「みうらじゅん マイ遺品展」感想

アート・シーン:
 
「みうらじゅん マイ遺品展」 in アサヒビール大山崎山荘美術館
 
 
入ってすぐにみうら編集長によるご挨拶文(400字詰め原稿用紙に手書き!!)が展示されておりまして、そこにはプレイしてもらえればという記述がございましたので、物心ついた時から妄想ばかりしておりました私は思う存分脳内プレイを楽しませていただきました。美術館へは年に数回ほど足を運びますが、これだけ笑った展覧会は後にも先にもないと思います。とりあえず入ってすぐの「大西郷の湯飲み」に大笑いしたことはお伝えしておきます。
 
みうらさんの作品も沢山ございましたが、多くは何十年かかけてみうらさんが収集されてきたもの。つまりこれらにはクリエイターがいたわけです。商品として売るつもりはあるのかというツッコミはツッコミ如来にお任せするとして(如来なんですね。。。)、まぁ作り手としての哲学はあったのでしょう、いやあったはず。そこには企画会議もあったやもしれず、ケンケンガクガクの議論、いや企画会議など経ずにいきなり商品化という強引さ(そこはクリエイターですから)も時にはあったでしょう。思いつきで作るおやじと奥さんの夫婦ゲンカも十分に想像されます。しかしまぁ、日本のご当地クリエイターも捨てたもんじゃないですね。これらはアンクール・ジャパン文化遺産として残すべき、継承されていくべきですね。
 
みうらさんの作品も素晴らしかったです。スクラップブックですかね、収集した雑誌の切り抜きやパンフなどを基にコラージュしたと思われる作品。ものすごい大量に、壁一面どころかレースのカーテンのようなものにもプリントされておりました。野球好きは打撃ベストテンを眺めているだけでいくらでも酒が飲めると言いますが、私はこれを眺めているだけでいくらでもいけそうです。いやもうほうじ茶で十分いけます。松方弘樹と梅宮辰夫と山城新伍そろい踏みの裸の写真、最高ですね。ところでみうら編集長がまとめられたスクラップブック、一番多いのはエロ関係なんですよね。いやいや、そんな超個人情報など拝見しようとは思いませぬが、つまり今回の展示は氷山の一角ということ。そこに驚いています。
 
みうらさんが子供の頃に作られたものもいくつか展示されています。何を隠そう私も自作漫画を描いてクラスメート(訂正します、ともだち2、3人に)に見せて喜んでいましたが、ちんけな私とは質量ともに全然比べ物にならないです。みうら少年、才能があふれ出ています。書かれた文章もそのまま拝見することが出来るのですが、文才も子供の頃から秀でていたのですね。今と変わらんやん。子供のみうらさん、大人のみうらさん、双方へリスペクツ!!
 
順路通り見ていきますと、最後の方にはみうらさんの描かれた絵がこれも壁一面に展示されています。コロナ禍の最中に描かれたということですが、それにしても旺盛な創作意欲!ていうかさっきのコラージュ作品と基本は一緒や~。絵か切り抜きかということですね。でも何気にみうらさんの画力、スゲーっす。しかも創作が止めどない!このテーマだといくらでも描ける(切り貼り)できるんですね。
 
ちなみに大山崎山荘美術館の地下にはモネとルノワールの絵も展示されておりまして、特にモネは半円上の壁に4枚、かの『睡蓮』が並んでおります。モネと言えば睡蓮シリーズですが、彼は『睡蓮』を100作以上描いたらしいです。自宅に蓮池を作ったりもして、よくもまあ飽きもせずというところですが、そうか、みうらさんも同じじゃないかと。みうらさんの作品も壁一面に並べられていましたが、それはみうらさんからモネおじさんへのリスペクトだったのですねここは大山崎山荘美術館が選ばれた理由をひとり合点しておきます
 
ところで誰か、みうらさんの作品に登場する人物の登場ランキングをつけてくれないでしょうか?エロ部門はアレなので非開示として、エロ以外の登場人物ランキング。ただこれは生前遺品整理ということになりますから、みうらさんご自身にやってもらうしかないでしょうか。私の予想では第1位はボブ・ディランです。
 
世の中デジタル化が進んでおりますので、収集ペースは以前より落ちているかもしれませんが(もしくは老いるショック?)、首を長くして「マイ遺品展Ⅱ」を待っておりますので、編集長!またよろしくお頼み申し上げます。

折坂悠太『心理』~わたしなりの全曲レビュー

邦楽レビュー:
 
折坂悠太『心理』 わたしなりの全曲レビュー
 
 
『爆発』
インスタントな表現を拒む、言葉は口をつぐみ、こちらはじっとこらえて待つのみ。折坂悠太の創作に向かう姿勢を表しているようにも思えます。表現の核にあるものを大切に思う、主体はあくまでもそこにある、受け手である私。ところで「岸辺の爆発」という言葉、関係ないけど僕は思わず福島第一原発を思い出しました。
 
『心』
子供の頃に自分が蝶になったり蜂になったりするのを想像をしたことはありませんか?僕はあります(笑)。と思ったら、砂漠にバンドが登場します。と思ったら、更に唐突にグラスの縁を撫でる女が登場。おまけに鉄の扉に手紙は焼かれるそうです。ここは素直に脳内で想像力の飛躍を楽しみましょう。
 
『トーチ』
この歌詞を見ていると、本当に景色を置いていってるなという気がします。あとは知らない、皆さんご自由にという感じ。2番の歌詞、とりわけ「倒された標識示す彼方へ 急ごう終わりの向こう ここからは二人きり」が好きです。抽象的な描写ではあるけれど、とても具体的な表現かと思います。「いませんかこの中に あの子の言うこと分かるやつは」には日本で暮らす外国人のことも頭に浮かんできます。
 
『悪魔』
画家の行動、自転車の動き、おれのコール、これらは何に怯え、何を警告しようとしているのか。「戦争もかたなし」というのは重く捉えるべきか軽く捉えるべきか。「壁に書かれた番号へコール 10分後のおれが答える おれはそれからかけ直すが 10年後のおれはでなかった」。怖いですね(笑)。主人公は偽悪的に「悪魔のふりして」語ります。
 
『nyunen』
窓際で揺らぐレースのカーテンを思い浮かべました。
 
『春』
近頃、エモいなんて言葉をよく耳にしますが、わたしもここはひとつ。「確かじゃないけど 春かもしれない」、「けど波は立つ その声を聞いたのだ」のなんとエモいこと。殊更歌に寄せようとはせずに悠々と流れるバンドが尚のこと春。
 
『鯱』
ちんどん屋のように商店街を練り歩くガチャガチャ感。つまり昭和の流行歌のような、もっと言うと大正期のそれ。ていうかよく知らない。が、そう思わせる身内感があります。つまり日本人にもっともしっくりくる音楽と言うのはこういうものなんじゃないでしょうか。追いかけっこ感がたまらない。それにしても楽しい演奏だこと。
 
『荼毘』
さよならの歌か。とすればラストのダヤバ…はまじない、お経とでも解せばよいか。それはたむけ?それともわたしへの癒し。僕は夏を思い浮かべました。お盆だからでしょうか。「今生きる私を救おう」が遠乗りのように響いてきます。ただ悲しみに暮れどおしではなく、少しシュールでユーモアが効いている。「山陰山陽」が「三人三様」に聴こえるのもよいです。
 
『炎 feat. Sam Gendel』
私たちは見えない傷をたくさん負った。けれどそんなことはお構いなしに雨は降る。私たちをめがけてるわけでもないだろうに。あなたに言葉を投げかける術は持たないけれど、ここでゆっくりおやすみよ。わたしもじきに眠るから。近いようで遠い演奏がこの情景に近づくことを許さない。
 
『星屑』
『見上げてごらん夜の星を』のような美しい曲です。夜遅く、こども園からの帰りであろうか。親子の後ろ姿が描かれます。世界で一番美しい光景をここで持ってくるなんてズルいよ。一番大切なものは日常の中に。見落とさないようにしたいものです。とはいえそれだけじゃなく、将来への得も言われぬ不安も顔をのぞかせます。
 
『kohei』
上賀茂神社を思い出しました。あそこでよく横になりました。
 
『윤슬(ユンスル) feat. イ・ラン』
アルバムでこの曲だけは水彩画で描かれたようなたおやかさがあります。1本のショートフィルムを見ているようです。普通に考えると折坂悠太は日本側の岸、イ・ランは韓国側の岸にいるということになりますが、でも「流れがどっちかわからない」のだと。この辺り、凄く映画的で想像力を掻き立てます。ハングルで書かれたタイトルとイ・ランのリーディングでイメージは横に広がる。互いの詩を交換することから理解は始まる。
 
『鯨』
小さな船の下を鯨が洋々と進んでいく。それはあまりにも大きすぎて私たちの一生を経ても全ては見通せないようです。『윤슬(ユンスル)』では流れがどっちか分かりませんでしたが、それも今は分かりそうです。

心理 / 折坂悠太 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『心理』(2021年)折坂悠太
 
 
物事を表現する上で、私たちが普段の伝達手段として用いている言葉を使えば、その伝達速度は圧倒的に早くなります。例えば「嬉しい」とか「悲しい」とか恥ずかしながら「好きです」とか。でもそれはともすれば通り一遍の表現になりかねない。勿論、その前後がありますから何もかも一緒くたにはしてしまえませんが、せっかくに訪れた何かを伝えようとする機会が、不自由のない普段の伝達手段を使ってしまうことによって、表面的には即座に相手に伝われど、その時にしか発生しえなかったそれこそ肝心なその時だけの唯一のものはそぎ落とされてしまう恐れがある。
 
つまり私たちは自己の内で補完しているのかもしれない。極論を言えば、私たちは共通言語によって過去の自分の感情を追体験しているに過ぎないのではないか。「嬉しい」とか「悲しい」といったキーワードを基に自らの中のどこかに仕舞われた過去の感情を手繰り寄せた追体験。失礼な言い方ではあるけれど、単に「嬉しい」とか「悲しい」といった言葉のみで突き動かされる感情は過去にある自己のものに過ぎないのかもしれません。
 
感情で伝えられることには限りがある。誤解を恐れずに言うと、うわっ滑りで、大事なことが抜け落ちてしまう。現代詩はそこを非常に面倒くさい、まどろっこしいやり方で言葉を構築しようとする試みだ。確かにつらい時、表に出てくるのは悲しさかもしれないが、人間の感情はそんな単純なものではない。その奥にはそこへ上り詰める確かな気配があるのだ。折坂悠太はそこを丹念に掬い取ろうとしている。最大公約数的な意味を持つ言葉に、或いは聴き手の過去に委ねることなく、その時だけの唯一のものをなるべく原型をそのまま真空パックにして表現しようとする試み。それが『心理』ではないか。
 
『心理』アルバムはざくざくと音を立てる。水彩画ではなく、ペインティングナイフでキャンパスに直に描く油絵のように。流れるように風景を描くのではなく、直に絵の具を置いてゆく。そこで折坂悠太が伝えようとしているのは実態。情緒にまつわる感情でなく、ただただ風景を置いてゆく。本人にしか知り得ぬ実態を求めて、ざくざくと足音を確かめては風景を置いてゆこうとしている。
 
詩人の吉増剛造はある番組で「gh」と言った。「night」の発音しない「gh」。それでもじっと聞いていると聴こえてくる「gh」。僕は詩とは宮沢賢治が「心象スケッチ」と言うように風景を描くものだと思っていた。僕は気付かないでいた、その風景には音が伴うことを。音が聞こえる、「gh」が聴こえる、そういう詩を書きたいと願いつつ、それを書かせる働きは感性でも情緒でもなく知性であると、折坂悠太は実演する。
 
音楽家が真空パックした風景を僕たちは新しく見る。それをどう見るかは僕たち次第。僕たちは自らの内にある過去の感情にすがるのではなく、その時にしか発生しえなかった新しい風景を見、新しい感情を得る。そのやって初めて風景はゆっくりと立ち上がる。始めから用意された姿形ではなく、僕たち新たな体験として。そのきっかけとしての音楽。音がある折坂悠太のスケッチを僕たちは見ている。彼は風景そのものに迫ろうとした。『心理』、2021年にリリースされたアルバム。折坂悠太、渾身の作品だと思います。

Spotifyのまとめ機能

その他雑感:
 
Spotifyのまとめ機能
 
 
Spotifyから2021年のまとめデータが届いた。2021年に僕が一番よく聴いた曲、アーティスト、ジャンルなどが数字と共に明示される。僕が有料のSpotifyを始めたのは去年の終わりからだから、1年のデータを見るのは今年が初めてだ。
 
とても面白い機能だなと思うと同時に、何億というSpotifyユーザー全員に一瞬でこういうのを送ってしまえるAIにちょっとおののいてしまう。当然、個人情報と紐づいているわけだし、やっぱちょっとやな感じ。とはいえSpotifyユーザーをやめるわけじゃなし、だんだんこういうのを何とも思わなくなっちゃうんだろうな。あぁ、完全に1984の世界だ。
 
ちなみにこの結果によると、僕が今年Spotifyで一番聴いた曲はウルフ・アリスの「Lipstick on the Glass」らしい。うん、確かにそうかもしれない。ただ2位以下もずっとウルフ・アリス(笑)。つまりアレだ、アルバム『Blue Weekend』をしょっちゅう聴いていたということだ。てことで曲単位で聴く人にこの機能は有効かもしれないが、アルバム単位で聴く人間にとっちゃあんまり意味をなさないということになる。ま、それでも一番聴いた曲が分かるのは面白い機能ではある。
 
ただ僕の一番のお気に入りアーティストとしてリトル・シムズが出てきたのは解せない。確かにリトル・シムズもウルフ・アリスと1、2を争うほどよく聴いたけど、聴いた回数のトップ10はウルフ・アリスが占めてたんじゃないの?リトル・シムズのアルバムは曲数がめっちゃ多かったからか?なんかよく分からん。

午睡

ポエトリー:

「午睡」

喫茶店のカランコロンと共に
君が入ってくるのを夢見て午睡
気がつけば
カップの底がカチカチ音を鳴らして歩いています

同じように時、重ねた日々はそこになく
苦いコーヒーをかき混ぜても
泡立つはただ
カランコロンの響きのみ

カップの縁を時間がよろけるように歩いています
足を滑らせぬよう見守りながら
わたしの役目は眠るふり

 

2021年11月

『それしかないわけないでしょう』の「すらい」について

ブック・レビュー:
 
『それしかないわけないでしょう』ヨシタケシンスケ
 
 
ヨシタケシンスケの絵本『それしかないわけないでしょう』に出てくる女の子は世の中に好きと嫌いしかないのはおかしい、好きと嫌いの間に「すらい」というのがあってもいいはずだと、父親に向かって「おとうさんなんて大すらい!」と言う。この一コマが非常に可笑しくってこちらは勿論大好きなのだが、考えてみれば何事に対しても「すらい」が圧倒的に多く、好きや嫌いよりも人の数だけ、或いは物事の数だけ「すらい」が存在する。
 
現代詩という文学がこの世にあることをご存じの方は少ないかもしれないが、現代詩というのはまさにこの「すらい」を行ったり来たりする様であって、詩というと何か良いことや励みになることを言うみたいなイメージをお持ちの方がいて、とかく明確な言葉を期待されているのだが、どちらかと言うとどちらかを言うのではなく、どちらかではないことを言葉にしたのが詩である以上、需要と供給が合わないのも致し方ないところ。
 
ただこちらの心構えとしては、どちらかを明確に言われるとそれに対する態度の取りようもあるのだが、はっきりとした物言いではない以上、それをどう捉えたらよいのか分からず、つまりついはっきりしろよと言いたくなる。ただそれに対しては、はっきりしないことを書いていますと言うよりは、そこにあるがままを書いています、無理にはっきりさせようとはせずに、そこにあるがままを書くようなるべく努めていますと言うしかない
 
そこをあくまでも分かるようにしてよと親切に食いついてくれる人は一切いないのだが、全く別の角度から「すらい」という言葉で明確に言ってのけ、何気に分からないものを分かる表現に、ていうか面白く変換してしまえるヨシタケシンスケはやはり恐るべし。

『佐野元春 & THE COYOTE BAND ZEPP TOUR 2021』 2021.11.25 ZEPP NAMBA 感想

『佐野元春 & THE COYOTE BAND ZEPP TOUR 2021』
2021.11.25 ZEPP NAMBA
 
 
デビュー40周年の記念公演を終えた佐野とバンドは、来春に予定されている新しいアルバムの制作を続ける中、横浜、東京、名古屋、大阪のZEPPを回る小規模なツアーに出た。この日の大阪でのライブはその千秋楽になる。とはいえこちらの心構えとしても大それたものはなくリラックス、あるとすれば今後の佐野の活動の糸口を窺えるかも、そんな気持ちだ。
 
そんな中鳴らされた1曲目は『COMPLICATION SHAKEDOWN』。しかも佐野は派手に彩色されたキーボード(?)に位置している。この時点でこのツアーの特色を表している。続くは『STRANGE DAYS~奇妙な日々~』。いずれも80年代の曲だ。「この夜の向こうへ突き抜けたい」という歌詞に続き、通常なら「ヘヘイヘイ!」とレスポンスする流れだが今のご時世、そうはいかない。ただ「夜の向こうへ突き抜けたい」というのは間違いなく今の気分。それを声高に歌いたくなるのは心情だ。
 
3曲目『禅ビート』、4曲目『ポーラスタア』と続き、ここからはコヨーテ・バンドとの作品群かと思いきや、始まったのは1984年のアルバム『VISTORS』からの表題曲。ここまでの4曲は明らかにCOVID-19を意識してのもの。それを受けての『VISTORS』。この曲の最後のラインは「This is a story about you (これは君のことを言ってるんだ)」。毎日流されるCOVID-19関連のニュース、それはあまりにも規模が大きくこうも続けば自分たちのことでありながらも感覚は麻痺してくる。まして感染していない者は尚更だ。しかしCOVID-19は感染している、していないではない。我々はこの間、このウィルスに翻弄され続け、目に見えない傷をいくつも負った。佐野は歌う、「This is a story about you 」と。
 
続く『世界は慈悲を待っている』の後はパンデミックの間、積極的にリリースされたいくつかの新曲が披露された。その中でも最新の曲、『銀の月』は今のバンドの勢いを象徴する曲だ。今やコヨーテ・バンドは彼らにしか為しえない音を出している。2本のギターがリードする派手な曲だが、それは威勢よくケツを蹴り上げるものではない。うなだれた人々への優しいまなざし。銀の月、それは涙、若しくは魂とするならば、邪険にされがちな弱者のそれらが良き道筋を照らす。そういう意思がここにあるような気がした。
 
『銀の月』の後は、来るべきニュー・アルバムに入れる予定だという新曲『斜陽』が披露された。人生という長い坂を下りていくイメージのこの曲は2019年にリリースされたアルバム『或る秋の日』を思わせるシンガーソングライター色の強い曲だ。『或る秋の日』は個人的側面が強い(佐野個人と言う意味ではなく)ためアルバム収録を見送られていた幾つかの曲がまとめられたアルバムだ。つまりこれまでの流れで言うと、『斜陽』もコヨーテ・バンド名義のアルバムには収録されない方向となる。しかし来春のアルバムに収録予定だという。これは何を意味するのか。
 
今回のツアーはここ最近のライブ同様、コヨーテ・バンドとの曲がメインになると思っていた。しかし冒頭の『COMPLICATION SHAKEDOWN』はじめ、コヨーテ・バンド以前の曲も多く演奏されている。勿論これまでのライブでもそうした曲が演奏されることはあったが、明らかに今回は感触が違う。そこには継ぎ目がない、ただコヨーテ・バンドが演奏する曲として機能しているのだ。これは劇的な変化である。何気ない小規模なツアーではあるが、もしかしたら大きな意味を持つ瞬間を観ているのではないか。そんな思いがした。
 
コヨーテ・バンドのオリジナリティが発揮される中、それを象徴するのが中盤に演奏された『La Vita e Bella』と『純恋 (すみれ)』だ。かつての『Someday』や『約束の橋』のような決定的なキラー・チューンになりつつある。ていうかもうなっている。それにこの2曲は手拍子がよく映える。それはコロナ禍ならではかもしれないが、このバンドでも観客が一気に沸き立つ特別な曲が出来つつあるのだ
 
この後ライブは『エンターテイメント!』からアルバム『BLOOD MOON』からの辛辣で愉快な曲をいくつか交え、本編のラストは『INDIVIDUALISTS』、コヨーテ・バンドとの曲をクラッシックスが挟む形で終了した。
 
今回のライブで感じたのは境目が無くなりつつあるということだ。かつてはコヨーテ・バンドとの曲と所謂元春クラッシックスとの間に境目があった。またシンガーソングライター色の強い曲は見送られた。今や彼らはその境目を全く自由に闊歩している。確固たる存在としてのコヨーテ・バンド。それを確信したのが、アンコールで演奏された『悲しきレイディオ』だ。
 
この曲は言い方は悪いが、若いころの佐野を象徴する曲だ。この曲での大掛かりなメドレーに若い僕たちも歓喜した。けれど年を重ね、僕は昔ながらの『レイディオ』が流れることを素直に喜ぶことが出来なくなっていた。けれど今夜のそれはとても楽しかった。いや、あのイントロを聴いた時、思わず笑ってしまった。恐らくそれは本編を通して、コヨーテ・バンドがそういう境目を取っ払ってくれたからだ。
 
僕たちはCOVID-19の只中にいる。それはネガティブなことかもしれない。ではその向こうには何があるのか。ポジティブな光なのか。いやそんなことはない。物事は絶えず混じって進んでいく。COVID-19の只中にも光と闇は存在し、COVID-19の向こうにも光と闇は存在する。この日のライブがそうした混じりあいを示唆していたと大袈裟なことは言わないが、僕にそのことを気付かせる働きかけはあった。「やがて闇と光とがひとつに包まれるまで クロスワードパズル解きながら今夜もストレンジャー This is a story about you」(『VISTORS』)。これからも僕たちは色々なことが混じり合う世界を生きてゆく。
 
ちなみに。。。『レイディオ』中盤でスローダウンするところ、歌詞の順序がぐちゃぐちゃになりました。どう立て直すのかなとニヤニヤして観ていると、佐野さんが「さっきも言ったけど、もう一度、、、この素晴らしい大阪の夜!」と叫んだりして、おっかしかったです。長年共にしてきたミュージシャンとファンならではの愉快な光景がそこにはありました。

遠い山なみ

ポエトリー:

「遠い山なみ」

 

あちこちに立ち並ぶ群青色した肉体に
感動して君は頭から血を流した
生きていることの蓋が開いたような気がして
あちこちの人に話しかけてみる

葉巻みたいにウンザリ、とした表情で煙たがられることもしばしば
それでもリレーの第一走者のような気分でスタート・ラインに立つ
華奢な体で

あちこちに立つ狼煙、
不定期に届くダイレクトメール、
そのひとつひとつに
不確かな未来の口も開いている
けれど勘違いしないで、と彼女は言う

柔らかな肌を滑りゆく君の反動
あくまでも肉体は群青色
ガサガサと音を立ててそぞろ歩く
けれど勘違いしないで、彼女は何度もそれを言う

  ————————————–

遠い山なみを指でなぞるようにして、彼女は一昨日のことを思い出していた
遠い時代が被さる彼女の面影には一切のモラルが抜け落ちているようだった
指一本なら本当の自分を描けるよ
遠い山なみがそう言うのを待ってから、彼女はおもむろに席を立った
軽くお辞儀をしているようにも見えた

彼女は納得したがっていた
人々が完成と言う完成が何処にあるのかを
惰性と言う惰性が何処にあるのかを
身近な存在
そうかもしれない
何を意味するかをとうに知っているように
問題は遠回りをしてきつく体に巻きつく

駅前に小さな書店があればいいな
夜になれば小さなろうそくに火を灯し
形あるものは全て溶かして再び形あるものに

彼女はお財布の中身を勘定して横になる
初めての時みたいにゆっくりと身を委ね
モナリザ
まるで家族の一員みたいに
ゆっくりとモナリザが横になる

 

2021年10月

星屑 / 折坂悠太 感想

邦楽レビュー:

『星屑』(2021年)折坂悠太

 
折坂さんの新しいアルバム『心理』、素晴らしいです。折坂さんの歌は所謂分かりやすさとはかけ離れていますから、取っつきにくい印象を持たれるかもしれませんが、逆から捉えればこちらの理解の幅は大きなゆとりを与えられてるとも言え、この『星屑』という曲も聴き手の環境によって大きく印象を変えてくるように思います。
 
この曲はアルバムの中では割と素直な表現でもあるので、歌詞をそのままに受け取ることが出来るのですが、それでも昔懐かしい人、友人、愛する人、対象はいかようにも受け取れます。僕が心に思い浮かべたのは、幼子をこども園から迎えて帰ってゆく様子です。このように捉えた方は結構多いのではないでしょうか。
 
僕の子供は随分と大きくなり、もう遊んではくれませんが(笑)、子供に良きことが訪れることを祈る気持ちは今も変わりません。ただこの歌は自分の子供だけに限定するものではありませんよね。もっと大きな意味、全ての子供たちへの祈り、そういう大らかさも含まれているような気がします。
 
 
 疲れた顔 見ないでいい ほら
 聴かせてほしい 漫画のあの歌
 覚えたての歌
 
 ~『星屑』折坂悠太~

 

https://www.youtube.com/watch?v=adiG68h9T1Y

詩との付き合い方

詩について:
 
「詩との付き合い方」
 
 
家には読みかけの詩集がいくつかある。アレン・ギンズバーグの『吠える-その他の詩(新訳版)』と現代詩文庫の『石原吉郎詩集』、それとルイーズ・グリュックの『野生のアイリス』。そこに先日、アマゾンに発注したハルキ文庫の『吉増剛造詩集』が加わった。
 
どれも思いついた時に手を伸ばして続きのページから読むことが多い。時には順序関係なしに途中のページを読んだりもする。『野生のアイリス』のようにちゃんとした詩集の場合は割と頭から読むが、全集やまとめたものなんかはあまり順序は気にしない。読みたいように読む。『石原吉郎全集』なんかは読み始めて1年以上経っているかもしれない。詩集は小説とは違うのだから、飛び飛びに読んでも構わないし、読んでも分からないものは分らないまますっ飛ばせばいい。あぁ、なんてフランクな読み物だ。
 
詩は分らないという声を耳にする。僕も最初はそうでした。でも段々と分かってきたことは別に分からなくてもいいということです。例えば音楽。皆分かってますか?ここのメロディの展開がどうとか、このリリックで作者が言いたいことだとか、或いはここの和音は理にかなっている、いや変則だから面白いとか。誰もそんなこと考えて聴きませんよね。
 
僕は絵画が好きだからよく美術館へ行きます。特にゴッホは大好きです。時には感じ入って、あ、今おれ、ゴッホと分かりあえた、という瞬間があったりします。とんだ勘違い野郎ですね(笑)。パウル・クレーも大好きです。あんなよく分からない抽象画でも観てるとなんかいいんです。感じるものはあるんです、不思議と。
 
ゴッホもクレーも日本ですごく人気があります。ルノワールとかフェルメールなら人気あるのも頷けますけど、ゴッホとクレーなんてどっちも分かりやすい絵じゃないですよね。でも凄く人気がある。これは理屈じゃないんですね。分からなくてもいいものはいい。なんでかなぁと言うと、多分絵画には慣れ親しんでいるからなんです。
 
僕は言葉が好きですから言葉による芸術が好きです。それが詩です。音楽や絵画と一緒で全体を眺めます。何か感じるものがあれば嬉しいし、なんか分かったぞと思う時はすごい嬉しい。でも分からなくても音楽や絵画と同様、流しているだけでも眺めているだけでもなんかいい感じ。全体が分からなくてもこのフレーズかっこいいなとか、ここの言い回しは面白いなとかがあればそれで十分なんです。
 
世俗的に詩はやっぱり励まされるもの、感動するものみたいなイメージがある。なんかいいこと言うみたいな(笑)。確かにそういうものもありますが、詩の表現はそれだけではありません。詩は言葉の芸術です。簡単に分かってたまるか、です(笑)。でも分かんなくてもいい、ゴッホやクレーの絵を見て分からないけどなんかいいと思うように、分かんなくてもなんかいいなって思ったらそれでいいんです。
 
いやいや、それが分からんのです、詩には何も感じないのですと言うかもしれません。それは多分慣れです。僕も最初はそうでした。だから詩に興味を持ち始めた時、シンプルな詩集である童話屋の『ポケット詩集』シリーズを読みました。そこで興味を持った詩人の詩集を買ってみるんですね。分かる詩もあれば分からないものもある。そうですね、詩集読んでなんとなく分かるのって2割もないかもしれません。でもそうやって詩に慣れてくる。そうすると分からないことがさして重要ではないと思うようになりました。
 
でも分からないことって苦痛ですよね。折角興味を持っても、その入口で自分にはこれ無理だってなってしまう。ただ詩ってなんかいいな、ちょっと興味あるなって人には高い壁眺めて詩って難解だよなぁって終わってほしくない。折角興味を持ってもらえたのだから、もう少しだけ手を伸ばしてほしい。
 
要するに詩が身近にないだけなのです。慣れていないから理解しようとしてしまうのです。理解しようとするから苦痛なんです。でも大丈夫。考えてみれば音楽や絵画だってそこまで理解していない、それと同じことなんです。詩は今その瞬間さえ言葉にしてしまえる懐の深いアートフォームです。詩も音楽や絵画のように分かる分からないにこだわることなく、肩肘張らぬまま楽しめる文化であってほしいなと思います。