィッド・クローネンバーグの世界を楽しむ映画というのが先にある、という理解でよいのではないか。

とは言え、例えばビーガンとか環境保護団体とかそれ自体は良い事であっても度が過ぎると恐ろしい方へ向かってしまう暴力性、或いはそうした思想などお構いなしの狂った人々、常識的だと思える人々さえ抗えないものなどなど、我々の日常とリンクする部分も多く、笑うに笑えない作品であることも確か。生真面目さや下らなさや恐ろしさをどう配分するかは観た人それぞれに異なると思うが、最後のソールの表情をポジティブに捉えることはなかなか難しい。

『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年)感想

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『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年)
 
確かにこれだけの映像表現が可能であれば、120分をまるっと山王戦で通す方法もあったかもしれない。それだけの映像インパクトはあるし、スラムダンクの映画化を楽しみにしていた当時のファンを十分に喜ばせることは出来ただろう。けれども連載終了時から30年近く経った今、それだけをすることにどれだけの意味があるのだろうか。
 
確かにあのスピード感や立体的な動きを再現できたことには驚く。しかし技術は日々進化する。今は驚きの目で見られた表現でさえ、10年後20年後にはそれを上回るものは必ず出てくる。いずれ、あの時は凄かったね、で終わってしまう。あの『ジュラシックパーク』や『マトリックス』が人々の記憶に残っているのは単に映像表現が凄かったから、だけではないのだ。
 
ではこの映画にその深みを与えているものは何かと言えば、それは間違いなく宮城リョータの家族をめぐる物語。もう一人の主人公はリョータの母親ではないかとさえ思えるような、極力セリフを配した丁寧な描写、心象風景。これらを幾つも挟みながら殊更説明することなくただ山王との試合に挑むリョータの肉体表現へ徐々に変換されていく様。今まさに現在進行形でそれを目撃している私たち。
 
また過去を捉えた幾つもの場面は手に汗握る湘北対山王の死闘に興奮状態にある私たち観客に落ち着きをもたらす効果もある。緊張感はいつまでももたない。チェンジ・オブ・ペース。まるでポイントガードである宮城リョータのように井上雄彦は映画全体を俯瞰する。
 
ただ懐かしむために井上雄彦は腰を上げたのではない。これは『バガボンド』や『リアル』を経て、また現在の日本のバスケットボール界を見据えた、今の井上雄彦の新作である。作家に’同じこと’を望むなんて野暮なこと。何故ならそれは芸術家にとって死を意味することだから。ましてあの井上雄彦である。
 
『THE FIRST SLAM DUNK』は過去の焼き直しでもリメイクでもない。今の井上雄彦が一から創り上げたリクリエイト(再創造)作品である。きっと漫画『スラムダンク』のように井上雄彦の作品として何十年後も残るだろう。『THE FIRST SLAM DUNK』は決して、あの時は凄かったね、で終わらない。

『RRR』(2022年) 感想

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『RRR』(2022年)
 
 
インド映画は割と好きだ。好きと言えるほど見てはいないが、あの急に歌ったり踊ったりするのも含めて、「んなアホな」の練度が非常に高いインド映画は、あちこちに飛ぶストーリーや、アクションとか恋愛とか友情とか謎ときの全部盛りを強引にではなく、「んなアホな」のくせに説得力のある形で丁寧につなげていく。エンタメに徹した無茶苦茶さとそれを破綻させない丁寧さ。むしろ観客をその渦に巻き込んでしまうところがインド映画の魅力かもしれない。
 
つまりあのキン肉マンでおなじみの、ウォーズマンのベアークローを2つにして、いつもの2倍のジャンプに云々のくだり。あるいはバッファローマンによるキン肉バスター返し、「6が9になる!」。よくよく考えてみればおかしな話だが、とはいえ無茶苦茶な飛躍ではないし、それもアリかなと思わせる微妙なラインのギリ。というかこちらにそのギリを補正させる愛嬌。
 
『RRR』はこの「んなアホな」を許容できるギリの説得力を保ちつつ、その「んなアホな」のレベルを段階的に上げていき、「んなアホな」の許容範囲を徐々に拡張していく。そして観客に徐々に生まれる共犯意識。細かいところは抜きにしておもろかったらええやん、ではなく、細かいところを抜きにしていないからこそここまで面白いのだ。
 
エンタメの渦に巻き込まれて、一緒になって観客自身が更に面白くしていくライブ感。コロナ禍を受けた次のステップとして、こんなにふさわしい映画はないのではないか。

『リコリス・ピザ』(2022年)感想レビュー

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『リコリス・ピザ』(2022年)
 
主人公は二人いまして、一人は15才の少年ゲイリー君。もう一人は25才の女性アラナ。この二人のつかず離れずの関係を描いた青春映画です。こう書くと少年とお姉さんのあれこれを想像してしまうのですが、この映画はそういう想像とは全く反対の位置にある映画ですね。
 
なので、じゃあ二人は一体どういう関係なんだ、というところが判然としないまま物語は進んでいくのですが、とはいえゲイリーにいい人が現れるとアラナは嫉妬するし、アラナにいい人が現れるとゲイリーは嫉妬するし、とにかくお互い必要以上に嫉妬する(笑)。じゃあ君たち付き合えよって感じなんですが、そういう感じじゃないんですよねこの二人は。
 
じゃ所謂ソウル・メイトかというと大概ケンカしてるしそういうわけじゃない。で話もですね、さっき話は進んでいくと書きましたが、いわゆる映画的なストーリーは全くないです。唐突に変な人が出てきたり、なにか思わせぶりな意図があるのかなと思いきやこれはどうも本編とは関係ないエピソードだぞとか、単純に二人のある時期の様子をただ撮っているという感じなんですね。
 
でも人生なんてそんなもんじゃんって。例えば好きな人が出来て告白して上手くいく、天にも昇る気持ちになる。でもそれはそれ、早い時期からそうじゃなくなるかもしれない。つまり明日のことなんて分からないんです。分からないし、大変な時でも全然関係ないことが唐突にやってきたりする。計算どおりじゃないし、脈絡がないし、そういうことの繰り返し。ま、この映画の二人みたいにあそこまで色々はないですけどね。
 
そんな中で相手に何かある時は真っ先に全速力で走る。二人に共通項があるとすればそれぐらいなんですけど、何回か相手のために全速力で走るっていう場面があって、そこがラストシーンにも繋がるんですけど、こういう場面はやっぱいいですよね、輝いてる。
 
てことでやっぱ青春映画なんです。冒頭に15歳の少年と25才のお姉さんのある時期の関係を描いた映画だって言いましたが、その間ゲイリーは子役として活動したり、ウォーターベッドの販売やピンボールの店をオープンしたり、アラナも一緒に活動しながら女優を目指したり、と実際の時系列的には年月が進んでいるはずなんです。はずなんですが、映画観てる印象からするとずっと15才と25才のままなんですね。つまり作り手はそんな細かいところは気にしていない、多分。とにかく青春のある時期のゲイリーとアラナの関係を描いた。それだけなんだと思います。
 
でとにかくこの時間の中ではたとえつかず離れずであろうと二人はお互いを必要としている。キュートだし輝いている。でもこの映画の後はどうなるか分からない。でもこの一時期だけは間違いなくお互いを必要としているんですね。という中でユーモアがあって、舞台は1973年ですから今から見れば、人種的にもジェンダー的にも不適切だったりする、そういうシニカルなユーモアも含めて、ポール・トーマス・アンダーソン監督ならではの中身があるようでない話が進んでいく、という映画なんだと思います。
 
そうそう、シニカルなユーモアというのもポイントですね。最近はそれをそのまま真に受けて、そうなんだ~って思ってしまう人も多いようで、ちゃうちゃう、これ皮肉やでっていうね、ここら辺の表現を敢えてするっていうところも好印象です。あと一応は、いやど真ん中のラブストーリーだとは思うんですが、いわゆるラブシーン的なものが全くないのがとてもよかったですね。
 
てことでとても素晴らしい映画だったんですけど、個人的に残念な点を一つ。ていうのも主役の二人、ともに映画初出演で初主演なんですけど、アラナ役のお姉さん、本名もアラナと言いまして、ロックバンド、HAIMのメンバーの一人なんですね。一般的は知られていない二人を主役にするっていうのがこの映画のストロング・ポイントだとは思うのですが、僕はHAIMが大好きなので、ずっとライブ映像とかミュージック・ビデオをアラナ・ハイムを観てたんですね。だから映画見てても、HAIMのアラナがついつい出てきてしまう。ま、音楽に興味ない人は気にならないとこですね(笑)。
 
まぁとにかく青春のある時期を走りに走った二人の物語。最後の最後でようやくお互いを探して求めて同時に走りつづける。その一番感動的なところで、勢い余ってぶつかってこけてしまう(笑)。僕はここで一番笑いましたけど、とにかく清々しくてチャーミングな楽しい映画でした。

シン・ウルトラマン(2022年)感想

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『シン・ウルトラマン』(2022年)感想
 
 
リアルタイムで観ていたわけじゃないのですが、僕が小さい頃はよく再放送をやっていて、断片的にですけど初代ウルトラマンを観ていました。だから映画の中に出てくる小ネタ、というかホントの小ネタになるとマニアじゃないと分からないとは思いますけど、ちょっとしたネタなんかは分かるんですね。だから劇伴なんかも当時のそれっぽい感じで初っ端から「おお!」って盛り上がるんですけど、初代のテレビ・シリーズを観たことがない人はどうなんでしょうね。ちなみにエンドロールを見てたら劇伴は当時のものをまんま使ってましたね(笑)。
 
あとやっぱり『シン・ゴジラ』ですよね。どうしてもあのイメージがあってその延長線上を期待してしまっていて、冒頭の禍威獣(←怪獣のことです。『シン・ウルトラマン』ではこう呼びます)が続々と出てくるシーンで、あ、これはリアル路線で見ちゃいけないなと、あくまでも空想科学モノとして見ないとなと思い直したんですけど、なかなか自分の中で軌道修正できなかったです。『シン・ゴジラ』と同じように自衛隊とか政治家が出てくるので、どうしてもそういう目で見てしまう。ただ実際のところ、作り手側もリアル路線に後ろ髪引かれる思いがあったのかなと。政治家絡みのシュールな場面はもう少しユーモアを強調しても良かったかなとは思いますが、その辺がちょっとどっちつかずだったかなとは思いました。
 
それと僕は邦画を見る時に、テレビドラマもそうですけど、俳優をその俳優として見てしまいがちで、例えば福山雅治はどんな役をしていても福山雅治としか見れないんです。でも時々そうじゃないときがあって、福山で言うと是枝監督の『父になる』ですよね、あれなんかは福山としてではなく、ちゃんと役として見れてくる。だから映画を観る時の僕の良し悪しの判断はそういうところだったりするのですが、今回で言えば主役の斎藤工がちゃんと役名になっていて、そういう意味では雑念なくちゃんと映画を観れていたかなと思います。あ、山本耕史の胡散臭いメフィラス星人も良かったですね(笑)。それ以外は、、、言わないでおきます(笑)。
 
ネタバレになるからあまり言いませんが、ラストももう少し何とかならんかったかなぁと。CGばっかというのはねぇ。。。ただウルトラマンの造形は素晴らしかったです。変に小綺麗にならずに、ちゃんと皮膚感というかなんとなくウェットスーツ感も残っていて、そういうリアルさはありました。あと空を飛ぶ時の形ですよね、昔のままというのが嬉しいです。というようなところで、やっぱ初代を何となく知っているからこその楽しみがいっぱいあって、僕は楽しかったし、それに大きい画面でウルトラマン見れただけでテンション上がっちゃう口なので、映画館で観て良かったなと思いましたが、全世代的に男女問わず楽しめる映画かと言われると、少なくともうちの奥さんは見ないだろうなとは思いました(笑)。僕はもう一回観たいぐらいですけど(笑)。
 
あと少し真面目な話をすると、ガンダムの富野由悠季監督がある対談で、頭のいい理系の奴らが世界を悪い方に持っていく、なんて話をしていたんですけど、この映画でも巨大化であったり時空を歪めるなんてのを理系の賢い人は際限なしに本能で突き詰めていってしまう、結局それが戦いの道具になってしまうというような悪循環が裏テーマとしても流れているような気はしました。
 
それとセクシャリティーに関する問題ですよね。これはもう今や音楽でも何でもそうですけど、ここのところの表現をいかに真っ当に出来るかというのが非常に重要で、若い世代では特にもう当然のように捉えているところだと思うのですが、そこでの認識が非常に甘いなと思いました。これではやっぱり昭和世代のクリエイターの作品だなと思われても仕方がないし、そういう意味でも幅広く支持はされないだろうなとは思いました。

映画『オアシス:ネブワース 1996』(2021年)感想レビュー

フィルム・レビュー:
 
『オアシス:ネブワース 1996』 (2021年)
 
 
劇中で「リアムはこの時が声もルックスもピークだ」なんて言っている人がいましてですね、いやいやデビュー当時もカッコエエし、なんなら今の大人な渋さもエエやんって心の中で思いまして。で、映画を観終わって帰る道すがら当然のごとくYOUTUBEだなんだと色々見返していたんですけど、やっぱり思ったんですねぇ、「ネブワースのリアムが一番カッコエエやん!!」と(笑)。
 
そりゃデビュー当時は『Live Forever』の裏声だって自分で歌ってたし、アラフィフの今は今で渋くって好きなんですけど、あの大声と爆発力はやっぱネブワースの頃だなと。しかも映画観てるとタバコ吸いながら歌ってるシーンもあって、それであの声ですからやっぱこの人すげえなと。ま、この不摂生のせいでこの後は声がダメになっちゃうんですけどね(笑)。それにしても『Slide Away』のラスサビ後のコーラスをリアムががなり立てるとこはめちゃくちゃカッコエエ!!
 
オアシスが解散して十数年経ちますけど、過去に一度でも彼らの音楽に夢中になったことがある人なら、この映画はきっと気に入ると思います。僕もちょっと忘れかけてたんですけどね、この映画を観て思い出しました、リアム、すげぇって。ネブワース公演自体は何年も前からYOUTUBEで見れるんですけど、多分もう皆忘れてしまってると思うんですね。そこへこうやって改めて映画館で観るとですね、『Don’t look Back in Anger』と『Wonderwall』を同じ週に書いて『The Masterplan』をB面にするソングライティングの化け物ノエルと、天性のフロント・マンであるリアムがいるあのとんでもなかったオアシスの特別感というのがまたよみがえってくる感じはありますね。
 
映画は、僕はてっきりフィルム・コンサートみたいな感じかなと思ってたんです。でも全然違って、ネブワース・ライブに参加した当時の若者、25年経ってますから今はもういい年をしていますけど、彼彼女らの証言で進んでいきます。彼彼女らがどういう思いであの日に臨んだのかっていうところに焦点を当ててですね、何しろイギリス国民の2%がチケット争奪をしたっていうぐらいですから、そのチケットをどうやってゲットするかというところから始まって、片田舎のネブワースに到着するまでの姿を、それだけじゃなくラジオ中継もあったので参加できなかった子たちがラジカセの前で準備する様子とかもね、当時の映像なんかも交えながら進んでいきます。
 
これがすごくよかったです。こういう映画にありがちな業界関係者の証言とかじゃなく、ファンの声ですよね、それがいかに彼彼女らにとってオアシスがどういう存在であったというのをちゃんと伝えてくれるんです。今じゃもう彼彼女たちは中年ですよね。ここまで色々ありながらも何とかサバイブしてきた。その人生半ばを過ぎた今、過去を振り返ったときに何があったかというとね、人に自慢できるものはなかったかもしれないけれど、あのオアシスとの日々があったという事実。実際栄光を掴んだのはオアシスであってファンの子たちではないんですけど、俺たちも栄光を掴んだ、あの時の俺たちは輝いていた、そんな風に思わせる力がやっぱりオアシスにはあった、その象徴としてネブワースはあったんだなというのがヒシヒシと伝わってきて、これはちょっと感動的でもあるんです。
 
今はコロナですからライブにも行けなくて、僕自身もこれまでにチケットを買ったものの行けなかったライブが4つあります。エンターテインメントは不要不急呼ばわりされて、それも仕方ないとは思うんですけど、音楽が必要なんだという人は世界中に沢山いて、実際に誰かの人生に寄与してきた、そういう事実をこのコロナ禍にあって図らずもこの映画は示してくれた、そんな気もします。
 
あとさっき当時のイギリス国民の2%云々って話をしましたけど、映画を観る限りは白人の若者ばかりなんですよね。たま~に黒人とかアジア系とかいますけど、ほぼ白人。イギリスはパキスタン移民も多いはずなんですけど、ネブワース公演の映像を観る限りはほとんどが白人の男女。だからどうなんだということではないんですけど、2021年の今ではそういう目でも見てしまうとこあるなとは思います。当時の白人じゃない若者はどうだったのかなぁって。
 
映画は2週間ほどで公開を終了するみたいですから、今更オアシスっつってもな~って迷っている人がいたら、ちょっと時間に余裕があれば、観に行ってもらいたいなと、得るものはあるんじゃないかなとは思います。
 
私はなんか今の勢いじゃ、もうすぐリリースされるネブワースのCDを買ってしまいそうです(笑)。映画を観た後だと、オリジナルのスタジオ録音バージョンは物足りないんだよなぁ(笑)。

映画『すばらしき世界』(2021年) 感想

フィルム・レビュー:

『すばらしき世界』(2021年)

 

映画は当初、原作どおり『身分帳』というタイトルのまま行く予定だったらしい。ところが撮影が進んでいくうちに、思うところがあって西川美和監督は『すばらしき世界』というタイトルに変えたそうだ。
 
何故だろうか。監督は今までオリジナルの脚本でしか映画を作ってこなかった。けれど今回は『身分帳』という原作に出会って映画化しようと考えた。それは当然のことながら、ストーリーのみならず主人公にも魅力を感じたからであろう。そして撮影が進むにつれ、紙面でしか存在しなかった主人公がリアルな魅力を放ち始める。しかも演じるのは役所広司。生身の三上がそこにいるのである。
 
映画の後半では三上の就職祝いパーティーが開かれる。彼を支援してきた心暖かい友人たちは口々に言う。「もっと自分を大切に」、「辛抱することも大事」、「我慢できないときはここにいる私たちを思い出して」と。三上は頭を垂れてもう二度と短気は起こさないと誓うが、最も近くで三上を見てきた津乃田は複雑な思いだ。映画を観ている側の我々も答えのない疑問に迷い込む。こうやって三上が ‘丸くなる’ ことを望んでそれでよいのだろうか。「善良な市民がリンチにおうとっても見過ごすのがご立派な人生ですか!」と激しく苛立った三上を消し去ってよいのだろうか。
 
当初は三上の生き方を相容れなかった津乃田はしかし、三上と長い時間を共有することで彼の人間的魅力に惹かれていく。そしてそれは自身を見直す契機にもなる。三上に最も近い観察者である津乃田はすなわち映画を観ている我々でもある。そして津乃田や僕たちをそう導いているのは西川美和監督に他ならない。けれど監督にそう思わせたのは三上であるという循環。
 
僕たちはそこにいなかったがそこにいた。そして三上という人物に触れた。原作『身分帳』は乾いた筆致が魅力であるけれど、三上を或いは彼を取り巻く世界を知った以上、もうそれを『身分帳』という ‘乾いた物’ で言い表すことはふさわしくない、監督がそう考えてもおかしくないのではないか。 生身の人間が行き交う世界、それを西川美和監督は『すばらしき世界』とした。そしてそれは′ご立派な人生’ を歩む僕たちの世界をも含んでいる。
 
監督はこれまでオリジナルの脚本でしか映画を撮らなかったが、今回初めて原作のある話の映画化に取り組んだ。そして原作とは異なる視点を持ち込んだ。意味を限定する固有名詞である『身分帳』から意味を規定しない『すばらしき世界』へ。今となってはこれ以上のタイトルは考えられない。

『すばらしき世界』(2021年) 雑感 その2

フィルム・レビュー:

『すばらしき世界』(2021年) 雑感 その2

※以下、ネタバレありですのでご注意ください。

 

前回の投稿では感想と言いながらちょっと映画とはかけ離れてしまった感かあるのでここで改めて。というよりやっぱり思うところが沢山出てくる映画でなんです、なんか気づいたら考えてるっていう。だから『すばらしき世界』というタイトルはホント奥行きのあるタイトルだなと、原作は『身分帳』という小説なんですけど(早速、買いました)、よくぞこのタイトルに変えたなぁと思います。

映画は人生の大半を少年院や刑務所で過ごした男が社会に復帰するもののうまく馴染めないというところを人と人との関係においてどうなっていくのかというのが主なストーリーにはなっているんですが、男の苦悩が合わせ鏡のように僕たちに返ってくるんですね。つまり主人公は弱いものが責められているのをほっとけないし、間違ったことを見過ごすことは出来ない。一方僕たちはホントは正しいと思えることでもそ知らぬフリをしたり、えっ、気づかなかった、みたいなズルい生き方をしていることが往々にしてある。もちろん正義のつもりでも相手を半殺しにする主人公はよくない。でもお前はどうなんだって。

映画のラスト近くで主人公は介護施設に職を見つける。そこで若い同僚が同じく同僚の障害者をあいつはホントに出来ねぇと言ってイヤなものまねをするんです。で映画を観ている僕は思うわけです。以前と比べて世間と折り合いを付けれるようになった主人公はこれまでのような暴力ではなく、違うやり方で若い同僚を戒めるはずだって、いや戒めて欲しいと。でもそれって勝手な話ですよね。主人公に対して散々世間ともう少しうまくやりなさいと言い続けてきたくせに、いざとなりゃ自分のことは棚に上げ、主人公に本来の正義感を発揮していさめて欲しい、ギャフンと言わせて欲しいと願う。なんて勝手な話だと思う。そういう風にして色々なことが観ているこっちにそのまんま返ってくる、そんな映画だと思います。

2018年度の犯罪白書によると、2017年の検挙者のうち再犯者は48.7%。受刑者の約半数が再犯者になっています。加えて2017年の再犯者の72.2%が逮捕時には無職でした。しかし何も好き好んで無職になったわけでありません。僕たちの側(と言ってしまうこともどうかと思いますが)にも大きな問題があるのです。

介護施設で働く主人公は素性を隠して生きています。自分に嘘がつけない主人公が自分に嘘をついて生きている。本来であれはちゃんと刑期を終えたわけですから元受刑者であったことを隠さなくてもよいわけです。けれど隠さざるを得ない。映画のクライマックスで主人公は同僚の障害者から花をプレゼントしてもらいます。その瞬間、二人は裸の魂の交感をする。その刹那、主人公は恐らく同じものを相手に見たんですね。とてもエモーショナルで美しい場面でした。

主人公は自分に嘘が付けない。一方僕たちは毎日小さな嘘をついている。主人公は心の声に従い暴力を用いてそれを正そうとする。それは良くない。けれど僕たちは見なかったフリをしてその場を立ち去る。何が正しくて何が間違っているのか。だんだん分からなくなってくる。でもそれは簡単に答えが出せるものではないし、むしろ答えなどないのかもしれない。『すばらしき世界』とはなんなのか。正しさとはなんなのか。これは観たものにそんな問いを残し続ける映画なんだと思います。

最後に、役所広司さんをはじめ皆さん本当に素晴らしいかったです。役所広司ではなく三上さんがそこにいました。主要人物だけでなく、街のチンピラやソープ嬢といった少ししか登場しない人たちにも本当にそこにいるようなリアリティーがありました。素晴らしい作品です。映画館で観て本当によかったと思います。