Love All Serve All / 藤井風 感想レビュー

邦楽レビュー:
 

『Love All Serve All』(2022年) 藤井風

 

日産スタジアムでの無観客一人ライブがあったり、紅白歌合戦で特集を組まれたりと大飛躍の2021年となったわけだが、ここでアルバムとしても売れて、よい評価も得て、いよいよ邦楽シーンの顔になろうかという、言わば勝負のタイミングでリリースされた本作。

とにかく曲が抜群にいいです。複雑なメロディーだけどスムーズに進行して、印象的なサビで一気に持っていくっていう、最高にキャッチーなポップ・ソングです。あちこちで韻を踏む言葉選びの巧みさとかもそうですけど、この辺は考えて出来ることではないと思うので、初期衝動のなせる業というか、今は凄くいい状態で曲が出来ているのかなぁと想像します。キラー・フレーズも満載だし、一度聴いたら頭から離れないですね。
 
ただ、それでいいのか藤井風、というのが実はありまして、最初から最後までいい曲ばかりだし、聴いてて心地よいし、非常によくできたポップ・ソング集だとは思うのですが、そこからの広がりですよね。なんかこう期待してたのとちょっと違うなぁと。もっと個性的なのがグワッと来るのかなと思ってたんですけど、普通にええアルバムやんていう。
 
ピアノの前に座って、一人で歌ってるときは個性の塊でめちゃくちゃ格好いいんですけどあの他とは一線を画する突き抜けた個性がアルバムになるとなんか薄っすらしてるなぁと。そこは多分アレンジなんだと思うんですが、その90年代ぽい、久保田利伸っぽいアレンジがあまり魅力的なものになっていないような気はします。曲はいいしボーカルはいいし、そこにビタッとはまるサウンドがあれば最高なんだけどなぁと思ってるのは私だけでしょうか。既視感のあるシンセのフレーズはなんだかなぁ。。。
 
ただアレンジに関しては、最近は宇多田ヒカルの『BADモード』でも編曲に加わっていたA.G.クックと一緒になんか始めたみたいなので、フットワーク軽く今回はこれ、次はこれっていう風に決めつけはせずコロコロ変えていくタイプなのかもしれません。それはそれで面白いとは思いますが、今回のアルバムに関しては決め手に欠ける気がしました。
 
アルバムは凄く売れて、多分これから先もしばらくは売れ続けるとは思いますけど、万人に好かれるポップ・ソングを作る人ではなく、好きなことをめちゃくちゃやって、僕ら凡人の理解を超えていく作品を残してほしいなとは思います。藤井風っていいよねじゃなく、なんか分からんけど、すげぇっていう。やっぱ彼にはそっちを期待してしまいますね。いいアルバムだとは思うんですけど、あの圧倒的な存在感とかいい意味での異物感が薄まっちゃったかなぁというのが正直な感想です。

NIA / 中村佳穂 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『NIA』(2022年)中村佳穂
 
 
映画『竜とそばかすの姫』の主演に抜擢され、紅白歌合戦にまで出場した2021年。言わば勝負のタイミングでリリースされた『NIA』アルバム。一言で言うと、テンションたけぇ!初っ端からイケイケで現在の彼女の状態の良さ、クリエイティビティの高まりを存分に感じることが出来ます。が、ちょっとハイパー過ぎるかなという気はします。こっちがそのテンションに付いていけない(笑)。
 
その象徴がオープニングの#1『KAPO』で、いきなり「Hi My name is KAHO !」で始まります。つまりここでこのアルバムは中村佳穂本人にかなり近い形で進んでいくのだなと聴き手は了解します。これ実は凄い事だと思います。海外の音楽を聴いていると割と歌い手がそのまま歌詞に登場するってのがあるんですけど、日本でここまで宣言するのって聞いたことないです。
 
邦楽の場合はそこまで宣言しなくても、歌い手=歌の主体、なのかなと思わせる人が多いですけど、多分それは無自覚なんだと思います(笑)。自覚的なミュージシャンは恐らくそこは距離を取っている。作家は自身の喜怒哀楽を表現するのではなく、ストーリー・テラーなんだという自覚ですね。だからこそ聞き手は各々の物語として受け止めることが出来るのです。
 
中村佳穂はどうか。無自覚なわけないですよね(笑)。恐らく彼女は敢えて「Hi My name is KAHO !」と宣言している。それは何故か?彼女は多分今はそうしていかないとダメなんだという現実認識があるのだと思います。コロナで思うような活動が出来なかった特に若い人たち。彼彼女らをなんとかチア・アップしたい。誰かの物語として訴えるのではなく、直接私が皆の手を取って、さぁ行こうよって伝えたい。そんな心意気が「Hi My name is KAHO !」に繋がっているのだと私は想像します。
 
歌い手である「私」が前に出過ぎることは危険です。それはどこから見ても「私」の歌でしかないから。けれど中村佳穂は敢えてそうした。これはチャレンジなんだと思います。それにあの素晴らしい『AINOU』(2018年)アルバム。皆はあれの第2弾を期待した。僕もそうでした。でも彼女はアーティストなんですね。同じことをしてもつまらない。彼女は自分の感性に従って、今は何をすべきかを選択した。それが『NIA』アルバムなんだと思います。
 
音楽的に言えば、もっと落ち着いたサウンドに出来たでしょうし、ストーリー・テリングに徹することも出来たと思います。でも彼女はそれよりも大きな熱量、ちょっとばかり強引でも、シンドイ気持ちを抱えている人、生きづらさを感じている人に彼女自身が直接タッチできるような、直接声をかけられるような、そんなアルバムを作りたかった。「Hi My name is KAHO !」の後は「そこにいるって合図をしてよ」という言葉へ続くんですね。つまりそういう意思の働きがこのアルバムには流れているということではないでしょうか。
 
ただやっぱり余計なお世話かもしれませんが、心配事はありまして、2021年のメディアへの登場は少しぶっ飛んだ人というか、アート系の浮世離れした人みたいなイメージもありましたから、この『NIA』アルバムのテンションはそこに拍車をかけたかもしれないなって。実際はここで僕がずっと書いてきたように、聴き手に寄り添った歌い手ではあるんだけど、パッと聴きして、あぁこの人は私たちとは違うんだみたいに誤解されたら嫌だなって、いちファンとしては思っちゃいますね(笑)。
 
あと最後に一つ付け加えておくと、中村佳穂の声は微妙にビブラートしているのが特徴で、僕は2年ぐらい前だかにたまたまラジオでDJが中村佳穂本人にそのことを質問をしているところを聞いたんですけど、彼女自身は言われて初めて気がついたみたいだったんですね。でその時はナチュラルでビブラートしているんだなという話になった。でそんなことはすっかり忘れて今回の『NIA』アルバムを聴いていたのですが、表題曲『NIA』を聴いた時に思い出したんです。つまりこのアルバムでは『NIA』だけが微妙にビブラートしている。これが何を意味しているのかはわかりません。意図的なのか自然とそうなったのか。ただこのアルバムを聴いていてようやく11曲目の『NIA』になって初めて中村佳穂の声が微妙にビブラートしているのが聴こえてくる。これは何故か分からないですけど、胸に迫るものがありました。

大人なのに子供の漫画が描ける人

その他雑感:
 
大人なのに子供の漫画が描ける人
 
 
僕は絵ばっかりかいていた子供で、絵と言っても漫画ですね、ほらクラスに一人はいませんでしたか?漫画のキャラクターをノートに描いて皆に見せてる子。あれです(笑)。
 
僕が小学校高学年の頃はそれこそジャンプ黄金時代で、ケンシロウやらキャプテン翼やらをよく描いていたんだけど、低学年の頃は藤子不二雄のキャラをよく描いていた。クラスには他にも同じように絵を描いている子がいたけど、僕は負けている気がしなくて内心少し得意になっていた。
 
ある日、大人びた(と言っても1、2年生だが)女の子が転校生としてやってきて、彼女もノートに絵を描いてきていた。皆が凄い凄いと言うので、気になって見に行ったら、そこにはとてもリアルな犬の絵がたくさん描いてあった。ませた彼女の雰囲気も相まって、漫画ばっかり描いてる自分が随分恥ずかしくなったのを覚えている。多分その記憶があったから、自分が小さい頃に何を描いていたのかを覚えているのだろう。
 
藤子不二雄Aはある時期から子供向けの漫画ばかり描いてることが嫌になってきたそうだ。そこでできたキャラクターが喪黒福造だと先日の訃報にあたってのニュースが伝えていた。物珍しいアニメだったので、僕も『笑ウせぇるすまん』を最初は興味深く観ていたけど、そのうち全く観なくなった。僕にはブラックユーモアは馴染まなかった。
 
藤子不二雄Aは満足していたかもしれないけど、大人なんだから『笑ウせぇるすまん』を描けることに驚きはしない。本人は嫌になったのかもしれないけど、大人のくせに子供向けの漫画ばかりを描けてしまうことの方が何倍も偉大だ。それにあのキャラクター。怪物くんとかハットリくんとかよくもまぁあんなの思いつく。
 
ドラえもんも怪物くんもハットリくんもみんな僕たちの友達だったなぜなら僕たちも間抜けでおっちょこちょいののび太でありヒロシでありケンイチ氏だったから。
 
R.I.P.

僕の相棒

ポエトリー:

「僕の相棒」

明け方に
君の輝きを見た
いつもより1分早い速度で動いていた
おはようと伝えるとおはようと返す

暮らしはいつもささやかに
怯えは胸ポケットに
台所からはコーヒーの薫り

いってきます、僕の相棒
君が僕より少しだけ幸せでありますように

 

2021年4月

残り湯

ポエトリー:

『残り湯』

残り湯で体を温めてくれる経験が
二人をそっと包みます
両方の手の形をした炎がぼうっと
二人の暮らしを照らしています

きっと食卓の中心には
温かいお茶があって
二人の会話は弾みます

夜半過ぎ
短くて長い一日の終わりがどちらにも行けず
ひとりぼっち
まだ湯船に浮かんでいます

 

2021年12月

Oochya! / Stereophonics 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Oochya!』(2022年)Stereophonics
(ウーチャ!/ステレオフォニックス)
 
 
プロ野球の世界では3年実績を残して初めてレギュラーと言えるらしいが、3年どころかもう25年も安定した実績を残し続けているバンドがある。ステレオフォニックスである。本作も英国チャート初登場1位だそうで、英国人の信頼たるや相当なものである。
 
これだけ長い間英国チャートの1位になっているのはあとレディオヘッドぐらいなもんだが、あちらがアルバム毎に革新的な作品を発表して、新しいロックの地平を切り開いていくのに対し、ステレオフォニックスは毎度おなじみのサウンド。ストリングスが前面に出たり、地味なサウンドだったり、イケイケだったり、そりゃあアルバムごとに目先は変えてくるけど、基本的にはいつも同じ、変わらない、今までにもあったような曲。なのに全英1位。こりゃマイナーチェンジを繰り返しつつベストセラーが揺るぎないポテトチップスみたいなもんか。
 
あんたそんなにいつも同じだというのなら、別に新しいのを聴かなくても過去作を聴いてりゃいいんじゃないのと言われそうだが、新しいのが届くとついなんだなんだと手を伸ばしてしまう。、ポテチ春の新味みたいに。今回のはイケるやんとか、これはイマイチやなとか言いつつ25年。という営みが英国民の間でも行われてきたということか。
 
今回は元々25周年を記念したベスト・アルバム構想が先にあったそうで、未発表を含めた過去音源を漁っているうちにオリジナル・アルバムに発展していったとのこと。なので、元々あった曲の再録とか最近書いた曲とかがごちゃ混ぜなんだそう。そのせいか皆が期待するステレオフォニックス節満載で、つまり元々みんな好きなんだからそりゃ1位になるだろうという作品である。それにしても曲とバンドの距離感が抜群だな。2013年『Graffiti on the Train』のボートラだった『Seen That Look Before』が再録されているのは謎だが…。
 
全15曲あって1時間強。もうちょっと厳選して短距離みたいにパッと走り抜けた方がスカッとしたアルバムになったんじゃないのとは思うが、元々はベスト・アルバム構想だったんだから仕方がない。ていうかここまで前のめりなのは素直に嬉しい。にしても全15曲、確かに時代を代表する曲ではないかもしれないが、流石フォニックス、いい曲ばっか。てことで今回のはイケるやん、いや、だいぶイケるやんの方です。
 
それにしても25年で12枚のオリジナル・アルバム。今時珍しいこのハイペースぶりはしょっちゅう新味が登場するポテチと同じだが、それだけハイペースにもかかわらずいつまで経っても手を伸ばしてもらえるのは、ちょっとぐらいちごても間違いないやろという信頼感に他ならない。ていうかなんだかんだ言ってみんなこういうしっかりしたロックが聴きたいんやね。
 
昨年来、英国ロックが盛り上がってきているが、ロック音楽がヒップホップに押されっぱなしの時期もずっと安定して良いアルバムを出し続けてきたフォニックス。この信頼感は揺るぎない。

Dragon New Warm Mountain I Believe In You / Big Thief 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Dragon New Warm Mountain I Believe In You』(2022年)Big Thief
(ドラゴン・ニュー・ウォーム・マウンテン・アイ・ビリーブ・イン・ユー/ビッグ・シーフ)
 
 
年に数枚凄いアルバムというのがあって、去年で言うとリトル・シムズとかウルフ・アリス、今年で言うと宇多田ヒカルもそうだった。ただ世間的に凄いアルバムであってもそれが自分自身にどう響いてくるかは別問題。自分にとっても特別な響きを持つアルバムというのは年に1枚どころか滅多にあるものではない。そういう意味でこのビッグ・シーフの新しいアルバムは現在の僕自身の心象におぼろげに被さってきて、単純に凄いアルバムだなと思う一方、自分にとっても特別なものになりつつある。
 
僕がビッグ・シーフを聞き始めたのは2019年に出た『U.F.O.F』と『Two Hands.』から。ただ正直に言えば、2枚とも彼女たちの才気に圧倒されたままで今一つ手が届かないというか、好きだけど好きになり切れないもどかしさがあって、多分それは幾分前衛的な彼女たちの音楽に敷居の高さを感じていたからかもしれず、それはまるで、あぁ凄いけど僕とは違う世界にいる人たちですね、という感慨を僕にもたらしていた。そして今回、コロナの渦中にあってビッグ・シーフは2枚組のアルバムを出すと言う。けれど僕は不思議と少しも身構えなかった。そうか、あの人たちから手紙が来るんだ、そんなリラックスした気持ちだった。
 
予感は当たっていた。遠くに感じていた彼女たちの音楽を身近に感じることが出来る。それでいて彼女たちが僕たちの側に降りてきたということではないというのが分かる。まるで登山道ですれ違ったような感覚。やぁ、こんにちは。そうか、連中も山が好きなんだな、なんだ、僕と同じじゃないかって。遠いところにいる人たちではなかった。2枚もあるアルバムの1曲目、『change』の頭が鳴った瞬間から、何故だか僕はそんな感覚になりました。
 
今回は4つの場所で録音されたようです。そのせいか風通しがいいです。行き止まらなくて、すっと通り抜けていく感じ。サウンドはフォーク・ロックやカントリーからシューゲイズ、ドリーム・ポップまで幅広いんだけど、違和感全然ない、どれもビッグ・シーフですって感じ(笑)。それはやっぱりエイドリアン・レンカーの歌が中心にあるからだろう。
 
彼女のメロディーって起伏に富んでいるわけじゃないけど、優しい。エキセントリックな感じじゃなくて馴染みがいい。肌に沿って進んでいくような感覚ですね。つまり、エイドリアンの書くメロディーにはノスタルジー、懐かしさが含まれているような気がします。でもってあの声ですから。僕は時折トム・ヨークの声をプラスチックで至極人間的な声と形容するんですけど、エイドリアンの声にも同じ印象を持っています。決して力強くはないんだけど、芯に来る強さ。やっぱりいろんなものが同居している声だと思います。
 
そこにさっき言ったような幅広いサウンドが乗っかかる。エイドリアンの歌を生身の手のひらですくうようにバンドの演奏が追随する。けれど決してエイドリアンの歌に寄りかかっているわけじゃない。ビッグ・シーフは基本的にはエイドリアン・レンカーのバンドだと思うんですけど、誰がどうということではなく、耳に飛び込んでくるのはやっぱりバンド。そういう風通しのよさも僕に親密さを感じさせるのだと思います。
 
アルバム・トータルで約80分。1枚40分ぐらいというのもちょうどいい。2枚組というのはどちらかがあまり聴かれなくなるという運命にあるけど(笑)、このアルバムに限ってはそういうことはなさそうです。

流れり

ポエトリー:

「流れり」

 

薄いピンクのあなたの頬にそっと手を当て
浅い眠りについた朝ならほら
まだここにあるさ

まごついた手
でシーツを鷲掴みす
みたいに形なす花弁は
次第に痩せ細り
指先に流れり

太陽からの眺めもまた
まごついたまま
己が手でひと掴みする隙間などなく
時はよしなに流れり

listening…
淀みなく
listening…
時間が来たよ

薄いピンクのあなたの頬を
コップ一杯の水に汲んで
静かな朝の
時計は流れり

 

2021年6月

3月11日の雑感

3月11日の雑感:
 
 
早いもので2022年も2か月が過ぎた。今年の冬は随分と気温が下がり、例年にも増して寒かったなと思いつつ、即座にほとんど雪が降らない大阪に住んでいてこんなこと言ってちゃいけないなと思い直した。
 
寒いからというわけでもないのだろうけど、2月の初めごろに体調を崩した。一応抗原検査は受けたものの、結果は陰性。しかしその後今に至るまでずっと体調が悪い。体がしんどい。頭痛が続く。
 
そのうち治るだろうと思いつつ、こりゃ世に言うコロナの後遺症じゃないかとコロナになったわけでもないのに、いやそれも抗原検査だしよく分からない。そういえば肩痛の強い薬を飲み続けたことも影響しているのかなとも思ったりするものの、原因なんて分からないからまぁ気分が晴れない。てことで2月になってからというものの、何事に対しても意欲が下がり気味だ。
 
体調以外にも調子の悪いことがいろいろ続いている。戦争も起きたし、ホントに気分が優れない。とりあえず、「日本でデモ行進をしてもクソ役にも立たない」と言った人が我々のリーダーじゃなくてホント良かったなと思う。
 
日本は島国だから戦車がゴトゴトやって来ることはないだろうけど、ミサイルやなんやらは空からバンバン降ってくるかもしれない。そうなりゃ銃なんて何の役にも立たないかもしれないけど、妻や子供を守るためには僕も銃を取るのか。まさか。ウクライナの人たちもそんな気持ちがあるのかなぁと想像しつつ、嫌だ嫌だ、想像するだけで怖い。
 
東日本大震災が起きたのは11年前。天災ではある。たくさんの人が亡くなり、たくさんの人が立ち直れぬ悲しみを負った。今は人が意図して人を殺している。
 
 

Laurel Hell / Mitski 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Laurel Hell』(2021年)Mitski
(ローレル・ヘル/ミツキ)
 
 
何かを表現をしようとする時、その方法は大まかに二通りある。一つは自分自身を直接的に表現しようというもの。自己の経験をそのまま明らかにする場合、その主体は一人称、すなわち「私=作者自身」ということになる。またそれとは逆に、何か表現したい対象物があって、それを客観的に描くという方法もある。勿論、自分自身がその対象物になる場合もあるが、そこは距離を取る。この時、そこで描かれる「私」は「私」であって「私」でない。
 
ミツキは明らかに後者だ。歌詞がたとえ一人称であってもそれはミツキのことではない。ミツキには表現をしようとする何かがあって、あの手この手で(曲を作ったり、歌ったり、踊ったり)そこに到達しようとしているだけだ。本人にそのつもりはないのかもしれないけど。つまりミツキの音楽は、カメラの向こうにあるものであり、揺らめく影であり、彼女の写し絵なのだ。しかもそれははっきりとピントが合ったものではない。では彼女はどこを見ようとしているのか。
 
それは揺らぎ。恐らくミツキは目に見えるはっきりとしたものに焦点を当てていない。揺らぎ、ノイズ、または零れ落ちるもの。そのおぼろげな残像に向かって彼女は手を伸ばし、歌い、踊っているように僕には見える。けれどその残像は長く続かない。おそらく『ローレル・ヘル』に納められた曲がいずれも3分前後で終わるのはそのため。聴き手である僕たちはそこに幾分かの不満を言うが、恐らく寸止めされているのはミツキの方だろう。
 
自ら距離を取る。或いは近づこうとしても距離を詰めることが出来ない。自分のことを歌わないのではなく歌えない。その不明瞭さが彼女の音楽の魅力だ。彼女自身はどう思っているのか分からないけれど、その触れられなさは気品がありとても美しい。しかしその営みは彼女自身をひどく消耗させるようだ。ソングライティングとは自身の深みを覗くことであるとは誰が言った言葉だったか。いくら距離を取ろうが無傷ではいられない。芸術作品はそのようにして生み出されていく。