Clearing / Wolf Alice 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Clearing』(2025年)Wolf Alice
(クリアニング/ウルフ・アリス)
 
 
リードシングル『Bloom Baby Bloom』を聴いた時(というかMVを見た時)には随分びっくりしたけど、あれはアルバム全体を象徴するものでなくスポット的なものだったようだ。それが残念なのかホッとしたのかよく分からないのが正直な気持ちで、このアルバムをどう評価するのかという点においてもそれはまったくその通りだった。
 
『Bloom Baby Bloom』はマネスキンやラスト・ディナー・パーティーのような、どんだけ派手やねんというグラマーないで立ち、ドラマティックな曲、というところを受けての、なんでもできまっせなウルフ・アリスからの回答のような曲。エリーさん、どうしちゃったの?という派手なメイクにレオタードという格好でそれはもうたまげたのだけど、アルバムを通して聴くと、このスタイルをアルバム全体に推し進める手は最初からなかったのが分かる。
 
むしろそれは表面的なところではなく実直的なところで、つまり『Bloom Baby Bloom』は確かにグラマーな曲で、見た目的にもクイーンのそれかもしれないけど、クイーンの本質もアコースティックな美しい曲にあるし、あとフリートウッド・マックとか、ともすればシンガーソングライター的に曲を聴かせるタイプの、そういう良い曲を丁寧な演奏で聴かせる70年代の英国の伝統的なロック音楽の一要素、ウルフ・アリスの狙い目はそこだったんだなと。
 
確かにそれは分かる。でもね、、、派手な曲がもうちょっと欲しかったなというのが本音です。1曲目の『Thorns』から『Bloom Baby Bloom』と来て『Just Two Girls』への流れがとっても良くて今回もええやないかと思ったけど、そのあとが真面目過ぎるやろと。最後の『White Horses』と『The Sofa』がまた素晴らしいだけに中盤の真面目パートがちょっと残念。いや、いい曲を丁寧にやってるのはわかるし確かにいいのはいいのだけど、ロック的なカタルシスが、というところです。
 
前作『Blue Weekend』(2021年)が大作だっただけに、この力の抜け具合はその反動かもと思いつつ、いや『Bloom Baby Bloom』があるやんと私的にはどっちつかずな印象のアルバム。とても良いバンドだし、エリー・ロウゼルもすっごい美人なのにいまいち地味な印象は否めないところに『Bloom Baby Bloom』が来て、うわー、クイーンでレオタードやー、これで一気にドーンと行けー、と思ったのも束の間、アルバムは真面目な優等生。。。もしかしたらこれはいかにも歯がゆい、とてもウルフ・アリスなアルバムなのかもしれない。
 
英国チャートは1位を獲得。ひとつ前のアルバムがよいと、その次のアルバムのセールスは伸びる、という流れだけど、この次のアルバムはどうなるのだろうか。見当つかないな。

夕暮れ

ポエトリー:

「夕暮れ」

 

夕暮れに眠る存在が
わたしたちの今日を明るくする

それは頬をなでる平たい手
収穫の時の流れる汗
ショーウインドウのドレス

母親の自慢の百日紅がこちらを向いて咲いている
あの日、戯れに腰掛けようとした少年のわたしは
触れることさえできずに
眺めているだけだった

問題があった方に手をかざしても
それはなかったことにはできないし
ただ物質的に日差しを遮るだけ

それでも
分け隔てなく手を伸ばし
凍りついたものは溶けて
緩みきったものは固まる
そんなふうにして
今日も夕飯の支度

知ったり知らなかったりするものが
入れ替わり立ち代わり現れては
夕暮れに眠る存在が
わたしたちの今日を明るくする

 

2025年7月

お逃げなさい

ポエトリー:

「お逃げなさい」

 

これは本物の銃だから
あなたは早く背中を見せてお逃げなさい
けれどどんな痛みもあなたを撃ち抜く事はないだろう

なぜならあなたの胴は鋼より硬く葉脈より静かだから
なぜならあなたの問いは山脈よりも険しくせせらぎよりも掴めないから

そういう事を知るまでは
十年はここに戻らずお逃げなさい

ある日仕打ちが
それまで幸福の裏返しの仕打ちが
あなたの社におとずれるでしょう

そのときには黙ってお受けなさい
変わり果てていくこと
ものが壊れていくこと
忙しさにかまけること
夏の暑さにばてること
流れていくこと
雨が降ること
それでも社は森の奥で静かでいること

ときに誰かと会い
ときにあせり
ときに祈り
ときにあれをし
けれどどんな痛みもあなたを撃ち抜く事はできないないだろう

転がっているのは
本物の塊
本物の石
本物の祈り

だから早くここを去りなさい
あと十年は背中を見せてお逃げなさい

 

2025年7月

「黒川の女たち」(2025年)感想

フィルム・レビュー:
 
「黒川の女たち」(2025年)
 
 
戦後80年が経ったけど、まだ終わっていない。この言葉にピンと来ない人もいるだろう。僕もそうだった。けれど、知ることでその意味が少しずつわかってくる。ずっと公にされなかったこと。こういう事実があったということは、この映画で明かされたこと以外にもきっとまだまだあるということ。言いたくても言えなかった人。絶対に言いたくなかった人。それぞれにそれぞれの理由があり、80年経った今も胸の中にしまったままのひとが大勢いるのだろうということ。胸にしまったまま亡くなったひとも大勢いるのだろうということ。
 
近頃はドキュメンタリー番組をしょっちゅう見るようになった。今まで手に取らなかった類の本も読むようになった。単にそれは年を取って、より社会の出来事に関心が向くようになってきたからだと思っていた。確かにそれもあるかもしれないが、今は少し違う見方もしている。様々な情報が溢れる世の中で、少しでもちゃんとした態度で物事に接したい、知ることでそれを補っていきたい、特に過去から学べることは多いのではないか、そういう防衛本能のようなものが働いているような気もしている。
 
私たちには想像力がある。けれどひとりよがりの想像力ではいけない。想像力は勝手には養われない。だから私たちは学ぶことで、知ることで、見ることで、想像力をより柔軟なものにしようと努める。映画を観ることもそのひとつだと思っている。
 
映画の主題から離れるけどもう1点。今やSNSのおかげで誰もが好きなように言いたいことを言える世の中になった。基本的にそれはよい世の中だと思うけど、最近はそれもどうなのかよく分からなくなってきた。この映画に出てくる堂々と顔をさらしてしっかりと話すおばあちゃんたちを見て、公に話すとはどういうことか、その重さを突き付けられた気がした。おばちゃんたちの笑顔は本当に天使のようでした。

Willoughby Tucker, I’ll Always Love You / Ethel Cain 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Willoughby Tucker, I’ll Always Love You』(2025年)Ethel Cain
(ウィロビー・タッカー、アイル・オールウェイズ・ラブ・ユー/エセル・ケイン)
 
 
初めて聴く類の音楽の場合、よいのはよいのだけど、自分でもどこがどう気に入っているのか分からず戸惑ってしまうことがある。遠くはレディオ・ヘッド、ここ数年で言えばビッグ・シーフがそれにあたるが、エセル・ケインのこの作品もまったくその類。
 
ということで、じゃあどういう場合にこの音楽が流れていると合うのかを想像してみる。要するに勝手に自分の脳内でミュージック・ビデオを再生してみるのだが、どうやっても明るく朗らかな風景はマッチしない。真昼間であってもくすんだ感じ、もやがかかった感じ。影のあるイメージしか浮かばない。
 
登場人物は何をしているか。活発な活動をしているように思えない。気だるい寝起きのベッドとか食事をしているシーンとか。食事のシーンは一人ではないな。恋人と二人、口の周りがベタベタと汚れたまま、つまり戯れて食事をしている感じ。とここまで書いて、これは性愛のイメージだなと思った。
 
食事や性や睡眠。ひとの根源的な欲求。そうしたものにまつわる音楽なんだろうかと思った時、しっくりと来るものがあった。このアルバムは恋愛についてのリリックが綴られている。進行形なのか、始まってもいないのか、終わった後なのか。いずれにせよ作者は求めている。愛する人への根源的な欲求を。世間体とか常識とかモラルではない。私は直接タッチしたい。愛し合いたいのだと。
 
ただ不思議と重くのしかかるような音楽ではない。僕が英語を解さないだけかもしれないが、普通に聴いていて気持ちがいい。つまりメロディーがポップなんだな。ゆったりした曲ばかりだけど、脳内でテンポアップしたらこれ、キャッチーなポップ・ソングになるんじゃないか。そういうメロディーのようだ。
 
インストが多く、しかも長いので、アンビエント・ミュージックの側面もある。でも環境音楽ではないな。ひとの中でくぐもる感じ。不思議な音楽だ。どこに仕舞えばよいのか分からない。ただ、只者ではない感は満載である。

I Quit / Haim 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『I Quit』Haim(2025年)
(アイ・クイット/ハイム) 
 
 
音楽に限らず、芸術は多様性から生まれる。皆が同じことを考え、同じことを感じているのであれば、なにも個人として表現する必要はないだろう。私はこう思う、私はこう感じる。固有のものの見方があるから作家は何かを表現するのだろうし、芸術を鑑賞することはそうした作家固有のものの見方を楽しむ行為とも言える。
 
このところ思うのは、僕はただ単に音楽や文学や絵画が好きなだけだったけど、知らず知らずのうちに芸術を通して多様性を学んでいったような気がしてならないということ。もしこれらが好きでなかったら、きっと今のようなものの見方は育まれなかったかもしれない。
 
ポップでおしゃれな作風でデビューしたハイムだが、キャリアを重ねる毎に女性として、いやひとりの人間としてのあるべき態度についての言及が増えてきた。なんだかんだと女性が不利益を被る男社会に対して、私がこうする、私が決める、といった主体的な態度は多くのリスナーに影響を与えていることだと思う。今やエンパワメントするロックバンドの筆頭ではないだろうか。
 
聴いてて清々しいのは、誰かを糾弾するということではなく、自然体でそれらの主張をしている点で、当たり前のことを当たり前に歌い、女とか男とかではなく自分たちのやりたいようにパフォーマンスをしているだけだという態度。今回のアルバムでは特にそれが顕著で、例えば大胆な表現のミュージック・ビデオにおいても、あくまでも私たちが主導しているという意思が感じられ、それはやっぱりカッコいいなと思う。
 
本作の大きな転換点はプロデューサーが変わったこと。ずっと一緒にやってきたアリエル・リヒトシェイドから元ヴァンパイア・ウィークエンドのロスタムがダニエルと共に本作のプロデューサーを務めている。サウンドはよりアーシーなアメリカン・ロックに近寄ってきているが、元々の素養があるので、おしゃれで洗練された部分は相変わらず。その上でよりシンプルで直接的なロックが前面に立った感じだ。ダニエルのギター・ソロが聴けるのが嬉しい。#7『 The farm』や#15『Now it’s time』のいかにもヴァンパイア・ウィークエンドなピアノ・フレーズにも顔がほころぶ。
 
本作では長女エスティと三女アラナもリード・ボーカルを取っている。#11『Try to feel my pain』ではダニエルがボーカルで、続く#12『Spinningではアラナ、そして#13『Cry』ではエスティと、それぞれの個人的な体験に基づくと思われる曲がそれぞれのボーカルで歌われ、そのまま三者が交代でボーカルをとる#14『Blood on the street』へ続く流れが最高だ。
 
ハイム独特のリズム感を引き立てている絶妙な言葉の載せ方はダニエル独自のものだと思っていたが、エスティもアラナも抜群の体内時計で言葉をフックさせてくる。さすが音楽一家だ。ダニエルのロックな歌いっぷりに加え、エスティの落ち着いた声、アラナの甘ったるい声もいい味を出しているので、今後もこのスタイルは続けて欲しいなと思う。
 
プロデューサーが変わっただけじゃなく、アルバム・タイトル(I Quit = やめた)に象徴されるような意識の変化もあったようで、アルバム全体に感じる清々しさは今までになかったもの。新しい扉をまた開いたような感じはする。三人の並列感がより際立ったアルバムにもなっていて、彼女たちの物事への向かい方もより明確になったようだ。勿論今回のアルバムからも僕は影響を受けている。
 
 

海へ

ポエトリー:

「海へ」

 

あからさまに物言うことがなくなってきた
ひどいことばに打ちのめされることも
夕焼けは夕闇に吸い込まれ帰るべくして帰る
それが自然なことだと知ったのは
物言わぬ生に気づいたからかもしれない

変わり果てた銘柄の
名のある様式がプラスチックゴミとともに
プカプカと浮かんでいる
その様子を描くことをわたしのパレットはゆるさない

その絵具は誰ひとり不平は言わないけど
ゆるさないこととゆるすことの間に漂う棒切れのような営みを
駆け寄って奪い合うほどの熱意が
今の私にはもうない

ただだからといって素知らぬふりなどできぬ意気地のない身体は
漂うプラスチックゴミと時を同じくして
戯れに点描の彼方を見やることで
己の均衡を保っている

背広の襟がたわむようにして沖へ
もう無理だと先を急ぐ群れにわたしはたったひとりでジャンプする
水飛沫あげる海

 

2025年6月

ポエトリー:

「海」

 

魚の骨が刺さっていた
どこにというわけではないが
おそらく胸元に

魂が代わりたがっていた
少しぐらいいいかと思った

まずは形をどうするかで悩んだ
ここはやはり魚の形だろうか

海を見すえると胸が高鳴った
そんなものだろうか
あげく、山育ちだけど
泳いでみるのもいいと思った

海へ入ると胸の形が感じられた
息をめいっぱい吸って怒られることがないこと
魂は思っていたより軽い

しかし魂には期するものがあった
戻る気配を与えなかった

眺めると何か刺さっているものがあった
これを引っこ抜けばいいのだ

決意させたかったのだきっと
余分な力を抜いて
フレッシュな気持ちになって
決意させたかった

そう知ると涙が溢れてきた
涙は海だった

そうか
そうだったのか

わたしはゆっくりと歩いていった
ひたひたと音がして
足跡が残った

 

2025年6月

節目

ポエトリー:

「節目」

 

行分けされた身体が
包装紙に包まれていた
柄にもなく
ことばを発することは
ためらわれた

生まれて初めての体験に
打ち震えていた
早くひとに伝えたかったが
適切なことばを探すことは
ためらわれた

いつからか
身体は行分けされることを望んだ
言いたいことはなかったが
共感と協調されることを欲した

節目に
身の丈を合わせたい
つまり
ただそれだけだった

腑分けされてもなお褒められたかった
この腸はきれいですね
この肺はすてきですねと

身体が
楽になりたがっていた

 

2025年5月

ポエトリー:

「春」

 

あんなにうちとけたのに
花びらは真っ白なまま行ってしまった
魂は何も起こらないまま
また会えたならと意気地のない

そうこうしている間に
春は過ぎてゆき
夏を迎えるころ
星雲はことばを携える

ときに狼狽し
ときにうる覚えのわたしたちは
実はなにもわかっていない

そこにいたのは春のこと
実をつけ熟すのは
まだ先の話

 

2025年4月