君は世界の端っこをつかまえた

ポエトリー:

『君は世界の端っこをつかまえた』

 

世界の端っこをつかまえて

君は「見て!ねぇ、これ」

僕が思ったことは

きれいな手

 

アルコールで消毒して

南イタリアの男みたいにエスコート

そしたらほら

すみっこに新しい朝

何処にデビューするつもり?

 

それで思い出した

君が言ったこと

耳をふさいでないと見えないものは

大した事じゃないって

 

君の声

月の満ち欠け

二人を隔てているもの

早く地平線に沈めばいい

 

僕は祝福するよ

君の門出

困ったことがあったら言って

なんなら今日のうちにでも

明日になったら忘れてしまうから

僕は忘れっぽいから

 

石畳の上で

噴水の傍で

観光客に紛れて

二人を隔てているもの

遠く地平線へ

 

君は世界の端っこをつかまえて

空の便

果てしなく南の空

 

2017年7月

In Rainbows/Radiohead 感想レビュー

洋楽レビュー:
『In Rainbows』 (2007) Radiohead
(イン・レインボウズ/レディオヘッド)
 
レディオヘッドを聴いている時の感覚は他では得られない。楽しいわけでもないし、癒されるわけでもない。ただ聴いていると気分がいい。きっと彼らの音楽には押しつけがましい主義主張がないからだろう。いや、主義主張がないわけじゃない。押しつけがましくないというだけ。
 
珍しくメロディ主体の曲が多い。かといって歌ものと言えるかどうか。もうボーカルはボーカルでなくていいのだろう。ただの楽器か。明確な意思か。どちらにしても声と楽器が共鳴していることは間違いない。曲ひとつひとつについても同じだ。恐ろしく完成度の高い曲はそれひとつで完結している。緩やかに結び付けられているだけだ。
 
今回の曲は統一感がある。同じ美意識に則っている。詞はシンプルなものが多い。後半に向けてスッと畳み掛けていく展開の曲が多い。突き詰めてそうなったのか、自然とそうなったのか。この時の彼らの美意識とはつまりこんな感じだったのか。バッキンガム宮殿の衛兵交代式とか、日本で言う横綱の土俵入りとかそんなような様式美。レディオヘッドにもこんな時期があるんだな。押しつけがましくないぶん余計うっとりしてしまう。ただそれを鵜呑みにしていいのかどうか。
 
レディオヘッドを聴いていると気分がいいが、このアルバムは特に気分がいい。彼らの様式美が僕にはしっくりくる。メフィストの甘いメロディだ。
 
 
 1. 15 ステップ
☆2. ボディスナッチャーズ
 3. ヌード
 4. ウィアード・フィッシズ/アルペッジ
 5. オール・アイ・ニード
 6. ファウスト・アープ
☆7. レコナー
 8. ハウス・オブ・カーズ
★9. ジグソー・フォーリング・イントゥ・プレイス
 10. ヴィデオテープ

さよならソレイユ

ポエトリー:

『さよならソレイユ』

 

あいつは町一番の娘に手を出した
僕たちはみんなあいつの勇気を讃えた

その娘は何処からともなく現れた
親の仕事の関係だとか前の学校で事を起こしたとか
でも僕たちはどれも信用していなかった
本当のことは誰も知らなかったが
そんなことがなくても娘は神秘的だった
けれど僕たちはすぐに打ち解けた
僕たちと言ってもそれは‘僕たち’のことで僕のことではなかったが
僕たちの輪の中に彼女がいた
それは僕を満足させていた

僕は一度だけ彼女と二人きりで言葉を交わしたことがある
暑い日に偶然、町に一軒しかない郵便屋で
彼女は僕に尋ねた
「‘さん’がいいのかな‘様’がいいのかな」
僕は自分でそれは相手によるんじゃないかと言ってすぐに慌てた
宛先を詮索しているように思われる、そしてその狼狽ぶりを悟られるって
けれど彼女は何も気付かないふりをして
「相手は大人だからやっぱ‘様’はいるよね」と答えてくれた

いや違うんだ、
僕は君が誰に手紙を送るのかを詮索するっていういやらしい気持ちが働いたわけじゃないんだ
けれど次に僕がしたことと言えば自分がやるべき動作、
つまり自分の手紙に封をするってことだけに集中したいと、ただそれだけで

僕たち二人にはそんなようなことしか起きなかった
彼女はそんなようなことには慣れていた

あいつはそういうところが無かった
聞きたいことはずけずけと聞いた
顔が赤くなるようなことまで平気で聞いた
後で知ったことだけど彼女も言いたいことを言う人だ
僕たちはみんなあいつの勇気を讃えたが
あいつは無造作に言った
「俺は彼女が好きなんだよ」

あいつと娘は僕たちの輪から徐々に離れた
二人はよく似合っていた
僕たちの輪の中に二人がいなくても何も変わらなかった
ある日あいつが一人で戻ってきてもどうってことはないだろう
けれどあいつが一人で戻ってくる前に
娘は町からいなくなった

結局、あいつを除いて僕たちには何ひとつ分からなかった
僕が知っていることはひとつだけ
今年の夏の一番暑い日に彼女が大人に手紙を出した
それだけだ

僕が郵便屋へ行くのは自分が書いた書き物を雑誌社へ送るため
このことはまだ誰にも言ってないけど多分彼女はそれを知っても驚かないだろう
彼女はきっとはそういう人だ

僕は今日も郵便屋へ行く
自分が書いた書き物を出すためだけじゃなく

さようなら!瞬きをして一瞬で何処かへ行った僕のソレイユ
僕はやっぱり 君のことが好きなんだ

 

2017年6月

 

After Laughter/Paramore 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『After Laughter』 (2017)  Paramore
(アフター・ラフター/パラモア)
 
 
パラモア、4年ぶり、5枚目のアルバム。前作が全米1位になって、シングルがグラミー獲ってってことで順風満帆かと思いきや、なんか大変なことが起きてたみたい。なんと金銭が絡むメンバーの脱退劇があったようで、ボーカルでソングライターのヘイリーさん、かつてないほど落ち込んだご様子。歌詞を読んでると、ネガティブな言葉が出てくる出てくる。PV観てても渋いエモ姉さんだったのが、メンバー揃ってパステルカラーの衣装着ちゃってるし、もうヤケクソかえ?なによりなんじゃこのサウンドは、全然エモくないやん!
 
とうことで驚くことなかれ、今回はシンセ・ポップ感満載です。いや~ん、やめてぇ~!全然エモくな~い、ドラムがドゥルンドゥルン言ってな~い、とお嘆きのあなた。確かにパラモアの魅力はエモ・パンクと称されるハードでタイトな演奏にヘイリーの大谷翔平ばりの剛速球ボーカル。それがテイラー・スウィフトみたいなシンセ・ポップになっちゃってるんだからがっくりするのもそりゃあ分かりますよ。私だって最初はそおだったんですから。しかし心配することなかれ。何度もよ~く聴いてると、なかなかいいじゃないですか。勝気なヘイリー姉さんのエモい歌詞とフレンドリーなメロディ、パラモアの真骨頂は結局そこなんです!
 
先ず1曲目、タイトルからして『ハード・タイムス』ですから、こりゃ今回の自己紹介みたいなもんですな。しかしヘイリーさん、ハード・タイムスだからと言ってへこたれません。早速2曲目『ローズ・カラード・ボーイ』で出てきますねぇ、エモい歌詞が。
 
  ~ 私は笑いたくない時には笑わない ~
 
これですよあーた。戦う女はそうこなくっちゃ。ちなみにRose-Colored Boyってのは楽天的な男って意味らしいです。こっちが落ち込んでる時にあんたみたいな楽天家には付き合ってらんねぇってことなんですが、それでもちょっとうらやましいなんて気持ちも垣間見えたりして。付け加えて言うとヘイリーさん、それでも頑張りますなんていたいけな言葉は吐きません。落ち込む時は徹底的に落ち込む。だから笑いたくない時は笑わねぇ。そんな感じですかね。バカ姉さんです(笑)
 
3曲目『トールド・ユー・ソー』のフックはこれ。
 
  ~ 「だから言ったのに」って言いたくない。だけどみんな「だから言ったのに」って言いたがる ~
 
これですよ、これ。これが畳み掛けるドラムと印象的なギター・リフに乗って何度も叩き込まれるんだからシビレルぜっ。ちなみに原文は、『I hate to say I told you so / They love to say they told me』。I hate ってのがいいね。こらあ名言やわ。あー、オレもオカンに「あんた、だから言うたやん」ってよう言われたなぁ。ちょっと違うか…。
 
続く4曲目は『フォーギヴネス』。最後のコーラス、『許すことと忘れることは違う』ってのはいいフレーズやね。男はドキッとしちゃいます。5曲目は『フェイク・ハッピー』。結局みんな作り物の幸せを楽しんでいるだけでしょ、っていうどんだけダウナーな曲やねん!って感じですが、ここでヘイリーさんは宣言します。
 
  ~ 私は自分の口より大きく口紅を引く ~
 
どうです、これ?私は男だからよく分かりませんが、それでもなんかよく分かるような気がします。ちょっと私、このフレーズにグッときちゃいましたね。でこの曲、中盤に パラッ、パラッ、パッ、パッっていうコーラスが入るんですが、これが起承転結の転に当たる感じでまたいいんです。
 
続いて6曲目。これもちょっと切ないです。『夢を持ってるならしっかりグリップして / 誰かに持ってかれちゃダメ / 夢見ることは自由だけど、失うものがどれだけあるか私には分からなかった』。フックでそんなようなことが歌われます。26才の女子がそんなこと歌うんですね。切ないです。でもとても美しい曲です。
 
さあここで来ますよ、極上のポップ・チューンが。パラモアの魅力は色々あるんですが、最大のものはやっぱキャッチーなメロディ。そういう意味では7曲目の『プール』がこのアルバム随一ではないでしょうか。サビの背後で鳴るリフがまた水中にいるみたいでいい感じ。歌詞はこんな感じです。『私は今、水の中 / 肺には空気が無い / けれどしっかり目を開いている / 私はあきらめている / あなたはつかまえることのできない波 / けど私は生きてる限り何度でも飛び込むわ』。
 
次いで8曲目『グラッジズ』。皆さん、お待たせしました、ドラムがドゥルンドゥルン言ってますよ!ここに来てこれまでのパラモアを彷彿させるタイトでパンクな曲だ。サビでは、『we just pick up, pick up and start again / ‘Cause we can’t keep holding on to grudges』とリリックが跳ねてます。サビ前に一旦ブレイクして、フッー!と合いの手が入るところがまた最高!個人的にはこの6~8曲目辺りがこのアルバムのハイライトかな。
 
そして真ん中で絡めとられたと歌う9曲目と変則的なメロディの10曲目と続き、11曲目はゲスト・ボーカルによるリーディング。ここは正直かったるいかな。そしてラストにグッとくるいい曲で終わります。『テル・ミー・ハウ』。息も絶え絶え、『あなたをどう感じたらいいの?』ってここでも切ないです。最後に前向きになるってのはお決まりかもしれませんが、そういう事もなく混沌としたままアウトロのリーディングへ。切ないトラックに消え入りそうな声で『私は霧の中で踊っている』と囁くリーディング。ヘイリーさん、最後まで落ち込みっぱなし。ホント、正直な方です。
 
ただまあこんだけ暗い歌詞にもかかわらず、うっとおしくならないのは僕が英語を解さないからというわけでもなさそうで、やっぱそこはヘイリーの声の力強さ、彼女も含めたバンド全体にポジティブな意思の力があるからではないかなと。この最初は面食らうカラフルなサウンドでさえ彼らのへこたれない意志表示だとすれば、それはハナから否定できるものではなく、かえって彼らの真骨頂、前へグイグイ突き進む持ち前のエモーショナルなロック魂ではないでしょうか。
 
とにかく、サウンドに色んな変遷があるにせよ、彼らには力強いメロディと聴き手に最短距離で届くヘイリーの声があればそれでいい。確かに今までとは毛色が違うけど、今回のアルバムもいいですぜダンナ。エモくない、って聞かないのは勿体ないっ!
 
 
 
 1. Hard Times
  2. Rose-Colored Boy
  3. Told You So
  4. Forgiveness
  5. Fake Happy
☆6. 26
★7. Pool
☆8. Grudges
  9. Caught In The Middle
 10. Idle Worship
 11. No Friend

High Noon/Arkells 感想レビュー

洋楽レビュー:

『High Noon』(2014)Arkells
(ハイ・ヌーン/アーケルズ)

丸ビルのタワレコで「店長のイチオシ、もろ80’Sでデュランデュラン」、みたいなことが書いてあったから興味本位で聴いてみたら、あまりのどストレートぶりに思わず買ってしまった。デュランデュランがどういう感じかは知らないけど、今時逆にスゴイなってぐらいの暑苦しい80年代ロックの登場だ。

なにからどう語ればいいのか分からないというか、語るべきものがないというか、デビット・ボウイを聴いた後だからか余計にそう思ってしまう。最初聴いた時はキラーズみたいかとも思ったんだけど、あの大げさなサウンドをセンス良くまとめてしまうスタイリッシュさはなく、いやあここでキラーズをスタイリッシュって言ってしまうのもおかしな話だけど、このバンドを聴いてたらそう言っちゃうしかない。この大陸的な大らかさはカナダのバンドだからか。いやいや彼らがこういう人たちなんでしょ。

まあでもこういう人たちは他にもわんさかいるんだろうし、何故彼らが極東のCDショップで知らず知らずのうちにお薦めされてるかっていうと、そりゃもう曲が抜群いいから。あと演奏も手堅いし。#4なんてホント良く出来てて、なんで全編これぐらい丁寧に作らせないんだろう、ってプロデューサーを確認してみたらなんとトニー・ホッファー。それこそフェニックスとかファスター・ザ・ピープルといったセンスの塊みたいな人たちとやってきた人なのにあら不思議。こいつらはこれしかねえってことなのか。

はっきり言って評論家からは相手にされないだろうけど、まあいいんじゃないか。結局なんだかんだ言って僕もこういうのは嫌いじゃないし、単純に楽しいやん。笑っちゃうほどベタな展開で暑苦しいボーカルなんだけどみんなもこういうの好きでしょ、ってことで許してしまおう。あー、でもホントに語ることがない(笑)。

1. Fake Money
2. Come To Light
3. Cynical Bastards
4. 11:11
5. Never Thought That This Would Happen
6. Dirty Blonde
7. What Are You Holding On To?
8. Hey Kids!
9. Leather Jacket
10. Crawling Through The Window
11. Systematic

お薦めは#4、#3、#6の順かな。
#5もいい曲なんだけど曲間のシャウトがダサくて最高。
#8とか#11とかもホント振り切っちゃってる(笑)

★/David Bowie 感想レビュー

洋楽レビュー:

『★』(2016)David Bowie
(ブラック・スター/デビッド・ボウイ)

あまりにもキャリアが膨大過ぎて、もう自分とは関係ないやっていうアーティストって結構いる。デビッド・ボウイもその一人で、一昨年かその前の年だったか、久しぶりに新作が出た、しかもサプライズでってことで話題になったんだけど、僕とすりゃふ~んて感じであまり気にも留めなかった。そこへ昨年の訃報。それとほぼ同時にニュー・アルバムが出た。そんなことでこれまたビッグ・ニュースになって、そんでまた下駄を履かせたわけではないんだろうけど、年末に各紙で発表される2016年のベスト・アルバムにこのアルバムが結構食い込んでて、そんなにいいんだったらいっちょ聴いてみるかって気になった。そこへ運よく知り合いにデビッド・ボウイ好きがいたのでその人から借りたという次第。ということでデビッド・ボウイ初心者による『★』のレビューです。

デビッド・ボウイといえば美しいというイメージが刷り込まれているので、美しいメロディを期待していた節があったけど、なんだこの抑揚のないメロディは。デビッド・ボウイの呻き声みたいじゃないか。と少し面食らった面も無きにしも非ず。途中からは考えをリセットし、これはもうリーディングだな、と。ジャズ(これがジャズかどうかは分からないが、世間でそう言うのだからそうなのだろう)に乗せて詩を朗読するってのはよくある話だし、そうやって聴けば違和感はない。それにこのアルバムはデビッド・ボウイの才能がスパークしているというより、彼に元々備わっている美意識とか先進性とか哲学といったものがそれはそこにあるとして、そこにどう肉付けをしていくか、いかに2016年現在にフックさせていくか、というところが主題のようにも見えてきた。だからスパークしているのはボウイそのものというより、その後ろで鳴っているサウンドというべき。つまりボウイ自身の居住まいは決して変わっていない。ありのままというか、ありのままですがそれが何か?っていうことだろう。

そのありのままがこんなけったいな音楽になるのだから、要するにありのままが相当イッちゃてるってこと。加えていうと、そのありのままは1970年であろうと2016年であろうと生のままでは人に見せたものではない。味を調えたり、意匠を纏う必要がある。これこそがデビッド・ボウイということか。

1. ★
儀式めいた雰囲気。序盤のアタック音が効いてる。転調してからの「あの者が死んだ日の出来事だった」から始まる詩が秀逸。少し長いかなって気はするど、これはロック以外の何物でもない。

2. ティズ・ア・ピティ・シー・ワズ・ア・ホア
今作で特徴的なドラムが印象的。単調だが一気にグワッと行ってしまうところはいい。

3. ラザルス
トラックが素晴らしい。ホーンが効いてる。こういう渇いたスローソングは好きだ。

4. スー(オア・イン・ア・シーズン・オブ・クライム)
バンドかイカす。これはヒップホップだな。クールなリーディングかラップがいいと思うけど、ボウイの歌は正直かったるい。

5. ガール・ラヴズ・ミー
この手の変化球ってありがちだけど個人的にはあまり好きではない。退屈。でも聴き手を完全に無視してるところは好きかな。この曲辺りからベースが耳に残り始める。

6. ダラー・デイズ
これはもうイントロからして美しいでしょう。ここに来てアコースティックギターが聴こえてくるところなんかズルイ。この曲と最後の曲でメロディが戻ってくるところは確信犯か。なんだかんだ言ってこの曲が一番好きかな(笑)。サビのベースリフには当然意味がある。

7. アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ
そのままの流れで最後の曲。ベースリフは早くなってる。「私は全てを与えることはできない」とか言いながら、サウンドはオープン・ザ・ロードだ。

このアルバムは僕の手に負えない。てかよく分からない。でも何度も聴いている。要するに分かればいいってもんじゃないってこと。アートとはいつもそういうものだ。ピカソの絵は理解できるからいいわけではない。人々はそのよく分からなさに惹かれるのである。69才にもなってこんなスリリングな作品を作れるのだから、やはり音楽に年は関係ない。

最初はしんどいなと思ったけど、1度目よりも2度目。2度目よりも3度目という風にだんだんよくなってくる。音楽には時にこういうことがあるから面白い。

佐野元春 in NY『not yet free〜何が俺たちを狂わせるのか〜』  感想レビュー

TVプログラム:

佐野元春 in NY
『not yet free ~何が俺たちを狂わせるのか~』  NHK-BSプレミアム 2017.5.28
 
 
2017年4月28日。ニューヨークにあるライブハウス「ポアソン・ルージュ」で、ミュージシャン、佐野元春がスポークン・ワーズのライブを行った。この番組はその舞台に立つまでを追ったドキュメンタリーだ。
 
スポークン・ワーズとは詩の朗読のこと。詩の朗読は一般的にはポエトリー・リーディングと呼ばれている。少し説明するとポエトリー・リーディングとは50年代に米国で起きた「ビート」と呼ばれるカウンター・カルチャーの主をなすもの。そして「ビート」とはあらゆる制約から離れた文学のムーヴメントのこと。アレン・ギンズバーグの『吠える』やジャック・ケルアックの『路上』などが有名だ。話し言葉で、思いつくまま、文体などは一切無視し、文学でもって反逆の狼煙を上げる。簡単に言うとそんなようなものか。ビートルズもストーンズもディランもその系譜と言っていい。余談ながら当時日本でも「ビート」の影響を受けた諏訪優や白石かずこといった詩人がポエトリー・リーディングを行っている。
 
佐野のスポークンワーズはこの流れを汲むものだが、ポエトリー・リーディングとは少し異なる。スポークンワーズとは詩の朗読にバックトラックを乗せたもの。要するに音楽付きのリーディングだ。あまり知られていないが佐野は通常の音楽活動とは別にこのスポークンワーズを80年代から行っている。
 
番組の中で佐野は言う。「音楽からそこに元から備わっている言葉を取り出すのが僕の仕事」だと。このことから佐野がいわゆる現代詩の詩人とは少しスタンスが異なるというのが窺える。あくまでも音楽ありき、ビートありきのポエトリー。ビートとは鼓動。生きる鼓動。すなわち書棚に飾られた言葉ではなく、移動する言葉ということだ。番組でも佐野は頻繁に街に出かける。街の名もないアーティストに声をかけ、地下鉄に乗り、ポエトリー・カフェへ向かう。言うまでもなく詩は路上に落ちている。

佐野が立ち寄ったポエトリー・カフェでは名もない詩人たちが夜ごと言葉を発している。壇上に立ち、マイクの前で吠える。ここでは詩は生活に根差したもの、日常のすぐ傍にあるものだ。欧米ではこうしたポエトリー・カフェが沢山ある。オレは言いたいこと言い、あいつも言いたいことを言う。少し口を滑らせただけですぐに袋叩きに合うどこかの国とは大違い。トランプが大統領になろうともこの営みは変わっていない。むしろ活発になっているようだ。

そういえば佐野は路上のアーティストの「社会が大きく変わる時にアーティストは何をすべきか」との問いにこう答えている。「ワードとビートで人々がまだ気づいていない事に言及する」と。佐野がよく口にする炭鉱のカナリアとはまさにこのことだ。大きなトピックが起きた時に反応することは誰にもできる。大事なのは何も起きていない時に如何に想像力を働かせるかということなのかもしれない。
 
東京でリハーサルをした後、NYで現地のミュージシャンと最終的な音を練り上げていく。ベース奏者はバキティ・クマロ。彼はかつてポール・サイモンにその才能を見いだされ、アフリカからやって来た。佐野とポール・サイモンとは旧知の仲。ポール・サイモン繋がりということか。ドラムスはそのバキティ・マクロの弟子の若いドラム奏者が担当する。しかしながらこのドラム奏者とは息が合わなかったようで、すぐバキティの別の弟子が現れた。この辺りのドキュメントは面白い。
 
佐野が今回ステージで披露するリストには『何が俺たちを狂わせるのか』と題されたポエトリーがある。変則的な4分の6拍子。今の時代の分断を表現しているのだそうだ。テクニカルな表現になるので、少し知的に過ぎるという懸念があったようだが、セッションを通じて彼らはそれを解消していく。番組の最後に流されるライブ映像をみると、それは見事に解消されていた。バイオリニストのギターのような破れたディスト―ションがゴキゲンなしらべを奏でていた。
 
佐野は今回のステージを日本語で朗読する。佐野は言う。「ポエトリーというのはユニバーシャルなもの。今回はそれを証明するいい機会。それに母国語に誇りを持っているし、日本語でパフォーマンスするのは楽しい。しかし言語が異なる人々にはヒント、取っ掛かりが必要なので今回は映像を用意した。」と。ここでも佐野はNY在住の若い日本人映像作家とセッションを繰り返す。そこに映るのは日本の街の景色と言葉だ。言葉と言っても詩の内容をそのまま英訳したいわゆる字幕ではない。キーワードとなる言葉だけを抽出し展開させる。日本の街の映像とキーワードとなる言葉、そして自身の日本語による朗読とバンドの演奏で観客の想像力をかき立てようというのだ。
 
本番当日、ステージに上がった佐野は軽い自己紹介とこの日披露するポエトリーについて言及した。今から披露するのはジャパニーズ・スポークンワーズ。「Style of ‘ZEN’」と。ここの観客にとって訳の分からない日本語とそれを取り囲む幾つものイメージを媒介にコミュニケーションを図る。言ってみればそれが佐野流の‘禅’のスタイル。そして佐野はかつての「ビート」世代と同じく、悪態を突く。毒にも薬にもならないクール・ジャパンとしてではなく、「ビート」の系譜に連なる街の詩人として。狡猾に素早く。そして、自分の属する文化でもって異文化の人々と接触を図る。自身の立場を明確にしながら。 
 
佐野はライブに向けて準備を進める一方、新しい詩を書きとめていた。セッションの合間を縫って、創作していたようだ。その作業は本番前日の夜も行われていた。佐野は言う。「やろう。インスピレーションがどこかへ行ってしまう前に。」。NYでの自身のドキュメントとして、その詩は『echo ~こだま~ 』と名付けられた。もしかしたらそれは現地で参加したアーティストたちの討論会で、あるアーティストが発した「我々はいつも過去から学び自分の中でエコーさせる」という言葉が導火線になったのかもしれない。

詩は隣近所から生まれる。街の詩人たちは優しさと反逆の精神で言葉を紡ぐ。子供たちに、大人たちに、老人たちに。街路や町内や農村や路地裏に落ちている言葉を丹念に拾い集め、自らの胴体に反響させる。それはこだま。過去から現在、現在から未来。それは決して誰にも途切れさせることのできない。誰にも規定させることはできない。

アーティストにとって一番問題なのは自由な表現を邪魔されること。今ほどその言葉が重くのしかかる時はないだろう。話が逆になってしまうが、番組の冒頭で佐野が記した言葉を最後にそのまま掲示したいと思う。どのような時代になっても「ビート」の系譜は続いていく。私もそうあることを願いたい。
 
 
   かつて50年代 米国にビートと呼ばれる文学者たちがいた
   彼らはあらゆる矛盾に反抗の矛先を向けていた
   企業とメディアに
   近代文明に
   キャピタリズムに
   そしてあらゆる差別と検閲に
 
   2017年の今
   それらはさらに複雑な様相をともなって
   不吉に現実を凌駕している
 
   今 僕らにできることがあるとしたら
   それは亡びに向けて反抗すること
   そして破滅から脱出を
   試みることではないだろうか
 
   僕は夢想する
   新しい思想と新しい行為を持った「旅」のかたちを
   僕は思想する

   忍耐と想像力を傍らに往く創造的な「旅」のかたちを

 

※2017.5.28放送 NHK-BSプレミアム 『Not Yet Free~何が俺たちを狂わせるのか~』より

クリーニング店

ポエトリー:

『クリーニング店』

 

広い通りに面したクリーニング店では

服を預けるとちょうどよい肩幅のハンガーが付いて返ってくる

彼女の肩幅もちょうどいいという噂があるがそれは確かめようがない

私ももちろんそこへ行く

今日の私はクリーニング品を預けるだけでなくコインランドリーで洗濯をする

コインランドリーで洗濯をしている間は退屈なので選りすぐりの本を持っていく

普段はあまり読まないようなもの

少し頼りがないものがいい

ここのハンガーがちょうどいいように

ここの洗濯機の音もちょうどいい

彼女も今日あたりここへ来るかもしれない

けれども彼女の肩幅はアイロンをかけていない

彼女の靴下は裏返っていない

彼女の魂は撹拌されていない

ここの洗濯機の音はちょうどいい

私の退屈な時間も残り僅かなので

詩を2編ほど読んで今日はもう終わりにする

 

2016年6月