折坂悠太『心理』~わたしなりの全曲レビュー

邦楽レビュー:
 
折坂悠太『心理』 わたしなりの全曲レビュー
 
 
『爆発』
インスタントな表現を拒む、言葉は口をつぐみ、こちらはじっとこらえて待つのみ。折坂悠太の創作に向かう姿勢を表しているようにも思えます。表現の核にあるものを大切に思う、主体はあくまでもそこにある、受け手である私。ところで「岸辺の爆発」という言葉、関係ないけど僕は思わず福島第一原発を思い出しました。
 
『心』
子供の頃に自分が蝶になったり蜂になったりするのを想像をしたことはありませんか?僕はあります(笑)。と思ったら、砂漠にバンドが登場します。と思ったら、更に唐突にグラスの縁を撫でる女が登場。おまけに鉄の扉に手紙は焼かれるそうです。ここは素直に脳内で想像力の飛躍を楽しみましょう。
 
『トーチ』
この歌詞を見ていると、本当に景色を置いていってるなという気がします。あとは知らない、皆さんご自由にという感じ。2番の歌詞、とりわけ「倒された標識示す彼方へ 急ごう終わりの向こう ここからは二人きり」が好きです。抽象的な描写ではあるけれど、とても具体的な表現かと思います。「いませんかこの中に あの子の言うこと分かるやつは」には日本で暮らす外国人のことも頭に浮かんできます。
 
『悪魔』
画家の行動、自転車の動き、おれのコール、これらは何に怯え、何を警告しようとしているのか。「戦争もかたなし」というのは重く捉えるべきか軽く捉えるべきか。「壁に書かれた番号へコール 10分後のおれが答える おれはそれからかけ直すが 10年後のおれはでなかった」。怖いですね(笑)。主人公は偽悪的に「悪魔のふりして」語ります。
 
『nyunen』
窓際で揺らぐレースのカーテンを思い浮かべました。
 
『春』
近頃、エモいなんて言葉をよく耳にしますが、わたしもここはひとつ。「確かじゃないけど 春かもしれない」、「けど波は立つ その声を聞いたのだ」のなんとエモいこと。殊更歌に寄せようとはせずに悠々と流れるバンドが尚のこと春。
 
『鯱』
ちんどん屋のように商店街を練り歩くガチャガチャ感。つまり昭和の流行歌のような、もっと言うと大正期のそれ。ていうかよく知らない。が、そう思わせる身内感があります。つまり日本人にもっともしっくりくる音楽と言うのはこういうものなんじゃないでしょうか。追いかけっこ感がたまらない。それにしても楽しい演奏だこと。
 
『荼毘』
さよならの歌か。とすればラストのダヤバ…はまじない、お経とでも解せばよいか。それはたむけ?それともわたしへの癒し。僕は夏を思い浮かべました。お盆だからでしょうか。「今生きる私を救おう」が遠乗りのように響いてきます。ただ悲しみに暮れどおしではなく、少しシュールでユーモアが効いている。「山陰山陽」が「三人三様」に聴こえるのもよいです。
 
『炎 feat. Sam Gendel』
私たちは見えない傷をたくさん負った。けれどそんなことはお構いなしに雨は降る。私たちをめがけてるわけでもないだろうに。あなたに言葉を投げかける術は持たないけれど、ここでゆっくりおやすみよ。わたしもじきに眠るから。近いようで遠い演奏がこの情景に近づくことを許さない。
 
『星屑』
『見上げてごらん夜の星を』のような美しい曲です。夜遅く、こども園からの帰りであろうか。親子の後ろ姿が描かれます。世界で一番美しい光景をここで持ってくるなんてズルいよ。一番大切なものは日常の中に。見落とさないようにしたいものです。とはいえそれだけじゃなく、将来への得も言われぬ不安も顔をのぞかせます。
 
『kohei』
上賀茂神社を思い出しました。あそこでよく横になりました。
 
『윤슬(ユンスル) feat. イ・ラン』
アルバムでこの曲だけは水彩画で描かれたようなたおやかさがあります。1本のショートフィルムを見ているようです。普通に考えると折坂悠太は日本側の岸、イ・ランは韓国側の岸にいるということになりますが、でも「流れがどっちかわからない」のだと。この辺り、凄く映画的で想像力を掻き立てます。ハングルで書かれたタイトルとイ・ランのリーディングでイメージは横に広がる。互いの詩を交換することから理解は始まる。
 
『鯨』
小さな船の下を鯨が洋々と進んでいく。それはあまりにも大きすぎて私たちの一生を経ても全ては見通せないようです。『윤슬(ユンスル)』では流れがどっちか分かりませんでしたが、それも今は分かりそうです。

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