ブックレビュー:
『シーモア 序章』 J・D・サリンジャー
グラース家について、重要人物である長兄シーモアについての物語。といっても次兄バディの一人語りによるもので、シーモア自身は登場しない。グラース家の兄弟に愛されたシーモアとは一体どのような人物だったのかがバディの目を通して描かれている。
しかし内容は難解。意味があるのか無いのかよく分からない文章が続き、筋立てはあってないようなもの。しかしこうした従来の文体とはかけ離れた手法でしか、作者は愛すべき人物を描写できなかったのだ。
当たり前のことだが人類が生まれてこの方、同じ人は一人もいない。しかし、そのただ一人の人について話そうとすれば、我々は‘我々の言葉’を使わざるを得ず、すなわちそれは‘みんなが知ってる言葉’でしかない。しかし‘みんなが知っている言葉’は、言い換えれば‘~のようなもの’でしかなく、人類史上初めての人を言い表すには適さない。だからバディは新たな言葉で言い表そうとする。それがここにある人類史上誰も聞いたことのない言葉、意味があるのか無いのかよく分からない言葉になるのである。
物事をありのまま伝えようとすれば、表現はますます抽象的になってゆく。今ある言葉だけでは言い切れない。彼のやさしさは彼だけのものであって、彼の首の傾げ方やつまづき方だって彼だけのものなのだから。
作者はそれを丁寧にすくいあげてゆく。愛するひとを語るのだから当然だ。そしてそれは作者自身の聖なる場所でもあるのだから。作者がそれを書く行為は、大切な何かが知らぬ間に消えてしまわぬよう、しっかりと握っておくためだったのかもしれない。