『仮定形に関する注釈』についてのとりあえず最初の感想

洋楽レビュー:

THE1975『仮定形に関する注釈』についてのとりあえず最初の感想です

 

まだ聴いたの1回だけですけど(笑)、とりあえず今の感想としてはマッティ、曲が出来て仕方がないんだろなって。

そういう意味ではこのアルバムを聴いて僕が最初に思い浮かべたのは昨年のチャンス・ザ・ラッパーの『The Big Day』で、とにかく長い!曲いっぱいある!『The Big Day』も賛否両論でしたけど、ま、平たく言えばとっちらかってるってことですかね(笑)。

なんか一曲作る度にもう興味は次のアイデア、次の曲に行ってしまってるというか、彼らはそれぐらいの力量もありますから、言ってみればちょっとした躁状態のまま最後まで行ききったという感じですかね。

このアルバムは前回の『ネット上の人間関係についての簡単な調査』が出た時からもう話題には挙がっていて、そっから時間をかけてではあるけど一曲づつシングルが出て最終的には8曲かな、先行で公開されてて聴いてる方としても自分も一緒にリリースに向けて段階を踏んでいるという感覚があったんですけど、振り返ってみればそういう気分の高め方って新しい手法ですね。

また8曲も公開されて普通ならこれアルバム全曲に近い感じなんでしょうけど、このアルバムは22曲もありますから(笑)そういう意味では8曲ぐらい公開されてもどうってことないし、さっき言った聴き手との一体感も含めて逆に面白いアルバムだなって気はします。

それにしても22曲ですよこれ。もうこの曲数自体がヒップホップ的というか、実際チャンスさんみたいな曲もありますし、チャンスさんほどではないけど彼らには珍しくゲストも登場してますし。かといって一曲一曲の時間が短いというわけではなくトータル80分以上ありますから、もうホントにやりきったということなんだと思います。

でそれだけありますから、じゃあトータルで整合性高めていこう、一枚のアルバムにまとめていこうなんて思ってももう多分あとの祭りなんでしょうね。インスパイアされた時ってもうその時だけのものですから取り返しがつかない。変に触れない。それに多分躁状態だし(笑)。

とまあ、今の段階でもこのアルバムは十分好きなんですけど、『ネット上の人間関係に関する簡単な調査』みたいな時代を象徴する作品かというとそことはちょっと違うのかなと。そうではなくて事前の噂どおりこのアルバムは個人的な側面に重きを置いたアルバムでそう聴けばよりしっくり来るような気はします。夜に一人でじっくり聴くというね。僕もこれからじっくりと聴きたいと思ってます。

あとこれは無茶ぶりかもしれないですけど、グレタ・トゥーンベリさんのスポークン・ワーズを僕は各国仕様で吹き替えでやっても面白かったんじゃないかなと思います。もちろんグレタさんの声ということに意味はあるんでしょうけどやっぱり英語ですから、それぞれの言語に当ててですね、そんなこと言うと何ヵ国語必要やねんとか、技術的にもそんなことできっこないだろとは思うんですけど、彼らならそれをやりかねないでしょ。ラジオや店でこの曲、って言っていいのかな、これかかかると凄く面白いと思います。

一曲目がグレタさんのスポークン・ワーズで二曲目がハードコアなパンク・ソングで三曲目がストリングスのインストという最初の三曲でもう結構お腹いっぱい(笑)。なんにしてもこれだけ多岐にわたるスタイルでパワーのある曲を22曲も、そんなに時間をかけずに作るんですから凄いバンドです。

名盤の条件のひとつに語りたくなるってのがあるとすれば、この『仮定形に関する注釈』もそうですね。僕も一回しか聴いてないのにもうこんなに喋ってますから(笑)。あぁ、SUPERSONICで見れるかなぁ。

The New Abnormal/The Strokes 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『The New Abnormal』(2020) The Strokes
(ザ・ニュー・アブノーマル/ザ・ストロークス)
 
 
ストロークスというと、リバーブ無しの単音のギターに代表されるシンプルこの上ないサウンドでかっこいいロックンロールをやってのけるっていうイメージがあるんですけど、このアルバムを聴いていると彼らの魅力ってそれだけじゃないなって改めて思いますね。
 
当然のことですけどメロディですよね、ここが抜群にかっこいいんです。で、ここもサウンド同様シンプルで、これまた誰にでも真似できそうなメロディなんですけど、これはサウンド同様絶対真似できないやつですね(笑)。
 
聴いてると割とはっきりとしたメロディで何も特別なことはしていないんですが、それが幾つも積み重なることで独特のムードを生み出している。で、かっこいいのが大体の曲で途中で違ったメロディでを持ってくるんです。分かりやすいのが1曲目の『The Adults are Talking』で普通にバースがあってコーラスがあってって曲で、これでもかのストロークス節だからそれだけでも全然かっこいいのに、最後に別のメロディを持ってきてもう一段ポップさ加減を押し上げてるんですね。しかもここ、ジュリアンのファルセットがしびれるぐらいにかっこいい!
 
こういう展開って普通つぎはぎが目立ったりわざとらしくなるんですけど、これを自然に響かせてしまえるのがストロークスで、続く『Selfless』も全くそうですよね。今回割とこういうドラマチックな曲が多いです。リードトラックになった『At The Door』なんてアウトロのシンセが宇宙っぽい!こういう面白いことができるのがそんじょそこらのバンドとの違いですね。しかも旧来のストロークス・ファンが小躍りするような『Bad Decisions』もちゃんと聴かせてくれるんですから、やっぱ彼らは特別なバンドです。
 
でさっきジュリアンのファルセットって話しましたけど、これも今までこんなあったかなって。前作の『Comedown Machine』(←このアルバムも僕は好きです)でもありましたけど、ここまで全面的にアピールしてませんでしたよね。ファンキーな『Eternal Summer』なんてほぼ全編ファルセットですよ。ていうかジュリアン歌うまい(笑)。こう考えると、シンプルに見えるストロークスって実にいろんな引き出しを持ってます。
 
なんかストロークスって1stとか2ndだけっていう印象が強いですけど、僕はこれら初期の作品をリアルタイムで聴いていないんですね。で、未だにやっぱストロークスは1st、2ndだよって声があるのも知ってますけど、今この時に出たこの『The New Abnormal』も相当かっこいいですよ。しかも時勢にドンピシャのこのタイトルのものを去年作ってて、今出てくるっていう(笑)。
 
1stの『Is This It』の初期衝動もそりゃあかっこいいけど、当然時間がたってるわけで、今の方が間違いなくレベル・アップしてるし、スケール・アップしてます。勿論 『Is This It』も素晴らしいしどっちがいいではなく、どっちもいいって話です。
 
ただ今この時点で聴くべきなのはやっぱ『The New Abnormal』だと思います。それだけ完成度の高い近年の彼らの、近年と言っても非常に寡作ですけど(笑)、これは同時代性を感じさせる彼らの代表作になると思います。バスキアをジャケットにするぐらいの自信がここにはある。
 
 
Track List:
1. The Adults are Talking
2. Selfles
3. Blooklyn Bridge To Chorus
4. Bad Decisions
5. Eternal Summer
6. At The Door
7. Why Are Sundays So Depressing
8. Not The Same Anymore
9. Ode To The Mets

映画『君の名前で僕を呼んで』(2017年) 感想

フイルム・レビュー:

「君の名前で僕を呼んで」 (2017年 イタリア、フランス、ブラジル、アメリカ合作)

フィクションに如何にリアリティーをもたらすかがアートの大前提だとすれば、この映画は正しくアートだということ。そしてそれは美しさでもって語られる。

もしかしたらイタリア語フランス語英語を話し、ピアノを弾き自ら編曲をし、アントニア・ポッツィの詩集を友達に手渡すような早熟すぎる17才なんていないだとか、あんなに進歩的で物分かりのよい両親はいないだとか、二人がイケメン過ぎるだとか、悪い人どころか嫌な雰囲気の人すら登場しないだとか、要するにこの映画はとにかく非現実だと興ざめしてしまっている人もいるかもしれないが、誤解を恐れずに言えばあまりにも非現実的だからこそ、あまりにも美しいからこそこの物語は僕のような古い人間にも届いたのだと思う。

雑誌の批評を読んでこの映画に興味を持ち、男と男の恋愛がどういう風に進んでいくのかという下品な覗き趣味とプラトニックな美しさに期待をして僕はこの映画を見始めたのだが、それはすぐに間違いであることに気づいた。冒頭すぐに登場したオリヴァーはどう考えてもそんな生易しい存在ではなかったから。

僕は自分ではいわゆるLGBTQ的なことには理解がある方だと思っていたけど、実際、生々しい描写のあるこの映画をみていると、特にそういうまぐわいには目をどこにもって行けばよいのか分からなくなるしさすがに構えてしまうところはある。でも男と男というところに囚われなければそういうものではなかったかと。

ここまで劇的なことは誰もが経験することではないけど、自分も振り返り性的な衝動も含め人を好きになるということは心穏やかではいられないことで、つまり男と男であってもそれは同じだし、女と女だって多分同じ。どうってことないことこかもしれないけど、そういうことをゆっくりと時間をかけて染み込ませてくれた。僕にとってはそういう映画でした。

美しい映像共にゆっくりと理解するということ。身構えてしまうまぐわいもあの美しい夏の景色の連続した短いカットも控えめで回りくどいセリフも全ては僕たちに共通のもの。あぁほんとに水浴びのシーンはどれも素敵だった。

そして映画のタイトル。物凄く心引かれるタイトルですけど、これは心と体が結ばれたエリオとオリヴァーが交わした二人だけの秘密の言葉です。オリヴァーはエリオに「オリヴァー」と呼び掛け、エリオはオリヴァーに「エリオ」と呼び掛ける。映画の最後の方でお父さんが語った大切な言葉にも含まれているような気もしますけど、言ってみれば若い二人にとっての愛のおまじない、魔法の言葉ですよね。

かのゲーテは「人生でいちばん美しい時間は誰にも分からない二人だけの言葉で誰も分からない二人だけの秘密をともに語り合っているとき」と言いましたけど、まさにそんな感じでした。

最後のお父さんの話とその後の雪景色。これで終わりかなと思いきや冬の出で立ちのエリオが登場し、まさかのオリヴァーからの電話。ここでエリオは受話器越しにふたたび唱えます、「エリオ、エリオ、エリオ…」と。しかしここでのおまじないはもう風前の灯火。それでもエリオは嘆願するように「エリオ、エリオ、エリオ…」と唱える。

そして両親とオリヴァーの会話があって、暖炉の前にしゃがみこむエリオ。ここでのエリオの表情はそこに重なる音楽も含め本当に素晴らしかった!!

最後、ある人の何気ない呼び掛けで「エリオ」がただの人名、ただの固有名詞として終わるというのもこれ以上ない終わり方でしたね。

colour me pop/Flipper’s Guitar 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
colour me pop(1991)Flipper’s Guitar
(カラー・ミー・ポップ/フリッパーズ・ギター)
 
 
そういえばと思いSpotifyでフリッパーズ・ギターを検索したら、「バスルームで髪を切る100の方法」が流れて、帰りの電車の中にもかかわらず思わず歌ってしまいそうになった。フリッパーズ・ギターを聴くのは何年振りだろう…。
 
僕の高校時代はいわゆるCDバブルの時代で100万枚200万枚は当たり前。小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」とか米米クラブの「君がいるだけで」とか数えだせばきりがないぐらいメガ・ヒットの連続だった。いわゆるJ-POPなんて言葉が生まれたのもこの頃なのかもしれないな。ただ僕にとってはこれらの曲は街に流れる幾多のヒット曲の一つに過ぎなかったし、友達が夢中になっていた「それが大事」なんてどこがいいのかさっぱり分からなかった。
 
かわりに僕が一生懸命に聴いていたのは、フリッパーズ・ギターとユニコーンとレピッシュ。ユニコーンはダウンタウンやウッチャンナンチャンが出演していた「夢で逢えたら」でもかかっていたからメジャーな存在だったけどフリッパーズ・ギターもレピッシュも全然知らなくて音楽好きの同級生に教えてもらった。
 
ちなみに『colour me pop』は僕が初めて買ったフリッパーズ・ギターのアルバムでそれまでは全部レンタルCD屋で借りてカセット・テープにダビングしたものばかり。それはユニコーンもレピッシュも同じで、言ってみれば今の子がサブスクやyoutubeで聴くみたいなもん。要するに高校生だからお金がなかったということです。
 
で、どうして『colour me popi』はアルバムで買ったのか覚えていないんだけど、そん時はもうフリッパーズ・ギターは解散をしていたし、僕も高校を卒業するしということで何かの節目ぐらいには思ったのかもしれないが、それはちょっと自分の過去を美化しすぎ。
 
フリッパーズ・ギターは解散をして、その後小沢健二が大ブレイクするわけだけど、解散後にソロが出るか出るかと楽しみにして待ったのは小山田圭吾の方。その前には整髪料「UNO」のCMに出たりなんかして、解散後の飢餓感もあって僕の心はウキウキしっぱなし。このCMで流れていた小山田のインストが収められたコンピレーション・アルバムも買いました。なんてタイトルか忘れたけど。なので僕にとってフリッパーズ・ギターはオザケンではなく小山田圭吾。あのこまっしゃくれた鼻声が全てだ。
 
今、フリッパーズ・ギターを聴いてるとオルガン風のキーボードがすごく耳に残る。これはさっき言ったインスト曲でもそうだけど、このキーボードの感じはフリッパーズを構成する大事な要素だったんだな。これは今も続く僕の一番の弱点だから(もしかしたらギターよりも好きかも)、僕自身十代の頃からそこのところがなんにも変わっていないのがちょっと面白い。
 
あとやっぱり歌詞がすごい。例えば冒頭話した「バスルームで髪を切る100の方法」だと「明るい食堂をティーワゴン滑り出してく間 もう君のこと忘れてるよ仕方ないこと」とか、もうサリンジャーとかカポーティーとか有名な海外文学の一説にしか聞こえない。巷じゃ小難しい表現を文学的だなんて言うけれど、ここで小山田と小沢が作り出す、簡単な言葉で構成されるチャーミングで毒のある歌詞は文学以外の何物でもない。あ、『colour me pop』に「バスルーム~」は収録されてません。
 
全然『colour me pop』のレビューになってないけど、フリッパーズ・ギターをといえばあのジャケットを思い出す。まぁそれまではカセットにダビングだからな。どっちにしてもあのアルバム・ジャケットは僕の脳みそに鮮明に焼け付いている。なのに今手元にこのアルバムが残っていないのはなぜだろう…。
 
前述の音楽好きの友達に連れられてアメ村にある怪しげなCDショップをはしごしたのも懐かしい思い出。後にも先にも小山田圭吾や小沢健二みたいなおかっぱ頭のそいつと出かけたのはそれが最初で最後だった。

見当違い

ポエトリー:

「見当違い」

 

お日さまの加減が今日はあやしいので
正しさの加減を微調整した
俵型の小判を二枚手に入れた気分だった

人生にはか細いものが付いていて
あの子はサイコロには七があるような気がすると言っていた
洗濯機で花粉は取れるものと思っている

点滅信号機の点滅、
に合わせて彼女が踊るのを思い出して最後まで忘れずに思い出せればと思うこと自体が忘れること
現代詩に引っ張られている気分だった

お客様のご加減が今日はあやしいので
正しさの加減を半分に
警戒する静脈
あぁ今日はもう早く上がるべきだ

僕たちは一体何を冒涜しているのだろうか
心当たりは一切ないのに
もしかしたらあれが
湯上がりに風呂水を全部抜いてしまったのがよくなかったのか

ぱたーんが幾つかの形に変更をかけていた
今ごろ
全て見当違いだった
もちろん
僕にも間違いはあった

映画『未来のミライ』(2018年) 感想

フィルム・レビュー:

未来のミライ (2018) 感想

 

自粛生活だからというわけではありませんが、『未来のミライ』を家族で見ることになりまして。で子どもたちがいちいち笑うんですよ、パパみたいって(笑)。オレ、そんなにくんちゃんのお父さんみたいに奥さんに尻に敷かれてんのかなぁと思ったりもするんですけど、間近で見てきた子どもたちがゲラゲラ笑うんだらきっとそうなんでしょう。僕も自分を見るようでちょっと恥ずかしい部分はありましたから(笑)。

ま、くんちゃんのお父さんもそうですけど、成長の物語ですよね。お母さんもばあばもひいじいじもゆっこもミライちゃんもくんちゃんも、ぜ~んぶ現在進行形でずっと生きてきた、或いは生きている。昔があって今があって多分未来がある。自分の人生だけじゃなく自分の存在も含め、点ではなく線なんだぞと。でもそういう気づきってちょっと元気湧いてきますよね。

それはごく当たり前の日常もしかり。ほら、電車乗って外見てたら色んな家があってマンションがあって。あぁ、あのマンションの灯りひとつひとつに人住んでいてそれぞれに悩みがあって心配事があって幸せがあって、ほんでもってちょっとしたドラマがあって。そんなこと思ったことありますよね?多分、そういう映画なんだと思います。

やっぱ細田守監督だから、「いっけぇぇぇーっ!!」みたいなカタルシスを求めちゃうところはあって、僕も最初は正直物足りなかったんですけど、あぁこの映画はそうじゃないなって。最初にワン・シチュエーション・コメディみたいなのがずっと続いていくことで見ている方の心の準備が、あぁそうじゃないなこの映画はって気づくんですけど、最初の限られた部屋での数シーンは多分そういう意図があっての演出だったのかもしれないですね。

物語は後半に入ると時代があっちこっち変わったりするんですけど、印象的なのはひいじいじのエピソードですね。この時のくんちゃんが男の子感が増してたのが良かったです。

で、ひいじいじがくんちゃんに言うんですね、「遠くを見ろ」って。凄く印象的に交わされるセリフですけど、この言葉がこの映画の一番深いところに流れるテーマだったのかもしれないなと思いました。

僕は子どもの時、自転車乗ってると壁とか木に結構ぶつかる子だったんです。あれは壁にぶつかると思ってそっち見ちゃうからぶつかるんであって、大丈夫な方、道の方を見れば自然と自転車は
ぶつかる方をそれていくんですね。だからやっぱ「遠くを見ろ」ってことなんです。

とかく夢見てないで足元を見ろって言われがちですけど、それも確かにそうなんですが、やっぱり視線は前向いて、自分の進みたい方向を見る。そうすると自ずとそっちへ向かっていくもんなんだと。綺麗事かもしれないですけど事実そういう部分はあるんだと思います。

今は世の中こういう状況ですから、そこと繋げて見てしまう部分はあるんですけど、やっぱり今だけを見てるとしんどいじゃないですか。そうじゃなく遠くを見る、未来であったり遠い昔であったり、点ではなく線を意識する。そうすることで少しはポジティブになれるのかもしれないですね。

手探りだから遠くを見るしかない。それは未来だけじゃなく時には過去の事だったり。それに僕たちの未来は唐突にやって来るのではなく、今と繋がっているし、勿論これまでとも繋がっている。

そういうテーマが割りと明確に僕には立ち上がってきました。映画見てそんな風にはっきりとしたイメージで捉えることはあんまりないんですけど、『未来のミライ』に関しては凄く明確に伝わってきました。

AINOU/中村佳穂 感想レビュー:

邦楽レビュー:

『AINOU』 (2018年) 中村佳穂

 

中村佳穂さんを知ったのは2019年のフジロックYoutube中継で、スゴいなぁと思ってアルバム『AINOU』をスポティファイで聴いたんですけど、僕は未だにケチ臭くフリーなもんでシャッフル再生なのですが、きっと中村佳穂さんはYoutube中継で聴いたようなピアノ主体のジャズっぽいことをする人なんだろうなって勝手に想像をしていて、ところが『AINOU』を聴いたらピアノ主体どころか思いの外エレクトロニカだったので、そん時の曲はなんだったかは思い出せないけど、なんかちょっと腰が引けた記憶があります。

ま、そんな先入観だったのでそこで一旦あいだが空いてしまって、ちゃんと聴くまでにはそこから時間を要してしまったんですけど、こんな素晴らしい作品なのにね、先入観なんて困ったものです。

それはさておき。とにかく素晴らしい作品でインタビューとか色々読んでるとサウンド・メイキングなんかはかなり凝った作りのようで僕には理解できないことが多いんですけど、それはもうジャズっぽい即興とはかけ離れた緻密なサウンドでして、それでもスゴイのはそんな考え抜かれたサウンドであってもやっぱり中心にあるのは佳穂さんの歌というところで。素晴らしいバンドの技量に引っ張られているのではなく佳穂さんの歌が引っ張っているっていう、そこがやっぱり肝ですね。だから聴いてて思うのは中村佳穂バンドというのはチームとか仲間という感じじゃなくて連帯っていうことですかね。

佳穂さんは落ち着きのない人のようで、落ち着きのないというと変な言い方ですけど、色々なところへ行ってそこでワォってなったら声掛けて一緒にやってみないっていう、そんでオーケーならまた共演しようみたいな。それでもやっぱり即興共演というのではなく、ちゃんとその場その場であっても俯瞰的にプロデュースできる人だって書いてるバンド・メンバーの言があって、『AINOU』アルバムを聴いていてもそれはスゴく出てるんですね。それぞれの曲には全部違う場所感があって景色が全然違うんですね。この曲はある特定の土地で見える景色だって独立してるんです。

でその独立した感じとか俯瞰てのはホント活きていて、これだけ感動的な作品にもかかわらずカラッとしているというか押し付けがましくないのが多分そこに起因しているのではないかと。やっぱり改めてスゴイなぁと思います。

さっきも言ったとおりサウンドがホントに緻密なのでうちの古いミニ・コンポで聴いても色んな音が聴こえてきて、スピーカーから聴くのもいいですけど、イヤホンだともっと最高ですね。ただサウンドに関しては僕は全くの素人なのでよく分かりません。とはいえやっぱりよく伝わってるとは思うので身体的には理解できているのかなとは思っています。

あとやっぱり言葉ですよね。元ある言葉に寄りかからないというか元ある言葉の意味に頼らない。自分でどういう日本語を当てていくのかというところを言葉の持っている意味を一旦ゼロにして取り組んでいるってのがホント伝わりますよね。その上でそこは音楽ですから音楽的にどう機能させるかってところに最終的な目標なんだと。それはスゴく感じます。

ただこんなに素晴らしい作品であってもこれはこれという通過点みたいな、さっき言いましたけどここでは連帯するけど、そこに固執しないというか、中村佳穂さんの持つ移動感という一本筋が通っている感はやっぱりありますよね。

だから次どうなるんだろうっていうワクワク感が佳穂さんにはありますし、そう思っていたら次出たのが『LINDY』っていうまた異なる土地からの発信っていう(笑)。また移動してるぞってのがとっても楽しいです!

ユーカリ

ポエトリー:

「ユーカリ」

 

もうない
というのに時間はむしろ獣
みたいにユーカリの葉
食べてそれかわいいよね、
コアラだよね

自分自身が器になって
落ちそうなものをとどめている気分
周り見渡してもほら
みんな傾いてる
冒険する勇気
それどころじゃないって

ページをパラパラめくる
あら、もうこんなにケンカしてる
目くじら立ててバランス悪いじゃん
バランス
目方の多い方へ流れる
傾く
こぼれ落ちそう

やっぱユーカリだよね
食べても栄養にならないんだよそれ
ていうかむしろ毒
ヤバいやつじゃん

うん、ヤバいやつに手を出したらよくない
のは知ってる
でも体が傾くんだよね
贅肉を削ぎ落として
無駄なものを削ぎ落として
そしたらまたパラレルなまま落ちていけるんじゃないかって
そんな真似できるんじゃないかって
あぁ、それも知ってる?

あなた、
クラスの半分が来なくなっても
席を詰めたりするようなことしないでしょ
いつでも給食当番みたいにちゃんと手渡しする
目を見て

あ、
それやっぱユーカリの葉
いや、むしろかわいいよそれ
ていうかコアラ、
獣(笑)

 

2020年3月

エンタテイメント!/ 佐野元春 感想レビュー

邦楽レビュー:

『エンタテイメント!』 (2020年) 佐野元春

 

4月22日に佐野の新しい歌がリリースされた。タイトルは『エンタテイメント!』。印象的なギター・リフがリードする8ビートのポップ・ナンバーだ。佐野は何気ないリフが本当に上手だ。大袈裟な仕掛けもないのに風に乗っていくスピード感。それは『世界は慈悲を待っている』の系譜と言っていい。

今年はデビュー40周年ということで、この15年活動を共にしてきたコヨーテ・バンドと制作した4枚のアルバムの中から、選りすぐりの曲を集めたベスト・アルバムが準備されている。『エンタテイメント!』はこの中に収められる佐野元春&ザ・コヨーテ・バンドの新曲だ。

つまりこの曲は昨日今日作ったものではない。恐らくは今年早々か、もしかしたら昨年にレコーディングされたのかもしれない。

ただの巡り合わせでこの時期にリリースされたに過ぎないのは分かっている。けれどコロナ禍がピークを迎えつつある今現在にこの曲がドロップされたことに心のざわめきを抑えようもない。

曲を仔細にに見ていくとただのエンターテイメント万歳という曲ではないことが分かる。人が人を徹底的に責め立てるネット上の悪意すら僕たちはエンタテイメントとして消費しているのではないか。そのような問いかけをもいつものように佐野は冷静にスケッチをしていく。

この曲が素晴らしいのは心が舞い上がるような前向きのポップ・ソングでありつつ、そのようなマイナスの側面、社会的なメッセージを携えている点だ。そうすることでふと言葉が自分に帰ってくる。僕自身はどうなのだと。

けれど稀に、曲には時代と偶然にも合わさる瞬間がある。今は幾分心が舞い上がる気持ちに身を委ねてもよいのではないか。高らかなギター・リフに乗ってどこまてもゆけるようにと。

~つかの間でいい
 嫌なこと忘れる
 夢のような世界 I’ts just an entertainment !~

たかがエンターテイメント。されどエンターテイメント。お偉いさんに言われなくたって僕たちは知っている。僕たちにはいつも文化が必要だ。

 

~ここはそこらじゅう
 見かけ倒しの愛と太陽~

というパンチラインが最高だ

マイノリティの笑い

その他雑感:
 
「マイノリティの笑い」
 
 
僕も志村けんを見てゲラゲラ笑った世代ですから、追悼番組とかやってるとつい見てしまうんですけど、志村けんは万人に愛されたコメディアンみたいな言い方をされるとちょっとんんん?ってなります。志村けんってそんなみんなに愛されてたっけ?
 
で思ったんですけど、志村けんってやっぱマイノリティーの笑いですよ。世間では馬鹿にされるような人、あるいは見向きもされないような人を演じて笑わせる。バカ殿も変なおじさんも震えっぱなしのおばあさんもよく考えりゃやばいです。
 
そういう表の世界では目を背けられがちな人にスポットライトを当てて、バカやって笑わせる。いや、笑わせるではなく、いかに笑われるかということを考えていたと本人も言ってますよね
 
あと下ネタも異常に多いでしょ。今どきゴールデンであんなに下ネタやってたの志村けんぐらいじゃないですか。しかも口から食べ物出たり汚いし(笑)。実は僕もバカ殿をうちの子供たちが見るのはちょっと警戒してしまうんですね、下ネタ多いから。 自分が子供の頃は涙を流して笑ってたくせに。
 
だからこの構図っていうのはとても面白くて、やたら下ネタが多いとか世間的には危ない人が沢山登場するってのは、もしかしたら常識とか正しいとされるものへの異議申し立てみたいな気分はあったんじゃないかと、ちょっと意識していたんじゃないかと想像してしまうんですね。みんなそんな変わらないでしょっていう。
 
NHK BS でやってた一見大人のコント・ドラマの「となりシムラ」とか「探偵佐平60才」も社会的にちゃんとしてそうなおじさんの下ネタ全開だったでしょ。そういう部分を敢えてひけらかすみたいな、大げさに言うと、タブーを表に出すっていうことを意識してたのかもしれないですよね。
 
だからやっぱりみんなに愛された笑いの人というまとめ方はちょっと違うと思うし、一部の人は眉をひそめる、そういうマイノリティーの笑いを大向こうを相手にしてやりきっていた人なんじゃないかと思います。
 
R.I.P