Category: 佐野元春
『今、何処TOUR 2023』in フェスティバルホール 感想
『今、何処TOUR 2023』 佐野元春 & THE COYOTE BAND
(大阪フェスティバルホール 2023年7月2日)
先行でチケットを取ったのだが、2階のバルコニー席となった。今回はアルバムが好評ということもあり、早くから席が埋まっていたのかもしれない。バルコニー席は初めてだったが意外と眺めは悪くない。ここ何年かの佐野のコンサートでは観客の高齢化もあり、2階以上はほとんど立たないのだが、幸運にもバルコニー席の一番外側の席だったので、今回は遠慮せずに立つことが出来た。ある意味ラッキー。若い子の姿も少しだけ見ることが出来て嬉しい。
ステージは18:00の定刻ちょうど、アルバムと同じくSEからの『さよならメランコリア』で始まった。佐野はじめ、コヨーテ・バンドの出で立ちは黒のスーツに白のシャツというスタイルで統一している。『さよならメランコリア』の聴きどころは沢山あるが、最後にぶっ叩く小松シゲルのドラムもその一つ。生で聴くと尚のこと迫力がある。近頃のコヨーテ・バンドは小松のドラムが随分と目立つようになってきた。コンサートの後半で演奏された『純恋 (すみれ)』や『優しい闇』のアウトロもそうだし、アンコールで演奏した『約束の橋』もそう。僕は小松のドラムが腹に響くくらいもっと音量を上げてもらいたいと思った。
曲は『銀の月』へ続く。アルバム屈指のロック・ナンバーだが、この曲は間接的なリリックのどちらかと言うと自分とは距離のある曲と認識していた。特にフックの「そのシナリオは悲観的すぎるよ」というラインは社会的な一般論として受け止めているところがあった。しかし冒頭から僕は胸が詰まってしまった。間接的だと思っていた言葉が不意に僕個人に突き刺さってきたからだ。他人事ではなくこれは僕の歌じゃないか、そう体が反応した瞬間、僕は泣き出しそうになった。そして同じことがコンサートの中盤で演奏された『エンタテイメント!』でも起きた。普段は奥に押し込まれていたものがこの曲がきっかけで露わになったような感覚。まさかこの2曲が僕のそんな内側を突いてくるとは思わなかった。
『今、何処』アルバムを曲順通りにすべて演奏するのかなとも思ったが、アルバム前半を終えたところで、『エンタテイメント!』、『新天地』ともう一つの新作アルバムへと続いた。今回の演出で印象的だったのは、ステージ後方のスクリーンに歌詞の一部が表示されていたこと。歌詞のすべてではないが一部分がリリック・ビデオのように大きく表示されていく。コンサートで初めて聴いた『詩人の恋』は歌詞が縦書きで全て表示されていた。ただ大掛かりなサウンドは無い方がいいと思った。この曲は淡々と奏でられる方が浮かび上がるものが多い気がする。
『詩人の恋』の後はアルバム『今、何処』に戻り、アルバム後半の曲が演奏された。『水のように』でもドラムが躍動し、その勢いで『大人のくせに』へつながった。ギターがギャンギャン聴けて最高だ。アルバムの性質上、今回のステージではギターが前面にということではなかったが、コヨーテ・バンドのギター・サウンドは流石にカッコいい。アルバムの実質ラスト、『明日の誓い』から『優しい闇』へ続き、本編は締めくくられた。
本編は当然のように、コヨーテ・バンドとの曲のみで構成されたが、アンコールでは昔の曲が演奏された。僕はいつも昔の曲になるとやたら盛り上がる古くからのファンがどうも苦手だったのだが、今回はそれを感じなかった。むしろ微笑ましい光景としてみることが出来た。勿論それは本編が近年の曲だけで構成された最新形の佐野元春という前提があったからだと思うが、古くからのファンと思しき人たちが笑顔でいる様子を見ていると、なんかそれもありなんじゃないかって思った。
つまりそれはただ単に懐かしいというのとはちょっと違うのかもしれないということ。あの頃はあの頃として、今自分はここにいる。そしていろいろあってうまくいかないことの方が多かったけど何とかここまで生きてきた、そんな自分へのちょっとした祝福。年に一回あるかないかのコンサートでそんな気分になるのもいいじゃないかと。
僕はこの日、『銀の月』や『エンタテインメント!』が思いがけず今の自分に突き刺さった。それは過去の自分ではなく、懐かしいあの頃でもなく、今の自分の状況に刺さったということ。恐らくはそれと似たような物だと思う。少しルートは違うけど、どちらも日常生活ではかえりみることがない自分のある部分がコンサートという特別な夜に露わになったということ。『冬の雑踏』では「あの人はどこにいるんだろう」と歌われるけれど、「あの人」だけではなく自分自身の立ち位置をも確かめる、長く愛しているアーティストのコンサートに行くということは、そんな意味もあるのかもしれない。
繰り返し言うが、それも本編が今の佐野に溢れていたからである。そして最後のアンコールでおまけのようにあの頃から今を生きた自分を祝福する。あの頃は良かったではなく、今の自分を。2階席の古くからのファンが急に立ち上がり笑顔で『アンジェリーナ』を歌う姿を見て、僕も素直に笑顔になれた。みんな自分の’今、何処’を確認しているのだ。
『SWEET16 30th Anniversary Edition』のリリースに寄せて
『SWEET16 30th Anniversary Edition』のリリースに寄せて
1992年に発表された『SWEET16』アルバムの30周年記念盤がリリースされた。『SWEET16』は第2期のピークを迎える佐野元春の復活作として記述されることが多い。実際は前作アルバム『TIME OUT!』(1990年)から2年しか経っていないのだが、『TIME OUT!』が80年代のラジカルな佐野元春像からは少しばかり距離のある控えめで地味な作品であり、また、実際に『TIME OUT!』以降は家族のことで1年間ほど音楽活動自体を休んでいたというのもあって、キャリア的には初の空白期間としてあげられている。僕はその頃、まだ佐野の音楽に触れていなかったので、実際の印象は分からない。
そして僕が佐野の音楽にのめり込むきっかけとなったのが正にこの1992年。ドラマ主題歌となった『約束の橋』のヒット、快活なアルバム『SWEET16』のリリース、ベスト・アルバム『NO DAMEGE Ⅱ』のリリース。これらに伴う積極的なメディアへの露出によって、十代最後の年に僕は佐野元春を知るようになった。
30周年記念盤の価格は22,000円。もう少しなんとかならなかったのかとは思うが、勿論それに見合うだけのボリュームはあって、オリジナルのリマスターCDが1枚。アウトテイク集がCD1枚。当時のライブの完全収録を2公演分CD4枚。映像としてBlu-rayが1枚。計7枚プラスずっしり140ページのブックレットに当時の広告用ポスター付きという豪華さ。
オリジナルのリマスター盤と既発がほとんどであまりレア感はないアウトテイク集はまあよいとして、今回の目玉はなんと言っても再始動の端緒となったツアー『See Far Miles Tour Part Ⅰ』(神奈川県民ホール)と、続くアルバム『SWEET16』をフォローするツアー『See Far Miles Tour Part Ⅱ』(横浜アリーナ)の2公演完全収録。とりわけ目を引くのは、ステージアクションを含めた当時36才のキレキレの佐野元春を映像で見れるBlu-rayだろう。佐野のデビュー以来のバック・バンドであるザ・ハートランドはこの後のアルバム『THE CIRCLE』(1994年)で解散をするが、その前の佐野元春 with ザ・ハートランドの最も脂の乗り切った時期がこの『See Far Miles Tour Part Ⅱ』。ていうか佐野の全キャリアのライブ活動においての最大のピークはここなんじゃないかと個人的には思っている。
この時の模様は当時、映像作品として『PartⅠ』が30分ほど、『PartⅡ』が60分ほどのビデオソフトになっていて、佐野の音楽のファンになったばかりの僕はそれこそ擦り切れる程何十回と見た。それが未発表の映像が10曲も追加されて映像化されるなんてあの頃の僕に教えてやりたい。
当時、僕はこの時に佐野が着ていたのと同じような薄いブルーのシャツをミナミのアメ村で探し回った。僕にとって1992年の佐野の活動がこうしてまとまった形でパッケージ化されることの意味は大きい。なにしろ僕の佐野元春はこの時に始まったのだから。
今、何処 / 佐野元春 感想レビュー
『今、何処 / Where Are You Now 』(2022年)
世界的なパンデミックを経た2022年、大規模な侵略戦争が起き、僕たちの国で最も権力を持つ政治家が殺害された。歴史が目の前に迫りくる中、ドロップされた通算20枚目のオリジナル・アルバム。困難な時代と向き合った曲が収められている。あまりにも今この時にジャストに響くので、いつ書かれた曲だろうとインナースリーブを開いたら驚いた。レコーディングは2019年から2021年に行われていた。
佐野は常々何かが起きたからといってその事にいちいち反応したりはしないと言っている。ソングライターというのは普段からある種の危機感を持って曲を書いていると。ではその危機感とは何か。今作で言うと、個の抑圧。より具体的に言えば、魂の危機であろう。しかしここで佐野が取り組もうとしていることは危機を煽り、聴き手を不安にさせることではない。
実質的なオープニング曲の『さよならメランコリア』というタイトルや続く『銀の月』での「そのシナリオは悲観的過ぎるよ」というリリックが示すように、このアルバムで佐野が主題としているのは困難な現実に対し、深いため息をつきシリアスな声を発することではない。佐野がここで言わんとしていることは尊い個についての言及。しかしそれは今に始まったことではない。佐野はずっとそのことに言及し続けてきた。ただ、今はその気持ちが強くなっているということ。
個人が解放されれば世界も解放される。個人が自由になれば世界も自由になる。佐野は具体的にそうは言わなかったが、これまでずっと僕は佐野からそのようなメッセージを受け取ってきた気がする。そして個を抑圧しようとする働きには異を唱え、まして心の問題にまで立ち入ろうとする行為にははっきりとノーと言う。実際、そのような態度を僕自身がちゃんと取れてきたわけではないけれど、そうありたいと願っていた。
しかし個の自由意思を押さえつけようとするものは何も外圧だけではない。内的な心の働きによってもそれはもたらされる。例えば、毎日耳に入るウクライナ情勢。戦争の惨禍を見てエモーショナルになる。そしてもし自分たちの住む国が侵略されたならどうするかと考える。そんな時こそ落ち着かなければならない。佐野は『君の宙』で「国を守れるほどの力はないよ」、「命を捧げるほどの勇気もない」と正直に歌う。大事なことは個と個の関係。「君を守りたい」という思いに余計なものは立ち入らせてはならないのだ。
ヒロイックで大げさな物言いなど必要ない。答えを持たない僕たちは答えを持つ(ているように見える)人につい惹かれるけど、僕たちには「英雄もファシストもいらない」(『大人のくせに』)。大切なのは個人の思い。例えばそれは「恋をしている瞬間」(『クロエ』)だ。何故ならそこには「正義も悪もなく」「過去も未来もない」し、「ルールも約束もなく」「右も左もない」から。外からも内からも浸食されることのない混じりけのない個人の思い。今、その個人の思いがあちこちで悲鳴を上げている。そのことに作者は警鐘を鳴らしている。いや社会に向けてというような大それた警鐘ではない。ワン・トゥ・メニーではなく、一人一人へ向けて声をかけている。まるでラジオの向こう側に語り掛けるように。
このアルバムでは何度も「魂」という言葉が歌われる。『さよならメランコリア』では「ぶち上げろ魂」と歌い、『銀の月』では「暮れなずんでいく魂」と歌い、『斜陽』では「君の魂 無駄にしないでくれ」と歌い、『冬の雑踏』では「あの人の気高い魂」と歌い、『永遠のコメディ』では「魂の抑圧」と歌う。佐野がこれほどまでに繰り返し僕たちに語り掛けるのは何か。それは魂を脅かす特定の何か設定し一線を引くことではなく、どうか君の魂を大事にしてほしいという個から個への願い。故に「いつかまた会えるその日まで 元気で」(『水のように』)という声が直筆の手紙のように胸に届くのだ。
しかしこのアルバムは冒頭で述べたとおり、難しい顔をして深いため息をつくアルバムではない。その証がこのアルバムで大々的に鳴らされているポップなメロディーとポップなサウンド。佐野は今までも個の大切さを歌ってきた。けれど今、その切実さはかつてないほど高まっている。しかしその高まりと同期するように佐野の音楽もまたかつてなくポップになり大衆性を獲得していく不思議。僕はこのことが素直に嬉しくてたまらない。
オープニングのピアノの律動を引き継ぐ形で鳴らされるドラムのデカい音と、「YesかNoかどっちでもなく 白か黒か決まんないまま」(『さよならメランコリア』)とシリアスなセリフを事も無げに歌う出だしの途方もないカッコよさ。『銀の月』の流れるような韻に中盤でギャンギャン鳴るラウドなギター。『クロエ』のAメロを省き真実にいきなり到達しようとするかのような優雅なメロディー、佐野流シティ・ポップ。これらの音楽を聴いて眉間に皺がよるわけがない。難しい問題はあるにせよ、佐野が切り開こうとするのはあくまでポップ音楽なのだ。
歴史が目の前に迫っている。しかし殊更ネガティブになる必要はないのではないか。僕はアルバム『ENTERTAINMENT!』のレビューで、僕たちはいつまでこの無邪気なオプティミズムを更新し続けることができるのかと書いた。何も遠慮することはない。物事がシリアスになればなるほど佐野の音楽がポップになっていくように、時代が暗く沈んだものになればなるほど、理想や希望はより大きくなる。これはごく自然なことなのだ。これまでと同じように心の中のオプティミズムを更新し続ければよいのだと思う。
厳しい現実認識を伴ったアルバムの実質的な最終曲『明日への誓い』は屈託のない希望の歌だ。悩みや心配事を抱えたまま、明日へ紛れていく。あちこちに大小さまざまな傷を負い、それでも理想や希望を思わずには生きていられない。個が個としてその核たる魂を尊重し、家族や友人、知人や隣近所の人たち、職場の人たちや時には見知らぬ誰かと、笑いあい、すれ違い、そうやって僕たちはこれまでもこれからも混じりあう。
しかしそんな希望の歌もクロージングの『今、何処』で再び個に戻る。家族であろうと友人であろうと誰も自分の代わりに生きてはくれないのだ。孤独であることを知りつつ、それでも時折、互いの居場所を確かめ合う営み。あなたは何処にいるのという問いは、すなわち私はここにいるという意。その思いは人の数だけ存在する。
今、何処 / 佐野元春(2022年)全曲レビュー
『今、何処』アルバムが凄い!
ENTERTAINMENT! / 佐野元春 感想レビュー
『佐野元春 & THE COYOTE BAND ZEPP TOUR 2021』 2021.11.25 ZEPP NAMBA 感想
銀の月 / 佐野元春 感想
『銀の月』(2021年)佐野元春
佐野元春の新曲がリリースされた。来春に予定しているアルバムからの先行トラックだそうだ。コヨーテ・バンドならではのギター・チューン。コヨーテもいつの間にか聴けばそれと分かる個性が確立されたような気がします。初期のザ・ハートランドも中期のホーボーキング・バンドも割とアルバムごとにサウンドは違ってましたから、バンド・サウンドを固めたまましばらく続けるのは佐野さんのキャリアでも非常に珍しいことかと思います。
『世界は慈悲を待っている』や『エンタテインメント!』に通じるコヨーテならではのダンス・ロック。いや、苦み走ったダンス・ロックと言えばよいか。このダブル・ギターを基調とした独特の疾走感(って言っていいのかわからないが)は完全なオリジナリティー。一方でこれだけ確立してしまうと、次のアルバムでコヨーテ・バンドとしての活動は一旦休止になりそうな気がしないでもない。
そして意味深なタイトル、「銀の月」。僕は涙と受け取りました。若しくは魂。邪険にされがちな弱者のそれらが良き道筋に転嫁される。そういう意思がここにあるような気がします。ていうか感じ方は人それぞれ。いつものようにこうであるとは拘らない、聴き手の想像力を自由に喚起する素晴らしいリリックです。個人的には「そのシナリオは悲観的すぎるよ」という言葉を自分の問題としてどう判断すべきか、まだ僕の中で消化しきれずにいます。
銀の月抱いて 歩いてゆく
行きたいと思う道 目指してゆく
そのシナリオは悲観的すぎるよ
日は暮れて 君は少し笑った
~『銀の月』佐野元春~
はいはい、そういう人ね、に対するリベンジ
先日アップした『TIME OUT!』でこのブログでの佐野のアルバム・