TIME OUT! / 佐野元春 感想レビュー

『TIME OUT!』(1990年)佐野元春
 
 
『僕は大人になった』という曲が好きだ。特にどうと言うこともない曲だと思うけど、佐野自身も好きなのかよくライブで演奏する。昔からのファンはこの曲と『ガラスのジェネレーション』を結びつけてしまうようだけど、後からファンになった僕には関係ない。単純にこの曲の軽さが好きだ。
 
僕はそろそろ50が見えてきて完全なる大人だけど、じゃあ本当にそうかと言われれば随分と心もとない。多分、僕がこの曲を好きなのはその心もとなさがうまく表現されているからだろう。難しい文句を重ねるわけでもなく、「壊れた気持ちで翼もないまま どこかに飛んでゆくのはどんな気がする」とシャウトし、「とてもイカしてるぜ」と結ぶ。とてもいい加減な曲だ。そこがすごくいい。
 
今気づいたが、’飛んで’と’どんな’で頭韻を踏んでいる。こういう跳ねた表現がそこかしこにあるのもこの曲の魅力だ。ていうかこのアルバムはずっとそんな感じだな。なんにしてもこの何気なさにはやられる。
 
80年代の佐野は外に向かっていた。特に『VISTORS』(1984年)以降はその傾向が強い。しかしこの『TIME OUT!』にはその気概が感じられない。時代背景もあってかバブルに浮かれた世相を冷ややかに見ている視点もあるけど、それもちょっと投げやり。らしくない。それどころか佐野自身のプライベートな声がここにある。
 
佐野は自身の喜怒哀楽を歌に表さない。滲ませているかもしれないが、基本的には’自分ではない誰かの視点’で曲を書いている。けれどこのアルバムでは佐野の生な声が聞こえてくる。もちろん自分ではない誰かのストーリーに仕立ててはいるけど、自虐的に面白おかしく内面を吐露させているように思える。そんなアルバムは現時点においても唯一この作品だけだ。『VISITORS』(1984年)、『Cafe Bohemia』(1986年)、『ナポレオン・フィッシュと泳ぐ日』(1989年)とそれ自身ダイナモのようにエネルギーを発する怒涛の作品群と来て、一気にトーン・ダウンの『TIME OUT!』。あの佐野元春にもこういう作品があるんだな。なんかこのアルバム、レアだぞ。
 
この頃は wowow でのアンプラグド・セッション『Good Bye Cruel World』(1991年)もあったりと、自身のバンド、ハートランドとの距離が更に濃くなっていく時期だ。海外を活動の拠点にしていた佐野が90年代に入ってからはハートランドとの時間を密に取っていく。1993年の『The Circle』を最後にザ・ハートランドは解散するのだけど、その頂きに向かって再スタートを切った時期と見ていい。
 
そのピークを迎えていく『The Circle』や『Sweet16』(1992年)での躍動するハートランドも素晴らしいが、この『TIME OUT!』での演奏も地味に目を見張るものがある。いや、ハートランドとTokyo Be-Bop のメンバー一人一人の顔が見えるという点で言えば、むしろこのアルバムかもしれない。完全なるザ・ハートランドお手製アルバム。 あぁ、『Good Bye Cruel World』も音源化してくれないかな。
 
それにしてもこの頃の佐野元春はキレキレだ。活動的にはトーンダウンした時期かもしれないけど、前作から1年しかインターバルがないように創作力は旺盛だ。言葉の妙と言い、その載せ方といい、AメロBメロサビ的なパターンを無視したメロディといいオリジナリティーに満ちている。これは完全に80年代の果敢なトライアルの成果だろう。逆に肩の力が抜けていい感じ。#10『ガンボ』での「あれ、片っぽの靴下がどこにもないだろう」のラインが最高過ぎる。
 
ところでこのアルバムをフォローしたツアーを収録したビデオがあって、6曲しか収録されてなかったんだけど、『クエスチョンズ』とかテンポアップした『愛のシステム』とか見事な佐野元春 With The Heartland ぶりを見ることが出来る。ビデオには収録されていないけど、Youtubeにはビートルズの『Revolution』のカバーがアップされていて、シャウトしまくりの異様にかっこいいこの時期の佐野の姿が捉えられている。 『Good Bye Cruel World』と合わせて、『TIME OUT!』ツアーの長尺パッケージ化も切に望むぞ!
 
随分と昔に佐野がこのアルバムを’ホーム・アルバム’と称していたけど、今改めて聴くとなんとなく分かる気がする。昔からのファンには重いアルバムのようだが、いやいや『VISITORS』~『ナポレオン~』期の方が断然重いでしょう(笑)。僕は純粋にこのアルバムを楽しめている。こりゃ後追いファンの特権だな。とはいえこの時の佐野は33才。とは思えない大人なアルバムだ。

Eテレ『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』を見て

TV program:

『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』

 
 
 
現代詩に対して不満がありました。難解すぎるだろと。もっと生活に寄り添うべきだ。そんなんだから誰も見向きもしなくなるんだと。それでも僕は現代詩が好きで、雑誌や詩集を買ったりする。でも大方分からない、ほとんど理解できない。ならなんで買うんだよと言われれば、それでも抗しがたい魅力があるからというしかない。難解で時には読むのも億劫になる、しんどい。でもなんか気になる。僕にとって現代詩とはそういう存在です。
 
僕は言葉を追いかけようとするんですね。当然です。理解するにはそれしかないのだから。なんて書いてあるのだろう、なんて書いてあるのだろうと言葉を追いかける。けどほとんど分からない。で途中で追いかけるのを諦める。番組で佐野さんは吉増さんの詩を分かろうとしないと言っていた。驚いた。佐野さん、そんなこと言うんだって。一言一句は分らないけど、全体としての感覚に委ねる、佐野さんは為すがままに溶け込ませようとしていた。そこで詠まれているイメージに身を任せてしまう。そして感じた事もまた言葉で説明できなくていい。目から鱗でした。
 
現代詩は難解でよく分からないけど、つい手に取ってしまう。僕がさっきそう言ったのはそういうことなんだな。間違いなく頭で理解できていない。けれどそこで発せられる声に恐らく体は感応してるんです。だからなんだろうなんだろうと気になる。言葉にして解いていかなくてもいい、理解したという証を求めなくていい。感応したまま放置すればいい。それでも読み手の中に巡るものはあるのです。
 
詩とはそういうものなんだと。いや、こういうことの繰り返しをまた一歩、進めたような気がします。もちろんちゃんと筋が通って理解できるものもある。それも詩だし、そうじゃないのも詩。頭で分かろうとしなくても体が反応していればそれは詩を読んだことになる。新たな発見です。
 
そこで。佐野元春 and The Cyote Band の『コヨーテ、海へ』。この曲は評価が高いです。佐野さん自信もフェイバリットに挙げてるし、吉増さんも取り上げていた。けど僕には分からなかった。要するに現代詩に近い感じ?何に対して「勝利あるのみ」なの?何に対して「show real」なの?ここでも僕は言葉を追いかけていたんです。でもこの曲全体から感じ入るものはあった。一言で言うと肯定かもしれない。過去、現在、未来の肯定。それらを纏った風景。「宇宙は歪んだ卵」と始まるこの曲を僕は理解しあぐねていた。でも僕の体は感応していた。
 
それにしても吉増剛造さん。現代詩の巨人が佐野元春の曲を熱心なファンのように調べて来ていた。そしてその批評が核心を突いてくる。佐野さんのなんと嬉しそうなこと。一方の佐野さん、吉増さんに対する尊敬の念が溢れていた。僕は長く佐野元春のファンをしているけれど、あのような佐野さんを僕は見たことがない。
 
日本の現代詩はとても素晴らしいです。でもあまりに難解過ぎる。そこに対してのヒントがこの番組にはあったと思います。吉増剛造のあのリーディング。何かを感じ入ったのなら、それは聞き手の体のどこかが感応したということ。それが詩です。国語の教科書のように頭で理解する必要はない。体が反応したのならそれは詩を読んだということです。
 
ただ吉増さん、もうちょっと文字、読みやすくしてくんないかな(笑)

Eテレ『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』感想

TV program:

『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』感想

 

科学を信じ過ぎではないかという声がある。勿論、非科学的な思い込みや一方通行があってはならない。けれど科学ではないところから声を持ってきてもよいのではないか。

コロナ禍の中、専門家の言葉が大きくなっている。未曾有な事件に大切なことだ。けれど一方で文学者の声を頼んでもよいのではないか、僕たちは。もう少し。

甘い戯れ言ではない。詩人の声だ。理屈の通った、理解の微振動を越えた言葉の連なり、の向こうにあるもの。吉増さんの仰る「gh」に打たれたい(嗚呼、と詩人風に、ここでも僕は分かった振りをしてはいけない)。

ということに今、随分多くの人たちが気付き始めている。隙間、零れ、句読点の谷、そうしたものが必然的に人々を助くはず。いや、そうしたものを表現する、どうやって?

もっと近くに忍び寄っておくれ。あなたの韻律を頭の回りに。脳みそに、ではなく。神秘的な言葉の「gh」を神秘的とは言わずに、そこにある物体としてそのまま受け取る。僕たちは誰彼構わず、そうしたことが出来るのではないか。という希望を。

詩は言葉ではないものをなんとか言葉で表現しようとすることだと思っていたが、言葉で表現することではなかった。

TOUR 2020 ‘SAVE IT FOR A SUNNY DAY’』Dec.14.2020 大阪 フェスティバルホール 感想

佐野元春 & THE COYOTE BAND、ホール・ツアー『TOUR 2020 ‘SAVE IT FOR A SUNNY DAY’』Dec.14.2020 大阪 フェスティバルホール
 
 
佐野のコンサートに行く時はいつも落ち着かない。今日を境に佐野元春に失望してしまったらどうしよう。いつもついそんな不安を抱えてしまう。特に今回はコロナ禍の真っ只中で行われるコンサート。いつも以上に僕の心は落ち着きを欠いていた。
 
コンサートはほぼ定刻通りに始まった。佐野をはじめ演者は全員黒いマスクを着用していた。衣装も全員ほぼ黒で統一されている。その様子に今日はやはり通常のコンサートとは違うという気持ちを新たにする。マスクをしたまま歌ったのはオープニングの『禅ビート』のみであったが、曲は『ポーラスタア』、『荒れ地の何処かで』、『ヒナギク月に照らされて』といった現代を´荒れ地’と捉えたナンバーが続く。身構えざるを得ない。少し変化が起きたのは5曲目の『Us』だった。
 
『Us』は同じメロディを繰り返しつつ最後には大きくうなりを上げる曲だ。重苦しい空気を吹き飛ばせとばかりに大音量がホールを包む。続く『私の太陽』は小松シゲルのドラムの原始的なビートが全体をリードしていく。僕はこの日初めて大きく体を揺すった。
 
コンサートの前半は厳しい現実認識を伴う曲が選ばれていた。もちろん意図してのことだろう。しかし佐野はそれを振り払うための曲も用意していた。それが『東京スカイライン』。東京の街を眼下に見下ろし、これまでの長い道のりを想う。人々に、そして自分にいろいろなことが起きたり起きなかったり。けれど確かなことはただ一つ。今年も夏が過ぎてゆく。
 
アウトロに向かいバンドの演奏は熱を帯びていく。闇間を照らすように光の音が大きくなる。一つのシーンに区切りをつけるような壮大な景色があった。それは心の開放を伴うものだった。僕の心も、大勢の観客の心もリセットされたように感じた。そしてバンドは朝日を迎えるように軽快なビートを叩きはじめる。『La Vita e Bella』だった。
 
コロナ禍の中でのコンサートである。検温をし、氏名と連絡先を記入し、そして観客数は通常の半分で行われた。歓声はもちろん一緒に歌うこともできない。人々はそれでも佐野とコヨーテ・バンドの演奏にたとえ少しの力でも寄与しようとしていた。それが手拍子だった。手拍子が『La Vita e Bella』にいつも以上の光を与えた。僕は1F席のほぼ後ろ端にいた。傾斜のついたフェスティバルホールのその席から見渡す観客の姿は感動的だった。こんなにすごい手拍子は聞いたことがなかった。本当に素晴らしい光景だった。新しい気付きもあった。「この先へもっと」というリリックは君が愛しいから。この日、この歌の意味を僕は新たにした。
 
後半に入り新しい曲が続けて演奏された。この夜のもうひとつのハイライトだ。佐野の40周年イベントのスタートを切るべくドロップされた『エンタテイメント!』。僕はこの曲のサビである「It’s just an entertainment 」を「それはただのエンターテイメントさ」といういささか斜に構えた意味に受け取っていた。けれど直に聴いたそれは違っていた。「嫌なこと忘れる 夢のような世界」、「誰も傷つかない そこにあるのは夢のような世界」、それが「It’s just an entertainment 」なのだ。
 
続いて演奏された『この道』はこの春に佐野とコヨーテ・バンドがリモートで制作した曲だ。佐野は歌う。「いつかきっと いつかきっと 願いが叶う その日まで」。かつての「いつかきっと(Someday)」とは異なるニュアンスがそこにはあった。観客は今この時に歌われる「いつかきっと」にそれぞれ心に思い描くものがあったのだと思う。僕がそうだったように。
 
本編ラストは『優しい闇』で幕を閉じた。僕は今までこの曲にいまひとつピンと来ていなかった。しかしこの日は違った。この曲の恐らく最も大事なライン、「この心 どんな時も君を想っていた」が現実感を伴って響いてきた。そうだ、僕は君を想っていた。家族や友達だけでなく、コロナ禍の中で大変な思いをしている人たちのことを考えたりもした。それがいかに浅いこととはいえ、こんな1年、今までなかったことだ。
 
今年、僕たちは自分以外の人々のことを心配した。自分が住む国以外の状況を心配した。確かに「約束の未来なんてどこにもない」けど、僕たちは今も自分以外の人々のことを想っている。コンサートの最後にこの曲が演奏されたのは意味のあることだった
 
僕は直前までこの日のコンサートに行くことをためらっていた。この状況でコンサートを開いていいのか、そこに僕は行っていいのか、間違っているのではないか、そんな思いが頭を離れなかった。結局僕は来た。コンサートはもちろんいつもと違った。先程も述べたように1F席のほぼ後ろ端の席からは全体が見渡せた。多くの観客は能動的に参加していた。単なる観る側ではなく一方の主体として参加しているように見えた。演者に委ねてはいなかった。それはいつもと違う景色だった。もちろん数日経った今もあのコンサートは開催されて良かったのか、僕はそこに行って良かったのか分からない。けれど僕はそこにいた。
 
コロナ禍を来るべき非接触社会の予行演習だと話す人がいる。いずれ来るべきものが少し早まったに過ぎないと。本当にそうかなと僕は思う。僕たちはもう元には戻れないと理解している一方、非接触社会なんてやりきれないよとも思っている。やっぱり人と触れ合わないで生きてはいけない。
 
もう元には戻れないと思う一方で、僕たちは「いつかきっと」と願っている。それは上手く非接触社会に馴染んでいくことではない。僕たちの「いつかきっと」は触れ合うための新しい社会。そのやり方を僕たちはこれからも探っていくのだ。
 
(セットリスト)
禅BEAT
ポーラスタア
荒地の何処かで
ヒナギク月に照らされて
Us
私の太陽
いつかの君
紅い月
東京スカイライン
La Vita e Bella
星の下 路の上
バイ・ザ・シー
エンタテイメント!

この道
合言葉 – SAVE IT FOR A SUNNY DAY
愛が分母
純恋
誰かの神
空港待合室
優しい闇

(アンコール)
みんなの願いかなう日まで
インディビジュアリスト
ニューエイジ
約束の橋

‘Save it for a Sunny Day’

‘Save it for a Sunny Day’ 
 
 
デビュー40周年の大規模なツアーが出来なくなったが、この夏から、佐野さんは「Save it for a Sunny Day」というテーマを掲げた活動を行っている。グッズ販売や月1回のアーカイブの有料公開を通じた、音楽関係者への支援プロジェクトだ。何しろ40年だからファン垂涎の未公開アーカイブはいくらでもある。これなら製作費もそんな掛からないだろうし、支援という意味では持ってこいかもしれない。
 
12月、その流れを汲んだ小規模なツアーが組まれた。タイトルはそのまま、「Tour 2020 ‘Save it for a Sunny Day’ 」だ。大阪はフェスティバルホール、収容人数を半分にして行われる。観客はマスクをして着座したまま、勿論歓声も無しになるだろう。一体どんなコンサートになるのか。
 
一つ言えることはこれまでのライブのように「さぁ楽しもう」という態度では臨めないということ。加えて佐野元春 and The Coyote Band に何かを与えてもらおうというのとも異なる。こちらも能動的な態度が必要だ。
 
このまま中止にならなければ、第3波の真っただ中のコンサートになる。どんなコンサートになるのか、僕自身の心の動きも合わせて、冷静に注視したい。
 
ところで。12月の有料配信シリーズは佐野元春 and The Coyote Bandのスタジオセッション、新曲制作のドキュメンタリー含む、だそうだ。無観客ライブではなく、スタジオセッションというところが佐野元春らしいと思った。

「伊集院光のらじおと(ゲスト:佐野元春)」2020.11.4 感想

その他雑感:
 
「伊集院光のらじおと(ゲスト:佐野元春)」2020.11.4 感想
 
 
 
佐野さんは40周年を機にベスト盤2種をリリースしまして、それに絡めたメディアへの露出がこのところ続いています。ラジオ出演についてはインターネットで後からでも聴けるので、全部ではないがチェックはしているんですけど、今回とくに聴きごたえがあったのが伊集院光さんの番組、『伊集院光とらじおと』での出演でした。
 
冒頭、まだ佐野さんが登場する前、つかみとして伊集院さんが話していたのは佐野元春の歌はカラオケでは歌えないという話。『SOMEDAY』を引き合いに話していたんですけど、これは僕も常々思っていたことなんで目から鱗でした。
 
佐野元春というと初期の頃なんかは特に一音に一語以上を載せたりだとか、英語を混ぜこぜにしたりというところで注目されて、この辺はサザンの桑田さんもそうでしたし、一般的にもそういう言われ方をするんですけど、一番の特徴は独特の譜割にあると僕はずっと思っていたんですね。だからカラオケやなんかで歌うと全然うまく歌えないんです、歌ってて全然楽しくない、だってかっこ悪くなっちゃうんだから(笑)。
 
ところが当然のことながら佐野さんが歌うとべらぼうにかっこいい。これはいつも僕は体内時計って言うんですけど、言葉のメロディへのフックのさせ方が抜群になんです。僕らが歌うとあんなにぎこちなくなる『SOMEDAY』を佐野さんはすごくスムーズに滑らかに歌う。その独特の佐野元春譜割を歌えるのは佐野元春だけという、これを伊集院さんは見事に言葉にしてくれて、さっきも言いましたが言葉数だとか英語だとかそういう話はよく聞くんですけど、佐野さんの譜割の話はメディアで初めて聞いたので、伊集院さん、すごいとこ突いてくるなぁと。ちなみに佐野さんは今もそうだし、この点は宇多田ヒカルさんもそうですよね。
 
佐野さんが登場してからも伊集院さんは面白いことおっしゃっていました。佐野元春は新しいものが好きなのに古いものも好きで、これは非常に珍しいことだと。例えば佐野さんはインターネットを早くからやっていた、ヒップホップ音楽を早くからやっていた。けれど一方でオールディーズと呼ばれる古い音楽が大好きだ。普通、新しいもの好きの人は新しいから好きなのであって、古いものが好きな人もこれは古いから味があるから好きなんだとなる。けれど佐野元春はどっちも好き。つまりは新しいから好きなのではないし、古いから好きなのではないのだと。これは見事でしたね。佐野さんも自身の感性をこういう風に解釈してもらって嬉しそうにしていました。
 
あと音楽の聴かれ方についてですけど、今はプレイリストなんて言って個々人が自由に音楽を聴いている。けれど作者が考えたアルバムの曲順通りに聴いていくとまた違った響きで聴こえてくるんですよという話を伊集院さんは野球が好きですから野球に例えてですね、2番バッターの役割とかを交えながら話していくんですね。それに対する佐野さんの答えもそれはコンセプト・アルバムと言うんだよと。僕は今までもそうしてきたし、これからもそうやってアルバムを作っていくと話されていて。で面白いのはそれでも佐野さんも伊集院さんも今のプレイリストみたいな線ではない点での聴かれ方についても全く否定していなくて、むしろ肯定している部分もある。けれど伊集院さんが言うのは気に入った曲があったらそれが収録されているアルバムを曲順通りに聴いてほしいなと。そうするとまた違った良さが現れますからと。とてもよい話だと思いました。
 
ちなみにこの話をするにあたって、伊集院さんは佐野さんの『コヨーテ、海へ』という曲の話から入って、それが収録されている『COYOTE』アルバムの話に繋げたんですね。まずファンとして嬉しいのは古い作品ではなく比較的新しい『COYOTE』アルバムというのを持ってきてくれたということ。そしてこのアルバムは佐野元春作品の中でも一つの映画となるようにいつも以上に全体のストーリーを意識して作られた作品だったということ。だからこの曲順とかコンセプト・アルバムの話をする例えに『COYOTE』アルバムを持ってくるのは伊集院光、よく分かってるなと(笑)。
 
今回佐野さんが色々なラジオに出演しているのを聴いてると、中には昔の話ばっかりするDJもいるんですね。ま、40周年でそれを記念したベスト盤が出る訳だからそういう話になるのは当然ちゃあ当然なんですけど、実はそれって聴いてる方もあんまり面白くない。ある番組では昔の話とか既存の佐野さんの発言を引き出そうとするDJもいて、だんだんと佐野さんの口数が少なくなって楽しくなさそうだなっていうのもあって(笑)。
 
その点、伊集院さんが番組の最後に話していたのは、伊集院さんも最初はやはり40周年だから昔の話から始めようと思っていたと。けれどちょっと話してみるとこの人はどうも昔の話には興味がない人だなと認識して、そこからは自分が今聞きたいことだけを聞こうとしていったと。実際、いくつか聞いた番組の中でもこの伊集院さんの番組が佐野さん一番楽しそうに笑いながら喋ってたし、だからやっぱ伊集院さんの観察力はすごいなと改めて思いました。
 
最後に聴き方の話でもうひとつ。今はラジオだってインターネットを通じて好きな時に聴ける。けど希望としてはほんのたまにでいいんだけど、リアルタイムで、或いは雑音の中で聴いてもらいたいなと、そんなことを伊集院さんは最後に話していました。つまりライブってことですよね。文字の書き起こしでもなく、インターネットで後から聴くでもなく、話し手が喋っている同じ時間を過ごしながら聴くというのは何かしら意味があるんじゃないか。そこを信じたいっていう。大きく見ればさっきのアルバムの曲順にもつながる話なんだと思います。
 
僕は佐野さんのファンですからついつい佐野さんの言葉に耳が向きがちなんですが、今回ばかりは佐野さんの言葉より伊集院さんの言葉が強く印象に残りました。Eテレ『100de名著』でも凄いコメントするときがありますが、伊集院さんは誰も気づかない王道を突いてくるんですね。誰も気づかないというと横からとか穿った見方とかってなるんだろうけど、そうじゃなく正面から見据えた誰も気づかなかったことを突いてくる。一般論ではなく自身の解釈でど真ん中を突いてくるっていうのは、なかなか出来ることじゃないですよね。これは爆笑問題の太田光さんもそうだと思うんですけど、ご自身の中にぶれないものの見方があるからなんだろうなと思いました。
 
伊集院さんはオレの主戦場はラジオとよく仰ってますが、それも頷ける、テレビで見る時とはまた違う魅力を発見した気もしました。伊集院さんのラジオ、他にも聴いてみようと思います。できればリアルタイムでね。

SWEET 16 / 佐野元春 感想レビュー

『SWEET 16』(1992年) 佐野元春
 
 
 
前作『TIME OUT』(1990年)のモノトーンから一転して、快活なダンス・ナンバーで始まるこのアルバムに、佐野がメイン・ストリームへ帰還したのだと期待値を膨らませたファンも多かったろう。しかしそのオープニング#1『Mr.Outside』は「償いの季節」という幾分深刻めいた言葉で始まる。
 
佐野はデビュー以来、ずっとファンに寄り添ってきた。途中、ニューヨークに行ったりロンドンに行ったり、旧来のファンが戸惑う場面もあったけど、初期の十代の少年少女のためのロック音楽を経て、社会に出て大人になっていく彼彼女たちにずっと寄り添ってきたと言っていい。簡単に言うと「つまらない大人にはなりたくない」というフレーズに代表される初期のファンとの約束に、その時々の音楽的な変遷はあるにせよ、基本的にはずっと向かい合ってきた。
 
しかし人は年を取る。厳しい現実をやり繰りしていかなくちゃならない。もちろんそんな時でも「つまらない大人になりたくない」という言葉は有効だ。けれどそれは青い一元的なものであってはならない。僕たちは次々とやってくる困難に直面し、乗り越えたり乗り越えられなかったりしながら、何とか日々をサバイブしてきたのだ。佐野の音楽をずっと応援してきた聴き手が「つまらない大人になりたくない」だけでは済まないことを知りつつある中、このアルバムはリリースされた。簡単に言ってしまうとこれは青い理想を抱えた少年期青年期と決別するアルバムだ。
 
鮮やかなジャケットも眩しい快活なポップ・アルバムではあるけれど、その実はサヨナラのアルバムと言っていい。あまり顧みられないが、佐野のキャリアにとって重要な分岐点となったアルバムではないだろうか
 
けれど佐野はいきなり表立ってそうした声明を振りかざしたりはしない。#2『Sweet16』はバイクにまたがる少年の颯爽としたストーリー。ここで佐野は景気よくバイクのセルを回す。それは長年のファンに向けた佐野のやさしさと言っていい。
 
次曲の『Rainbow In My Soul』は「あの頃」というフレーズが頻発するナイーブな曲だ。佐野のキャリアでも珍しい類の曲だろう。しかし僕は幾分湿っぽいこの曲の肝は「サヨナラ、ブルー・・・」と続くアウトロだと思っている。少しわかりにくいかもしれないけれど、佐野はここで若き日の憂いにサヨナラを告げている。それもはっきりと手を振り払うようにではなく、そっと指先から遠のいていくように。
 
アルバムの後半はそれが顕著になってくる。8曲目なんてタイトルが『Bohemian Graveyard』、墓場だ。しかしここで佐野はボヘミアンの墓場で陽気に歌う。「ボヘミアン」、そこに「まるで夢を見ていたような気持ちだぜ」とサヨナラを告げる。けれど今もちゃんと「あの子の声が今でも聴こえてくる」。何も変わっちゃいないけど今の俺は明らかに違うんだぜ。つまりそれが成長だ。
 
加えて9曲目が『Haapy End』、最後の曲が『また明日…』。これだけ終わりを示唆するタイトルが続くのも珍しいのではないか。しかし全体としては明るく開放的なアルバムなので、聴いてる方はそうとは気付かない。この辺りは幾重もの層で成り立つジャケットのチェリーパイそのものだ。
 
久しぶりこのアルバムを聴くと、言語傾向の強いアルバムだなとも思った。もともと佐野はそういう人ではあるけれど、例えば#4『Pop Children』や#5『廃墟の街』などは後のスポークンワーズでの活動でも採用されている。映画の一コマのような映像的なリリックはこちらの想像力が喚起されてとても楽しい。それにしても『廃墟の街』での「街には救世主たちに溢れて」とか、#6『誰かが君のドアを叩いてる』の「街角から街角に神がいる」というフレーズはSNS時代の今聴くとドキッとする。
 
あとこのアルバムにはオノ・ヨーコ、ショーン・レノン親子との共演、『Asian Flowers』が収められている。アルバムのテーマからは少し外れるので、ボーナス・トラックのような位置づけになるかもしれないが、ここでの佐野のボーカルは本作の聴き所の一つ。この頃の佐野のボーカルの強さが楽しめる。
 
個人的には僕が初めてリアルタイムで聴いたアルバム。特にこのアルバムをフォローするライブをまとめたビデオ『See Far Miles Tour Part II 』は文字通り擦り切れるほどに観た。1992年、僕が佐野の音楽に出会った年。僕にとっても思い出深いアルバムだ。
 
 
 
Track List:
1. ミスター・アウトサイド
2. スウィート 16
3. レインボー・イン・マイ・ソウル
4. ポップ・チルドレン(最新マシンを手にした子供にたち)
5. 廃墟の街
6. 誰かがドアを叩いている
7. 君のせいじゃない
8. ボヘミアン・グレイブヤード
9. ハッピー・エンド
10. エイジアン・フラワーズ
11. また明日…

エンタテイメント!/ 佐野元春 感想レビュー

邦楽レビュー:

『エンタテイメント!』 (2020年) 佐野元春

 

4月22日に佐野の新しい歌がリリースされた。タイトルは『エンタテイメント!』。印象的なギター・リフがリードする8ビートのポップ・ナンバーだ。佐野は何気ないリフが本当に上手だ。大袈裟な仕掛けもないのに風に乗っていくスピード感。それは『世界は慈悲を待っている』の系譜と言っていい。

今年はデビュー40周年ということで、この15年活動を共にしてきたコヨーテ・バンドと制作した4枚のアルバムの中から、選りすぐりの曲を集めたベスト・アルバムが準備されている。『エンタテイメント!』はこの中に収められる佐野元春&ザ・コヨーテ・バンドの新曲だ。

つまりこの曲は昨日今日作ったものではない。恐らくは今年早々か、もしかしたら昨年にレコーディングされたのかもしれない。

ただの巡り合わせでこの時期にリリースされたに過ぎないのは分かっている。けれどコロナ禍がピークを迎えつつある今現在にこの曲がドロップされたことに心のざわめきを抑えようもない。

曲を仔細にに見ていくとただのエンターテイメント万歳という曲ではないことが分かる。人が人を徹底的に責め立てるネット上の悪意すら僕たちはエンタテイメントとして消費しているのではないか。そのような問いかけをもいつものように佐野は冷静にスケッチをしていく。

この曲が素晴らしいのは心が舞い上がるような前向きのポップ・ソングでありつつ、そのようなマイナスの側面、社会的なメッセージを携えている点だ。そうすることでふと言葉が自分に帰ってくる。僕自身はどうなのだと。

けれど稀に、曲には時代と偶然にも合わさる瞬間がある。今は幾分心が舞い上がる気持ちに身を委ねてもよいのではないか。高らかなギター・リフに乗ってどこまてもゆけるようにと。

~つかの間でいい
 嫌なこと忘れる
 夢のような世界 I’ts just an entertainment !~

たかがエンターテイメント。されどエンターテイメント。お偉いさんに言われなくたって僕たちは知っている。僕たちにはいつも文化が必要だ。

 

~ここはそこらじゅう
 見かけ倒しの愛と太陽~

というパンチラインが最高だ

或る秋の日/佐野元春 感想レビュー

 

『或る秋の日』(2019年)佐野元春

 

40も半ばを過ぎて、人から相談を受けることが多くなった。会社では若い社員に変に恐縮されたりして、自分は恐縮されるような大した人間でもないのになぁと思いつつ、あぁそうか、自分は単純に年食ったんだと今更ながら思ったりしている。

最近は人の生き越し方に思いを巡らすようになった。何とはなしに生きているように見える中年だって実は色々あってここにいる。僕だって人に自慢できるようなものでもないけど色々あってここにいるわけだ。乗り越えたり乗り越えられなかったり。いや、上手くいかなかったことの方が圧倒的に多いけど、人生なんてそんなものだと初期設定として取り込めば、案外色々な事に対してポジティブでいられるんじゃないか。最近はそんな風に思うようになってきた。これも年を食った証拠か。

この『或る秋の日』アルバムには今言ったようなことがちりばめられていて、例えば、色々な事があってここにいるというのは#8『みんなの願いかなう日まで』。例えば、人生についての考察はそれこそ#1『私の人生』。元々僕の中から自然に出てきたものと合致したせいか、この2曲については僕の中でごく自然に曲が流れてゆくのが分かる。

一方で#3『最後の手紙』や#4『いつもの空』は未知の世界だ。ここでは大切な人との別れが描かれている。別れと言っても恋人がくっ付いたり離れたりという類のものではない。要するに永遠の別れだ。特に#3『最後の手紙』はラストに「子どもたちにもよろしくと伝えてくれ」というくだりがあり、そこには‘死’を予感させる重たいイメージが見え隠れする。

『いつもの空』は‘君’がいなくなった世界についての曲。「君がいなくても変わらない」との呟きは同じく恋人同士の別れとは異なるニュアンスが含まれている。‘君’はもうこの世にはいないのだろうか。ここで描かれるのは‘君’なしで迎える台所の朝の風景。情感ではなくただ時間だけが過ぎてゆく様。この2曲で描かれているのは主人公の内面ではなく、主人公の視点そのものだ。

表題曲の#5『或る秋の日』も僕にとっては未だ見ぬ景色。ここでは若い頃に別れた二人の再会が描かれている。二人は年月を経て再び出会い、再び恋に落ちる。けれど描かれるのはここまでで、その後の二人の行動は定かでない。つまり上記の2曲とは異なり、主人公の心の揺れ動きのみが描かれている。ここで歌われるのは再び恋に落ちたという事実だけだ。

#6『新しい君へ』は「ささやかなアドバイス」という言葉で締めくくられる今までにない視点を持った曲だ。失うことはネガティブなことではなく、新しい何かを知る契機になるんだよという人生の先輩からの助言。過去にも『レインボー・イン・マイ・ソウル』(1992年)で「失うことは悲しい事じゃない」とノスタルジックに歌った佐野だが、ここではよりポジティブで前向きに、より自然な態度で響いてくる。

とか言いながら次の#7『永遠の迷宮』では「今までの隙間を埋めたい」や「時を遡る」といった言葉も。『新しい君へ』での達観とは裏腹に、ここでは迷いや後悔が素直に吐露されているのが面白い。しかしそれはあの時こうすればよかったという後ろ向きものではなく、これからの人生でそれらの穴埋めをしたいとでもいうような、愛しい人への、或いは愛すべき何かへの優しい眼差しだ。

人生の意味とは何だろう?今はもう会わなくなった人、会えなくなった人。遠くにいる人、連絡が途絶えてしまった人。時折ふと思い出す。あいつは元気にやってるだろうかって。あの人はこんな風に言ってたけど、今頃どうしてるだろうかって。つまりそれは、もしかしたら自分も自分の知らない何処かで誰かにそんなふうに思われているかもしれないってこと。それって生きた証しにならないだろうか?

#8『みんなの願いかなう日まで』がリリースされたのは2013年。あの時はえらくシンプルな言い回しだなとあまり気にも留めずにいたのだが、時を経てこうして何度か聴いていると、そんな今の自分の気持ちと重なり合って聴こえてくることに気付く。

最後に、大事な1曲を忘れていた。#2『君がいなくちゃ』は佐野が16歳の時に書いた曲だそうだ。通っていた高校でちょっとした流行歌となったらしいが、時間と共に佐野自身もすっかり忘れてしまっていたらしい。ところがこの曲は長年にわたりその高校内で歌い継がれるようになり、数年前、卒業生の一人が佐野にこのことを伝えたところ佐野自身も思い出したという。ここで披露される『君がいなくちゃ』は当時とは歌詞を若干変えているそうだが、人生の秋を思わせるアルバムにあって、瑞々しい感性でアクセントを与えている。

ちょっとしたすれ違いを「暗闇の小舟のように」と例える描写が素晴らしいが、より心を打つにはブリッジの部分。かつて『Someday』で「手おくれ」に対し「口笛でこたえていた」少年が、ここでは「強い勇気をどうかこの胸に」と切に願う。遠い昔に書かれた曲がこのアルバム全体のトーンと共鳴する瞬間だ。

このアルバムはタイトルそのままに人生の秋が描かれている。40代半ばを過ぎた僕にはまだ少し早い季節。だから凄く心に馴染む曲もあれば、まだよく分かっていない部分もある。けれどそこには景色がある。意味を云々する前にそこに景色が存在するのだ。僕がまだ若葉の頃、コステロの曲やヴァン・モリソンの曲を素敵だなと思ったように今の若い世代にもこの秋のアルバムを聴いてもらいたい。意味など分からなくていい。まだ見ぬ景色を眺めることもかけがえのない経験や知恵になるのだから。

 

Tracklist:
1. 私の人生
2. 君がいなくちゃ
3. 最後の手紙
4. いつもの空
5. 或る秋の日
6. 新しい君へ
7. 永遠の迷宮
8. みんなの願いかなう日まで

The Circle/佐野元春 感想レビュー

 

『The Circle』 (1994) 佐野元春

 

冒頭の『欲望』は長田進の低く唸るディストーションギターで幕が上がる。「物憂げな顔したこの街の夜/天使達が夢を見てる/コスモスの花束を抱えて/君に話しかける」という詩で始まるこの曲を、佐野は放り投げるようにして歌う。網膜に映る鮮烈なイメージをただひたすら追い続けるかのようなこの曲はまるで白中夢。言葉にならない感情がそれでも言葉になろうと蠢いている。

冒頭の『欲望』が夜明けなら、「朝 目が覚めて」で始まる2曲目の『トゥモロウ』は休日の朝の風景。「It’s getting better now」と歌うこの曲には,混迷の時代を陽気に切り抜けようとする楽観性が見えてくる。この曲の見せ場はその「It’s getting better now」で始まるブリッジの部分。ここで佐野は「作り話はいらない/ただ素早く叩け/速やかに動け」と激しくシャウトする。本アルバムのハイライトのひとつだ。

続く『レイン・ガール』は佐野のキャリアの中でも屈指のポップ・チューン。くぐもったトーンのアルバムにあって、タイトルとは裏腹に太陽のように明るい曲だ。この曲の見せ場もブリッジ。「楽しい時にはいつも君がそばにいてくれる/悲しい時にはいつも君の口付けに舞い上がる」。このロマンティックなセリフを佐野は高らかに歌い上げる。

続く『ウィークリー・ニュース』はプロテスト・ソング。過去の楽曲で言うと『Shame』に連なる曲だ。とはいえ、特定の誰かを糾弾するものではない。矛先は「好きなだけ悲しげなふりして/うまく立ち回るのはどんな気がする」僕たち自身に向けられる。無論、佐野自身にも。

本アルバムにはその名も『ザ・サークル』という表題曲があるが、実質このアルバムの中核をなすのは5曲目の『君を連れて行く』だろう。そしてまた、この曲はこの時の佐野のソングライティングの一つの到達点と言える。

「無垢の円環」という概念に着目した佐野が示した「再生」の歌。幾つかの終わりを経験した年を重ねた男女の物語。曲も素晴らしいが、このアルバムで最後となるザ・ハートランドの演奏が本当に素晴らしい。ゲストのハモンド・オルガン・プレイヤーであるジョージィ・フェイムと共に、ザ・ハートランドの数ある楽曲の中でも屈指の名演に挙げられるのではないだろうか。

続く5曲目は少し感傷的になった気持ちを目覚めさせるようなホーン・セクションで始まる『新しいシャツ』。それまでの価値観が崩壊しつつあった90年代前半、「ウェヘヘイ」と笑い飛ばし、「新しいシャツを見つけに行く」と歌う姿は、まさにノー・ダメージ。重いテーマを陽気に歌う佐野の真骨頂である。

次曲の『彼女の隣人』ではどちらかと言うと歌詞にそぐわない「ありったけ」というフレーズが繰り返される。「ありったけのrain/ありったけのpain/ありったけのlove/君と抱きしめてゆく」。ロックンロール音楽は英語圏で生まれたものではあるが、日本語ならではの語感もまたいい。

8曲目は表題曲の『ザ・サークル』。「今までの自由はもうないのさ/本当の真実ももうないのさ」という、ショッキングな歌詞で始まるこの曲は、延々「今までのようには~しない」という否定の言葉が続く。ひたすら自己否定を繰り返した挙句、「少しだけやり方を変えてみるのさ」、「今までのように」と続く。まるで禅問答のように。そして特筆すべきは間奏での佐野のシャウト。本人も当時のインタビューで語っていたが、『アンジェリーナ』の頃とはひと味もふた味も違う、実に滋味深いシャウトである。

本作はハモンド・オルガン・プレーヤーのジョージィ・フェイムを招いている。9曲目の『エンジェル』はそのジョージィ・フェイムのために書いたようなバラード。シンプルな歌詞をレゲエのリズムに乗せ、「今夜は君の天使になるよ」とだけ囁くように歌う。中盤のジョージィ・フェイムのソロ・パートは至福の時間である。ラストの佐野とジョージィ・フェイムの掛け合いも実に楽しそう。

このアルバムの最後を締めるのは『君がいなければ』。佐野には珍しいオーソドックスなラブ・ソング。他の曲の個性が際立っているせいか地味な印象を受けるが、後にカバー・アルバムにも収められた重要な曲。ある男の告白といったところか。言葉に出しては言えないが、歌にしてなら言える。けれど本当に伝えるべきことはあるのだろうか。

本アルバムの根底にあるのは、この時期の佐野が発見した「サークル・オブ・イノセンス~無垢の円環~」という概念である。イノセンスというのは消えたり無くなったりするのではなく、それを失いかけた時、新たなイノセンスが立ち現れるというもの。

ロックンロール音楽というのは子供のための音楽である。「生きるってどういうこと?」、「人を好きになるってどういうこと?」という十代の心の迷いや葛藤こそがロックンロール音楽の根幹をなすものと考えられてきたし、もっと極端に言えば、ロックンロールは十代の多感な男の子の為の音楽であった。

かつて「つまらない大人にはなりたくない」と歌った佐野も大人になり、そして僕たちもいつまでも「つまらない大人にはなりたくない」では済まされない年齢になった。「本当の真実が見つかるまで」と歌った佐野はついには「家へ帰ろう」とさえ歌うようになる。誰しも年を取る。老いや成熟といったロックンロール音楽とは相反する立場にありながら、しかし音楽家は或いは僕たちは未だにロックンロール音楽を欲して止まない。

ロックンロール音楽は未開の領域へ踏み出した。例えば、スプリングスティーンは70歳を迎えてもなお、希望や成長についての歌を歌い続けている。幾つかの絶望や喜びを経験した先の希望の歌を。それは無垢の円環とは言えないだろうか。

「家へ帰ろう」と歌った佐野も成熟と成長という相反するテーマに向かい始める。前作の『スィート16』(1992年)アルバムで瑞々しさを取り戻した佐野は陽気に軽やかに再び無垢について歌い始めた。そして無垢の円環についてより深くアプローチしていく。少しも零れ落ちることのないような丁寧さで。それがこの『ザ・サークル』アルバムだ。そしてザ・ハートランドとの最後の作品となったこのアルバムで、佐野はデビュー以来ずっと続いてきたひとつの道程に終止符を打つ。

 

Tracklist:
1. 欲望
2. トゥモロウ
3. レイン・ガール
4. ウィークリー・ニュース
5. 君を連れてゆく
6. 新しいシャツ
7. 彼女の隣人
8. ザ・サークル
9. エンジェル
10.君がいなければ