詩について:
詩のルール その②
これは僕の意見ですが、詩に分かりやすいとか分かりにくいとか難解だとかそうじゃないとかは関係ないと思っています。例えば音楽。ボブ・ディランはノーベル文学賞を獲りましたけど、あの歌詞をちゃんと分かっている人がどれだけいるか。少なくとも僕には分からない(笑)。ちゃんとには恐らくディラン本人にしか分からない。でも世界中にファンがいる。何故か。極端に言えば、皆そこに重きを置いていないからです(笑)。
絵画で言えばゴッホ。日本でもしょっちゅう展覧会があって、いつも大盛況ですけど、決して分かりやすい絵ではないですよね。もっと言えばピカソ、クレー、カンディンスキー。凄く人気がありますが、あの絵は理解できるか。僕も好きですけど、全然理解は出来てません。つまり鑑賞する側にとって理解できるできないの優先順位はそんなに高くはないのです。何か感じるものがあればいい。それが自分にとってよき作用をもたらすものであれば、それでOK。それだけのことなんです。
だったら詩だってそれでいいじゃないか、というのが僕の考えです。まどみちおの詩は分かりやすいって言うけど本当だろうか。吉増剛造の詩は難解って言うけど本当だろうか。まどみちおの詩はシンプルだから愛されているわけではないし、吉増剛造の詩は難解だからありがたがられているのではないのです。シンプルな詩を書く人、難解な詩を書く人、世の中にいくらでもいますが、その中でまどみちおや吉増剛造は愛されてきた。それは何故か、ということですよね。
時々、テレビでピアノ上手い王決定戦とか、歌が上手い王決定戦みたいなのやってますよね。どうやって点数付けるかっていうと、ピアノの場合はミスタッチをした回数が減点される。歌の方は機械が音程から外れてないかとかを判定する。言ってみればどちらも減点法です。日本的で嫌ですねぇ(笑)。もしかしたら詩もこれと同じように判定しようとしているのかもしれない。ここの意味は分かるか。これは何を比喩しているか。分からなければ×、あなたは詩が理解できない人です、という風に。
そうなれば誰もついてこないですよね。勉強が苦手な人が勉強を嫌いになるように、詩は理解できないなら、私には関係ないやって、好きになるはずはない。けどそんなことないよって僕は言いたい。勿論、人には向き不向きはありますから一概には言えませんが、音楽や絵画を楽しんでいるなら、詩だって同じように楽しむことが出来る。世の中、もう少し気軽に詩に接近できるムードがあればなぁって思います。