ウルフルズの凄いテクニック

その他雑感:

『ウルフルズの凄いテクニック』

 

カーラジオからウルフルズの歌が流れてきた。普通にいい歌だなあなんてと聴いてると、いつものようにサビで大阪弁になった。ちょっと具体的な歌詞は忘れたけど、語尾が「~へん」とか「やねん」みたいな単純なものだったような気がする。大阪弁なんて言っても今や日本中に溶け込んでいるので別にどうってことないんだけど、これが曲に紛れ込むとなると話は別。いつもウルフルズの曲をスーッと流してしまっているけど、ちょっと待って。実はこれって大したことなんじゃないか。

僕が子供の頃の関西弁の歌といえば、やしきたかじんとかボロとか上田正樹とか。もうローカル色まる出し(笑)。しかも大阪の夜の町というか場末の酒場しか思い浮かばねえみたいな。歌ってる方もハナからそっちしか向いてねえみたいな。いい悪いは別にして、聴く方も歌う方も、開かれた歌というよりは閉じた世界、聴き手を選ぶ限定された歌だったように思う。

ところがウルフルズ。彼らの歌は非常にオープンで聴き手を選ばない。僕も詩を書いたりするので時折喋り口調が欲しい時は地言葉を用いる場合があるが、それ以外は何故かいつも標準語で書いている。創作の過程で口に出すときがあっても何故かいつも標準語(←なんか変な人みたいやな(笑))で、イントネーションすら大阪弁にはならないというかなれないというか。そうしちゃうとなんか意図したものと違ってしまって、詩を書く時には感じたこととか浮かんだことをなるべく原形を損なわずに言葉に変換したいのだけど、心に浮かんだこと自体が方言を纏う以前の状態だからなのか、それが表に出てくるときには何故か自分が普段用いている大阪弁として言葉は現れてこない。不思議だけどそれはそういうものなのだ。

要するにぼんやりとした心に浮かんだものを言葉に変換する行為は、普通に喋ることとは全く別物だということなのかもしれないけど、それをするりとやってのけるウルフルズは、というかトータス松本はちょっと他に見当たらない稀有な存在なんじゃないかと。これだけ方言丸出しのウルフルズがMステで普通に座っている事の違和感の無さ。北海道から沖縄まで何の制約も無し普通に親しまれている事実は特筆すべきことではないかと。

詩人が書きたいと思うことを仮にポエジーと呼ぶなら、詩人はそのポエジーを出来るだけそっくりそのまま言葉に変換したいはず。ならば当然普段自分が使っている言葉で表現する方が近いに決まっている。なのにそうとはならない。ならないということは遠いことを意味するのではないのか。いやそれとこれとは全くの別物なのか。

トータスのやってることってあまり語られたことがないようだけど、実は凄いことだと思う。僕はトータスにあって直にこの事を聞いてみたい。彼は恐らく、このことに自覚的だ。

自然治癒の法則

ポエトリー:

『自然治癒の法則』

 

容赦ないあなたの目には三センチの涙

頬を伝って国境を越えます

敵と味方を繋ぐのです

つまるところそれは自然治癒の法則

困り果てた老人の物知り顔など用は無いのです

 

はにかんだ微笑みの向こうにある傾げた襟元

襟元の汚れは簡単には落ちないというけれど

簡単に落ちる時もあるのです

例えばフリーマーケットのちょうど時計台の下

インド人みたいな恰好で子供たちの着られなくなった洋服を広げているAさん

Aさんの幸せは売れた服の代金で子供たちに新しい服を与えること

例えば温泉街の三叉路にある案内所

三代続く名物案内人のGさん

言葉の通じない相手でも難なく笑顔にしてしまうその手腕

先日は二駅先まで送っていったそうです

 

風車でも特急列車の如く

胸ポケットの便箋もツイッターの如く

あなたに沿って海へ向かいます

 

海の底の奥深く

人の体と同じ成分を湛えたまま生き物に変え草花に変え空気に変え私たちの元へ還元される

見たこともない景色が見たことがあると感じられるのはそういうことなのです

 

2017年1月

わたしを離さないで/カズオ・イシグロ 感想

ブック・レビュー:

『わたしを離さないで』  カズオ・イシグロ

 

カズオ・イシグロの小説は解決されないことが解決されないままそこにあって、それでも時間は流れていくみたいなイメージが僕にはある。ただそれでも読んで良かったと思わせる魅力が彼の作品にはあって、それはやっぱり心に形のあるものが明確に残るからで、解決されない、いつまでもあぁそうかって腑に落ちないものではあり続けるんだけど、読んだ後では心のありようが違ってくるというか、具体的にどうとは言えないけど、お前はどうなんだと問いかけられているような、その問いがいつも心に引っ掛かりを残し続ける。彼の作品はそんなような作用を読み手にもたらすものなんだと思います。

誤解を恐れずに言うと、僕はやはり最後に反逆して欲しかったなって。素直に無垢にそうは言えない事は十分承知しているつもりだけど、そう思いたい、というか、でもそれって僕自身の偽善を突きつけられているような気分もあって、やはり一概には言えないんだけど、ページ数が残り少なくなって、もうそういうことは起きないんだなと分かっていてもやはり最後まで反逆して欲しかった、早く逃げて、なんで逃げないのっていう気持ちが強く残ったのは正直なところです。

キャシーとトミーは逃げちゃだめだったのかな。いや逃げられないのは分かっている。僕たちはもう世界中と見えるところ見えないところで繋がり合っていて、もう誰とも無関係ではいられない。グローバリズムなんて言ってるけど、要するに極論すれば誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立っている訳で、そんなこと俺はしてないと言ったって僕たちは美味しいものを食べたり、誰かにプレゼントをしたりっていう行為の中で、その裏にはもしかしたら僕たちの知らない誰かが犠牲になっているかもしれないし、僕らの新しいスニーカーは誰かの裏庭を荒らしているかもしれない。原発や沖縄の問題を思い浮かべればよく分かる。いくら綺麗ごとを言ったってもう僕たちはそういう世界にいるのだ。

そういう意味ではキャシーやトミーも逃げることはできないのかもしれないし、反逆して欲しかったななんて言ってるけど結局僕たちは今のところエミリー先生でもあり、彼らを腫物でも見るような目で見てしまう存在でもあり、反逆される側でもあるという事実からは目をそむけることは出来ない。一方でいつ僕たちもそちら側になるかもしれない、そしてそちら側へ行けばもう簡単には戻ってこれないという現実をも孕んでいる。

それでも彼らに逃げて欲しかったのか、反逆して欲しかったのかと問われれば、そうした複雑な感情が絡むにせよ、そうだという気持ちが勝ってしまうのはどうしようもない事実として今の僕には残っている。逃げて、っていうのは自分自身のつい見て見ぬふりをしてしまう現実に対する負い目から解放されたいという自己防衛みたいな気持ちが働いたからかもしれないし、それは否定しきれないけど、偽善だと言われようが彼らに逃げて欲しいという気持ちは事実としてある。感情的に言ってしまえば、キャシーたちの犠牲の上に立つ幸福なんて要らない。

そんなこと考えようが考えまいが何も起こらないし世界は変わらない。けど、そういうことを心のどこかに残していく、目に見えない引っかき傷を残していくという行為は無駄な事ではない、意味のあることだと思います。

僕はフィクションにこそリアリティーは宿ると思っている。この物語はイギリス人が書いた遠い国の空想ではない。僕たちの物語でもあるのだ。

Bankrupt!/Phoenix 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Bankrupt!』(2013)Phoenix
(バンクラプト!/フェニックス)

 

フェニックスの5枚目。グラミーを受賞し世界的ブレイクを果たした『Wolfgang Amadeus Phoenix』(2010年)を受けてのアルバムだ。『Wolfgank~』ではついに鉱脈を発見したかのようなフェニックス独自のサウンドを展開。この路線でもう一発行くのかな、ていうかもう一発行って欲しいな、なんていうこちらの甘~い期待を覆すかのように全く違う角度で攻めてきました。てことでさっすがフェニックス、と思いきや、おフランスのマイペースなポップ職人が打ち出したのはなんとオリエンタル。オリエンタルといっても日本や中国ではございませんでぇ!舞台は香港HongKongだ!

オープニングを飾るのは『エンターテインメント』。春節祭でも始まったかのような派手なイントロで皆の頭の上に?が浮かんだところですかさず『Wolfgang~』的なドラムが一気になだれ込んでくるこの過剰さ。こちらの期待を見事に見透かすこのセンスは流石です。ちなみにライブでこの曲がかかる時のテンションは凄いっす。

2曲目『ザ・リアル・シング』、3曲目『S.O.S.イン・ベル・エアー』と続く辺りでこのアルバムの概要は見えてくる。ぎらぎらシンセ全開で騒がしいったらありゃしない。4曲目の『トライング・トゥ・ビー・クール』はそれに加えてオリエンタルな雰囲気満載で気分はもう80年代の香港。そやね、ジャッキー・チェンとかそーいうのではなく、ハリウッド映画の香港とでも言おうか。ほら、80年代の日本を舞台にしたハリウッド映画って唐突にニンジャが出てきたり、やたら派手なメイクのゲイシャが出てきたりってのがあるけどそういう西洋人がイメージするオリエンタルっていうのかな。香港じゃなくてHongKongってことです。

でそれをオシャレに切り取ってみせるのがフェニックスならではというか、でも普通香港はオシャレになんないでしょーよ?それがオシャレになっちゃうんだから参りました。この辺りのハンドル捌きはホントにお見事です。

世間の流行廃りに頓着なく好きな事をやって、しかもそいつがセンスいいんだから文句のつけようがない。しかしそう思えるのも元々の曲がいいから。今回も相変わらずいいメロディを書いている。きっとソングライティングがずば抜けているから何をやってもOKなんだろね。ご機嫌な曲もいいんだけど、#7『クロロフォルム』とか#9『ブルジョワ』といったスロー・ソングの組み立て方なんてホントに上手い。

でもっていつもと変わらないトーマの甘い声があるんだから、アレンジがどう変わろうと、やっぱりどこをどう切ってもフェニックスなアルバムである。

 

1. Entertainment
2. The Real Thing
3. S.O.S. in Bel Air
4. Trying to Be Cool
5. Bankrupt!
6. Drakkar Noir
7. Chloroform
8. Don’t
9. Bourgeois
10.Oblique City

フェニックス史上最も派手なアルバムだ!

ゴッホ展~巡りゆく日本の夢~京都国立近代美術館 感想

アート・シーン:

ゴッホ展~巡りゆく日本の夢~ 京都国立近代美術館 感想

 

京都国立近代美術館で開催されているゴッホの展覧会に行ってきました。今回の展覧会はゴッホと日本の関係に焦点を当てたもの。1880年頃のパリは芸術家による「ジャポニズム」への接近が顕著な時期だったらしく、ゴッホもその影響を受けていたとのこと。なるほど、浮世絵を収集したり、知り合いの店で浮世絵の展覧会を開いてもらったり、思っている以上に日本が好きだったみたいだ。純粋に日本に憬れていた節もあって、すぐ夢中になるところなんかは子供みたい(笑)。ゴッホが日本に親しみを覚えてくれていたなんて嬉しいなぁ。

ゴッホ展に入ってすぐに大きなゴッホの肖像画があった。ゴッホはたくさんの肖像画を残したが(モデルを雇うお金が無かったかららしいけど)、ここにあるのは『画家としての自画像』。凄い迫力。僕が一番印象的だったのはその立体感だ。描かれている筆の1本1本がちゃんと立っている。実物を見るとそれがスゴイ分かる。横にあった『三冊の小説』も同じ。立体感があって、まるで飛び出す絵本を見ているみたい。ゴッホ独特の線なので写実ではないのだけど、ホントにそこにあるみたいで、先ずこれに僕は度肝を抜かれました。

ゴッホが「ジャポニズム」に触れたのはパリ時代。ということで展示はパリ時代から南仏アルル時代が中心となる。どれも素晴らしい。僕は時折展覧会に行くのだけど、正直気に入ったものもあれば、ふ~んって感じのものもある。でも今回のゴッホ展は気に入ったものだらけ。ふ~んってやり過ごすのはほとんどなかったんじゃないかな。やっぱエネルギーがスゴイんです!僕もものを書いたりしますが、時折自分に問うのは、本当にこれがお前の言いたいことなのか、これはどうしても書かなければならない言葉なのか、ということ。それがゴッホの絵にはあるんです。ゴッホのエネルギーとか気持ちがちゃんとそこにあって、やっぱ生きた絵。描くべくして描かれた絵っていう感じが凄くするのです。やっぱかくあるべし!って思いました(笑)。

多分、ていうかきっとゴッホは絵を描くのが好きだったんだろうし、でも好きで好きで俺はこれで行くんだ~って早くから決めていたわけじゃなく、28才になってようやく画家を志すみたいな人で、ゴッホの絵は短い線で構成していくのが特徴なんだけど、その一本一本が几帳面な感じがして、そういう性格的にもメンドクサイところが絵からも存分に出ている気がして、そこがスゴイ絵なんだけど何故か親近感を覚えるところにも繋がるのかなぁ、って思いました。

人の顔や静物なんかもたくさん展示してあったけど、やっぱ僕は風景画が好きです。『アイリスの咲くアルル風景』、『糸杉の見える花咲く果樹園』、『花咲くアーモンド』、『サント=マリーの道』。ほんと素晴らしい。『蝶の舞う庭の片隅』なんてただの田舎道を接写して描いているだけなのに、凄くいい。畔道の雑草や蝶への優しい眼差しというか、ちょっと難しい人だったかもしれないけど、こういうのを見てると基本は優しい人だったんだろうなって。

ゴッホの絵を見てると、なんで空が黄色なの?とか、妙なところに妙な色が入ってるってのがよくあるけど、『オリーブ園』の地面が肌色なのは驚いた。スゴイ生命力。ちょっと生々しくって怖かった。

晩年の絵を見てると(晩年といっても37才で亡くなってしまったけど)、例えば『ポプラ林の中の二人』とかは景色と一体になっているというか、景色の中に入ってもうゴッホ自身が景色になっている感じ。自分と絵の境目がなくなってくるというのか、ゴッホ自身が風景の中に溶け込んでしまっている、そんな印像を受けました。人生には長短に関係なく四季があるっていうけれど、ホントそうかもしれないな、って思いました。

ゴッホは生前、1枚も絵が売れなかったとか。貧乏で仕方なくって、弟のテオに随分と援助をしてもらって(あんなに大きなキャンバスに絵の具を塗り込めてたんだから、絵の具代だけでも相当だったと思う)、きっと売れたかったんだろうな、評価されたかったんだろうなって思うけど、でもやっぱり自分がこれだと思えるものを描けたときの喜びというのは他に代えがたい喜びだったはずで。『サント=マリーの海』っていう荒々しいアルルの海を描いた絵と『麦畑』っていう穏やかなアルルの風景を描いた絵が2枚並んで展示してあって、だから僕はこれを見た時にどうしようもなく感動したのです。きっとゴッホはこれを描いた時に「やった!」と思って、僕は描けたぞっていう喜びがあって、もしかしたらしばらく、ほんのしばらくかもしれないけど、絵から近寄ったり少し離れたりしながら何度も見返して、人生で最高の喜びを、人生の意味をほんの一瞬だけでも了解したんじゃないかって。僕には何故かそんな光景が目に浮かんで、本当に感動して目頭が熱くなってしまいました。

ゴッホの絵はホントにリアル。写実じゃないから写真みたいじゃないけど凄くリアル。それにエネルギーに溢れてる。でもなんだか落ち着くんだなぁ。これはもう僕の勝手な思い込みだけど、やっぱゴッホは絵を描くってことだけでホントに他意はなかったからで、ただいい絵を描きたい、自分でこれだと思えるものを描きたい、その一心さが僕ら見ている人に何らかの安らぎというかプラスの感情をもたらしているのかもしれない。そんな風に思いました。

面と向かって話すと誤解や齟齬ばかりで空回り、なかなか上手くいかないけれど、絵だと時にこれは自分だというものを表現できた。目指す絵が描けないとそれはそれでストレスが貯まったろうけど、それでも絵が最大の自己表現だとすれば、やはり描くことは止められなかったのだろうなって。なんか分かるような気がします。

偉大な画家だけど、そう遠くに感じない。僕にとってゴッホとはそんな人です。京都でのゴッホ展はもうしばらく続きます。皆さんにとってのゴッホを見つけてみてはいかがでしょうか。

『フー・ビルト・ザ・ムーン』を聴いて思った事

 

『フー・ビルト・ザ・ムーン』を聴いて思った事

 

ノエル・ギャラガーの『フー・ビルト・ザ・ムーン』の評判がすこぶる良い。僕も最近よく聴くのはもっぱらこのアルバムだ。進化したサウンドがノエルのソングライティングを一段も二段も引っ張り上げており、ただでさえ次元の違うノエルの曲が、また別のステージに向かっていることを感じさせる全く新しいアルバムだ。というわけで僕はこのアルバムを勝手に「ノエル、宇宙の旅」なんて呼んでいる。

ソロになってからのノエルは勿論曲がずば抜けているのだからいいことはいいのだけど、どうしてもあの声にやられた身としてはそこにあの声を探してしまう。けれどこのアルバムにはもうそれはほとんど感じられない。ノエルの声として成立してしまっているからだ。要するにそれだけオアシス的なものからかけ離れたサウンドになっている訳だけど、じゃあ仮に今ノエルがリアムが歌うことを前提として曲なりサウンドなりを作ったなら、ここまでの曲想の広がりは望めたかどうか。

勿論、稀有な二人がそのまま揃っていたとして、再びとんでもない化学反応が起きて今回とは全く違う角度で新たな傑作が生まれていたのかもしれないが、やっぱりそれは可能性としてはかなり低かった訳で、そうなるとやはり二人が別の道を行くというのは意味があったということなのだ。

ただここまで来るのにノエルはソロ3作を要したわけで、やっぱりそれだけの時間が必要だったのかもしれず、そう考えると昨年ようやくソロ・アルバムを出したリアムだって、確かにあれはオアシス的なものを全肯定してゆくアルバムでそれはそれで素晴らしかったんだけど、時間をかけていけば今後どうなっていくかは分からないし、リアムはリアムで別の次元の新しい扉を開けていくかもしれない。そういうわけで類まれな才能を更に解放させるためにもそれぞれがそれぞれの制約から離れるというのはとても大事な事なのかもしれない。

で結局僕らが望むのは二人が妥協して(二人に限ってそんなことはあり得ないけど)ありきたりな作品を残すってことじゃなく、どうせなら僕らファンを置き去りにするぐらいの新しい力に溢れた瑞々しい作品であって、それはもう二人が組もうが別々に進もうが変わりはないこと。だからそういう流れの中で、二人がまた同じ方向を向いて、じゃあこっち行くぜってなりゃあそれは勿論めちゃくちゃ嬉しいことだけど、それはやっぱ二次的な事なんだな。

だから僕が『フー・ビルト・ザ・ムーン』を聴いて思った事、というよりむしろノエルとリアムが新しいアルバムを出した2017年を受けて今思うことは、これがリアムの声だったらとか、これがノエルの曲だったらとかってのはまぁ飲み屋のネタぐらいにして、僕たちもそろそろノエルはノエルとして、リアムはリアムとして接していく、そういうものの見方が体に馴染んできているのかなってことです。勿論これは大いに前向きに捉えていい事ではないでしょうか。

ボクの○

お話:

『ボクの○』

 

算数の時間に書いた○
コンパスが壊れてて○がふくらんだ
お母さんにコンパスを買うからお金をちょうだいと言うとお母さんは

「それはいいけど、コンパスを使っても本当の○は書けないわよ」

ボクは駅前の文房具屋へ出かけた
店のおじさんにコンパスがこんなになったから
新しいのを買いに来たんですと言ったらおじさんは

「それはいいけど、新しいのでも本当の○は書けないよ」

帰り道、ボクは考えた
本当の○ってなんだろ?
マンホールは本当の○?
道路の標識は本当の○?
信号の赤とか青は本当の○?
自転車のタイヤは?
お皿は?
メダルは?

ボクは部屋に入って新しいコンパスで○を書いてみた
鉛筆の先を削って、力加減を同じにして慎重に○を書いた
出来た○をずっと眺めてみた
ボクは○の中に吸い込まれそうな気分になった
○は大きくなって○がボクを包むぐらい大きくなってもっともっと大きくなった

 

ボクは○の端を歩いていた
ボクの歩いた線は太くなっている
まだ○の端っこ、太いのはちょっとだけだ
隣にはお兄ちゃんがいた
お兄ちゃんはボクより少しだけど太いとこが長かった
あ、お母さん お父さんも
もう半分ぐらい来てるのかな ふふ、逆さまになってる

分かった これは僕たちの生きる道なんだ
よく見ると色分けされてる
多分…最初の4ぶんの1はピンクだから春
その次は青だから夏で、赤は秋、白は冬
ボクとお兄ちゃんはピンク え~、ちょっとヤダなぁ
お母さんとお父さんは青と赤の混ざったとこ 変な色…
おばあちゃんは白 あ、だから髪の毛白いんだ

見渡すと他にもたくさん
近所のおばちゃんや文房具屋さん
あ、あの人の○はちいさい あっちも
ホントだ!人によって○の大きさが違う
僕のは、、、よかった ふつうだ

うーん、でもよく見ると○は大きくなったり小さくなったり
きっとその人の歩き方によるんだ
けど○の大きさが違ってもピンクとか白とかの色分けはみんな同じなんだ
へぇ~

 

「お母さん! わかったよ わかったよ!」

「ん?なにが?」

「ほんとの○が書けないってやつ。ボクはまだちっさいから○にならないってことだよね!」

「あ、あれ。それあんた、お母さんとおんなじで ぶきっちょだからよ」

「そうじゃなくて、ボクはまだちっちゃいから○になんなくて、○は人によって大きさが違って、でもちゃんと歩いてたらいいんだよ!」

「あ?あんた何言ってんの?」

「ボク、ちゃんと歩いてるよ!」

「ぶー。靴のかかと踏んでるからダメ~」

 

2017年 洋楽ベスト・アルバム

洋楽レビュー:

『style of far east が選ぶ 2017年 洋楽ベスト・アルバム』

 

今年も多くのCDを購入した。と言っても新譜が月2枚程度だから趣味とすりゃかわいいもん。月2枚と言えど、買い物リストを見ると新旧の実力者がずらりと並んでいるので、我ながらかなりがっしりとした購入履歴になっていると思います。

さて毎年年末になると国内外の音楽誌でベスト・アルバムの発表があります。国内のロッキンオンとNMEジャパン、海外のローリングストーン誌にピッチフォークをさら~っと見たけど、僕の購入履歴にあったのは12枚。意外と高確率でした。ハイムがどこにも載っていなかったのは意外だったな。で軒並み高評価のロードは未購入。毎年ふ~ん、て感じで眺めているだけだけど結構楽しい。こういうの好きです。

僕にとって2017年の最大のニュースはやはりギャラガー兄弟が揃って新譜を出したこと。特にリアムがようやくソロを出し、それが僕たちの期待するリアム像そのものを体現するアルバムであるというこれ以上の無い復活の仕方で、しかもその復活したステージをサマーソニックで至近距離で見れた、そして期待に違わぬステージを見せてくれたっていうのは本当に特別な体験でした。

一方のノエルはそんなリアム騒ぎなんてどこ吹く風、オアシス時代をはるか遠くに追いやる素晴らしいアルバムを出した。これはこれで最高な出来事で、やっぱこうやって二人が二人のキャラクターに沿った新しい音楽を制約なしに思いっ切りやってくれることが僕たちにとっちゃ一番嬉しいのだ。

2017年は僕の好きなバンドが続々と新作を出してきて聴く方も大変だったんだけど、そのいずれもがホントに良く出来た作品ばかりで、かなり濃密な音楽体験となった。名前を挙げると、ケンドリック・ラマーにパラモア、フェニックス、ハイム、ファスター・ザ・ピープルなどなど。初めて聴いたThe XXやウルフ・アリス、フォクシジェン、ザ・ウォー・オン・ドラッグスも良かったし、年末にかけてのキラーズとベックも最高だったな。

そんな中、僕の個人的なベスト・アルバムは、フォスター・ザ・ピープルの『セイクレッド・ハーツ・クラブ』。ウルフ・アリスの『ヴィジョンズ・オヴ・ア・ライフ』とベックの『カラーズ』と迷ったんだけど、ウルフ・アリスはまだまだこれから先に凄いのを持ってきそうだし、ベックはもうそりゃこれぐらいやるでしょうよってことで、フォスター・ザ・ピープルに決めました。やっぱ今までのキャリアの総括というか、ここにきて一気にスパークした感じがするし、最近改めて聴いてみてもやっぱそのエネルギーの質量はハンパないなと。国内外の音楽誌のベスト・アルバム選にはあまり入っていなかったけど、僕は凄いアルバムだと思います。

あとおまけでベスト・トラックも。これはThe XXの『オン・ホールド』にします。年初に聴いたものはどうしても印象が薄れていくんだけど、今聴いてもやっぱりいい。こういう切ない感じに僕は弱いです。

ま、一応面白半分で選んでみたけど、どのアルバムもホントに素晴らしくて、この先も聞き続けていけるものばかり。最初にも言ったけど、2017年はがっしりとした重量感のあるアルバムが沢山あったなという印象を受けました。

ここ数年はあまりバタバタと買い漁ることも無くなってきたし、落ち着いた洋楽ライフになって来たと思います。この調子で2018年もいつものもの、新しいもの、平たい気持ちで素晴らしい音楽に出会いたいものです。

ということで、style of far east が選ぶ、2017年 洋楽ベスト・アルバムは、『Sacred Hearts Club』 Foster The People。2017年 洋楽ベスト・トラックは、『On Hold』 The XX に決定です!

極東のスタイル

ポエトリー:

『極東のスタイル – style of far east -』

 

海岸線に打ち寄せるオレはカケラ

カケラを運ぶ海洋はオレの中にある

愛する事とは此処で愛すること

愛することとは心の中で愛すること

灼熱の砂嵐はオレのカケラ

砂粒はオレの中にある

愛することとは此処で愛すること

愛することとは心の中で愛すること

風が空を跨いだ

ヒュッ

漂う綿帽子がオレのカケラ

吹き起こる風、今はオレ

退屈しのぎに一句

代わり映えしない日常にキック

オレは全ての中にあり

全てはオレの中にある

style of far east

瞑想して君

支度はすぐに済ませろ

姿を眩ませ

素早く動き回れ

内包する風

に吹き飛ばされるオレ

吹き飛ばすオレ

オレは容れ物

誇張した輪郭

故意に膨らませたままで

されるがまま

するがまま

全ては同時に進行す

速やかに進行す

誰も気にも留めない

心変わりは憂鬱

かけがえのない貴方に向かって

吠える軟骨

根源的な愛

愛することとは容れ物

拡張する輪郭

style of far east

瞑想して君

支度は早く済ませろ

警鐘をならせ

根源的に誓いを交わせ

オレは全ての中にあり

全てはオレの中にある

2018 サマソニ出演者、第一弾の発表!

 

2018 サマソニ出演者、第一弾の発表

今年のサマソニ出演者の第一弾の発表があった。出た!ノエル・ギャラガー。しかもベックも!こりゃびっくりした。ノエルはアルバムも出たとこだし、去年リアムが来たっていうタイミングも含めて、可能性としては高いなぁとは思っていたんだけどベックまでとは。去年のフジロックに来てるし今年はないなと勝手に思ってました。僕はこのブログでベックとノエルの新しいアルバムについての同時代性についてを述べたばかり。その二人が揃って来るってなんか嬉しい。でもこれってもしかして2日とも行かなあかんパターン?

とりあえず今回は第一弾ということでこれからぼちぼちとアナウンスがされるんだろうけど、僕の予想としては今年新たなアルバムが出ると噂されているThe1975。そして2017年に素晴らしいアルバムを出したウルフ・アリス。ウルフ・アリスは去年来日しているけど、この上げ潮の中、もう一回ダメ押しで来そうな予感がする。どちらもサマソニになじみ深いしね。

でもそうなると、ベックの日にThe1975とウルフ・アリスっていう組み合わせの方がしっくりくるよなぁ。ノエルは絶対外せないし、こりゃやっぱ2日とも行かなあかんのか~、なんて未だ何も決まっていないのに勝手に悶々としとります(笑)。

あと根強い人気のニッケルバックと新鋭のチャンス・ザ・ラッパーも出演との事。チャンス・ザ・ラッパーは昨年、異例のストリーミングだけでグラミー3冠を獲った話題の新鋭で、世界的に見てもこの人が来るのは結構なニュースなんじゃないかな。僕もチャンスがあれば見てみたい(←ダジャレではありません…)。

いきなりノエルとベックってことでテンションが上がってしまったが、実はまだまだだいぶ先の話、これからの情報を楽しみにしておこう。

とりあえず今年も大阪に来てくれてよかった…。