Category: フィルム・レビュー
「大きな家」感想
フィルム・レビュー:
「大きな家」 2024年
児童養護施設ということだけでなんとなく定型のイメージを持ってしまうけど、世の中にどれ一つとして同じ事柄はないように、施設もそこに暮らす子どもたちも個々に異なる。その当たり前のことを当たり前に観ることで、知るという中身がまた少し違ったものになってくる。もちろん、映画を見たからといって何かがわかったということではないけど、知るの中身は少しずつ深まる。最初からそういうつもりで観始めたわけではないけど、気付けば2時間、映画に表れていることを集中して観る。僕の態度はそんなふうだった。
映画では子どもたちがどういう経緯でここに暮らすことになったのか、あるいは両親の事情についても一切語られない。映るのは今の子どもたちの姿だ。今現在、彼彼女らは何を考え、どんな話をして、仲間や施設職員とどのように接しているか。ナレーションはないし、結論めいたものもない。あるのは今を動き続ける子どもたちの姿だけだ。誰にも止めることができない時間が誰にも等しく進んでいく中でその瞬間の彼彼女たちの今が映し出されていく。それは言葉では言い表せない大切な記録。
小さな頃から、両親への期待と失望を繰り返す内なる戦いを僕には想像することは出来ないけれど、時間は待ってくれないから、時間に引きずられながらも納得したり納得しなかったり自分なりの思いを積み上げ、行ったり来たりしながら年齢を重ねていく。それは最年少の園児も最年長の19才も変わらない。いつ答えが出るともわからない問いに向きあい続ける。そのうえで人生を肯定してほしいなどとは他人の勝手な言い分だけど、この映画を撮ろうとした人たちがいて、この映画を観たいと思う人たちがいる。私たちが知ることが、彼彼女らの未来を肯定する力の後押しに少しでもつながればと思う。
「僕が生きてる、ふたつの世界」感想
フィルム・レビュー:
「僕が生きてる、ふたつの世界」
映画の始まりは主人公の大が生まれたところから。少しずつ育つ大の成長が描かれていく。微笑ましい場面があれば辛い場面もある。何気ない日常を追う映像を見ている間、しんどい場面ばかりではないのに、なぜか僕の胸の奥がつっかえたままだったのは、子ども時代の僕にも身に覚えがある風景がそこにあったからだろう。それはコーダだからということではなく、どこの家庭でもある風景。この映画の肝心な部分はそこだと思った。
もちろん両親がろう者である大と僕の家庭環境は大きく違う。けれど人の数だけ家庭はあって親子関係はあり、親子の数だけストラグルはある。劇中、登場人物のろう者が良かれと思って手助けをした大に「わたしたちのできることを奪わないで。」と言う台詞がある。その台詞こそがこの映画に向かう呉美保監督の態度ではなかったか。コーダという存在を特別なものとして特別な親子関係を描くのではなく、世界中の個々の親子が個々に異なるように、ある個々の親子関係を捉えた。この映画はそういう理解でよいのではないか。
映画を観た後、僕は図書館に寄り、そこに置いている映画雑誌をめくって呉美保監督のインタビュー記事を読んだ。劇伴は使用しなかったとのこと。そうだ!劇伴はなかった!雑音やら騒音やら周りのひとの声やらかやたら大きく聞こえたのはそのせいだったのか!無音の場面もいくつかあった。しかし泣きそうになった場面で無音だったのには参った!こんなシーンとした劇場で鼻水もすすれないじゃないか(笑)
俳優陣も素晴らしかった。主役の吉沢亮。綺麗なお顔なのに少しもそうとは感じさせなかった。映画一のキャラはヤクザのおじいちゃんを演じたでんでん。しかしなんと言っても母親役の忍足亜希子。母の愛たっぷりだけど重苦しくなく、暗くなりがちな話なのにどこか気の抜けた楽な部分があったのは、彼女の演技によるところが大きいのではないか。もちろん全体のそうした雰囲気を引っ張ったのは吉沢亮でもある。そうそう、父親の今井彰人も芝居をしていないぐらいものすごく自然で、まさにそこにいるようでした。あと、ユースケ・サンタマリアは胡散臭い役をやらせたら抜群やね(笑)。
手話を「手まね」と揶揄するおじいちゃん。けれど手話とは単なる「手まね」ではなく、表情を含めた言語であると、監督はインタビューで答えていた。それを証明するかのように母親はいつもまっすぐに大と目を合わせる。手話には方言もあるというのも描かれていた。単なる置き換えの道具ではなく普通に言語なんだな。そうだ、手話は必ず目を合わせるそうだ。なんと人間性のこもった言語なんだろう。
映画に劇伴は無かったけど、エンドロールでは主題歌が流れた。歌詞は劇中で母親が大に送った手紙の文章。こう響かせてやろうという意図のまったくない言葉。簡潔だけど、だからこそとても胸が熱くなりました。エンドロールの主題歌含めての映画だと思います。
ちなみにこの主題歌。最初は女性シンガーが歌ったそうだ。けれど母の圧が強すぎて(笑)、男性シンガーに変更したそうです。呉美保監督のこのバランス感覚がこの映画をより素晴らしいものにしたのだろうな。
『眩暈 VERTIGO』(2023年)感想
フィルム・レビュー:
『眩暈 VERTIGO』(2023年)監督・井上春生
映画の感想を書こうと何度か試みているのだけど、何度書いてもただ表面をなぞっているような気がして書いた気にならない。でも考えてみれば、今までに見たこともない映画だったので、言葉に出来ないのは当たり前だ。見たというより、見てしまった、いいのだろうか、という感覚さえある。
詩というのは一応は紙に言葉が印刷されたものだけど、こちらに伝わるものは言葉だけとは限らない。アクセントやリズム、抑揚。或いは景色、自分の過去に照らし合わせた映像が喚起される場合もあるし、全く知らない映像、それこそ心象風景としか言いようのない抽象的な何かが渦巻くことだってある。ただそれは詩に限った話ではないし、同じく文字しか情報のない文学作品ならよくあることだろう。詩がそれらと少し異なるのは、人によって、或いは同じ人でも時間や場所、状況によって喚起されるものがビックリするぐらいまちまちだということだ。
僕は吉増剛造の詩を読んでも全く分からない。しかしそれは多分言葉の意味として分からないということだろう。現に心のなかで音読すると皮膚感覚が泡立ってくる。詩が単なる紙に書かれた言語に過ぎないなら、こんなことは起きないだろう。吉増の詩はどう考えても言葉だけには収まらない得体の知れないものなのだ。
けれどそれは当然の話で誰もが知ってる得体の知れたものなら、わざわざ詩を書く必要はないのだし、どこかからそうそうこれこれなんて言って持ってくればいいのだ。そうはいかないから詩人は詩を書いてるのだろうし、吉増が言った「未完成を目指す」というのもなんとなくそういうことのような気はする。
つまり詩であればあるほど、創作に誠実であればあるほど見たことも聞いたこともない度は大きくなるわけだから、分からないのは当たり前の話で、でも何か分からないけど胸を打つ、感慨として何か残る、というものが表れればそれは’見た’’聞いた’もしくは’経験した’ということになる。ただ吉増剛造もジョナス・メカス(の作品を僕は観た事はないけど)もそうしようと思ってそうしたわけではなく、ただ単に真摯に取り組んだということなのだろう。
そうやって芸術は積み上げられ引き継がれていく。監督も井上春生もまたその一人なのだ。それにしても、よくもこんな瞬間を撮ったと思う。映画だからもちろん映像もあるし音もある。けれど一方で文字しかない詩のようにも感じられる。吉増の「メカスさん」という何とも言えない呼び声。創作時の「書いておかないと忘れちゃう」と言った時の時間の歪み方。セバスチャンの人間を超越したような佇まい。吉増とセバスチャンの間に流れた沈黙。記憶としてのはずのメカス。どうしてあんな瞬間を撮ることが出来たのか。紛れもなく、見たことも聞いたこともない瞬間の連続だった。
けれどこの映画の敷居は決して高くない。もちろん、ジョナス・メカスのことや吉増剛造のことを知っていれば尚よいのだろうけど、分かる人にだけ分かればいいという映画では決してない。一応はドキュメンタリー映画ということにはなっているけど、色々な工夫がされていて、観ていて楽しい要素もあり、一概にドキュメンタリー映画とは言えないつくりにもなっている。数人に朗読をしてもらった音声を少しずつずらして重ねていくところなんて、恰好いいし、テーマでもある揺らぎと相まってとてもよかった。そういうポップさもある。
僕が行った日は観客が僕を含めてたった8人しかいなかった。きっとこの映画を求めている人はたくさんいると思う。多くの人が知らないままなんじゃないかという事が残念に思った。もっとメディアで紹介されてほしい。きっと観るたび何度も何度も異なる感想が現れるのだと思う。もう一度観たいと思った。
クライムズ・オブ・ザ・フューチャー(2023年)感想
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クライムズ・オブ・ザ・フューチャー / Crimes of the Future(2023年)
この手の映画を観るのは初めてだったが、個人的にはいわゆるディストピアもの含め近未来SF小説は好きなので、わりと違和感なく映画の世界に入りこめた。一部、目を逸らせたくなる場面もあるかもとの事前情報もあり少し身構えていたが、そこは作品世界を踏まえての表現、つまり敢えて人工的に見える作りになっていたので、特に気持ち悪いことはなかった。グロいけど生々しくない。
この映画は環境問題から着想を得たということだが、進化した人間がプラスチック(有害物質)を食べられるようになるというのはブラックユーモア以外の何ものでもない。ということで真面目に見れば、眉間に皺を寄せて観ることもできるが、一方でなんじゃこれは的なユーモアの感覚も忘れてはいけない。腹を開く器具が手の形を模していたり、それを操作するリモコンが気持ち悪い形状をしているのもその延長。
要するにデヴィッド・クローネンバーグ監督としては思いついたワクワクするアイデアを何とか形にしたいと考えた時に、環境問題とくっ付けることでこれ更に面白く出来るやん、となったんじゃないかという穿った見方もできる。高尚な環境問題を考える映画と言うより、新しい臓器ができちゃう体とか、痛みがなくなった人間とか、外傷に性的な興奮を覚えてしまうとかいうデヴィッド・クローネンバーグの世界を楽しむ映画というのが先にある、という理解でよいのではないか。
とは言え、例えばビーガンとか環境保護団体とかそれ自体は良い事であっても度が過ぎると恐ろしい方へ向かってしまう暴力性、或いはそうした思想などお構いなしの狂った人々、常識的だと思える人々さえ抗えないものなどなど、我々の日常とリンクする部分も多く、笑うに笑えない作品であることも確か。生真面目さや下らなさや恐ろしさをどう配分するかは観た人それぞれに異なると思うが、最後のソールの表情をポジティブに捉えることはなかなか難しい。