『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のこと

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『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のこと

 

僕の実家はおばあちゃんが住んでいた平屋に、おばあちゃんの死後そのまま移り住んだもので、その頃でもすでに築50年以上は経ってたと思う。僕が中学生の頃だったか、姉がお年玉で小さなテレビを買った。リビングの横にある6畳ほどの和室にそのテレビは置かれた。リビングにあるメインのテレビと隣の部屋の小さなテレビの音声はいつも混じっていた。

初めて見たのは土曜ロードショー。姉が小さなテレビで見ていたのを途中から一緒に見た。場面はちょうどマーティが1955年のドクの屋敷に訪れるところ。僕の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はそこが始まりだった。

その後、幾度となくテレビ放送はあり、『2』は高校の時友だち何人かで観に行き、『3』は『2』の時にもいた映画好きの友人と二人で行った。当時は席予約や入れ替えなんてなかったから、席の離れた友人と顔を見合わせ、続けざまに2回観た。

後に『2』と『3』のVHSのビデオソフトを購入した。1作目は何度目かの土曜ロードショーを録画したものを繰り返し見た。10回?20回?いや、もっと見ているだろう。なので僕の頭の中に入っている台詞は土曜ロードショー版だ。例えば有名な最後のシーンのドクの台詞は「道など必要、、、ない」だし、マーティが”Johnny B Good”を演奏した後に言うのは「次の世代に流行るよ」だ。

この時の声優はマーティ役が三ツ矢雄三でドク役は穂積隆信。ドクは青野武や山寺宏一も演じているが、ちゃんとした科学者な感じがしないでもない。やっぱり穂積隆信の頭の上から出てくる狂気じみた声の方が僕は好きだ。それで育ってしまったからね。

ついでに言うと一番好きなシーンは、ジョージがビフをのばして一件落着と思いきや、変なやつにロレインを奪われジョージはロレインから手を放してしまう。するとマーティの手は透明になり額には冷や汗、存在が消えかかってしまうが、ジョージの再びの勇気によりマーティは復活!それに合わせるようにバンドの演奏も盛り上がり、「I falling love with you♬」のリリックと共に二人は初めてのキス。アウトロにバック・トゥ・ザ・フューチャーのBGMのフレーズがかぶさる。天使が降り立ったかのような素敵なシーンだと思う。皆はどんな場面が好きなのだろうか。

今日、IMAXの復活上映を観てきた。数え切れないほどビデオテープで見た『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をまさか映画館で観れるとは思わなかった。いろんな感情が入り混じり、僕は何度も涙を拭った。十代の僕はマーティの走り方を真似して、マーティのジェスチャーを真似して、マーティの喋り方を真似した。マーティ(やドクやジョージ)の勇気は真似出来なかったけど。。。とにかくマーティは僕の憧れだった。

今でもその気持ちは変わらないけど、今思うのはジョージはなんと人間味のある素晴らしいキャラクターだということ。マーティと同じくらい僕はジョージが好きになった。今回、スクリーンでマーティやドクやジョージやロレインを観て、なんだか昔の友だちに会ったような気がした。僕はとても嬉しい気持ちになった。

「黒川の女たち」(2025年)感想

フィルム・レビュー:
 
「黒川の女たち」(2025年)
 
 
戦後80年が経ったけど、まだ終わっていない。この言葉にピンと来ない人もいるだろう。僕もそうだった。けれど、知ることでその意味が少しずつわかってくる。ずっと公にされなかったこと。こういう事実があったということは、この映画で明かされたこと以外にもきっとまだまだあるということ。言いたくても言えなかった人。絶対に言いたくなかった人。それぞれにそれぞれの理由があり、80年経った今も胸の中にしまったままのひとが大勢いるのだろうということ。胸にしまったまま亡くなったひとも大勢いるのだろうということ。
 
近頃はドキュメンタリー番組をしょっちゅう見るようになった。今まで手に取らなかった類の本も読むようになった。単にそれは年を取って、より社会の出来事に関心が向くようになってきたからだと思っていた。確かにそれもあるかもしれないが、今は少し違う見方もしている。様々な情報が溢れる世の中で、少しでもちゃんとした態度で物事に接したい、知ることでそれを補っていきたい、特に過去から学べることは多いのではないか、そういう防衛本能のようなものが働いているような気もしている。
 
私たちには想像力がある。けれどひとりよがりの想像力ではいけない。想像力は勝手には養われない。だから私たちは学ぶことで、知ることで、見ることで、想像力をより柔軟なものにしようと努める。映画を観ることもそのひとつだと思っている。
 
映画の主題から離れるけどもう1点。今やSNSのおかげで誰もが好きなように言いたいことを言える世の中になった。基本的にそれはよい世の中だと思うけど、最近はそれもどうなのかよく分からなくなってきた。この映画に出てくる堂々と顔をさらしてしっかりと話すおばあちゃんたちを見て、公に話すとはどういうことか、その重さを突き付けられた気がした。おばちゃんたちの笑顔は本当に天使のようでした。

「名もなき者 / A Complete Unknown」感想

フィルム・レビュー:
 
「名もなき者 / A Complete Unknown」(2025年)
 
 
映画の良しあしを判断する材料として体感時間がある。あっという間に終わった、若しくは長かった。この映画は140分以上あるがあっという間に終わった。つまりとても面白かった。
 
映画はディランがN.Yはグリニッジビレッジに降り立つ1961年から始まり、エレクトリック・ギターに持ち換えたことで、一部の熱狂的なファンから裏切者扱いをされる1965年までの短い期間を切り取ったもの。目まぐるしく環境が変わっていく中、だからどうだという説明もなく次々と物事が進んでいく。特に後半はその傾向が強く、予備知識のない人には付いていくのがやっとかもしれないが、このスピード感、テンポ感こそが肝。
 
つまり誰しも若葉の頃は初めて立ち会う経験ばかりで振り返る暇もなく過ぎていく。激動期のディランは尚更である。その振り替える暇もなく、というところがテンポ感となって表現されており、一方で主役はディランなので、もちろん彼を軸に話は進むのだが、いわゆる伝記物と違いディランの内面に迫ることはしない。単純にそんなことできっこないというのもあるが、つまりそこを逆手に取ってのテンポ感という見方もできるのではないだろうか。後半、ディランがサングラスをかけているシーンが増えるのは、実際にそうだったのかもしれないが、彼の内面に迫る気はさらさらないよ、という監督のメッセージなのかもしれない。
 
その代わりと言ってはなんだが、ディランに関わる人々にもキチンとフォーカスされており、ジョーン・バエズ、シルビィ(スーズ・ロトロのこと)、ピート・シーガー、ウディ・ガスリー、そして60年代前半のグリニッジビレッジ。言ってみればディランその人のみに焦点を当てるのではなく、群像劇のように全体のシーンを描く、その中でディランの特異性が浮かび上がってくるという構図にもなっている。
 
それにしても主演のティモシー・シャラメ。歌は勿論のこと、ギターやハープまでも自演している。あのディランの’話すように歌う’独特の譜割を完コピしているのは驚き。『僕の名前で君を呼んで』でもピアノを弾いていたから音楽の素養はあるのかもしれないけどそれにしても凄すぎる。それに単にディランに寄せるだけでなく、ティモシー・シャラメとしての表現になっているのがいい。
 
映画はジョーン・バエズとシルビィとの恋模様も描かれている。サバサバとしたジョーン・バエズと生真面目なシルビィとの対比。けれど誰に対しても一向に気遣うところがない天才ディラン。女性からすりゃ最低な男だけどとにかく格好いい、許せてしまう。ディランはそういう人という刷り込みがあるからかもしれないが、単純に格好よく見えてしまうのは監督の手腕だろう。映画を観た後ではアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケットがより立体的になって素敵だ。
 
 
劇中、ディランのオリジナル音源は使用されない。すべて映画用に演者たちが録音したものだ。でもそれはそれで遜色なく、もしかしたらこっちの方が今の耳には聴きやすかったりする。冒頭の「ウディ・ガスリーに捧ぐ」なんて最高だ。実際のエピソードが散りばめられているけど、時系列や場所が結構違ってたりもする。でもそういうところがいいんだな。本当によくできた映画だと思う。今度は冷静な目でもう一回観たい、そう思わせる映画。

「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」感想

フィルム・レビュー:
 
「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」
 
 
知ることで何ができるわけでもないけれど、知ることで何がしらの自分の判断に影響を与えることはできる。小さなことではあるが、一人一人のその積み重ねが国単位の方向性を決めることもあるかもしれない。知ったからってどうなるんだという無力への慰めではないが、近頃の僕はそんな傾向がある。単に年を取ったせいでもあるのだと思う。とてもナイーブすぎる意見というのは承知している。
 
僕たちが仕事に出掛けたり、夕飯の支度をしたりしている間にも誰かが理不尽な目に合っている。なんの罪もない子供だって殺されている。そんなことをいちいち気にしていては生きていられないけど、その事実は知った方がいいし、圧倒的な弱者が圧倒的な強者に虐げられているのなら、僕たちは圧倒的な弱者の声に耳を傾けないといけない。
 
共同監督を務めたパレスチナ人のハムダン・バラル氏が、西岸地区の自宅でイスラエル人入植者から暴行を受け、イスラエル軍に連行された。アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した後である。映画の中で「行方不明になって帰って来た人はいない」という言葉があった。無事を祈るしかない。
 
そもそも、カメラを回しているのにイスラエル軍や入植者はカメラをほとんど遮ろうともしない(中には遮ろうとする場面があるにはあるが)。つまり彼らは悪いことをしているという感覚がない。世界中にニュースとして流れるであろう共同監督の拉致だってお構いなし。
 
映画の中で入植者が銃を手に迫ってくる場面の恐ろしさ。まるでフィクションの映画のようだと錯覚するけど実際の映像なのだ。急にやってきて、ここに軍用地を作ることに決まったからと、静かに暮らしている人々の家をぶっ壊し、気に入らなければ銃を向ける。そして実際には軍用地など作らない。狂っている。まともではない。
 
どんな映画でもたくさんの下調べが必要だ。準備に何年もかかる。それに適当なことは言えない。お手軽なSNSとは違うのだ。この作品は怖い場面もあるし、確かにハードルが高い。しかし映画というのは大いなるメディアだ。僕たちはそれなりの時間をそれなりの集中力をもって観る。この行為はとても大切だと思う。
 
確かに知ることで何ができるわけではない。でも知ってもらうことで何がしらの影響を与えることはできる。その積み重ねが国単位の方向性を決めることもあるかもしれない。そのことを信じて、映画に関わった人たちは死と引き換えの覚悟で撮影をした(実際に拉致されてしまったけど)。僕は映画の力を改めて強く感じた。

「大きな家」感想

フィルム・レビュー:

「大きな家」 2024年

 

児童養護施設ということだけでなんとなく定型のイメージを持ってしまうけど、世の中にどれ一つとして同じ事柄はないように、施設もそこに暮らす子どもたちも個々に異なる。その当たり前のことを当たり前に観ることで、知るという中身がまた少し違ったものになってくる。もちろん、映画を見たからといって何かがわかったということではないけど、知るの中身は少しずつ深まる。最初からそういうつもりで観始めたわけではないけど、気付けば2時間、映画に表れていることを集中して観る。僕の態度はそんなふうだった。

映画では子どもたちがどういう経緯でここに暮らすことになったのか、あるいは両親の事情についても一切語られない。映るのは今の子どもたちの姿だ。今現在、彼彼女らは何を考え、どんな話をして、仲間や施設職員とどのように接しているか。ナレーションはないし、結論めいたものもない。あるのは今を動き続ける子どもたちの姿だけだ。誰にも止めることができない時間が誰にも等しく進んでいく中でその瞬間の彼彼女たちの今が映し出されていく。それは言葉では言い表せない大切な記録。

小さな頃から、両親への期待と失望を繰り返す内なる戦いを僕には想像することは出来ないけれど、時間は待ってくれないから、時間に引きずられながらも納得したり納得しなかったり自分なりの思いを積み上げ、行ったり来たりしながら年齢を重ねていく。それは最年少の園児も最年長の19才も変わらない。いつ答えが出るともわからない問いに向きあい続ける。そのうえで人生を肯定してほしいなどとは他人の勝手な言い分だけど、この映画を撮ろうとした人たちがいて、この映画を観たいと思う人たちがいる。私たちが知ることが、彼彼女らの未来を肯定する力の後押しに少しでもつながればと思う。

「僕が生きてる、ふたつの世界」感想

フィルム・レビュー:

「僕が生きてる、ふたつの世界」

 

映画の始まりは主人公の大が生まれたところから。少しずつ育つ大の成長が描かれていく。微笑ましい場面があれば辛い場面もある。何気ない日常を追う映像を見ている間、しんどい場面ばかりではないのに、なぜか僕の胸の奥がつっかえたままだったのは、子ども時代の僕にも身に覚えがある風景がそこにあったからだろう。それはコーダだからということではなく、どこの家庭でもある風景。この映画の肝心な部分はそこだと思った。

もちろん両親がろう者である大と僕の家庭環境は大きく違う。けれど人の数だけ家庭はあって親子関係はあり、親子の数だけストラグルはある。劇中、登場人物のろう者が良かれと思って手助けをした大に「わたしたちのできることを奪わないで。」と言う台詞がある。その台詞こそがこの映画に向かう呉美保監督の態度ではなかったか。コーダという存在を特別なものとして特別な親子関係を描くのではなく、世界中の個々の親子が個々に異なるように、ある個々の親子関係を捉えた。この映画はそういう理解でよいのではないか。

映画を観た後、僕は図書館に寄り、そこに置いている映画雑誌をめくって呉美保監督のインタビュー記事を読んだ。劇伴は使用しなかったとのこと。そうだ!劇伴はなかった!雑音やら騒音やら周りのひとの声やらかやたら大きく聞こえたのはそのせいだったのか!無音の場面もいくつかあった。しかし泣きそうになった場面で無音だったのには参った!こんなシーンとした劇場で鼻水もすすれないじゃないか(笑)

俳優陣も素晴らしかった。主役の吉沢亮。綺麗なお顔なのに少しもそうとは感じさせなかった。映画一のキャラはヤクザのおじいちゃんを演じたでんでん。しかしなんと言っても母親役の忍足亜希子。母の愛たっぷりだけど重苦しくなく、暗くなりがちな話なのにどこか気の抜けた楽な部分があったのは、彼女の演技によるところが大きいのではないか。もちろん全体のそうした雰囲気を引っ張ったのは吉沢亮でもある。そうそう、父親の今井彰人も芝居をしていないぐらいものすごく自然で、まさにそこにいるようでした。あと、ユースケ・サンタマリアは胡散臭い役をやらせたら抜群やね(笑)。

手話を「手まね」と揶揄するおじいちゃん。けれど手話とは単なる「手まね」ではなく、表情を含めた言語であると、監督はインタビューで答えていた。それを証明するかのように母親はいつもまっすぐに大と目を合わせる。手話には方言もあるというのも描かれていた。単なる置き換えの道具ではなく普通に言語なんだな。そうだ、手話は必ず目を合わせるそうだ。なんと人間性のこもった言語なんだろう。

映画に劇伴は無かったけど、エンドロールでは主題歌が流れた。歌詞は劇中で母親が大に送った手紙の文章。こう響かせてやろうという意図のまったくない言葉。簡潔だけど、だからこそとても胸が熱くなりました。エンドロールの主題歌含めての映画だと思います。

ちなみにこの主題歌。最初は女性シンガーが歌ったそうだ。けれど母の圧が強すぎて(笑)、男性シンガーに変更したそうです。呉美保監督のこのバランス感覚がこの映画をより素晴らしいものにしたのだろうな。

『眩暈 VERTIGO』(2023年)感想

フィルム・レビュー:

『眩暈 VERTIGO』(2023年)監督・井上春生

 

映画の感想を書こうと何度か試みているのだけど、何度書いてもただ表面をなぞっているような気がして書いた気にならない。でも考えてみれば、今までに見たこともない映画だったので、言葉に出来ないのは当たり前だ。見たというより、見てしまった、いいのだろうか、という感覚さえある。

詩というのは一応は紙に言葉が印刷されたものだけど、こちらに伝わるものは言葉だけとは限らない。アクセントやリズム、抑揚。或いは景色、自分の過去に照らし合わせた映像が喚起される場合もあるし、全く知らない映像、それこそ心象風景としか言いようのない抽象的な何かが渦巻くことだってある。ただそれは詩に限った話ではないし、同じく文字しか情報のない文学作品ならよくあることだろう。詩がそれらと少し異なるのは、人によって、或いは同じ人でも時間や場所、状況によって喚起されるものがビックリするぐらいまちまちだということだ。

僕は吉増剛造の詩を読んでも全く分からない。しかしそれは多分言葉の意味として分からないということだろう。現に心のなかで音読すると皮膚感覚が泡立ってくる。詩が単なる紙に書かれた言語に過ぎないなら、こんなことは起きないだろう。吉増の詩はどう考えても言葉だけには収まらない得体の知れないものなのだ。

けれどそれは当然の話で誰もが知ってる得体の知れたものなら、わざわざ詩を書く必要はないのだし、どこかからそうそうこれこれなんて言って持ってくればいいのだ。そうはいかないから詩人は詩を書いてるのだろうし、吉増が言った「未完成を目指す」というのもなんとなくそういうことのような気はする。

つまり詩であればあるほど、創作に誠実であればあるほど見たことも聞いたこともない度は大きくなるわけだから、分からないのは当たり前の話で、でも何か分からないけど胸を打つ、感慨として何か残る、というものが表れればそれは’見た’’聞いた’もしくは’経験した’ということになる。ただ吉増剛造もジョナス・メカス(の作品を僕は観た事はないけど)もそうしようと思ってそうしたわけではなく、ただ単に真摯に取り組んだということなのだろう。

そうやって芸術は積み上げられ引き継がれていく。監督も井上春生もまたその一人なのだ。それにしても、よくもこんな瞬間を撮ったと思う。映画だからもちろん映像もあるし音もある。けれど一方で文字しかない詩のようにも感じられる。吉増の「メカスさん」という何とも言えない呼び声。創作時の「書いておかないと忘れちゃう」と言った時の時間の歪み方。セバスチャンの人間を超越したような佇まい。吉増とセバスチャンの間に流れた沈黙。記憶としてのはずのメカス。どうしてあんな瞬間を撮ることが出来たのか。紛れもなく、見たことも聞いたこともない瞬間の連続だった。

けれどこの映画の敷居は決して高くない。もちろん、ジョナス・メカスのことや吉増剛造のことを知っていれば尚よいのだろうけど、分かる人にだけ分かればいいという映画では決してない。一応はドキュメンタリー映画ということにはなっているけど、色々な工夫がされていて、観ていて楽しい要素もあり、一概にドキュメンタリー映画とは言えないつくりにもなっている。数人に朗読をしてもらった音声を少しずつずらして重ねていくところなんて、恰好いいし、テーマでもある揺らぎと相まってとてもよかった。そういうポップさもある。

僕が行った日は観客が僕を含めてたった8人しかいなかった。きっとこの映画を求めている人はたくさんいると思う。多くの人が知らないままなんじゃないかという事が残念に思った。もっとメディアで紹介されてほしい。きっと観るたび何度も何度も異なる感想が現れるのだと思う。もう一度観たいと思った。

クライムズ・オブ・ザ・フューチャー(2023年)感想

フィルム・レビュー:

クライムズ・オブ・ザ・フューチャー / Crimes of the Future(2023年)

 

この手の映画を観るのは初めてだったが、個人的にはいわゆるディストピアもの含め近未来SF小説は好きなので、わりと違和感なく映画の世界に入りこめた。一部、目を逸らせたくなる場面もあるかもとの事前情報もあり少し身構えていたが、そこは作品世界を踏まえての表現、つまり敢えて人工的に見える作りになっていたので、特に気持ち悪いことはなかった。グロいけど生々しくない。

この映画は環境問題から着想を得たということだが、進化した人間がプラスチック(有害物質)を食べられるようになるというのはブラックユーモア以外の何ものでもない。ということで真面目に見れば、眉間に皺を寄せて観ることもできるが、一方でなんじゃこれは的なユーモアの感覚も忘れてはいけない。腹を開く器具が手の形を模していたり、それを操作するリモコンが気持ち悪い形状をしているのもその延長。

要するにデヴィッド・クローネンバーグ監督としては思いついたワクワクするアイデアを何とか形にしたいと考えた時に、環境問題とくっ付けることでこれ更に面白く出来るやん、となったんじゃないかという穿った見方もできる。高尚な環境問題を考える映画と言うより、新しい臓器ができちゃう体とか、痛みがなくなった人間とか、外傷に性的な興奮を覚えてしまうとかいうデヴィッド・クローネンバーグの世界を楽しむ映画というのが先にある、という理解でよいのではないか。

とは言え、例えばビーガンとか環境保護団体とかそれ自体は良い事であっても度が過ぎると恐ろしい方へ向かってしまう暴力性、或いはそうした思想などお構いなしの狂った人々、常識的だと思える人々さえ抗えないものなどなど、我々の日常とリンクする部分も多く、笑うに笑えない作品であることも確か。生真面目さや下らなさや恐ろしさをどう配分するかは観た人それぞれに異なると思うが、最後のソールの表情をポジティブに捉えることはなかなか難しい。

『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年)感想

フィルム・レビュー:
 
 
『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年)
 
確かにこれだけの映像表現が可能であれば、120分をまるっと山王戦で通す方法もあったかもしれない。それだけの映像インパクトはあるし、スラムダンクの映画化を楽しみにしていた当時のファンを十分に喜ばせることは出来ただろう。けれども連載終了時から30年近く経った今、それだけをすることにどれだけの意味があるのだろうか。
 
確かにあのスピード感や立体的な動きを再現できたことには驚く。しかし技術は日々進化する。今は驚きの目で見られた表現でさえ、10年後20年後にはそれを上回るものは必ず出てくる。いずれ、あの時は凄かったね、で終わってしまう。あの『ジュラシックパーク』や『マトリックス』が人々の記憶に残っているのは単に映像表現が凄かったから、だけではないのだ。
 
ではこの映画にその深みを与えているものは何かと言えば、それは間違いなく宮城リョータの家族をめぐる物語。もう一人の主人公はリョータの母親ではないかとさえ思えるような、極力セリフを配した丁寧な描写、心象風景。これらを幾つも挟みながら殊更説明することなくただ山王との試合に挑むリョータの肉体表現へ徐々に変換されていく様。今まさに現在進行形でそれを目撃している私たち。
 
また過去を捉えた幾つもの場面は手に汗握る湘北対山王の死闘に興奮状態にある私たち観客に落ち着きをもたらす効果もある。緊張感はいつまでももたない。チェンジ・オブ・ペース。まるでポイントガードである宮城リョータのように井上雄彦は映画全体を俯瞰する。
 
ただ懐かしむために井上雄彦は腰を上げたのではない。これは『バガボンド』や『リアル』を経て、また現在の日本のバスケットボール界を見据えた、今の井上雄彦の新作である。作家に’同じこと’を望むなんて野暮なこと。何故ならそれは芸術家にとって死を意味することだから。ましてあの井上雄彦である。
 
『THE FIRST SLAM DUNK』は過去の焼き直しでもリメイクでもない。今の井上雄彦が一から創り上げたリクリエイト(再創造)作品である。きっと漫画『スラムダンク』のように井上雄彦の作品として何十年後も残るだろう。『THE FIRST SLAM DUNK』は決して、あの時は凄かったね、で終わらない。

『RRR』(2022年) 感想

フィルム・レビュー:
 
『RRR』(2022年)
 
 
インド映画は割と好きだ。好きと言えるほど見てはいないが、あの急に歌ったり踊ったりするのも含めて、「んなアホな」の練度が非常に高いインド映画は、あちこちに飛ぶストーリーや、アクションとか恋愛とか友情とか謎ときの全部盛りを強引にではなく、「んなアホな」のくせに説得力のある形で丁寧につなげていく。エンタメに徹した無茶苦茶さとそれを破綻させない丁寧さ。むしろ観客をその渦に巻き込んでしまうところがインド映画の魅力かもしれない。
 
つまりあのキン肉マンでおなじみの、ウォーズマンのベアークローを2つにして、いつもの2倍のジャンプに云々のくだり。あるいはバッファローマンによるキン肉バスター返し、「6が9になる!」。よくよく考えてみればおかしな話だが、とはいえ無茶苦茶な飛躍ではないし、それもアリかなと思わせる微妙なラインのギリ。というかこちらにそのギリを補正させる愛嬌。
 
『RRR』はこの「んなアホな」を許容できるギリの説得力を保ちつつ、その「んなアホな」のレベルを段階的に上げていき、「んなアホな」の許容範囲を徐々に拡張していく。そして観客に徐々に生まれる共犯意識。細かいところは抜きにしておもろかったらええやん、ではなく、細かいところを抜きにしていないからこそここまで面白いのだ。
 
エンタメの渦に巻き込まれて、一緒になって観客自身が更に面白くしていくライブ感。コロナ禍を受けた次のステップとして、こんなにふさわしい映画はないのではないか。