「私たちの話し方~The Way We Talk」(2026年)感想

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「私たちの話し方 ~The Way We Talk」(2026年)

 

3才の時に聴覚を失ったソフィーは人工内耳を装用し、’普通の人’と同じような生活を送ろうとしている。ジーソンはろう者として、手話話者であることに誇りを持って生きている。アランは人工内耳を装用しつつも、手話を行うバイリンガルだ。同じろう者でありながら背景の異なる3人の若者が互いに影響を受け合いながら、それぞれの道を選ぶ。

劇中、ジーソンは「手話がオレの母国語なんだ!」と声を大にして言った。そうだ、手話話者にとって手話は母国語なのだ。例えば、日本語を母国語とする日本人は日本語でものを考え、日本語でモノを伝える。言語は思考を司る。言語はアイデンティティーであり、文化である。つまり今現在のジーソンの思考や行動は手話があってこそ生まれたもの。言葉は単なる道具ではないのだ。

人工内耳により、’普通の人’と同じように生きることを選択したように見えるソフィーは、ジーソンやアランたちとの交流を経て、自分の生き方を見直し始める。人工内耳を装着しても到底聴者ほどには聞こえないし、たとえ問題なく会話できたとしても聴者に合わせたそれがソフィーにとって自然な行為なのか。人が人として自然にふるまえるにはどうしたらよいのか。ソフィーにはそれさえ、ままならない。

この映画に結論めいたものはない。ソフィー、アラン、ジーソンも迷いながらそれぞれの選択をしてこの先も生きていく。もちろんその中には、人に合わせなくちゃならないことも絶えず出てくる。それは聴者もろう者も変わらない。ただ願わくば、ソフィーたちが借り物の道具ではない自分の自然な発露としての言葉で思考し、交流し、自己を定義することができればと思う。

映画はほぼ発話による音声が無い状態で上映された。BGMもほぼない。字幕だけを追って理解するのは頭が疲れそうだったが、それも次第に慣れてきた。また会話やBGMを含めた音声の強弱は感情を表現する大事な要素であると思っていたので、エンタメとしてエモーショナルな部分が不足するのではと懸念していたが、そこはよいストーリーや演者の好演により、まったく杞憂に終わった。音は無くてもエモーショナルなとても良い場面がいくつもあった。

主人公3人の個性を描き過ぎない点も好印象だった。それぞれに異なるソフィー、ジーソン、アランの物事に対するアプローチを殊更強調せず、変にドラマっぽ人物にはしない。くどい台詞も無いし、ドラマチックな展開もない。いいとか間違っているという判断はせず、ただ3人のその時々の選択をカメラが追っていくだけという姿勢。それに応える俳優たちの自然さがとてもよかった。静かだけど、とても雄弁な映画であったと思う。

映画は聴者でもろう者の’聴こえ方’、例えば雑音や耳に残る重い感じが想像できるような音像の工夫がなされていた。それがどこまで実際のろう者の聴こえ方に近いのか分からないが、ひとくちにろう者と言っても様々で、人によっては全くの無音ではないのかもしれない。

最後にもうひとつ。手話は手や表情で表現するのだから、日本の手話も海外の手話も例えば日本語と英語ほどには異ならないんじゃないかと思った。もしそうだとしたら、日本人も外国人も手話話者同士のコミュニケーションの方がよっぽどスムーズなのかもしれない。少なくとも日本語と外国語ほど別ものではないような気がした。

それにしても上映時間134分はちょっと長かったかな。

第21回さがの映画祭 感想

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京阪の祇園四条駅を少し上がったところにあるヒューリックホール京都で開催された第21回さがの映画祭に行ってきた。

「さがの映像祭は、ろう者・難聴者が制作した映像作品を全国から募集・上映し、多様な映像表現を社会に発信する映画祭です。映像作品コンクールや特別上映、関連企画を通して、手話・ろう文化への理解を深めるとともに、映像制作の可能性を広げることを目指しています。」(さがの映像ホームページより)

背景を少し記述すると、国際的な流れとして1880年ごろから「口話法(発声・読唇)は手話法よりも優れている」として、手話は禁止されていた。つまり手話文化が無きものにされていた。日本でも1933年から手話は発語の妨げになるとして、ろう学校で禁止されていた。もちろん今は手話も言語として認められている。 2025年には手話施策推進法が施行され、手話が重要な意思疎通の手段であることが位置づけられ、手話を使って暮らせる環境整備等を国や自治体の責務であることが明記された。

先ず始まったのはろうの映画の開拓者である深川勝三監督の紹介。現在では障がい者自身が俳優として出演している映画が特に欧米では幾つもあり、日本でもようやく動きだした印象があるが、驚くのは1961年の段階で世界に先駆け、すでにそれが日本で行われていたということ。さらには監督自身がろう者であったということには驚くしかない。この日は深川監督が演技指導をしている当時の映像が流されたが、身振り手振りでエネルギッシュに演技指導をする姿には本当に驚いた。

当時出演していたろうの俳優がゲストとして呼ばれ、ステージでその時の思い出を語ってくれた(もちろん手話で)。そのうちの一人は100才!しっかりと歩き、話をするその姿に会場から大きな手話の拍手が起きた。ちなみにお年寄りの手話はEテレの手話ニュースのようにキレキレではなく、おっとりとしていた。健常者のお年寄りの言葉が聞き取りにくくなるのと同じに、年配者の手話もあいまいにある。考えてみりゃ当たり前の話だけど、そういうひとつひとつが新鮮だった。

ろうに関するイベントなので、ろう者の方がたくさん参加していた。あちこちで会話をし、笑い声をあげている。笑い声は声として発話されていたことも、そりゃ当然のことかもしれないが、僕にとっては新鮮な驚きだった。ところで静かにしなきゃいけない場であっても手話は静かに話すことが出来る。例えば美術館には「お静かに」というような表示があったりするが、手話話者は声を立てずに会話をすることが出来るのだ。スキューバダイビング中だって話ができる(この後、上映された映画でそのような場面がある)。僕の周りには職場にも友人関係にもろう者はいない。この日のあらゆる光景がとても新鮮だった。

その後は香港映画「私たちの話し方」が全国ロードショーに先駆けて公開され、上映後にははるばる香港からアランを演じたマルコ・ンをゲストに迎え、アフタートークも実施された。映画の感想は改めて書くつもり。入場料は1200円(映画代も込み!)。この安さは京都市の協力があってこそだと思うが、これだけ安いと、多くの人が参加することが出来る。本当によいイベントだった。参加してよかったと思う。

「サムシング・エクストラ!やさしい泥棒とゆかいな逃避行」(2025年)感想

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「A Little Something Extra」2025年

邦題:「サムシング・エクストラ!やさしい泥棒のゆかいな逃避行」

Eテレの『toi toi』で「なぜ私を怖がるのだろう」という回があった。確かに日常生活の中で健常者から見て挙動不審な障がい者が、例えば電車の中で真横に立っていればつい身構えてしまう。僕自身は割と知りたい欲がある方なので、意識的に所謂マイノリティに関するテレビを見たり本を読んだりしているけど、それでもやっぱり「怖がる」という意識は働いてしまう。

映画のストーリーを簡単に言うと、宝石泥棒の親子が、警察の追跡から逃れるなか、ひょんなことから障がい者とその介助者に間違われ、障がいのある若者たちのサマーキャンプに身を隠すことになる。そこから始まる騒動を描いたコメディだ。大きな特徴は出演者は実際の障がい者たちという点。公開初日の動員数では『最強のふたり』(2011年)を大きく上回りフランス映画史上歴代2位を記録したという。『最強のふたり』は僕も大好きな映画なので迷わず観に行くことにした。

劇中、障がい者のふりをした主人公(息子の方)がいとも簡単に障がいのある若者たちに「ふりをしている」ことを見破られる場面がある。なぜ見破られたのかは明示されないが、つまりちょっとした視線や挙動で、この人の自分に対する態度はそういうことだな、ということを彼彼女らは日常的に経験している、そんなのすぐにわかるさ、ということなんだと思う。そういう描写ひとつとっても実際の障がい者たちが演じている効果は大きい。

物語は宝石泥棒の親子だけでなく、いろんなキャラクターが入り乱れ、好いた惚れたがあったり、ちょっとした事件があったりで同時進行的にドタバタと進んでいく。一応主役はいるのだけど、あんまりそこは関係ない。施設で働く職員たちも障がい者たちもみんなキャラが立っているので、それぞれにおかしいとこばっかりでホントおもしろいコメディになっている。あとヒロインもいるのだけど、ハリウッド的なキレイどころじゃない点も好印象だ。

「サムシング・エクストラ」というのは特別な何か。ギフトなんて言葉もあるけど、そういう目に見えない良き力があるんだよ、という映画なのかなと観る前はなんとなく思っていた。これは捉え方なので人それぞれなのだろうけど、僕は皆の壁が取っ払われたら、皆が「サムシング・エクストラ」になるし、つまり「サムシング・エクストラ」なんて言葉も必要なくなるよ、そんな風に受け取った。

演者の障がい者たちは本当にチャーミングだ。映画だから演じているわけで実際はそうもいかないだろうけど、それは健常者とて同じこと。少なくともこうやって愉快な映画を観ることで僕の認識はポジティブな方へ傾く。実際に接してすることが出来れば一番良いのだろうけど、映画を観たり、テレビを見たり、本を読んだりすることで少しずつほぐれていくことはある。好奇心でも何でもいいからその行動は続けていきたい。

「黒川の女たち」(2025年)感想

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「黒川の女たち」(2025年)
 
 
戦後80年が経ったけど、まだ終わっていない。この言葉にピンと来ない人もいるだろう。僕もそうだった。けれど、知ることでその意味が少しずつわかってくる。ずっと公にされなかったこと。こういう事実があったということは、この映画で明かされたこと以外にもきっとまだまだあるということ。言いたくても言えなかった人。絶対に言いたくなかった人。それぞれにそれぞれの理由があり、80年経った今も胸の中にしまったままのひとが大勢いるのだろうということ。胸にしまったまま亡くなったひとも大勢いるのだろうということ。
 
近頃はドキュメンタリー番組をしょっちゅう見るようになった。今まで手に取らなかった類の本も読むようになった。単にそれは年を取って、より社会の出来事に関心が向くようになってきたからだと思っていた。確かにそれもあるかもしれないが、今は少し違う見方もしている。様々な情報が溢れる世の中で、少しでもちゃんとした態度で物事に接したい、知ることでそれを補っていきたい、特に過去から学べることは多いのではないか、そういう防衛本能のようなものが働いているような気もしている。
 
私たちには想像力がある。けれどひとりよがりの想像力ではいけない。想像力は勝手には養われない。だから私たちは学ぶことで、知ることで、見ることで、想像力をより柔軟なものにしようと努める。映画を観ることもそのひとつだと思っている。
 
映画の主題から離れるけどもう1点。今やSNSのおかげで誰もが好きなように言いたいことを言える世の中になった。基本的にそれはよい世の中だと思うけど、最近はそれもどうなのかよく分からなくなってきた。この映画に出てくる堂々と顔をさらしてしっかりと話すおばあちゃんたちを見て、公に話すとはどういうことか、その重さを突き付けられた気がした。おばちゃんたちの笑顔は本当に天使のようでした。

「名もなき者 / A Complete Unknown」感想

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「名もなき者 / A Complete Unknown」(2025年)
 
 
映画の良しあしを判断する材料として体感時間がある。あっという間に終わった、若しくは長かった。この映画は140分以上あるがあっという間に終わった。つまりとても面白かった。
 
映画はディランがN.Yはグリニッジビレッジに降り立つ1961年から始まり、エレクトリック・ギターに持ち換えたことで、一部の熱狂的なファンから裏切者扱いをされる1965年までの短い期間を切り取ったもの。目まぐるしく環境が変わっていく中、だからどうだという説明もなく次々と物事が進んでいく。特に後半はその傾向が強く、予備知識のない人には付いていくのがやっとかもしれないが、このスピード感、テンポ感こそが肝。
 
つまり誰しも若葉の頃は初めて立ち会う経験ばかりで振り返る暇もなく過ぎていく。激動期のディランは尚更である。その振り替える暇もなく、というところがテンポ感となって表現されており、一方で主役はディランなので、もちろん彼を軸に話は進むのだが、いわゆる伝記物と違いディランの内面に迫ることはしない。単純にそんなことできっこないというのもあるが、つまりそこを逆手に取ってのテンポ感という見方もできるのではないだろうか。後半、ディランがサングラスをかけているシーンが増えるのは、実際にそうだったのかもしれないが、彼の内面に迫る気はさらさらないよ、という監督のメッセージなのかもしれない。
 
その代わりと言ってはなんだが、ディランに関わる人々にもキチンとフォーカスされており、ジョーン・バエズ、シルビィ(スーズ・ロトロのこと)、ピート・シーガー、ウディ・ガスリー、そして60年代前半のグリニッジビレッジ。言ってみればディランその人のみに焦点を当てるのではなく、群像劇のように全体のシーンを描く、その中でディランの特異性が浮かび上がってくるという構図にもなっている。
 
それにしても主演のティモシー・シャラメ。歌は勿論のこと、ギターやハープまでも自演している。あのディランの’話すように歌う’独特の譜割を完コピしているのは驚き。『僕の名前で君を呼んで』でもピアノを弾いていたから音楽の素養はあるのかもしれないけどそれにしても凄すぎる。それに単にディランに寄せるだけでなく、ティモシー・シャラメとしての表現になっているのがいい。
 
映画はジョーン・バエズとシルビィとの恋模様も描かれている。サバサバとしたジョーン・バエズと生真面目なシルビィとの対比。けれど誰に対しても一向に気遣うところがない天才ディラン。女性からすりゃ最低な男だけどとにかく格好いい、許せてしまう。ディランはそういう人という刷り込みがあるからかもしれないが、単純に格好よく見えてしまうのは監督の手腕だろう。映画を観た後ではアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケットがより立体的になって素敵だ。
 
 
劇中、ディランのオリジナル音源は使用されない。すべて映画用に演者たちが録音したものだ。でもそれはそれで遜色なく、もしかしたらこっちの方が今の耳には聴きやすかったりする。冒頭の「ウディ・ガスリーに捧ぐ」なんて最高だ。実際のエピソードが散りばめられているけど、時系列や場所が結構違ってたりもする。でもそういうところがいいんだな。本当によくできた映画だと思う。今度は冷静な目でもう一回観たい、そう思わせる映画。

「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」感想

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「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」
 
 
知ることで何ができるわけでもないけれど、知ることで何がしらの自分の判断に影響を与えることはできる。小さなことではあるが、一人一人のその積み重ねが国単位の方向性を決めることもあるかもしれない。知ったからってどうなるんだという無力への慰めではないが、近頃の僕はそんな傾向がある。単に年を取ったせいでもあるのだと思う。とてもナイーブすぎる意見というのは承知している。
 
僕たちが仕事に出掛けたり、夕飯の支度をしたりしている間にも誰かが理不尽な目に合っている。なんの罪もない子供だって殺されている。そんなことをいちいち気にしていては生きていられないけど、その事実は知った方がいいし、圧倒的な弱者が圧倒的な強者に虐げられているのなら、僕たちは圧倒的な弱者の声に耳を傾けないといけない。
 
共同監督を務めたパレスチナ人のハムダン・バラル氏が、西岸地区の自宅でイスラエル人入植者から暴行を受け、イスラエル軍に連行された。アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した後である。映画の中で「行方不明になって帰って来た人はいない」という言葉があった。無事を祈るしかない。
 
そもそも、カメラを回しているのにイスラエル軍や入植者はカメラをほとんど遮ろうともしない(中には遮ろうとする場面があるにはあるが)。つまり彼らは悪いことをしているという感覚がない。世界中にニュースとして流れるであろう共同監督の拉致だってお構いなし。
 
映画の中で入植者が銃を手に迫ってくる場面の恐ろしさ。まるでフィクションの映画のようだと錯覚するけど実際の映像なのだ。急にやってきて、ここに軍用地を作ることに決まったからと、静かに暮らしている人々の家をぶっ壊し、気に入らなければ銃を向ける。そして実際には軍用地など作らない。狂っている。まともではない。
 
どんな映画でもたくさんの下調べが必要だ。準備に何年もかかる。それに適当なことは言えない。お手軽なSNSとは違うのだ。この作品は怖い場面もあるし、確かにハードルが高い。しかし映画というのは大いなるメディアだ。僕たちはそれなりの時間をそれなりの集中力をもって観る。この行為はとても大切だと思う。
 
確かに知ることで何ができるわけではない。でも知ってもらうことで何がしらの影響を与えることはできる。その積み重ねが国単位の方向性を決めることもあるかもしれない。そのことを信じて、映画に関わった人たちは死と引き換えの覚悟で撮影をした(実際に拉致されてしまったけど)。僕は映画の力を改めて強く感じた。

「大きな家」感想

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「大きな家」 2024年

 

児童養護施設ということだけでなんとなく定型のイメージを持ってしまうけど、世の中にどれ一つとして同じ事柄はないように、施設もそこに暮らす子どもたちも個々に異なる。その当たり前のことを当たり前に観ることで、知るという中身がまた少し違ったものになってくる。もちろん、映画を見たからといって何かがわかったということではないけど、知るの中身は少しずつ深まる。最初からそういうつもりで観始めたわけではないけど、気付けば2時間、映画に表れていることを集中して観る。僕の態度はそんなふうだった。

映画では子どもたちがどういう経緯でここに暮らすことになったのか、あるいは両親の事情についても一切語られない。映るのは今の子どもたちの姿だ。今現在、彼彼女らは何を考え、どんな話をして、仲間や施設職員とどのように接しているか。ナレーションはないし、結論めいたものもない。あるのは今を動き続ける子どもたちの姿だけだ。誰にも止めることができない時間が誰にも等しく進んでいく中でその瞬間の彼彼女たちの今が映し出されていく。それは言葉では言い表せない大切な記録。

小さな頃から、両親への期待と失望を繰り返す内なる戦いを僕には想像することは出来ないけれど、時間は待ってくれないから、時間に引きずられながらも納得したり納得しなかったり自分なりの思いを積み上げ、行ったり来たりしながら年齢を重ねていく。それは最年少の園児も最年長の19才も変わらない。いつ答えが出るともわからない問いに向きあい続ける。そのうえで人生を肯定してほしいなどとは他人の勝手な言い分だけど、この映画を撮ろうとした人たちがいて、この映画を観たいと思う人たちがいる。私たちが知ることが、彼彼女らの未来を肯定する力の後押しに少しでもつながればと思う。

「僕が生きてる、ふたつの世界」感想

フィルム・レビュー:

「僕が生きてる、ふたつの世界」

 

映画の始まりは主人公の大が生まれたところから。少しずつ育つ大の成長が描かれていく。微笑ましい場面があれば辛い場面もある。何気ない日常を追う映像を見ている間、しんどい場面ばかりではないのに、なぜか僕の胸の奥がつっかえたままだったのは、子ども時代の僕にも身に覚えがある風景がそこにあったからだろう。それはコーダだからということではなく、どこの家庭でもある風景。この映画の肝心な部分はそこだと思った。

もちろん両親がろう者である大と僕の家庭環境は大きく違う。けれど人の数だけ家庭はあって親子関係はあり、親子の数だけストラグルはある。劇中、登場人物のろう者が良かれと思って手助けをした大に「わたしたちのできることを奪わないで。」と言う台詞がある。その台詞こそがこの映画に向かう呉美保監督の態度ではなかったか。コーダという存在を特別なものとして特別な親子関係を描くのではなく、世界中の個々の親子が個々に異なるように、ある個々の親子関係を捉えた。この映画はそういう理解でよいのではないか。

映画を観た後、僕は図書館に寄り、そこに置いている映画雑誌をめくって呉美保監督のインタビュー記事を読んだ。劇伴は使用しなかったとのこと。そうだ!劇伴はなかった!雑音やら騒音やら周りのひとの声やらかやたら大きく聞こえたのはそのせいだったのか!無音の場面もいくつかあった。しかし泣きそうになった場面で無音だったのには参った!こんなシーンとした劇場で鼻水もすすれないじゃないか(笑)

俳優陣も素晴らしかった。主役の吉沢亮。綺麗なお顔なのに少しもそうとは感じさせなかった。映画一のキャラはヤクザのおじいちゃんを演じたでんでん。しかしなんと言っても母親役の忍足亜希子。母の愛たっぷりだけど重苦しくなく、暗くなりがちな話なのにどこか気の抜けた楽な部分があったのは、彼女の演技によるところが大きいのではないか。もちろん全体のそうした雰囲気を引っ張ったのは吉沢亮でもある。そうそう、父親の今井彰人も芝居をしていないぐらいものすごく自然で、まさにそこにいるようでした。あと、ユースケ・サンタマリアは胡散臭い役をやらせたら抜群やね(笑)。

手話を「手まね」と揶揄するおじいちゃん。けれど手話とは単なる「手まね」ではなく、表情を含めた言語であると、監督はインタビューで答えていた。それを証明するかのように母親はいつもまっすぐに大と目を合わせる。手話には方言もあるというのも描かれていた。単なる置き換えの道具ではなく普通に言語なんだな。そうだ、手話は必ず目を合わせるそうだ。なんと人間性のこもった言語なんだろう。

映画に劇伴は無かったけど、エンドロールでは主題歌が流れた。歌詞は劇中で母親が大に送った手紙の文章。こう響かせてやろうという意図のまったくない言葉。簡潔だけど、だからこそとても胸が熱くなりました。エンドロールの主題歌含めての映画だと思います。

ちなみにこの主題歌。最初は女性シンガーが歌ったそうだ。けれど母の圧が強すぎて(笑)、男性シンガーに変更したそうです。呉美保監督のこのバランス感覚がこの映画をより素晴らしいものにしたのだろうな。

『眩暈 VERTIGO』(2023年)感想

フィルム・レビュー:

『眩暈 VERTIGO』(2023年)監督・井上春生

 

映画の感想を書こうと何度か試みているのだけど、何度書いてもただ表面をなぞっているような気がして書いた気にならない。でも考えてみれば、今までに見たこともない映画だったので、言葉に出来ないのは当たり前だ。見たというより、見てしまった、いいのだろうか、という感覚さえある。

詩というのは一応は紙に言葉が印刷されたものだけど、こちらに伝わるものは言葉だけとは限らない。アクセントやリズム、抑揚。或いは景色、自分の過去に照らし合わせた映像が喚起される場合もあるし、全く知らない映像、それこそ心象風景としか言いようのない抽象的な何かが渦巻くことだってある。ただそれは詩に限った話ではないし、同じく文字しか情報のない文学作品ならよくあることだろう。詩がそれらと少し異なるのは、人によって、或いは同じ人でも時間や場所、状況によって喚起されるものがビックリするぐらいまちまちだということだ。

僕は吉増剛造の詩を読んでも全く分からない。しかしそれは多分言葉の意味として分からないということだろう。現に心のなかで音読すると皮膚感覚が泡立ってくる。詩が単なる紙に書かれた言語に過ぎないなら、こんなことは起きないだろう。吉増の詩はどう考えても言葉だけには収まらない得体の知れないものなのだ。

けれどそれは当然の話で誰もが知ってる得体の知れたものなら、わざわざ詩を書く必要はないのだし、どこかからそうそうこれこれなんて言って持ってくればいいのだ。そうはいかないから詩人は詩を書いてるのだろうし、吉増が言った「未完成を目指す」というのもなんとなくそういうことのような気はする。

つまり詩であればあるほど、創作に誠実であればあるほど見たことも聞いたこともない度は大きくなるわけだから、分からないのは当たり前の話で、でも何か分からないけど胸を打つ、感慨として何か残る、というものが表れればそれは’見た’’聞いた’もしくは’経験した’ということになる。ただ吉増剛造もジョナス・メカス(の作品を僕は観た事はないけど)もそうしようと思ってそうしたわけではなく、ただ単に真摯に取り組んだということなのだろう。

そうやって芸術は積み上げられ引き継がれていく。監督も井上春生もまたその一人なのだ。それにしても、よくもこんな瞬間を撮ったと思う。映画だからもちろん映像もあるし音もある。けれど一方で文字しかない詩のようにも感じられる。吉増の「メカスさん」という何とも言えない呼び声。創作時の「書いておかないと忘れちゃう」と言った時の時間の歪み方。セバスチャンの人間を超越したような佇まい。吉増とセバスチャンの間に流れた沈黙。記憶としてのはずのメカス。どうしてあんな瞬間を撮ることが出来たのか。紛れもなく、見たことも聞いたこともない瞬間の連続だった。

けれどこの映画の敷居は決して高くない。もちろん、ジョナス・メカスのことや吉増剛造のことを知っていれば尚よいのだろうけど、分かる人にだけ分かればいいという映画では決してない。一応はドキュメンタリー映画ということにはなっているけど、色々な工夫がされていて、観ていて楽しい要素もあり、一概にドキュメンタリー映画とは言えないつくりにもなっている。数人に朗読をしてもらった音声を少しずつずらして重ねていくところなんて、恰好いいし、テーマでもある揺らぎと相まってとてもよかった。そういうポップさもある。

僕が行った日は観客が僕を含めてたった8人しかいなかった。きっとこの映画を求めている人はたくさんいると思う。多くの人が知らないままなんじゃないかという事が残念に思った。もっとメディアで紹介されてほしい。きっと観るたび何度も何度も異なる感想が現れるのだと思う。もう一度観たいと思った。

クライムズ・オブ・ザ・フューチャー(2023年)感想

フィルム・レビュー:

クライムズ・オブ・ザ・フューチャー / Crimes of the Future(2023年)

 

この手の映画を観るのは初めてだったが、個人的にはいわゆるディストピアもの含め近未来SF小説は好きなので、わりと違和感なく映画の世界に入りこめた。一部、目を逸らせたくなる場面もあるかもとの事前情報もあり少し身構えていたが、そこは作品世界を踏まえての表現、つまり敢えて人工的に見える作りになっていたので、特に気持ち悪いことはなかった。グロいけど生々しくない。

この映画は環境問題から着想を得たということだが、進化した人間がプラスチック(有害物質)を食べられるようになるというのはブラックユーモア以外の何ものでもない。ということで真面目に見れば、眉間に皺を寄せて観ることもできるが、一方でなんじゃこれは的なユーモアの感覚も忘れてはいけない。腹を開く器具が手の形を模していたり、それを操作するリモコンが気持ち悪い形状をしているのもその延長。

要するにデヴィッド・クローネンバーグ監督としては思いついたワクワクするアイデアを何とか形にしたいと考えた時に、環境問題とくっ付けることでこれ更に面白く出来るやん、となったんじゃないかという穿った見方もできる。高尚な環境問題を考える映画と言うより、新しい臓器ができちゃう体とか、痛みがなくなった人間とか、外傷に性的な興奮を覚えてしまうとかいうデヴィッド・クローネンバーグの世界を楽しむ映画というのが先にある、という理解でよいのではないか。

とは言え、例えばビーガンとか環境保護団体とかそれ自体は良い事であっても度が過ぎると恐ろしい方へ向かってしまう暴力性、或いはそうした思想などお構いなしの狂った人々、常識的だと思える人々さえ抗えないものなどなど、我々の日常とリンクする部分も多く、笑うに笑えない作品であることも確か。生真面目さや下らなさや恐ろしさをどう配分するかは観た人それぞれに異なると思うが、最後のソールの表情をポジティブに捉えることはなかなか難しい。